孤高の足音
「何ですって」
さすがのニコルもこれにはかちーん、と来た。
まったく失礼にも程がある。さんざん勘違いした言動を繰り返すだけに飽きたらず、面と向かって人を馬鹿だのお先真っ暗などといったいこの二枚舌がどの面下げて言えるというのかいいや言われる筋合いなどこれっぽちもない!
ということで。
声に険を含ませ、ずずいと詰め寄る。
「異議申し立てます。悪ふざけなんかじゃありません」
「何だ今度は」
もはや将校もたじたじである。
「発言を修正し撤回することを要求します」
ニコルは貧弱なりとはいえ毅然と胸を張り、頬を盛大にぷんすか膨らませて凛と――致命的な一言を――自ら言い放った。
「わたし、ニコルです。ニコラなんて名前じゃありません。悪魔さんもそう言ってましたもの。わたしはわたし、この城砦の司令官のニコルで間違いありません!」
「悪魔だと? レイディ、ちょっと待て。いったい何の話だ? 何がどうなってる。もしかしてル・フェが」
だが、そのとき。
「誰です。そこにいるのは」
ふいに冷水を浴びせかけるがごとき鋭い誰何の矢が突き立った。
地階の天井をカンテラの灯がさっとよぎってゆく。
扉を閉め切る重苦しい抑圧の音が聞こえた。じゃらりと鎖が鳴り、鉄の閂を下ろす耳障りな金属音が後に続く。
どうやら閉じこめられたらしい。
「うぇ!?」
ニコルは素っ頓狂な呻き声をもらして凍りついた。突然の音に跳ね上がった心臓がクラッカーのようにぱぁんと破裂しそうになるのを、あわててごくんと動揺ごと呑み込んで押さえ込む。
闇に慣れた目にはまぶしすぎる光が乱高下した。
石壁に打ち込まれた鉄金具や鎖、天井の孔からかいま見える鉄格子の突端などが、うっすらと鈍色に黒光って見える。
「奴か。相変わらず鼻が利く」
将校はひそやかに笑いつつも、かすかな苛立ちの表情を交えて周りを見回した。背後にニコルをかばい立てして一歩後ずさる。
金具の音が消えた。硬い靴音が響き渡る。
迷うことなく一直線に階段へ向かって近づいてくる。
「あ、あれはどなたですの」
ニコルはおびえ、息をすすり込んだ。将校の背にすがり、白い吐息を吹きまとわせる。
「まさか、敵……?」
「声で分かるだろうに」
将校は用心深く身構えた。声をひそめ、咎めるように言う。
「存じ上げませんわ」
ニコルはぶるぶるとかぶりを振った。困ったことに相変わらずまるで聞き覚えがない。とにかく身振り手振りを交えて、全然知らない声であることを伝える。
「いくらあのちびでも、奴を知らないはないな。なるほど、了解した」
将校は、口元をそこはかとない揶揄の形につりあげた。
「名前詐称の件に関しては、取り敢えず今夜にでも……食事なりベッドなりをご一緒した折りにゆっくり説明していただくとして」
悽愴な笑みが一瞬、その精悍な面構えに伝い走る。
「それにしてもさすがにこの状態で奴に見つかるのはまずい」
「え」
将校はニコルの怖じけづいた表情に気付いたのか、焦眉の眼光を吹き消した。
「いや、困るのは君じゃない。ニコルのほうだ。公国元帥ともあろう男が、私ごとき異邦の亡命者と通謀したなどとあらぬ評判を立てられてはさすがに拙かろう。何せ、場所が問題でね」
がらりと風情を変え、いかにも賢しらな様子でにやりと片笑む。
「下手に二人でいるところを捕まったらどんな不行跡の証拠を積み上げられるやら。まず間違いなく私は獄門だな」
「ええっそんな」
ニコルは顔色を変えて立ちすくんだ。
「ど、どうすれば」
「一分でいい。奴を引きとめてくれ」
将校は上階の様子をうかがった。
「どうせあの男のことだ。君を、ではなくニコルを探しているに違いないさ。今の君ならきっとあの男の眼も欺けるだろう。私でさえだまされたんだ」
口早にささやいて後ずさる。
「私はどうなっても構わないが、ニコルの名誉だけは護ってやらないと、な?」
「で、でも」
置いてゆかれる心細さのあまり、つい手を伸ばして将校の袖を引く。
「ひとりじゃ無理です……」
将校はふと足を止めた。ためらうニコルの手を揺りほどき、逆に肩を抱いてやんわりと引き寄せる。
「心配は要らない。大丈夫だ。君ならできる」
ニコルは思わず頬を染めた。あわてて、どうせ見えないに決まっているのに、つい手で頬の火照りを隠し、うつむく。
「そんな表情をしてくれるなよ。名残惜しくてたまらなくなるだろ」
将校は闇に身を紛らわせながら、また上を見上げた。
近づく靴音が一段と甲高くなってゆく。
「本来なら君をも連れて逃げるべきなんだろうが、さすがの私も、この状況で奴を巻いて、無事逃げ果せられると思うほど傲慢にはなれない。君がニコルの振りを続けて切り抜けてくれるのが一番だ」
言いながら、手袋の上からかるく儀礼のくちづけを落とす。
「では、後ほど。また逢おう。楽しみにしている」
臆面もなく言い置くや、そろえた指をさっと振って別れを告げ、音もなく階段を駆け下りてゆく。
ニコルは愁眉の面持ちで両手をよじり合わせ、闇に消える将校を見送った。
大丈夫だ、心配ない――と言ってくれはしたものの、この状況で何をどう心配せずともよいのか、さっぱり分からない。心がざわざわ乱れ騒ぐのを抑えかね、相対する光と闇、迫り来る足音と去りゆく足音の双方を、思い詰めた目線でそれぞれに見比べる。
確信に等しい孤高の足音が近づいてくる。
気付かれている。
ニコルはくちびるを引き結んだ。将校の言ったとおりだ。あの足音から逃れることはできない。
「閣下」
いきなり。
冷淡と言っても過言ではない男の声が降った。
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