もっと大胆になれる

 熱い、とろけそうなほど甘い、密事のささやき。

「君も、きっと、そうだろう? あのバカに変装しているぐらいだ、君がここにいることは誰にも知られたくないはず。二人だけの秘密にすれば、もっと大胆になれる。誰にも知られず、誰にも気付かれず。真実を知るのはこの世にたった二人……私と、貴女だけだ」



 心も、吐息も、痺れきった身体の自由さえ奪われてゆきそうになる。息が、続かない。すべてがぼうっと甘く、はちみつのようにとろりと溶けて、かすんでゆく。


 と、そこで。


 ……もみもみもみ。


 はて。

 これは、いったい何の感触だろう、と真っ白の頭で呆然と考える。


 ……手?


 将校の手がお尻を撫でている。


 と、分かった瞬間。

 ぴき、と。

 一瞬にして立ち戻ってきた理性にひびが入った。


 ――ふ、ふんぎゃああぁあwぁぇせfふじ○×▼ぇ※ゞ∇ゃぁ……!!(注※読解不能)


「こ、こ、この嘘つき。二枚舌、すけべ、ばかあっ! あ、貴方なんてもう二度と知りませんっ」

 あまりに憤懣やるかたなくついには堪え切れなくなって、どうせメガネもないことだしまともに見えないのを良いことに、傍にあるらしき将校の頬と言わず頭と言わずまとめてめちゃくちゃに引っぱたく。

「ま、待て、痛っ」

 べしべしと降る大量の平手打ちに、たまらず将校は頭を抱え、逃げまどった。

「分かった、分かったからまずは落ち着け、痛い」

「冗談じゃありませんわ」

 最後に一段と甲高くぴしゃんとほっぺたを張っ飛ばして将校の腕から逃れると、ニコルは可能な限りの怒りを込めた涙目で、将校をぎろりと睨みつけた。


「後悔なさってたのではないのですか!」

「後悔はしたさ、反省もしている」

 将校は赤くひりひりした色に変わった頬を撫でながら、一見しょんぼりと気落ちしてみせた。

「それにしても見事な乱れ打ちだ。この私ともあろう者が全被弾するとは。まさしく神業、恐れ入ったよ」


 ニコルは将校の頭のてっぺんから足の先までを見下ろし、ぐっと息を吸い込んだ。

 あやうく忘れるところだった。この男は悪魔に悪魔と罵られる人物その二なのだ。その毒牙に自らやすやすと掛かりに行ってしまうとは、何たる失態、落ち度であることか。

 将校はため息をついた。

「だが、そうとも言うがそう言ってくれるなとも言う」

「ぜんぜん反省しているふうには見えませんでしたけれど……!」

「分かった分かった。前向きに善処するよ。すればいいんだろ」

 将校はしれっと笑い、メガネを投げ返した。

「わわっ」

 思わず落っことしそうになるのをあわてて受け止める。

「これで万事解決だ」

 肩をすくめたあとはもう、ニコルがどんなにわあわあ怒ろうが拗ねようがまるで取り合おうともしない。

「ううっ」

 まったくあり得ない。絶望のあまりぐすん、と半泣きになって手で顔を覆う。

 怒れば怒るほど矛先をかわされて、何を言っても何処吹く風。そのうちになぜこんなに怒らなくてはいけないのか自分の気持ちまでもがこんがらがってきて何が何やら分からなくなってゆく。

「これじゃ何が何だかさっぱり。何でわたしがこの状況でおしりを撫でられなければならないんですか。理解できませんわ」

「何言ってる。何が何だかなのはむしろ私のほうだ」

 将校はふと真摯な眼差しを取り戻してニコルを見つめた。

「だいたい君がニコルの格好などしているから話がおかしくなる。当の本人はどこへ行ったんだ、あのトンチキは」

「え」


 ニコルは顔を覆った手を放し、眼をぱちくりとさせた。

「わたしの格好……?」

 急に心許なくなって将校の顔を見上げる。

 おどおどと視線を泳がせ、わずかに曲げた人差し指の背を所在なげに噛みながら、ニコルは続く声を呑み込んだ。

 たどたどしい記憶を手繰って戻ったその先は、ふつりと途絶えた深い闇だ。一瞬また自分の名まで思い出せなくなったのかと思い違いして青ざめる。

 いや、そうではない。自分はニコルであって、でもでもない。別人と勘違いしているのは将校のほうだ。

「いいえ、違いますわ」

 多少むっとしつつ、いわゆる大人の対処ということで、気持ちを取り繕ってかぶりを振る。

「わたしがそのなんですけど」



 ぴきん。


 将校は、完全に動きを止めた。

 心外な反応に、ニコルは視線を泳がせた。

 今の発言にどこか理解しづらい箇所でもあったのかと自らを省みながら、いいやまさかと思い直し、あらためてぎごちない笑みを作って同じせりふを繰り返す。

「ですから、私は、ではなくて」


 ぴきん。


 さらに石化硬直、おまけに沈黙。そんな絶句状態がたっぷり十秒以上は続いただろうか。

 ごくり、と喉を鳴らす音が聞こえたかと思うと将校はふいにゆがんだ苦笑いを浮かべた。いらだたしげに手を振り払う。

「は、はは、これは悪い冗談……」

 かすれた笑い声をあげたかと思うと、いきなりばったりと壁に突っ伏し、うんうんと唸って頭を抱える。

「頼む。やり返したいのは分かるが、そういう悪ふざけは時と場合を選んでやってくれ。ただでさえまともに見分けられないと分かって本気で凹んでいるのに、もし、あの馬鹿が調子に乗って君の物真似を始めたり、あまつさえまかり間違って、あのバカを思いきり口説いてしまったりした日にはだな」

 将校は引きつった顔で呻いた。

「もう、お先真っ暗としか言いようが」

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