キスだけじゃ終わりそうにないな
ニコルは両腕で自分を抱きながら、身を退かせた。背中が壁に突き当たった。石肌の冷たさが伝う。
ニコルは、と胸をつかれてかぶりを振った。
「わたくしは」
言いつのろうとして、こぼれた涙の跡を指の背で拭い、かすかに微笑む。
「何でもありませんわ。ほんの少し、びっくりしただけで」
将校の肩が、ゆっくりと上下する。
「ああ」
白い、つめたい吐息の夜霞がたちのぼってゆく。
渇仰のため息が聞こえた。
「君を、怖がらせるつもりはなかった……そうか……レイディ……そう言っていただけると、どんなにか」
「よかった」
凍り付いた空気のゆるむ気配に、ニコルは思わずほっと安堵のためいきをついた。
「一時はどうなることかと思いましたわ」
ぐすっと鼻を鳴らし、空元気を装って、つたなく微笑んでみせる。将校は礼儀正しくニコルの手をとり、背中を支えた。
「また逢えたな」
「……はい?」
「ずっと……君のことばかり考えていた」
瞬きもせぬ青い眼で、ひたと見つめられる。
「はい?」
どきんとして、触れ合わせていた手をあわてて後ろに引っ込める。
しばらくは声もない。
また逢えた、って。
この人は何を言っているのだ……?
同じ城砦で軍務につく者同士ならば、毎日顔を合わせていて当然のはずでは?
……どうやら、誰かと勘違いをしているらしい。
何が何だかよく分からないが、とにかく、この将校の素性をはっきりと思い出せない以上、最後まで知らないことをとぼけてごまかすしかない。それにしても、軍人らしい言葉遣いといい、いったい、どんな顔をして、どんな内容の言葉を交わせばいいのか。さっぱりである。
こんな時に限って何をどうすればいいのかまるで見当もつかない。
ただ、如何ともしがたく口ごもって、気後れして。
そんな自分がやたら苛立たしく気恥ずかしく、結局どうにもならないまま頬を染め、もじもじとうつむく。
「あ、あの」
沈黙に耐えきれなくなってお茶を濁す。
「それにしても、驚いた」
ようやく、将校は、我に返ったように笑った。
「本当に驚いたよ」
魔法のようにふわりと手を添えられ、引き寄せられる。心の奥底まで吸い込まれそうな瞳が、まっすぐにニコルを見下ろしていた。
「え……」
どぎまぎとして口をつぐむ。
「まったく、この私ともあろうものが君にはたじろがされてばかりだ」
腕にはめた宝珠が、なぜか赤く瞬いて不穏な光を放つ。
「なぜ君がノーラスに……いつから居る?」
将校の笑みと相反して、息苦しい焦燥感が背後に忍び寄る。
ニコルは答えるのをためらった。
頭の奥に再び、薄暗く燃えくすぶる痛みの燠火がゆらめき始める。
何かが、違う。
あの、凍り付くような殺意は。
必ずいるはずの歩哨が、誰一人として、持ち場にいなかったのは。
なぜ?
ふいにがらりと薪のくずれたような心地がした。記憶の火の粉が四散して噴き上がる。
遠く、赤く。あまりにもはかないそれはちらちらと蛍のように吹き流され、闇にまぎれて、虚しく薄らいでゆく。
「まあいい」
ひそやかに肩を抱かれ、ニコルはぎくりと首筋をこわばらせた。
強い意志を感じさせるしぐさに、逆らうことも、逆らおうと思うこともできず、そのまま身体をかすかにふるわせる。
「今は、もう、そんなことはどうでも良い気持ちだ」
抱き寄せる腕にひたと熱情がこもった。
「夢の中ではなく本当の君に、また
なすがままに強く抱きしめられて、ニコルはわずかにあえいだ。
耐えきれず、眼をぎゅっとつむる。
「後悔……?」
将校の片目は長い前髪で隠されている。だが、その下には未だ癒えていないであろう深い傷が、隠し切れぬ恐ろしさで見え隠れしていた。
「君の兄上の、あのバカメガネにいくらそっくりだからといって、君を、同じように思ってさんざんにからかってしまった……本当に、後悔している。こんな私を……許してくれるかい」
許しを請う切ない声に翻弄され、頬がみるみる赤く熱く染まってゆく。
「あ、あの……は、はい」
まるで催眠術のようだった。思わず引き込まれて、うなずいてしまう。
まるで記憶にない。
覚えていない。
はずなのに。
胸が。
ひどく、苦しい。
「そうか」
誘うような、低い、穏やかな声がためいきに混じって聞こえた。手袋越しに髪を撫でられ、指の背中で頬をくすぐられ、身体中の力が抜けてゆく。
「ありがとう、レイディ。これで、ようやくきちんと言える」
てのひらが頬を包んだ。そっと引き寄せられる。
ひどく甘やかな、かすれ気味の優しい声がくちびるをふっとかすめた。
「今度は、本気だ」
傾けたため息が耳朶をすり抜ける。
どきんとして声をなくす。
将校は甘い声でつぶやいた。
「もう一度、最初からやり直させてくれ。初めて逢ったあの夜から、君のことだけをずっと想っていた」
「……は?」
「信じてくれないのか」
「い、いえ、その……こ、こ、この状態の何をどう信じろと……ぁっ」
足元の不如意な、階段の途中にいるというのに。金髪将校に身を寄せられ、のけぞりそうになって、足を踏み外しかけて、思わずちいさな悲鳴を上げて相手にすがりつく。
「お、押さないで」
「レイディ・ニコラ」
覆いかぶさるような柔らかな金の髪が、ふわりと艶めいて降りかかる。髪が目元をくすぐった。罪深い影が視界を覆い尽くしてゆく。
「あ、あの、サリ、サリスヴァールさま? な、何を」
抱かれ、押し包まれた胸元に、かすかな火薬の残り香がひそんでいた。心臓がずきりとはりさけそうに跳ね上がる。
「レイディ、もう二度と心ないからかいの言葉で君を傷つけたりしないと誓おう。だから」
絶句し、震えるしかない喉を、将校の指先がまるで白き花にからみつく蛇のように淫靡に、ひそやかに這いつたってゆく。
「な、何が、えっ、どうなって……う、うわっ」
メガネをふいに取り去られる。
「これは邪魔だ」
「……あっ」
混乱する暇もなかった。
「今日の逢瀬は、二人だけの秘密だ」
危険なきらめきに魅入られたように思えた刹那。
熱情がなだれかかった。
熱い吐息の波に引きずり込まれ、甘やかな獣の罠に墜ちて、残酷な男の膂力に囚われて。
身動きもできない。
「今、ここで。君が欲しい」
手のひらが頬を撫でさする。
「い、いけませんわ、そんな……あの……」
「大丈夫。君は何も心配しなくていい」
妖婉ですらある微笑みが近づいてくる。
抗いきれない。
「キスだけじゃ終わりそうにないな」
息苦しく呻いて身をよじらせる。
「ぁっ……」
「君が欲しい」
吐息が耳元をつたい、忍び込んでくる。
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