3 黒髪の人

参謀飾緒



 黄色みを帯びた光がなだれかかってくる。ニコルはまぶしさについ顔をそむけた。手で眼をかばい、光を遮る。

「お探し申し上げておりました」

 光の闇を切り裂く声は、慇懃ではあるが極めて冷静だった。


 ニコルはおそるおそる眼を見開いた。まだまぶしさは押さえ切れないが、ガラスに反射し硬質の光を放つカンテラ灯を手にこちらを見下ろしている軍人の姿だけはおぼろげながらも見て取れる。

 髪の色は黒。顔立ちはランプの笠が陰になってよく見えない。だがその軍装は、先ほどの将校が袖も通さず無造作に左肩へ引っかけるだけにしていた派手な短衣とは違って、まったくと言って良いほど飾り気のないものだった。

 厳格にボタンを合わせた燕尾の軍衣。腰に定色の青いサッシュを巻き、同じく青の折り返しがついた袖と襟には金刺繍の線が大小二本。右肩から第二ボタンにかけては金の参謀飾緒がゆるい弧を描いて揺れている。


「かような立ち入り禁止区域で」

 黒髪の青年は傲然と闇を睥睨し、しかるのち冷ややかな口を開いた。

「いったい何をなさっておいでなのです。供も連れず、警備まで人払いして」


 ニコルは首をちぢこめた。

 全て見透かされているような気がしてまるで生きた心地もしない。

「い、いえ、その、別に、あの」

 ごくりと喉を鳴らす。


「ま、迷子になってしまいました」


 緊張のあまりとんでもなく斜め上な言い訳を口走ってしまう。ニコルは思わず頭を抱えた。まったくお間抜けにも程があ……

「――何やら話し声が聞こえましたが」

 いきなりずばりと聞きただされ、さすがに心の準備が間に合わずニコルはあからさまに動顛して口ごもった。

「え、ええと、そ、それは」

 答えを待つ合間にも、黒髪の軍人は無常なその眼差しをニコルの背後へひたと注いでやまない。

「ね、ね、ねずみですわ。大きなねずみがあの……」

 そこまで言ったところでニコルはまたまた裏返った声を蚊の泣くような声にすぼめ、ちぢこまった。これまた何というとんちきな。まさにばればれな言い訳の筆頭その一ではないか。


「ふむ、随分と大きな鼠であったようですな」

 信じているのかいないのか――いや信じるほうがどうかしていると思うが――結局他には如実な反応をひとつも示さぬまま、黒髪の軍人はおもむろに階段を降りてニコルの傍へやってきた。


「まずはいったん執務室へお戻りを願います」

 強圧的ながら慇懃な立ち居振る舞いを崩さず、上へといざなう。

「話はフランゼス公子から伺いました」

 黒い、感情をまるでのぞかせぬ霧深い眼が見つめている。


「フランゼス」

 聞き覚えのない名にニコルは軍人を見返した。眼をぱちくりとさせる。

「ええと」

 微妙な困惑の笑みを浮かべ、手を口元へやりながらううむと小首を傾げる。

 いったい誰のことだろう……

 そう言えばさっきそんな名の人と話をしたような……。

 でも、どの人のことなのかまた思い出せなくなっている。記憶がまるでしっかりとしない。

 ぬいぐるみの名か、それとも探せと言われていた誰かの方だったか――

 どうしても定かに思い出せないまま、何となく分かったような分からないような曖昧模糊とした態度だけを装ってうなずく。


「《エフワズ》の声に異変は」

「え」

 問われている意味がまるで分からない。


 軍人は無言で絹の白手袋をはめた自身の左腕を持ち上げた。袖をかるくたくし上げる。

 銀の腕輪に嵌め込まれた漆黒の宝珠が人知れず幽玄な微光を放っている。

 ニコルははっと気が付いて、自分の軍衣の袖を引っ張りあげた。

 赤と青の宝珠。

 放たれる光には一縷の乱れもない。先だってはあれほど感知の波長を乱していたというのに。

 目前に控える軍人が醸し出す冷厳な雰囲気とはまるで異なり、宝珠は不思議なほど穏やかに静まりかえっている。


「ふむ、異常なしと」

 軍人はわずかに眉をひそめた。

「しかしこのままではどうにもなりませんな」

「あ、あの」

 ニコルは軍人の発言の端々に危惧を抱いておそるおそる尋ねた。

「もしかして、御存知なのですか……その、わ、わた」

 最後まで言い終える間もなかった。何からどう説明しようかともたもたしているうちにぴしゃりとさえぎられる。

「何のことです」

「え、ええと、その、だから」

「従卒にはかたく公言を禁じてあります。その点ご心配なきよう」

 軍人はいきなり歩き出した。懇切丁寧に説明するつもりはないらしい。先導しながら階段を上がってゆく。

「まずはご自身の立場を理解頂かねばなりません」

 ニコルは軍人の背中を見上げた。こぼれる光が背格好を陰に切り取っている。肩に回し掛けたベルトに吊られたサーベルが、黒鋼の響きをたてて光った。

「閣下の装備なさっているルーン、《先制のエフワズ》《封殺のナウシズ》はそれぞれノーラス防衛にあたって最も顕要な呪甲とされております。従いまして」


 軍人は突然立ち止まり、ニコルを見下ろした。


「閣下がルーンの声を読み取れずにいるなどという流言がもし広まりでもした場合、聖ローゼンの庇護を信じ閣下に従属する第五師団四万五千の兵にどれほどの失望と懸念、恐慌をあたえるか、その点ご推量いただけますでしょうか」

「え」

 さすがに青くなってニコルは絶句した。

「いつの間にそんな」

「むろん一時の症状で済めば問題はないのですが」

 黒髪の軍人は再び階段を上り始めた。

「足下にお気をつけください。滑りますぞ」

「きゃああ」

 そんなことは言わずもがなと思いきや、とっくの昔にニコルは足を滑らせていた。盛大な勢いでごんごんごんと上の端から下の端まで転げ落ちてゆく様を見やりながら、黒髪の軍人はごほんと咳払いした。

「つまるところ」

 言い終わる前にごいん、と音がして。

「私も公子も対応に苦慮を」

「……そんなこと言って、見てらっしゃるだけではないですか……」

 階段の一番下、ぺしゃんこの埃だらけの真っ黒けな顔ででんぐり返ってぴよぴよと上下逆さまにヒヨコ星を回らせながらニコルはぐんにゃりと脱力した。

 軍人はつぶれニコルの惨状から眼をそらした。

「不憫ですな」


「際限なく見捨てられてたような心地がします」

 ニコルはぐすんと鼻をすすり上げながら見事五段飾りとなったたんこぶをこすりこすり、それでも一人で何とか起きあがった。

「分かりましたわ。要するに自分のことは自分でせよと」

「閣下を相手に、そこまで無理難題は申しません」

「いえ」

 ニコルは決意の息をつき、きっぱりと居住まいを正して言った。

「たぶん、最初からそうすべきだったのですね」

 ひん曲がったメガネをはずし、はぁっと息を吹きかけて指先でくるくる回し拭きながら、軍人の冷徹な表情を見上げる。

「何とかしてくださる方を捜すのではなく、自ら率先して善後策を講じるべきでした」

「現状を把握していただけたようですな。ならば私も尽力させていただきます。閣下、お手を」

 ニコルは、にっこりと微笑んだ。手を差し伸べる。

「ありがとうございます。心より感謝しますわ」


 深い闇の奥底から、凍り付くような金属音が鳴り響いた。


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