1 誰?
ぐえっ、ごきん、ばたん
「に、ニコル、おかえり。待ってたよ」
いつの頃からだろうか。頬を撫でる空気が変わったのは。
季節の変わり目は劇的に訪れる。
森と川、点在する湖に囲まれたノーラスを渡る風は、昨日までのどこか和やかな郷愁とは明らかに異なった濃霧を運んでくるようになった。朝まだき、濡れそぼった独特の暗みに沈む森は月の温度を含んでしっとりと重く、まとわりつくようにつめたい。
だが陶然と薄紅に染まってゆく東の空にまばゆい最初の光が射し初めたその瞬間、森はほのかな影絵の世界から一転して陰鬱なヴェールを脱ぎ捨て、驚くべきあでやかさをまとって立ち現れるのだった。
みずみずしい金の白光を含む朝日に照らされたノーラス城砦から見渡す眺望は、さながら一面に広がる虹の万華鏡だ。
目を転じるたび色合いを変えてゆくきらびやかな朱、赤、山吹、橙、鳶色、青朽葉、突き抜ける空の青、澄み切った風、遙かなる銀嶺――
だが、ノーラスを取り巻き支える軍属や商人たちの眼に映る秋の色はまったく別物だった。
文字通り山と化した飼い葉、軍畜、穀物、塩漬け肉、ピクルス、根菜、酒、煙草、砂糖にジャムにビスケット、チーズ、干し魚、豆、木の実、獣油、ろうそく、鉄鋼、ガラス、皮革、火薬の材料、紙、材木、石材、薪、炭、毛織物。
引きも切らず運び込まれてくるありとあらゆる物資を買い付けては輜重車に積み込み、野良鍛冶を連れ、仕立屋を雇い、大工石工をかき集めて、各地の糧秣集積所へ小麦一粒まごうことなく正確かつ続々と送り出してゆかねばならないのだ。一年で最も繁忙を極める季節に、とてもではないが絶景を愉しむ暇などあろうはずがない。
来るべき冬にそなえ、人が動き、物が動き、金が動く。
そして、ニコルもまた。
経理の鬼と化したザフエルによって、連日連夜へとへとのよれよれになるまでこき使われていたのであった。
本格的な冬が来る前に基礎工事を終わらせておかねばならなかった分派堡の普請が遅れている。激励がてら進捗を計りに向かった視察でも何かと膨らむ工事費に反比例して遅れる作業に頭を悩ませるディー主計官が泣くような声で『このままではホーラダイン中将に粛正されます何とかなりませんか云々』と訴えるのにほだされ板挟みとなり思わずもう一度積算を出し直してくださいと言ってしまって後悔するも先に立たず。
やっとのことで調整を終え、一息つく時間を確保して執務室の扉を開けた途端、先般の嬉しそうな声が響き渡ったと、以上説明は長くなったがとにかくまあそういう次第なのである。
……が。
「こ、これ、ちょっと見て」
「うわ!」
突進してくるのはあろうことか凄まじく高く積み上げられた本の山だ。ぐらぐらと今にもなだれ落ちそうになりながら襲いかかってくる。
ニコルは絶句した。
「ちょ、ちょっと待っ」
「アル、アルトゥシーから持って帰った古書の中に、こんな、うわああ!」
「うあああ!」
というわけで避ける間もなく、高尚なる鈍器の奔流がずどどど、となだれを打ってニコルを埋め尽くした。
ごいん、と何やら風流な余韻の打突音が響き渡るは、おでこを本の角で強打でもしたか。
さらに続けてぐえっ、ごきん、ばたん。
そこはかとなく末期的な様相を帯びたこれらの音は、さしずめ呻き、卒倒、断末魔といったところであろうか。
何にせよ、ぷくぅ、とたんこぶが膨れあがった後、しーん、となって。
結果、ぴくりとも動かない。
……解説しよう。
冬用に取り替えたばかりの、毛足の長いシャギーラグの縁に思い切り足を突っかけて転倒している、ちょっぴり(かなり)ふくよかな軍服少年。
誰有ろう彼こそは聖ティセニアの公統であり、第二大公位継承者にして無類の遺跡古美術マニア兼、古書・奇書・変書・稀覯書蒐集家として知られる学究者、城砦ノーラスにおける新たなる食客にして、マシュマロのごときほっぺたと虫めがねと分厚い本が主装備の、その名もフランゼス公子である。
とわざわざ紹介しておいて何だが、ちなみに聖ティセニア公国元帥を務める《封殺のナウシズ》と《先制のエフワズ》守護騎士ことニコル・ディス・アーテュラス――今現在、資料本直撃によりたんこぶ山盛り、ぐるぐるメガネをなおいっそうぐるぐるにして人事不省中――とは、ご学友兼幼馴染みと称する、無難にして小心な間柄から十四年間一歩たりとも進展の見込み無し。
が、まあ余計なことはさておいて。
はらり、はらり、と。
おそらく糸綴じがはずれてしまったのだろう。本から抜けた頁がばらばらになって部屋中を舞っている。
「ううう」
ぼんやりとではあるが何となく意識が戻ってくる。
身体全体が比喩的意味ではなく、本当に重い。
昏倒した時と変わらぬ仰臥の姿勢を保ったまま、白い天井に下がる装飾灯をもうろうと見上げる。
「何、何が……何……」
「ごめん」
いかにも申し訳なさそうな声が足のさきのほうから聞こえてきた。
「だ、大丈夫……?」
「う、うん……たぶん……」
くぐもっていて誰の声かよくわからない。
呆然と目を瞬かせる。
身体はまだ動かない。……と思ったが実はそうではなかった。意識がはっきりして来るにつれ現状もまたつまびらかになってくる。
重い。重すぎる。
視界の大半を占めていたのはやにわに理解しがたい存在だった。膨大な量の本が山となって身体の上に乗っかっている。ほとんど全身埋もれているような気もする。
……何をどうすればこんなことになるのか……。
かろうじて身をよじり、本を振り落としながら半身を起こす。
ひどい眩暈がした。頭がくらくらする。身体にもまったく力が入らない。
視界全体にぽやんと乳白色の靄がかかったようだった。振り払おうにも妙に気まずい感触がまとわりついて離れず、ぐるぐると底無しの渦を巻いているだけのように思える。
「ご、ご、ごめん、ほんとに」
なぜか床に顔をうずめ平謝りしている白い背中をぽかんとして見やるうち、ふと頭上の違和感に気付いた。
何やら黒っぽい物体がたんこぶにしがみついている。
手を伸ばし、引き剥がす。
くたっとしている。手触りはふにゃふにゃ。可愛くないがどうやらぬいぐるみらしい。しばし愕然として眺める。
なぜこんなものが。
考え込む。
謎だ……。
が、すぐにはっとして気を取り直す。
「そっ、そうでした」
手にしていたぬいぐるみをぽいっと後ろへ放り投げ、バネ仕掛けのように慌てて飛び起きる。
「そ、それよりもごめんなさい! すみません、ぶつかっちゃってたぶん本当に申し訳……ええと、その、今すぐ片づけますので」
粗末に扱われた背後のぬいぐるみが悶々と青黒い不気味なオーラを放出し始めたのにも気付かず、あわあわとその場に散らかっている物全部を一緒くたに積み上げ始める。
「い、いいんだニコル、ぼ、ぼくが悪いんだから」
白い服を着た少年はひどく焦った様子でもごもごと口ごもった。
「い、いえ、わたしが」
「いや、僕が」
片づけ速度を競うように手を伸ばす。気がつけば少年と同じ本を取り合っていた。
少年はいきなり眼を瞠り、真っ赤になって息を呑んだ。
ぱっと手を離す。
本はそのまま少年の足の上、おそらく小指の先あたりへごち、と落下した。
「!!」
少年が無言でごろごろごろと転げ回る。
「す、すみません」
驚いて謝ると少年は脂汗をかきかき半分真っ赤、半分真っ青な顔で強がり笑った。
「全然、だ、だ、大丈夫……ははは……」
よろめくように背を向け、散らばった本を拾い始める。
だが残念なことにこの二人、揃いも揃って要領悪いことこの上もなかった。
一方があっちに積み上げたものを一方がこっちへ並べ直そうとしてばさばさと床に落としてしまい、それをまたお互いが相手の不手際を責めもせずぺこぺこ頭を下げるものだから、さらにあちこちぶつけるわ踏んづけるわでせっかく並べたものをひっくり返し、またまた恐縮して頭を下げたら今度は自分が滑ってどんがらがっしゃん――
を二度三度ほど繰り返したところで、ようやく二人は学習した。
相互不干渉を約束しあい、やっとのことで危険な本の山を、やや安全な本の山へと進化させることに成功する。
「ふう、やっと終わった……」
部屋を見渡してみるとこれぞまさしく完璧なお片付けである。
「お、おつかれさま、ニコル」
「ええ」
見事な出来映えにふっと会心の笑みを漏らし、額の汗を手の甲で拭って立ち上がる。
作業をやり遂げた、という充足の思いで胸がいっぱいになり、両手を握りしめてうーんと大きく猫めいた背伸びをする。
それからキャビネットのガラスを姿見に見立てて、くしゃくしゃになった髪に手櫛をいれ、可愛らしく形をととのえてから上着の裾をぱんぱんとはたいて、いつも通りにっこり振り返って微笑みかけ……ようとして。
はたと表情をこわばらせる。
そう言えば、先ほどから目の前にいる白い軍服の少年。
――誰?
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