第9話 ニコル・ディス・アーテュラス、記憶喪失になる

籠の鳥

 小春日和の陽が翳る。

 土の匂い。枯れ葉の匂い。

 風が葉ずれの音をつま弾いている。

 こぼれて落ちるわずかな光。湧き水の流れるかそけき音。木漏れ日に沈み、白く、碧く、ゆらゆらとささめいて見えるは純白の柱廊か。一直線に森をつらぬいて、どこまでも伸びる。

 しんとして、暗い。それでいて生きとし生けるもののざわめきに満ちあふれた、静謐なる深緑の世界に。

 靴音が響き渡る。


 切り裂かれた底無しの深淵にも似て。


 柱廊の傍らに四阿が見える。大理石の柱には優美なアラベスク紋様。薔薇と剣、聖女と天使。精緻に流麗に彩られたレリーフは鬼気迫るほど美しい。

 四阿には白の椅子。長衣の男が一人、足を組み、しどけなく背もたれて、台の上の鳥籠を戯れに指先でつついている。そのたびに止まり木が揺れ、中の小鳥が青い羽根をばたつかせる。

虚無ウィルドに非ず、か」

 誰に聞かせるともなく男は独りごちる。

 純白の法衣。銀の髪がさらりと肩から流れおちる。ストールは鬱金に縁取られた深紅のベルベット。足下に黒猫が一匹。

 靴音が止まる。

「果たしてそうかな」

 また鳥籠を揺らす。

 黒猫が台の上へ飛び上がった。男に身をすり寄せ、喉を伸ばして、にゃあ、と鼻にかかった声で鳴く。鳥籠の周りに散った薄青い羽毛が舞い立った。

 猫は飽くことなく小鳥を見つめている。

 男の口許が憐憫のかたちに吊り上がった。

「凡ては神の定めたもうた運命」

 名状しがたい微笑を薔薇の瞳にひそみ隠して、男はゆったりと猫の喉を撫でる。

「決して逃げようなどと思ってはいけないよ」

「はい、聖下」

 抑揚のない声が返答する。

「我が身命に代えましても、かならず」


 薄ら寒い山籟の走りが枝葉を揺らしてゆく。

 ざわざわ、ざわざわと。

 小鳥は澄んだ薔薇色の目を無垢にきらめかせて黒猫を仰いだ。小さな翼を広げ、おずおずと羽ばたく。

 だがその青い羽先は無惨にも切り落とされていた。


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