つかぬことを伺いますが

「あのう……つかぬことを伺いますが」

 仕方なく困惑の面持ちで尋ねる。少年はうろたえた。

「う、うん?」


 先ほどから、ある程度の親密さを感じさせる口調で何ちゃら言う名前を呼んでくる所を見ると、たぶん顔見知りなのだろうといった程度には関係を推測できるのだが、いかんせんどうしても顔と名前が一致しない。

 そんなこと今まで一度も無かったはずなのに、下手すれば名前どころか顔まで見覚えがないような気がする。


「どこかで……お逢いしてましたっけ?」

 おずおずと聞いたとたん。

「え」

 白い服の少年はぎょっとした顔を硬直させた。

「何!」

「それに、どうしてわたしのことニコルってお呼びになりますの?」


「ちょ、ちょっと、ニコル、じょ、冗談はやめてくれよ」

 少年は顔を蒼白に引きつらせた。半分が泣き笑いじみた表情にゆがんでいる。


「失礼ですけど、貴方様はどこのどちらさまでいらっしゃいますの? 人の名を勝手に変えて呼ぶだなんて礼を失するにも……」

 反論しかけたところで、ふいに口をつぐむ。


 ひやりとした感覚が背筋を伝い走った。

 そこに有るはずの自分の名前が出てこない。


「あ、あれ?」

 小首を傾げてみる。わたしはだれ? 分からない。

 照れくさそうに笑ってみる。ここはどこ? やはり分からない。

「え、ええと、その」


 頭を抱えて唸りたい気持ちでいっぱいになる。……きれいさっぱりだ……。


 とはいえ。

 無駄に落ち込んでも仕方がない。

 まずはやはり、こうなった因果関係を突き止めるのが第一だろう。限りのある記憶を遡行して探求してみる。


 記憶その一、たんこぶ。


 おお、と思わず膝を打つ。これもなぜかいつものこと、という気がするが、何せ頭の上にたんこぶがアイスクリームみたいに三つも乗っかっているのだ。何という明晰かつ的確な状況判断であることか。

 間違いない。記憶をなくしたのは、この三段たんこぶのせいだ。

 と、半ば無理矢理に勘違いしたところで、他称ニコルは自分のいた部屋をまじまじと見回した。


 本と少年は横に置くとして、目の前にはふわふわと白いウールシャギーのかかったソファ。床にもまた同じ手触りのラグが敷かれている。

 窓辺に大きなマホガニーのデスク。

 部屋一面に本の山と毛糸のかご、お菓子の入った箱などがごっちゃに積み上がっているところを見ると、どうやらあまり整理整頓するたちではなかったらしい。

 部屋の四隅にはそれぞれ国旗らしき青い旗、薔薇の紋様に彩られた旗。見たこともない意匠の軍団旗、部隊旗らしきものが掲揚されている。

 花台には誰が飾ってくれたものか、ふんわりと赤い秋の花。


 向かって右の壁は、天井まで届く書棚とキャビネットに埋め尽くされており、本やら何やらごちゃごちゃした飾り物でいっぱいになっていた。

 片や左の壁には一面にどこかの国の詳細地図が貼られている。

 中心付近の丘陵地に赤いピンが差し込まれ、色褪せた字でノーラスと書き添えてあった。ピンは他にも数種類あり、薄い青が街道沿い、小さい赤が川沿いに点々といくつか。


 ここまで見て取ったのち。ニコルは少年を見つめた。

 諦観の微苦笑を浮かべる。

 やはり思い出せない。ここがどこで、自分が誰で、相手の名も顔も、そもそも何がどうしてこうなったのかも。


「どうしましょう」

「な、な、何」

 少年は今にも逃げ出しそうな素振りを見せながらぎくりと首をちぢこめた。

「わたし、誰でしたっけ?」


「ちょ、ちょっと」

 少年の顔は真っ青を通り越して真っ白になっていた。

「だ、だめ、だめだよ。言っちゃだめだ」

「でも、分からないんです」


「ニコル」

 少年はついに悲鳴じみた声になって遮った。ニコルの手を引き、ソファへ連れていって、なかば無理矢理に座らせる。

「いいかい。と、と、とにかく座るんだ。座った? そしたら、まずは、冷静になるべきだ。おおお落ち着いて、大丈夫だから、あ、安心して。大丈夫だ。それから、えと、あれだ、あの、お、お、お、お茶、お茶を淹れてもらおう。レイディ・アンシュベルを呼んで、それから」


「大丈夫。落ち着いてますわ」

 煙の出始めた頭を抱え、うんうんと脂汗を流して唸る少年に向かって、ニコルはにっこりと天真爛漫な微笑みを手向けて見せた。

「そんなに焦らなくても何とかなりますわ。たぶん、しばらくすれば、きっと元に戻るんじゃないかしら」

 手を口許に当て、たんこぶ頭のまま、ころころと能天気にささめき笑う。

 少年は頭を抱え、うあああああ! と悶絶した。


「き、君、そ、そ、その口振り!」

「はい?」

「は、は、はいじゃなくてさ!」


 少年の頬が、みるみる赤く熱く上気した。驚愕にうるむ眼でニコルを見上げる。

 だがすぐに少年は緊張して気後れした眼をそらしてしまった。おどおどと声まで小さくして言う。


「そ、そ、そういうのは、あんまりい、言わないほうが」

「どうして?」

 ニコルはきょとんとする。少年は煉瓦のごとくさらに顔を紅潮させた。額の汗がだらだらとすごいことになっている。


「だってほら、ほ、ホーラダイン中将とか、さり、サリスヴァール准将とか、ぼ、ぼ、僕はその、君との付き合いも長いし……って違う違うそういう意味じゃないけど!」

「?」

「あああ全然分かってないし! ま、ま、まあいいや、だからね、あの、あのひとたちは、その、知らないし、それに何て言うか、て、手が早いっていうか物凄いっていうか、その、つまり」

「はい? 何が物凄いですって?」


(ふうん、なるほどね)


 なぜか上から声が聞こえた。

 いつの間にか、さっきまで頭にくっついていたぬいぐるみが、小さな黒い羽を生やし、尻尾を細く長く尖らせて、いかにも悪魔でございと言わんばかりの気取った仕草でぱたぱたと頭上を飛び回っている。


 ニコルは眼をぱちくりとさせた。

 ぬいぐるみの腹に宿った、不思議なかたちの紋様が放つ青黒い揺らめきを無邪気に指さし、問いかける。


「あのう、うさぎさんが宙を飛んでますけど……これはいいの?」

「ぜんぜん良くないって」

 少年は泣きべそに近い声をあげた。失意のあまりばったりとテーブルに突っ伏す。

「ああもう、ど、どうしたらいいのか分からないよ」

「あらまあ、どうしましょ」

「ううう!」


(やれやれだね)

 ぬいぐるみは舌なめずりせんばかりの声音で口を差し挟んだ。

(つまり、要するに、守護騎士どのは、ご自身の記憶を無くしてしまわれたというわけだ)

 くくく、と含み笑う。

(……こいつはちょいとばかり、面白いことになりそうだぜ?)


 黒ガラスの眼がすうっと細められて、陰湿に光った。


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