心から――そう願うよ

「神の御名においてこの一撃を無力化せよ、ですよ。ホントに覚えてなかったんですか、んん?」


 わざとこまっしゃくれた顔をして肩をそびやかせ、得意げに下唇を突き出す。

「以前、ダンジョンに僕そっくりの魔物が出たことがあったでしょう。あのとき、ザフエルさんに借りたのせいで、あんなひどい目に遭ったのに全然対処してないだなんてまったく職務怠慢にもほどがある。後で始末書書いてもらいますからね。ということで、ぶん殴るとぶった切る以外に能のないチェシーさんがピコピコハンマーをいくら振り回したところで、こっちは痛くもかゆくもないんですよ。分かりましたか、ばーかばーか!」


「黙れ」

 チェシーは歯ぎしりした。たゆたい出る霊気に障ったか、冷や汗が絶え間なくつたい落ちている。青ざめてゆがむ顔は常のチェシーの印象とかけ離れすぎていて、もはや似ても似つかない。

 ニコルは唇を引き結んだ。


 チェシー自身による攻撃は、完全に聖呪によって封じられている。

 だが相手は老獪、狡猾な悪魔。気づかないわけがない。そこに抜け穴があることを。

 今まではいうなれば言葉遊び。児戯のようなものだ。ここからが本番だ。

 腹をくくり、おそらく最も突かれたくない一言を口にする。


「そして、最後の致命的弱点。君が僕の魂を奪えない真の理由は」

「つけあがるな、小僧!」

 チェシーは凶悪な悪魔の本性を剥き出しにしてごうごうと吼え猛った。

 見えない闇の翼が空を切る刃となって巻き立ち、チェシー自身へ狂ったように襲いかかる。

「……っ!」

 石畳が砕け、土が弾け飛んだ。悪魔の咆吼が轟き渡る。チェシーが撒きつけていた包帯がびりびりに破け散り、黒ずんだ血しぶきとなって渦を巻く。


 ザフエルは氷の表情を保ったまま、すうと眼をかみそりのようにほそくした。

 物理攻撃無効化の影響が乱されている。

 聖呪のカードを持つ手がわずかに震え、小さく痙攣している。ともすればあおられ、引きちぎられそうになるのを抑えているかのようにも見えた。


 正直、予想外だった。まさか聖呪の拘束さえ破りかねない力を持っているとは。

 思いも寄らなかった。

 とはいえザフエルの無表情を見るに、少なくともあと数分の猶予はある。ニコルはゆっくりと息をついた。

 肝を据え、一歩前へと進み出る。

 足下の石が、乾いた音を立てて転がった。

 息を吸い止める。

 本当は、言ってしまうことが怖かった。もし、それが逆に絆を断ち切るようなことになってしまったら。そう思うと足が竦みそうになる。

 一瞬、目を閉じる。あれはいつのことだったか。暮れなずむイル・ハイラームの赤い夕暮れ。抜きつ抜かれつ、その背中に追いついては遠ざかっていった笑い声。


(いつか君の信頼に応えられる日がくるといいな。心から――そう願うよ)


 誰にもいえない真実を秘め隠し、嘘と友情で塗り固めた笑顔で応えてきた日々。その返答を、今、チェシーに。

 ニコルは最後のためらいを振り払った。

 断ち切るように言い放つ。


「答えは、だ。僕は自分の本当の名を知らない。僕が本当は何者なのか、自分ですら分からないんだ。与えられた偽りの名で、与えられた偽りの役割を演じているだけ、偽りの自分として仮初の今を生きているから、だから、逆に、真実の魂を奪えなかったんだ。そして、たぶん、同じようにチェシーさんもまた、君にを明かしていない。チェシー・エルドレイ・サリスヴァールというで生きてきたチェシーさんの、本当の正体をね」


「黙れ!」

 チェシーが怒鳴ったとたん、ザフエルの掌中に合ったカードが、ぐにゃり、と折れ曲がった。瞬時に細かい光の微粒子と化して砕け、風に乗って、刹那に高く舞い上げられて小さくなっていく。

「黙れと言っている!」


 チェシーは野獣めいた怒号を上げた。その場に立ち尽くし、両手を大きく広げる。

 紋章から噴出する瘴気がどす黒く両腕を染めていった。黒ずんだ指の先から、だらだらと汚物が滴り、泡立ち、無秩序に膨張して、腐敗の悪臭を放ちながら変形してゆく。

 かろうじて人間の形をとどめていた腕は、いまや似ても似つかぬ悪魔そのものの姿へと変わり果てようとしていた。


 漆黒の風が無数の尖片となって舞い立つ。


 頬を、目元を、首筋を、鉄片がかすめ飛んだ。軍衣が音を立てて裂ける。

 ニコルは魔性の陣風を避けもせず、その場に踏みとどまった。

 飛来した鉄の欠片のひとつがメガネに突き刺さった。一瞬でガラスに白いひび割れが走る。

 ニコルは大きく息を吸い込んだ。真っ向からチェシーをにらみつける。


 チェシーの身体が宙へと引きずり上げられる。悪意に満ちた翼が一気に闇をはらんで形を変えた。稲妻のかたちに似せて幾重にも枝分かれし、空を切り裂いて広がる。

 青光る雷電の火花が先端から走りつき、ばちりと弾けて、爛然と妖しく光り輝くのが見えた。


「閣下、危険です。攻撃の許可を」

 緊迫したザフエルの声が響き渡る。

「大丈夫です」

 ニコルは視線をチェシーからはずそうともせずに答えた。駆け寄ってこようとするザフエルに対し、手を制止の形に持ち上げて押しとどめる。

「大丈夫」

「ならばせめて防御結界の許可を、閣下!」

 喉奥から搾り出すような声に潜む動転の気配に、ニコルはふと張り詰めていた緊張がほぐれるのを感じた。本当ならそんなおこがましい感情など抱いてはならぬ状況だというのに。

 右手の甲にはめた先制のエフワズはもはや、直視できぬほど鮮烈な真紅の明滅を放っている。


 アーテュラスの家に伝わる至宝、先制のエフワズ。魔女マイヤが遺した真実の光、封殺のナウシズ。ルーンの奇跡とは子を愛し、家族を愛する母の愛そのものだ。その慈愛に護られていながら闇に膝を屈することなどあろうはずがない。


 ザフエルを振り返り、指先でかるく封殺のナウシズに触れてみせながら、肩をすくめて笑う。


「この間、チェシーさんが、もうひとりじゃないって言ってくれたとき、僕、ホントに嬉しかったんだ。何でもかんでも一人で抱え込もうとしないで、僕みたいな頼りないやつでも一応は頼ってくれる気になったんだなあ、って。チェシーさんが僕のことを信じてくれてるって思えて、本当に……心から、嬉しかったんだ」

「閣下!」

 轟音がザフエルの声をかき消す。


 吹き付ける突風に逆らってニコルは腕をかざした。髪が逆巻く。闇の翼がさらなる大音響を放って無数に分裂した。大地が揺れ動く。チェシーに声が届いている様子はない。


「だからね、チェシーさん。僕も、貴方を」


 闇の翼が、空一面を埋め尽くす死の槍と化した。何もない空間から、漆黒にぎらつく穂先が薄膜を破るようにしてせり上がり、邪悪を撒き散らし、空間をゆらめかせる。

「……信じてます」

 次の瞬間。

 天をも揺るがす絶叫が形のある憎悪となって降り注ぎ、ニコルを、ニコルのいる空間すべてを、瀑流のごとく貫いた。

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