美女にハーレムにくんずほぐれつの酒池肉林
冷気の煙と巻き立てられた砂塵、薄暗い暗黒の風が入り交じって周囲を覆い隠す。
風が息を呑むかのように凪ぎ、止んで。
ふいに強く吹き付けた。
煙が吹き払われてゆく。
染みひとつなかった純白の軍衣の袖から、ぽたり、また、ぽたりと。
赤いしずくが滴り落ちる。
己の左腕に黒く、深々と食い込む狂気の槍を目の当たりにしながらも、ザフエルは表情ひとつ、呼吸ひとつ乱すことなく静かに立ち尽くしていた。手に握られたまま抜刀されることもなかった金瑠璃の太刀を彩る金具や鎖輪が、虚しくもあざやかに揺れて、光を弾いている。
その鞘にも、針鼠に殴られた痕のように黒い槍の穂先が突き刺さっていた。
チェシーもまた、動かない。
周囲に浮いていた黒曜の死の槍が、ふいにがらりと音を立てて地に落ちた。まっぷたつに折れ砕け、黒い煙に変わって消え失せる。
がらり、がらり、がらり――
空虚な音は雪崩れを打つように数を増し、地面についた片端から潰えてゆく。
チェシーは険しい面持ちで目をすがめ、口元をゆがめて首を振り、数回、目を瞬かせた。身に着けていた服の大半が破れ、びりびりに裂けて、修験者の荒衣のように風にたなびいている。
「どういう風の吹き回しだ」
「どういう、とは」
ザフエルが冷たく目を上げて答える。チェシーは鞘走らされることもなかった己の剣を見て、かすれた声をあげ、笑った。
「あんたなら絶対、この機に乗じて私を斬ると思ったんだがな」
ザフエルは答えず、ふいと目を背けた。ニコルへと歩み寄る。
「どうやらご無事のようですな。無茶をなさる」
「ザフエルさん」
ニコルは、はっと我に返った。裏返った声をあげてザフエルにすがりつく。
「怪我してるじゃないですか! 何でちゃんとルーンで防御しなかったんです!」
「かすり傷にすぎません」
ザフエルは自身の軍衣を赤く染める血を、まるで悪露かなにかのような目で見下ろしてから、冷ややかに遮った。
「ああああでも血が、血が、どうしよう」
ニコルは顔をくしゃくしゃにし、手で口を覆った。息を呑み、みるみるまぶたを赤く腫らしてうめく。
「僕が意地を張って避けなかったからですよね。ごめんなさい、ザフエルさんまで巻き込むつもりはなかったんです。もっと下がっていてもらえばよかっ……」
「閣下さえご無事ならそれでかまいません」
「どうしよう、ごめんなさい。ホントにどうしよう。誰か薬、いや、その前に止血しなきゃ、あの、ええと、ぼ、僕、本当にごめんなさい……!」
「目から鼻水を垂らすのはおやめください。公国元帥ともあろう方がお見苦しい」
「でも、ザフエルさん、怪我を……!」
「痴態を晒すのは後にしていただきたい」
ザフエルは完全に混乱状態へ陥ったニコルの肩を素っ気なく押しやった。
手に持ったぬいぐるみをしゃくって、チェシーを指し示す。
「あの状態が長く持つとも限りませんぞ」
「え?」
ニコルはきょとんとしてチェシーを振り返った。
「あの状態って」
悪戯な風が髪をくしゃくしゃと逆になびかせ、かきまぜ、すり抜けてゆく。
奇妙な静けさがその場を支配していた。ざわざわと揺れるようでもあり、誰もが息を呑んでいるようでもあった。
「この状態だ」
チェシーは一瞬遠い目をすると、自分のこめかみを指先で押さえ、力なく微笑した。
「ありがとう。君の声、ずっと聞こえていたよ」
ニコルは少しぽかんとして、チェシーの穏やかな声を聞いていた。
あっけないほど意外で、懐かしくて。でもやっぱりどこか完全には拭いきれない不安がじわりとのしかかってくるようなそんな気がして、たまらず胸元の手をぎゅっと握りしめ、おずおずと所在なくザフエルを振り返るもののこれまたやたら素っ気なくフンと鼻先であしらわれ、結局すごすごとチェシーの足下へ眼を戻し――
そこで、はっとして顔を上げる。
今、何て言った……?
眼をこの上もなくぱちくりとまんまるに見開いて、まじまじとチェシーを見上げる。
チェシーは名状しがたい懊悩を宿した眼で腕を彩る闇の紋章に見入っていた。黒い微光の照り返しが、暗くよどんだ表情になおいっそう深々と険しい陰影を刻みつけている。
視線に気付いたのかチェシーはふっと隠すように表情を和らげた。ひらひらと手を泳がせる。
「少し待っててくれ。すぐ終わらせる」
「チェシーさん、あの」
ニコルはぎごちなく口ごもった。
「ええと、そ、その」
胸がひどく高鳴る。
「つつつつまり要するにあの」
「何ごちゃごちゃ言ってる。後だ、後」
チェシーはニコルの狼狽になどまるで気づきもせずいらだたしげに遮った。
「また乗っ取られたらどうする気だ」
しょんぼりする間もなくぎょっとしてニコルは声を呑み込む。
「またって、もしかして、まだ」
「ご明察。君にしてはなかなか鋭いな」
信じられない返答に、ニコルは頭のてっぺんにがぁんと特大の金だらいが降ってきたかのような衝撃を受けてよろよろ後ずさった。
「いいいいやいやいやちょっと待ってくださいよ何でそうなるんです? 僕の崇高にして感動的な一世一代の名演説を聴いて、そのおかげでチェシーさんは改心して、取り憑いていたル・フェは今度こそ完全に封殺されてメデタシメデタシのはずじゃなかったんですか!?」
「おとぎ話じゃあるまいし。君がいったいいつどこで誰を封殺したというんだ」
チェシーは長々と嘆息した。
「友人のよしみで言っておくが、客観的に見ても、君は今回に限らずいつものごとく何もしていないからな? 何やらぶつぶつと勝手に一人ででたらめな推測をしゃべくって一人で感動して納得して盛り上がって、結果、ボケーっと無防備に突っ立ってただけだぞ。幸いホーラダインのおかげで無傷だったようだが……」
(ふっ、そいつはどうかな)
せせら笑う声が中空から響き渡った。小悪魔めいた形を取った黒い陽炎が、紋章から立ちのぼって激しく揺らめく。
(封殺さえされてなければこっちのものだ。誰が貴様ごときの命令に従うと言……ほげえ!?)
チェシーは影をむんずと引っ掴むや、思い切り前後左右にぐにゅううう、と引っ張った。
ふん掴まれた影は、きいきい声を張り上げてむせび泣いた。
(痛い痛い痛いははは放せよ痛いよ何するんだよこんちきしょうアイタタ!)
「……
チェシーは、口の端を邪な笑みに染め、ささやいた。
手の中の影をぐしゃり、と握りつぶす。
(ぷぎゃあああああ……)
絞り上げられたぞうきんみたいな悲鳴が上がる。ニコルは絶句した。
「な、何それ。ちっさ」
(小さいって言うなあ! これでも僕は最凶最悪の悪魔ルぐへええええ!)
再び影をつねりあげる。
チェシーは陰険に笑ってニコルを見返し、それからザフエルを振り返った。
「所詮、悪魔なんて実体のない観念の投影だからな。根拠のない自信をなくせばこんなものだ。で、こいつをどう始末するかだが」
言いながらザフエルの手元にちらりと視線を落とす。
(ま、まさか)
悪魔の影はチェシーの視線の先にあるものに気付いて跳ね起きた。気のせいか声までが真っ青になっている。
(ふ、ふざけるな。考え直せ。そうだ、国だ。国、国、代わりに国をやる。ゾディアックの皇帝にしてやろう)
「必要ない」
チェシーはけんもほろろに斬り捨てる。悪魔は慌て、声を裏返らせて言いつのった。
(そんなこと言うなよ。考えてもみろ。楽しいぜえ? 想像してみろよ、国王ともなれば贅沢三昧よりどりみどり、美女にハーレムにくんずほぐれつの酒池肉林……)
「ハーレムだと」
チェシーはたちまち表情を険しくした。小悪魔をぎろりと睨み据える。
「そっそうだよ何がハーレムだ」
ニコルはひどく顔を赤らめながら迎合し手を振り払った。
「そんなくだらないものに誰が騙され」
「そいつは捨てがたいな」
――は?
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