貴女を、闇から、護る――

「何、何って」

 さすがのシャーリアもようやく我に返ったようだった。こわばった息を吸い込んで口ごもる。

「何よ、ほ、本当のことじゃ」

 いきなり、押さえ込まれていた悪魔がほとばしる叫びをあげた。身をひねるなりすさまじい突風を巻き起こし、翼でチェシーを打ち叩く。

 同時に上空の悪魔の群れが咆吼した。

 空気が鳴動する。

 どこか遠くの櫓で叩きつけるような決死の半鐘が打ち鳴らされ始めた。

 帯電した甲高い悲鳴がひびきわたる。研ぎ澄ました鉄の翼をきらめかせ、悪魔は一斉に空を切って急降下し始めた。ほとんど激突に近い怖ろしい勢いで突っ込んでくる。


「ちっ」

 チェシーは手の中で暴れる悪魔を突き放すや、一刀のもとにずばりと切り下ろした。瞬時に鉄色の煙と化して霧散するのを返す刀でまっぷたつに振り払い、怒鳴る。

「来るぞ、防御体勢を取……」

 ふいにその青い瞳が見開かれた。

「ニコル!」


 目の前の地面が砕け散った。

 灼熱の銀が炸裂する。散乱する悪魔の羽根が立ちつくすニコルの頬先をかすめた。髪がちぎれ、ざあっと爆風に吹きあおられる。

「何をぼうっとして」


 続けざまの誘爆に翻弄され、ニコルはよろめいた。近いはずのチェシーの怒号さえ遠くにしか聞こえない。


 それでも、動けなかった。


 あのときも――


 無数の祈りが響き渡っていた。

 鐘が、鳴っていた。

 炎が、燃えていた。


 あしざまに罵る人々の声が波のようにのしかかって心を打ちのめした。削り取った。粉々に砕いて運び去ろうとした。


 

 

 を、――



 あれは何歳のときだっただろう。優しかったマイヤが本当のかあさまのことを話してくれたのは。

 真実の闇を知らなければならない、と言った。偽りの光を忘れてはならない、と言った。

 マイヤが教える呪いの言葉の意味は何一つ分からなかったけど、ただ、ただ、おそろしくて、こわくて。

 なのに、優しかった。


 聖騎士が小屋を取り囲んだときも。マイヤが自ら捕らわれるために歩み出てゆく後姿を見たときも。流れ続ける聖歌と、マイヤの歌う呪いの歌が不協和音を奏でて耳を打ったときも。たったひとり、鎖でつながれたまま小屋に取り残されたときも。マイヤが死を選んだそのときも。


 ただ、茫然と見ていた。あまりにも幼すぎて、なにもわからなかった。

 覚えているのは、マイヤの身体を飲み込む煮えたぎった炎が、残酷に咲き誇る薔薇のように見えたことだけだ。でも、かたく抱きしめられていた。抱きしめてくれたその人も泣いていた。


 泣かなくていいのよ。

 何も知らなくていいの。

 死を呪ってはだめ。

 悲しみを憎んではだめ。

 もうあなたは。

 虚無の魔女、”ニコラ”ではないのだから。


 そう言いながら、レディ・アーテュラスは――見知らぬそのひとは、泣いていた。大丈夫。これからは、わたくしが貴女を守る。忘れないで。これが、マイヤ姉さまの望み。貴女の本当のお母さま、ウィルドの聖女レイリカさまの願いを叶え――


 ハガラズ


 それだけが、ナウシズの聖女だったマイヤねえさまに残された、たったひとつにして最後の、


 希望――




 続いて直撃を受けたすぐ近くの建物が一瞬、大音響を放って粉塵を吹き上げたかと思うと壁ごと突き破られ、吹っ飛んだ。石つぶてと煉瓦とガラスの混じった瓦礫が青黒く燃えながら雨あられと降り注いでくる。

 チェシーが駆け寄ってきた。

「しっかりしろ。どうしたんだ」

 腕を引っ掴まれ、ぐいと前に向けさせられる。ニコルは恐怖の色を涙に浮かべ、チェシーからにじり逃れようと息をすくませた。

「な、何でもな……」

「それが何でもないって顔か」

 チェシーは吐き捨てるなりニコルの胸ぐらを掴んでひどく揺さぶった。爪先が地に着かないほど乱暴に引きずり寄せられる。烈火の眼だった。

「痛っ……」

 ニコルは声をあえがせた。チェシーを直視することもできない。メガネが鼻先からずりおちてどこかへ飛んでいった。

「は、放して」

 チェシーはふいに顔をけわしくゆがめ、後ろへなげうつようにしてニコルを振りほどいた。襲いかかってくる悪魔を一刀両断、ざんばらにぶった切る。

 煙が噴き上がった。


「殿下、早く。ここは危険です」

 足を引きずるフランゼスを抱きかかえ、ヴァンスリヒト大尉が馬車から飛び降りた。

 フランゼスは子どもじみた抗議の声をあげて抗った。

 手を伸ばす。

「だめだよ、本、僕の本、ああ……」

 フランゼスのさけびが途切れたその直後、馬車の屋根に悪魔がむしゃぶりついた。


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