聖なる薔薇の色

「な、な、何!」

「じゃなかった、あっちだ」

 チェシーは傍らに落ちていた剣を拾った。おもむろに膝をついて起きあがり、柄首の先で前方を指し示す。

「見ろ」

「え……」

 くずれかけた建物の向かって左正面に高く掲げられた聖ティセニアの国旗が見えた。恐怖に黒ずんだ兵士の顔が窓に打ち付けられた板の奥からのぞいている。

「あ、あれは」


 ニコルは顔を輝かせてチェシーを見上げた。悪魔の猛攻にも関わらず耐えて立てこもっている兵士がいる。

 その事実に、チェシーもまた不敵な面構えでにやりと笑った。

 この絶望的な状況下にあってなお誇り高くティセニアの旗を掲揚し続ける友軍に向かい、高々と太刀を突き上げて合図を送ってみせる。

 派手な拵えがまぶしいほどの陽光に照り映えて、絢爛とかがやいた。

 兵士の顔色が、たちどころに明るく変わった。

 わき起こるどよめきまでが伝わってきそうだった。窓からローゼンクロイツの軍旗が強く振り返される。

「よし」

 チェシーは力強くうなずく。

「奴らを全部片付けてから連中の解放に向かう。君は公女とフランゼスを護れ」

 振り返った青い瞳があでやかにきらめいた。


「と言いたいが、一人で大丈夫か」

 装備した先制のエフワズがびりっと反応した。寒気にも似た痺れる感覚が足先からつたい登ってくる。

 武者ぶるいだと思いたかった。強がった微笑を投げ返す。

「心配して下さるのは有り難いですけど。でもそれより先にまずご自分の無鉄砲を省みるべきだと思います」

「誰が無鉄砲だ」

 早くもルーンを帯びた魔剣に辺りを払う冷厳な雰囲気をまとわせ始めながら、チェシーはふっとその相好を崩した。

「良識と分別の化現も同然の好青年に対して、それは少々失敬すぎやしないか」

「相変わらずしらじらしい」

 だがその軽口がいかにもチェシーらしかった。くすっと笑って付け加える。

「悪魔のお尻撫でるような人の良識なんて推して知るべしでしょ」


「な、なに」

 チェシーは珍しく浮き足立った口調で口ごもった。

「い、いや、ちょっと待て、あれはだな」

 なぜかあたふたと言い訳を始めている。

「要するにその、つまり、なんというかつい出来心で」

「出来心で悪魔のおしりを撫でる人なんて今までチェシーさん以外に見たことありませんよ」

 ジト目で見やる。


「ちっ、違う、誤解……ではない。何を言わせる気だ」

 チェシーに喉をわしづかみにされたまま、すっかり存在を忘れ去られていた悪魔は、ようやくわずかな自由を得て鉄の翼を打ち振るった。牙が金属質の音を立て、火花を散らすほどに噛みあわされる。

「なぜこの私が君なんかの追求に泡を食った言い訳を並べ立てなければならないんだ……まったくまぎらわしい」

 チェシーはいらいらと文句を言いながら八つ当たり気味にぐいと悪魔の喉を掴みつぶし、揺すぶった。銀の巨体がのけぞる。


 ニコルはきょとんとして聞き返した。

「何が」

「やかましい!」

「ええっ!?」

 理不尽になじられ、びっくりしてうひゃあと首をちぢめる。


 そのときふいにフランゼスが馬車の窓から身を乗り出した。天を指し示して声を裏返らせる。

「あ……悪魔……」

「な、何よあれ!」

 馬車の中から何か倒れる音がした。悲鳴が崩れ落ちる。誰かが足を滑らせたのかもしれなかった。

「アーテュラス、あれは何。どういうこと。どうして黙ってたの」

 錯乱した悲鳴とともにシャーリアが馬車から転げ落ちる。ニコルはぎょっとして振り返った。

「殿下」

「だから逃げようっていったじゃない。あんなの無理よ。絶対にかなうはずない。殺されるだけだわ」

「姉上、隠れて!」

 フランゼスが馬車の戸にしがみついたまま悲鳴を上げた。空に視線を走らせ、いつもは柔和な細い眼を一瞬禿鷲のように見開いてから悲痛な声を絞り出す。


 封殺のナウシズが青白く光った。


 悪魔がざわめく。呼応する羽ばたきが痙攣のように伝わった。

「ナウシズが反応している……?」

 シャーリアは息をすすり込んだ。食い入るようにニコルの手元を見つめ、顔を引きつらせる。

「魔物を封じるルーンが……分かったわ。さてはサリスヴァール、全部お前の仕業ね」

 恐怖にゆがんだ眼が跳ね返ってチェシーを睨みつけた。


「お前がアーテュラスをそそのかしたのね。悪魔を使ってフランゼスに怪我を負わせて、それを囮にわたくしたちをおびき出して殺そうと謀ったのよ。そうだわ、お前ならそれぐらいやりかねない」

「違います」

「触らないで」

 近づこうとしたニコルはシャーリアのするどい平手に拒絶され、あっけなくはねのけられた。

「殿下……!」


「最初からあってはならない組み合わせだと思ってたのよ」

 じりじり後ずさってゆきながら吐き捨てる。

「よりによってノーラスに駆け込むだなんて。どうせ知っていたのでしょ、アーテュラスのこと」

 一瞬、何を言われているのか分からなかった。

 呆然とシャーリアを見つめる。

 シャーリアはまるで気付いていなかった。

「そうだわ。そうとしか思えない。誰もが言ってるわ。アーテュラスが手引きしたに違いないって。隠しても無駄よ」

 自失して口走る。

「いくらルーンの加護を得られようとも”魔女の血”が神殿に認められようはずがない。そうよ、おまえの眼は聖なる薔薇の色じゃない。偽りの色、虚飾の色、欺きの色――”異端”の色そのものだわ!」


 突然。

 チェシーは乱暴に剣の鞘を振り払った。


 押さえられることなくただ投げ捨てられた豪奢な鞘が、割れ砕けるような音をたてて地面に跳ね転がる。

 ぎらり、色を成して、妖気漂う刃が鞘走った。

「何を言ってるんだ、あんたは」

 低い声音だった。青い瞳が見る間につめたい闇の色を帯びてゆく。

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