なでなでなでなでなでなでなでなでなでなでなでなで。

「冗談じゃないわ。お前こそ少しは自分の頭を使いなさい」

 シャーリアは緊張の余り青ざめた表情で言いつのった。

「こんな単騎で何ができるというの。とにかく今は撤退する以外に道はないわ。いくらお前がティセニアきっての暗黒カード使いだとしても」

「か、カードの使い手は僕だけじゃ」

 ほっぺたをさんざんに引き伸ばされてニコルは半泣きでチェシーを振り返った。ふごふごと口ごもる。

「……って放ひてひててていいいい痛いですって!」

「うるさい。逃げる気か。黙って言うとおりにしろ」

 なおいっそうぐにょんと右斜めにつねり上げられる。ニコルは滂沱のごとき滝涙を噴出させながら断末魔の悲鳴を上げた。

「ふがぐぎごがああーー!」

「魔物はその男の専売特許よ。忘れたの」

 シャーリアは言葉の端々にぞわりと燃える憎悪を滲ませてささやいた。

「どうせ裏で糸を引いて――」

「違います。見れば分かります。これはチェシーさんの召喚じゃない」

 ニコルはふいに首をねじ曲げ、びろんと伸びたほっぺたのまままっすぐな視線をシャーリアへと向けた。

 その眼の奥に青くナウシズの輝きが映り込んでいる。ニコルは目指すべき道を見いだした口調で凛と言い放った。

「右です。右に進路を取ります」

「ふざけないで」

 シャーリアは馬車の側面を内側から平手で叩いた。甲高くさけぶ。

「自分が何をしにこのアルトゥシーへ来たのか分かってるの? わたくしやフランゼスを守りに来たのでしょ。ならば何よりもまずわたくしたちを脱出させることを第一に考えるべき――」

「部下を見捨てて自分だけ脱出か」

 チェシーはついに笑い出した。

「たかが一個中隊ひとつ撤退させることもできないで。何が軍団長だ」

「チェシーさん」

 ニコルはあわてて割って入った。

「そういうことを言ってるんじゃ……」

 そこで、絶句する。

「思い上がるな、公女」

 チェシーは冷ややかに見下ろして言った。

「このちびメガネがどれほどの覚悟で戻ってきたか、どんなにあんたを心配していたか、そんなことも分からないのか」

「ちぇ、チェシーさん」

 ニコルは息を呑んだ。頭上に差しかかる影の巨大さにみるみる顔色を失ってゆく。

「い、今は、そ、そ、そのっ」

「――あんたは本当に自分の隷下にある兵隊を心から信頼したことがあるのか。陣地死守を命じられる兵がどんな思いで司令官を見送るか考えてみたことがあるのか」

「い、いや、あの!」

 ニコルは顔全体から冷や汗をだらだら流しながらうめいた。緊迫のあまり声も出ず、手にした鞭をぽとりと足元に落とす。

「やれやれ」

 チェシーは見るからに興ざめした様子で唸った。

「ひとがせっかく大見得切っているというのに何だ君のその引きつった面は。無粋な奴だな。徹夜で考えた決め台詞が台無しだ」

「そ、そうじゃなくて」

 ぶるぶる震える指先で、チェシーの背後を指さす。

「う、後ろ……っ」

「なに?」


 次の瞬間、すさまじいおたけびをあげる銀色の悪魔が弾丸のように突っ込んできた。巨大な翼が狂ったようにチェシーごと馬車の屋根を打ち叩く。

 逃れる間もなくチェシーの姿は銀の翼に埋め尽くされた。勢いあまって悪魔と一緒に走る馬車の屋根から転がり落ちる。絡みつかれたまま地面に叩きつけられ、もんどりうつ姿が目に飛び込んだ。

 削り取られてゆくかのような甲高い鳴き声が響き渡る。

「チェシーさん……!」

 ニコルはなかば立ち上がってさけんだ。真っ青になって手綱を引き絞る。馬車が跳ね上がった。ばらばらに分解してしまいそうな勢いで客車が激しく揺れる。

「チェシーさんっ!」

 砕けそうな軋みを上げて馬車が止まる。ニコルはまた悲鳴を上げた。のたうつ銀の翼の下から、チェシーの腕だけが無惨にだらりとはみ出している。

「やだ、そんな、嘘……」

 涙混じりに歯を食いしばり、馬車から飛び降りようとした、そのとき。


 チェシーの腕が、ぎごちなく動いた。

 まさぐるような仕草で、悪魔の背後へ手を回し……たかと思いきや。


 つるん、と尻を撫でる。


 ――はあっ!?


 ニコルは両の手を万歳三唱びっくり仰天の状態で振り上げたまま片足立ちで石化硬直した。

 呆然とメガネを取り、目をこすって。

 再度、まじまじと見直す。

 いくらなんでも絶対にあり得ない。見まちがいに決まっている。この鬼気迫る状況でそんなこと――お、おそらくチェシーの手だと思ったのは明らかに見間違いであって考えるだに怖ろしいことではあるが別のたぶんもう一匹現れた悪魔が横から食らいついているのだろうと――


 だが。

 姿も見えないぐらい組み敷かれ踏みにじられ翼で打ち叩かれているというのに、なぜか腕だけが元気にぱきんと指など鳴らし。

 なかなかどうして結構触り心地が良かったらしい。事も有ろうに、ニコルの目の前で、チェシーの手は本格的に悪魔のおしりを――


 なでなで。

 なでなでなでなで。

 なでなでなでなでなでなでなでなでなでなでなでなで。


 ――って、撫でるにも程がある!


 というわけでニコルは今にも破裂せんばかりの真っ赤な顔で息を吸い込むなり、もの凄い大声で怒鳴りつけた。

「な、な、ななななな何やってるんですかぁぁぁーーっっっっ!!」


 手がぴたりと止まった。


「……」

 チェシーは悪魔とくっついたまま、むく、と起きあがった。

 つい先ほどまで悪魔のお尻をなでなでしていた自分の手をしばし見下ろし、握っては開く仕草を何度かしてみせてから、やや気まずそうにニコルへと目を走らせる。


「見たな」

「見ました」


 チェシーは額に手を当てた。しかめっつらでむむむ、と考え込む。

「どうやら恐怖のあまり我を忘れていたらし」

「どこがですかぁっ!!」

 ニコルはその場で地団駄を踏み荒らしながら頭をぐしゃぐしゃにかき回しうがああ! と噛みついた。

「思いきりナデナデしまくってたじゃないですか何ですかその手はホントにもういい加減にして下さいよいったい何考えてるんですひとには鼻の下伸ばすなだの何だのかんだの言っておいて事も有ろうに当の自分が率先してそのざまとはいったいぜんたいどういう了見なんですかそれで麾下に示しが付くとでも思ってるんですかどうなんですかあっ!!」

「鼻息荒すぎだ」

 チェシーはぐったりとため息をついた。

「君は私の部下じゃないだろ」

「よよよよりによってこの状況でそこに突っ込みますかごまかそうったってそうはいきませんよええ誰がごまかされ」

「君こそこの状況でよくもまあそう続けざまにぎゃあぎゃあ喚き散らす気になれるな」

 チェシーは嘆かわしげにつぶやくと、ああ、と片手でこめかみを押さえた。

「少しはいたわったらどうだ。これでも私は私なりに途方もない衝撃を受けているんだぞ。まさかまた悪魔に乗り移られ操られてしまうだなんて」

「何がまたですか勝手に悪魔のせいにしないでくださいどこの世界にお尻撫でる悪魔がいるっていうんですかチェシーさん以外にそんなふしだらな悪魔いるわけな」

「やれやれ。下手な冗談を言ってると本気で異端狩りに遇うな、これは……まあそれは置いておくとして」

 チェシーはじろりとニコルを睨んだ。わざとらしく舌打ちする。

「君があんまりわめくから、見ろ」

 誘うように視線を上へと振り向け、片手で悪魔を押さえ込んだまま剣を上げてしれっと示す。

「大発生だ」

「え」

 ニコルはぎごちなく上を見た。


 空という空を、みっしりとおそろしいほどの数の羽ばたきが埋め尽くし――


「ななな何だありゃあいいいつの間にあんなにふえ増えふええ!」

「酒池肉林だな」

 吃驚仰天周章狼狽、腰を抜かしてぶくぶく泡を吹きそうになったニコルに好色な流し目をくれて、チェシーはうすく笑った。

 わずかに口の端をつり上げる。

「これぞまさしく男の浪漫」

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