「だから、さっさといつもの君に戻れ」

 狂える啼き声がほとばしる。凶暴な羽根を飛び散らせ、屋根をめちゃくちゃに引きはがす。

「殿下!」

 ヴァンスリヒト大尉とともに、シャーリア公女は攻撃目標になった馬車から逃れてゆく。


 悪魔はのどをふるわせて吼えた。そこへ灼熱の塊と化した別の悪魔が衝突する。

 どろどろの銀が飛び散った。

 なまぐさい煙が立ち込めてゆく。

 興奮した馬が暴れ、いななき、棹立ってのけぞり、どうっと地面に倒れ込んだ。折れた長柄に後脚を傷付けられ、悲痛に空を掻く。

 血が流れ、煙が立ち、悲鳴が交錯した。人々の泣き声すら轟音に埋めつくされてゆく。


「僕が――――だから」

 ニコルはかすれる声をわななかせ、あとずさった。

「こんなことに……なるの……? チェシーさんが疑われるのも……悪魔が……襲ってくるのも……?」

「あぁ?」

 チェシーは飛びついてきた悪魔を振り向きざまにずぶりとつらぬいた。疵痕から破裂したかのような煙が吹き出す。

 金髪があおられ、激しくかきみだされた。

「だからどうした」


 ニコルは呆然と振り返った。


「だからそれがどうかしたのかと聞いている」

 チェシーは苛立たしげに悪魔を蹴倒した。鉄の羽根がばらばらとむしられて飛び散る。

「歩きながら寝ぼけるな。この忙しいときに、いきなり何を言い出すんだこの馬鹿ば」

 憤激の青い眼にじろりと睨みつけられる。

 険しい語調に気を呑まれ、ニコルは口ごもった。

「あ、あの、だ、だから」

 チェシーはぐいと剣柄を握り直した。

「いざ戦闘が始まったってときに、司令官の君がいちいち是非を考えるな」

 敢えて強気の余裕をよそおいながら、チェシーは苦々しく吐き捨てた。それでもさすがに冷や汗がにじんでいる。

「何にびくついてるのか知らんが、この現状に陥ってるのは君のせいじゃない。もちろん私のせいでもない。だが、この先、我が軍が敗北することがあれば、それこそ君の怠慢が原因だ。要らんことを考える暇があったら頭を使え。情報を収集しろ。今、君がなすべきことは、司令官として、一兵卒たる私に、戦えと命令することだけだ」

 ニコルは、ぎくりとしてチェシーを見やった。

「だから、さっさといつもの君に戻れ」


 チェシーは粗野に笑った。

 そのまま身をひるがえし、逃げまどう人々めがけて急降下爆撃してくる悪魔の軍勢を返り討ちにすべく命知らずにも突っ込んでゆく。


 ニコルはくずおれるように膝をついて、メガネを掴んだ。

 ふるえる手でしっかりとかけ直す。


 無差別に降りしきる銀の焼夷弾。

 炸裂する爆炎。立ちのぼる毒煙。

 倒壊した建物から飛び出し、逃げることも隠れることもできず頭を抱え泣き叫ぶアルトゥシーの人々の姿が目に入った。

 往来に仁王立ちしたチェシーが剣を振りかざし、怒鳴っている。血染めの軍衣が凄絶になびいていた。

「地下だ。全員、地下壕に退避しろ。年寄りと女子どもが優先。手の空いた者から火を消しに回れ。急げ」

 この敵味方入り乱れる混乱した状況の中ではもう技すら使えないのだろう。チェシーは満身創痍の有り様で血風吹きすさばせつつ、手当たり次第に悪魔の頸を刎ね、蹴散らし、切り結んでは伐ち払ってゆく。

 粉砕された悪魔が毒々しい煙となって吹き流れた。

 見通しの悪い煙幕の中、鬼神のごとく振るう剣戟のひびきばかりが迅雷をともないほとばしっている。


 そうだ。

 今は、立ちすくんでなどいる場合じゃない――!


 ニコルは強くかぶりを振った。ともすればずり落ちるメガネを鼻梁の上で押さえながら必死に頭を巡らせる。

 もっと、考えろ。

 いったい、なぜ、突然、こんなことになったのか。

 これほどの数の悪魔が現れた理由は、何だ?

 なぜ、アルトゥシーを襲った?

 この街に、何がある?

 なぜ、今、出現した?

 誰かを、狙っている?

 負傷したフランゼスを後送するために、動きが鈍ったのを感づかれたのか。それとも公女であるシャーリアの命を取ることが目的か。帝国を裏切ったチェシーに制裁をくわえるためか。それとも……


 悲鳴が聞こえた。

 逃げまどう人ごみをかき分け、シャーリアとフランゼスがもつれ合っている。ニコルは大声でさけんだ。弾かれたように通りへ飛び出す。

「放せ、本が要るんだ、僕の本が」

「だめよフランゼス。何考えてるの。せっかく」

 フランゼスはシャーリアを突き飛ばした。

「邪魔するな!」

 シャーリアは悲鳴を上げてよろめく。フランゼスは足を引き引き、浮き足だって走り出した。

 その背後にみるみる銀の闇がせめぎ寄る。


 悪魔に追われ、皆が蜘蛛の子を散らすように逃げ去るなか、ヴァンスリヒト大尉ただ一人が踏みとどまった。

 蒼白の面持ちで振り返る。

「悪魔どもめ」

 歯を食いしばるなり腰に吊った二丁の騎兵銃を抜きはなち、双手に構え、狙いを定めて。

「ゾディアックに帰れ!」

 殺到する悪魔の軍勢を引きつけるだけ引きつけておいてからヴァンスリヒト大尉は左右同時に引き金をひいた。

 跳ね上がった銃口が赤い火を噴く。

 煙が悪魔の肩を撃ち砕いた。二匹がのけぞる。だが、怒濤の突進はとどまることすらない。

 悪魔が翼を打ち振った。髪を振り乱して吼えたけり、頭からフランゼスに覆い被さる。

 振り返ったフランゼスの表情がみるみる影に覆いつくされてゆく。フランゼスは狂気めいた泣き笑いをうかべて凍りついた。

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