生かしておくだけの利用価値

 それにしても、胃腸が弱いだの世も末だのと、面と向かってさんざんな言われようである。ニコルはつい、いつもどおりに不満を顔に出して唇をとがらせた。

「不条理です」

「何が不条理よ、馬鹿」

 シャーリアの厳しい声がニコルを現実に引き戻す。

「わたくしは外征で忙しいの。お前みたいにノーラスにこもって毎日遊び暮らしてるわけではないのよ」

「別に遊んでいるわけではありませんが」

 あわてて表情を消し、直立不動の仏頂面をしてみせるニコルへ、シャーリアはため息をつき、まるで邪魔な羽虫を払いのけるかのような素振りをしてみせながら言った。

「皮肉も通じないの。まったくお前と話してるとこっちがいい面の皮だわ」


「あ、姉上、あの」

 ニコル形勢不利と見たか、フランゼスがおどおどと口を開く。

「こ、このたびは僕のせいで、ご、ご迷惑をおかけしてしまって、本、本当に」

「まったくだわ」

 途端、シャーリアは非難の矛先を気弱な弟へ向けた。きっとまなじりをつりあげ、腰に手を当てて振り返る。

「分かってるならこれを期につまらない遺跡巡りなど止めなさい。いいこと、分かったわねフランゼス」

 頭ごなしにぴしゃりと言いかぶせる。フランゼスは身をすくませてうつむいた。

「で、でも」

「返事は」

「……はい……」

 本を抱く手をかすかにふるわせながら、蚊の泣くような声でフランゼスはうなずいた。

 それを見てシャーリアはわざとらしく腕を組み、天井を仰いで嘆息した。

「まったくティセニアの公子ともあろう者が何かと言えばすぐにめそめそして。お前がしっかりしてくれないと直接の上官であるわたくしが恥をかくの。分かってるの」

「も、申し訳……」

「殿下」

 ニコルは思わずシャーリアの小言に口を差し挟んだ。

「フランゼス殿下が宗教美術史や古書の研究で素晴らしい業績を上げられているのはご存じでしょう。なかにはローゼンクランツ聖下の御奨誉を頂いてワルデ・カラアの書庫に収蔵された論文まであるというのに」

「それがどうしたというの」

 一瞬、シャーリアは秘めた嫉妬の眼差しでフランゼスを睨みつけた。

「そんな古くさい書物など戦場では何の足しにもならないわ」

 美しいくちびるをきっと引き結んで続ける。

「では聞くけれどアーテュラス、お前や神殿がその異教徒を許した理由は何なの。生かしておくだけの利用価値があったからでしょ」

 答える暇も与えないまま、シャーリアは矢継ぎ早に決めつけた。

「わたくしの第一師団は後方のノーラスに引きこもっているお前たちとは違う。弾丸とサーベルと砲撃の雨に身をさらして突撃しなければ生き延びることさえできないの。もしその敵国人が本当にゾディアックへ弓を引く気があるというのなら、たとえ捨て駒になってでも自身の潔白を身をもって証明するぐらいのことをしない限り、とてもじゃないけれど信じてやることなどできなくてよ」


「何とも光栄の至りだな」

 うっすらと浮かべた笑いに嘲謔の色をにじませさえしてチェシーは皮肉った。

「勇猛なる第一師団を差し置いて先鞭をつける誉れをいただけるとは」

「サリスヴァール准将」

 ニコルはひくくさえぎった。

「許可なく発言することはゆるしません」

 伏せた表情を陰に隠し、ぐりぐりメガネを白く、ぴかりと平面的に光らせて。

 ニコルは肝を据えた。

 ゆっくりとシャーリアに向き直る。

「増援要請案でしたら北方面参謀司令部を通してのみ策定を承ります」

「お前なら自由裁量で動かせるでしょ」

「サリスヴァール准将にはすでに兵站部隊の護衛を主たる任務として下達してあります」

「冗談じゃないわ。ゾディアック人に前送される貨物なんて信用できるわけないじゃない。今すぐに代えてちょうだい」

「輸送任務に当たっているのは第五師団の兵站輜重部隊です。護衛と輜重を履き違えぬようお願いします」

 ニコルはふう、とため息をついた。


 ――余計なことは何も考えないようにしないと。


 力の入りすぎた肩をいったん落としてメガネをはずす。鼻梁をつまみ、顔をくしゃりとさせて、それからまた、手袋をはめた指先でくるくると回すようにしてきれいに拭いたメガネを鼻の頭にちょこなんと乗せなおす。

「何、その目」

 案の定だった。シャーリアの表情が鋭くなる。

「わたくしの何が気に入らないと言うの」

「チェシーさんは僕らの仲間です」

「そう考えるのはお前の勝手」

 真鍮色の髪を苛立たしげに振り払ってシャーリアは言った。

「裏切り者の忠誠と誰かの白昼夢を同義と見なすほどわたくしは無邪気ではないわ」

「……」


 窓辺に飾られた花が、白光を含んだ風にふわりと揺れている。緑ひろがる窓の外に見えるのは、この館を訪れる途中にあったケヤキの大樹が落とす木漏れ日だろうか。


「ノーラスをティセニアの要地と位置づけ失陥を許さないとする軍要綱までは否定しないけれど、もしわたくしたちが死守している最北戦線が崩壊すれば即ゾディアック軍がツアゼルへ浸透することになる。それを最も望まないのは、誰あろうお前の右腕たるホーラダイン自身だと思うけれど?」

「敗走と撤退は違います」

 ニコルは表情を悟られぬよう、メガネの位置を指先で調整しながら冷静に応じた。

「第五師団とノーラスは公都および聖ワルデ・カラアへの突破を目論む敵部隊を縦深陣地に嚮導すべく配置されているのであって戦線の拡大を目的にはしておりません」

「うぬぼれないで。わたくしはティセニアの栄光と勝利のために命を捧げている。お前たちとは覚悟が違うのよ、覚悟が」

 ふいに。

 シャーリアはつかつかとフランゼスのベッドへ近づくと、脇に積み上げてあったフレスコ画のかけらを純白のブーツで踏みにじった。

「こんなもの、無駄なだけよ」

 青いかけらが粉々になって飛び散る。封殺のナウシズがなぜか、蒼白の光を放った。

「……!」

 フランゼスが声にならない息をすすり込む。

 思わず詰め寄ろうとしたニコルの前に、チェシーがぐいと割り込んだ。驚いて振り仰ぐ。チェシーは手で下がるようニコルに合図しながら、シャーリアを無言で見やった。

「な、何よ。何のつもり」

 シャーリアはごくりと息を呑み込んだ。無意識に後ずさり、憎々しい眼をチェシーへ突き立てる。

「言っておくけど、今のティセニアに役立たずや裏切り者を飼い殺す余裕はないの。もしそのゾディアック人が少しでも疑わしい素振りを見せたときは――分かっているわね、アーテュラス。お前も一蓮托生よ」


「姉上」

 フランゼスはぐっと奥歯をかみしめ、なかばふるえながら声を絞り出した。

「ど、どうして、信じて、下さらないのです。ニコルはぼく、僕の、友達です。ね、寝返ったり、するような人間じゃ」

「お黙り、フランゼス。わたくしに逆らうの」

 まるで逃げ場をなくした鼠のようだった。シャーリアは感情もあらわに吐き捨てた。

「お前はバラルデスの娘を娶れば公子としての義務が果たせる。でもわたくしの夫はティセニア公として国を率い、戦える男でなければならない。今のティセニアにわたくしに相応しい男がいて?」

 シャーリアは靴音を高く鳴らし、身をひるがえした。

「レイディ・キーリアまで失望させないでね、フランゼス」

 とげとげしい言葉の勢いそのままに、シャーリアは扉を叩きつけるようにして閉め、立ち去った。

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