「いきなり平手打ちしてくる女に礼を尽くす筋合いはないね」

「へえ、ふうん、そうか。なるほどね」

 ニコルはすばやく意識下で考えをめぐらせてからぽんと手を打ち、にやりと悪戯っぽい笑いを浮かべてすたすたとチェシーに近づいた。

「な、何だよ」

「まあまあ」

 憮然として手を引っ込めるチェシーの袖をつまんで引っ張り、とことこと光すずやかな窓際へ戻ってくる。

「フランはチェシーさんと会うの初めてだよね」

「そいつはゾディアックの悪魔だ」

 フランゼスはうつむいたまま声をこわばらせた。

「まさか、とんでもない」

 酷い誤解だとばかりにニコルは思わず噴き出した。

「悪魔なんかよりよっぽど狡猾だよ。ね、チェシーさん?」

「お褒めにあずかり光栄だ」

 チェシーは平然と受け答えつつ横を向いてニコルの後頭部をごいんとぶん殴った。

「痛あっ!」

 眼から火花が飛び出す。ニコルはつぶれた悲鳴を上げて二、三歩よろよろし、頭を抱えてしゃがみ込んだ。みるみるうちにぷっくりと、それはそれは見事なタンコブがふくれあがってゆく。

「な、何で」

 ニコルは半泣きでたんこぶを押さえ、訴えた。

「いいいいきなり全力で殴ることないじゃないですか」

「だれが狡猾だ、誰が」

「ちょ、ちょっとした冗談に決まってるでしょ場を和ませるための」

「怖ろしくすさんだぞ」

 非情に決めつけるチェシーへ、ニコルはめそめそと恨めしげな視線を向けた。

「で、でもこういうのはやっぱり第一印象が……」

「激しく地に墜としてどうする」

 だがチェシーはそこでニヤリと笑った。

「まあいい。その気持ちだけなら有り難く受け取って――」


 そのとき。

「サリスヴァール」

 凛とするどい声が他を圧して走り抜けた。甲高く鳴る軍靴の踵が性急に響く。

 そのとげとげしさに思わずニコルはぎょっとして振り返った。

 ほのかに赤みを帯びた真鍮色の美しい髪をなびかせ、怒りにも似た誇り高い意志をほとばしらせる眼をチェシーただ一人に突き立てて。

 まぶしいほどの純白と蒼穹。まとった聖ティセニア公国北方面軍の軍装も美々しい麗人は姿を現したとたん炎の息を弾ませ、チェシーを睨みすえるなり、剣をも振るいかねない血相で部屋へと駆け込んできた。

「あ、姉上」

 渦を巻くけわしい気配にフランゼスも気後れした声をつまらせる。

「ほう、これは」

 互いに知らぬ仲であるはずがなかった。チェシーは奇妙な追従の笑いを浮かべた。泰然と向き直る。

「お久しゅうございます、と言うべきかなシャーリア殿下」

「馴れ馴れしい口を」

 いきなりだった。激昂したシャーリアは手袋を脱ぎ捨てるなりチェシーめがけて鞭のような平手打ちをくらわせた。

 もしかしたら悲鳴をあげたかもしれない。それほどまでに信じられない仕打ちだった。ニコルは思わず指先で下唇を押さえ顔をそむけた。手が震えて、止まらない。

 だが、鳴り響くはずの打擲音はいつまでも聞かれなかった。

 おそるおそる眼を上げる。

 凄むように笑うチェシーの表情が見えた。

 その頬の寸前、わずかに届かない位置。シャーリアの手首が今にも折られそうな角度でねじ伏せられ、捕らわれている。

「……放しなさい」

 シャーリアは息苦しい声で命じた。手を引こうとしてままならず顔をこわばらせる。

「気の強いお姫様だ」

 チェシーは傲然として放さない。

 にやりと、獲物を捕捉した狼の笑いがひろがった。次第に深まってゆく。総毛立つほどだった。

「汚らわしい」

 美しい顔に満面朱をそそいでシャーリアはさけんだ。

「今すぐその手を放しなさい、ゾディアックの悪魔!」

「いきなり平手打ちしてくる女に礼を尽くす筋合いはないね」

 笑いながらうそぶくチェシーに、ニコルはようやく我に返った。

「なななな何をやってるんですチェシー」

 眼をまん丸にして駆け寄り、シャーリアとの間に割って入る。

「……じゃなくてサリスヴァール准将っ、てってっ手を放して。うわああ何て畏れ多いことを」

 大あわてに慌ててチェシーを押しのける。

「もう、ホントにだめですってば」

 だがシャーリアを見るチェシーの眼はニコルをとらえてもいなかった。それどころかまるで遮るものさえないかのように存在を突き抜けていく。

「ふ、ふざけてる場合じゃ」

 ニコルは声にならない悲鳴を混じらせて口走った。必死に手を伸ばしてチェシーの腕を掴み、ぶら下がるようにして引き下ろす。

「大袈裟だな」

 ようやく気付いた様子でチェシーはシャーリアを手放した。皮肉につり上がった愉絶の痕跡がまだ口元に残っている。

 シャーリアは屈辱にまなじりを赤く染めたまま、まざまざと跡のついた手首を隠し、後ずさった。

 憎々しい表情でニコルを振り返る。

「アーテュラス、いつからお前の部隊は悪党まがいの無礼者集団に成り下がったのかしら」

「も、申し訳ございません、殿下」

 ニコルは冷や汗だくだくでシャーリアに詫びた。声を震わせ、深々とこうべを垂れる。

「ほ、ほ、ほらチェシーさんもちゃんとお詫びして」

「知るか」

 チェシーは冷ややかに吐き捨てた。またシャーリアの柳眉がつり上がる。ニコルはひえええ! と真っ青な顔でふるえ上がった。

「だ、だから今はそんなこと言ってる場合じゃなくてっ」

「謝る必要はない。何度言えば分かる」

「うああ態度でかすぎ!」


 いつもどおりの騒々しいやり取り。

 ――なのに、なぜ、こんなに怖いのか分からなかった。


「根拠のない自信はほどほどにして、少しは普通の人らしくじっとしててくださいよ……」

「やかましい。ほっとけ」

 チェシーはしれっと笑いながらも押し黙る。その様子をシャーリアは嘲弄まじりに見つめていた。

「確か一人で迎えに来るよう要請したはずだけど。よりによってアーテュラスを引き連れてくるなんて、いったいどういうつもりなの? ゾディアックの悪魔とまで呼ばれた男がまさか恐れをなしたわけではないでしょうね」

 ぞっとするような声だった。吐息の温度がみるみるつめたく、低くなってゆく。

「何千何万という兵の命を平然と奪っておきながら、よくもぬけぬけとこのわたくしの目の前に現れてくれたわね」

「殿下、そ、それはあの」

 ニコルははじかれるように顔を上げる。チェシーはニコルへちらりと皮肉な笑みを走らせ、肩をすくめてみせてからシャーリアの弁を冷静にさえぎった。

「ホーラダインの命令に従ったまでだ。他意はない」

「あら、そう」

 シャーリアは形の良い腰に手をあてて肩をくいとそびやかせた。

「現実を教えてやる必要がありそうね」

「あ、あ、あの、そそそれはですねつまり見解の相違というか誤解というか要するにええとその」

 ニコルはあっちでオロオロ、こっちはあたふたと右往左往うろたえながら冷や汗だらだらで弁解を始めた。

「もももももうチェシーさん、いいい加減に学習してくださいよ他の人と会うたびにいきなり喧嘩をふっかけるその悪い癖、よりによってシャーリア殿下相手だなんて間に挟まれて身もほそる思いするのはぼぼぼ僕なんですからね、こっちの身にもなってくださいよ……ってううう」

 ニコルは急に差し込んできた胃の痛みに耐えきれず、お腹をかかえてチェシーの袖につかまった。

「だ、だめだどどどうしようホントにい、いが、胃が痛くなってきた。いたたた」

「馬鹿。何言ってるのアーテュラス。お前も同罪よ」

 シャーリアが苦々しい視線をニコルへ向ける。

「こんな敵方の間諜に体よく丸め込まれたりして。本当に情けない子ね、お前は」

 くくく、と指の背を口元に当て、馬鹿にした様子で笑う。

「こっ、子ども扱い……!」

「お前が元帥だなんて、まったく我がティセニアの人材不足にも程があるわ。世も末よ」

 高慢に微笑んだあと、居丈高に背筋を伸ばし、乱れた髪を肩から払い落とす。

「ま、いいわ。胃腸の弱いアーテュラスに免じて今回は見逃してあげる。でも」

 かっちりと直線的な軍装に身を包んでいてもなお完璧に均斉が取れていると分かる腰つきで、シャーリアは全員を見渡した。

 するどく言い放つ。

「次はないわよ。せいぜい覚悟しておきなさい」

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