第8話 剣の公女と悪魔の紋章

◾️第8話 男装メガネっ子元帥と悪魔の紋章

 からり。

 足元の瓦礫がくずれる。

 かつては、聖堂の天蓋をいろどっていたであろうフレスコ画。

 それが、今は。

 天井から剥がれるがままに落ちて、くすんだ色の残骸となり果てている。

 風が吹き過ぎる。つるばらの意匠を彫り込んだ列柱が折れて、雑草に埋もれていた。そこかしこに、錆びた不発弾が、散らばる。

 ちぎれた葉がくるくると舞って、少年の足元に落ちた。

「ひど、ひどいな」

 聖ティセニアの従軍装に身を包んでいる。胸元には、ティセニア軍第一師団の徽章。

 にしては、軍人らしからぬ、ちょっぴりふくよかな体型ではある。

 少年は、崩落した聖堂を見渡した。

 身をかがめる。平べったく這うようにしながら、落ちていたフレスコ画のかけらを拾った。ためつすがめつ、陽に透かす。

「アルトゥシーといえば、『ヴァロネの青』で、ほ、本当に有名なのに。こんな、ぶ、文化的に価値の高い、歴史的建造物まで、へ、平気で壊すなんて。やっぱり、最悪だ、サリスヴァールは」

 悲しげなすみれ色のまなざしを、壁一面の弾痕へと向ける。

 その向こうにあるはずの、天井は、もう、ない。

「だから、ゾディアックの、悪魔だなんて呼ばれるんだ」

 少年は、誰にも聞こえぬよう、こっそりと小声で毒づいた。

 手袋をはめ、フレスコ画のかけらを、たんねんに拾う。一つ一つ、紙片に墨で番号を書き入れ、ガーゼに包み、袋に入れ、それぞれの特徴を手帳に書き留める。

「そ、そ、、それを、よりによってニコルが許すなんて。わけ分かんないよ」

 顔を上げる。瓦礫の向こう、ほぼ崩れ去った壁際に、倒れ伏す棚が見えた。

 本が散乱している。

「本!」

 少年は、目を輝かせた。

 駆け寄って、おそるおそる、本を取り上げる。

 表は、金文字で箔押しされている。緋表紙の砂ぼこりを吹くと、砂塵が舞った。

「な、何の本、だろ。珍しい、歴史書か何か、だといいけどな。ええと、恵みの島、夜の湖、青の騎士……民俗学の本か何かかな?」

 興奮し、咳き込みながらも、慎重の上に慎重を期して、ページを繰る。


(僕の声……聞こえる?)

 少年は目をみはった。手にした本を見下ろす。しかし、まさか本から声が聞こえるなんて。そんな非現実的なこと、あるはずが――

(ねえ、聞こえてる?)

 このうえもなく可憐な、ちいさい声。

 少年は、狼狽した。恐怖に声を失い、思わず本を投げ出す。

 綴じがばらばらにはずれた。変色した古い頁が、四方に散乱する。

「だ、だ、誰!?」

 息を呑む少年に向かって、本の中の何かがささやいた。

(怖がらなくていい。僕の名は、ル・フェ。この書に宿る精霊だ)

 びっしりと書き込まれた文字が、青い微光を放った。剥がれるように浮かび上がって、名前らしきものを形作る。

 少年は、震える手で背嚢を引き寄せた。抱きしめながら、おそるおそる聞き返す。

「せ、精霊? 本の妖精みたいなもの?」

(うん、まあ、そうともいうね)

「そ、それで。その妖精さまが、僕なんかに何の用」

(……君の名前、何?)

「ふ、ふ、フランゼスだけど?」

 本の放つ仄かなかげりが、少年の青ざめた表情に、ゆらゆらと薄暗い影を落とした。少年の瞳に、青黒い光が映り込む。

。ひとつ、お願いがあるんだけど)

 ふいに。

 壁に、亀裂が走った。聖堂全体が、大きく揺れ動く。

(……あの、邪魔な《封殺ナウシズ》の騎士を)

 鈴を振るような笑い声が、響き渡る。

 ひびわれた漆喰が、粉になって降った。

 床が揺れる。壁が剥がれる。

 散らばっていた本が、めらめらと虹色に輝く黒い陽炎に包まれて、浮かび上がった。

「な、な、何……うわああ!」

 少年は、今度こそ悲鳴を上げた。頭を抱え、四つん這いのまま、逃げだそうとする。

 少年の頭上で、天井が砕け散った。

 笑い声が、けたたましい星くずのように降りしきる。


(殺して……くれないかなあ……!)


 石煉瓦と漆喰の塊が、少年めがけて狙いすました軌跡を描く。

 轟音が降り注いだ。


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