第7話 どきどき新婚パニック~真夏の夜の悪夢

■第7話 男装メガネっ子元帥、恋する旦那様とドキドキ新婚パニック!?な夢を見る


「ああ、疲れた……本日もお疲れ様ぁ……ホント疲れたよ……」


 ニコルは、大きな青い水玉模様の入ったぶかぶかのパジャマを引きずりながら、ベッドに倒れ込んだ。

 綿のように疲れ果てたあくびをする。

 ……思い返せば、さんざんな一日だった。

 気持ち悪い化け物には追い回されるわ、ザフエルにはさんざん嫌みを言われまくるわと、夢見の悪そうな出来事ばかりが続いている。

 これで本当に悪夢を見でもしたら、目も当てられない。

 だが、そうそう嫌なことばかりではない。

 嬉しいことに、どうやらアンシュベルがベッドシーツを洗って干しておいてくれたらしい。ぱりっとのりのきいたシーツも、ベッド全体をふんわりと包むお布団も、ふんだんな夏の陽の薫りでいっぱい。当然幸せも比例していっぱいである。まさに至福のひとときだ。

「あー、生き返る……しあわせだあ……」

 すっかり機嫌を直し、ふかふかの羽まくらを無意味にむぎゅうと両手で抱き込みながら、ベッドの上をごろんごろん横に転がってゆき、脇のテーブルへ怠惰な手を伸ばす。

 どうにかこうにか猫足ランプの火を消し、はずしたぐりぐりメガネをことんと置いてまたあくび。

 ベッドに潜り込んで、パジャマと同じ柄のナイトキャップを赤ちゃんのようにきゅっとかぶり直して。

 夜風にしらじらと舞うカーテンを夢心地にながめながら、ニコルは眠りに落ちていった。


 ちちち、と小鳥が鳴いている。

 言うまでもなく朝である。

 純白のレースカーテンから差し込む朝日が、風のようにそよぎ入っては、はらはらとまぶしく床へこぼれる。

「お目覚めか、レディ」

「……あ、おはようございます……」

 ニコルは寝起きの目をこすった。

 まぶしすぎる朝日が金色の髪に透き通っている。

 誰だろう。まるで光り輝いているかのようだった。そのくせ顔立ちは影になって、ぼんやりとまるで見分けも付かず――


 ……。

 えーと……。


「このままだと初日から遅刻だぞ、レディ。いいのか」

 少し強い力で肩を揺すられる。ニコルは仕方なく起きあがり、ベッド上で座り込んだまま、しばらくぽやんとした視線を天井あたりにさまよわせた。

 誰の声だろう。男の声だが義父のアーテュラス内務卿ではなさそうだし、執事のオルブラントにしては声の雰囲気が若すぎる。かといっていつも身近にいて世話を焼いてくれるアンシュベルでは絶対にあり得ない。私室に入ることを許した覚えのある人は他にいないし……まあザフエル兄は何度言っても勝手に侵入してくるから別として……


 ん……?


 何やらもどかしい違和感がじんわりとこみあげてくる。

 頭の中の人物設定が微妙におかしい。

 ザフエルが……兄さま?

 かすみがかった頭でうつらうつらと考える。

 確かに、言われてみればそうだった気がしないでもないけれど、かといってお兄さまのザフエルがいきなり『お目覚めかレディ』、などという気障ったらしい台詞を吐くはずもなく。

 ザフエルのことだ、そう言う状況になったらなったで『ふむ禁断の愛ですな』『この何とも言えない背徳感がまた、ぞくぞくとしてたまりませんな』とか言うはずだ――言われたくもないけれど。

 ということは。

 おそるおそる顔を上げる。


「おはよう、私の可愛いねぼすけさん」


 天使のような微笑を――もしかしたら悪魔のように、かもしれない――浮かべるチェシーが。

 おそらく着替えの途中なのだろう、メガネを掛けていないせいではっきりとは見えないけれども、朝の陽射しが噴水のようにこぼれ落ちてくる窓際に堂々と立ち、たぶん、その、素肌に直接シャツを羽織ろうとしているらしく、北方系らしい、いかにもなめらかな肌の色とか、シャツの純白とか、結ぶつもりで首に引っかけたままになっている空色のクラヴァットとか、とにかくそんなものが何もかもいっぺんに眼に飛び込んできて。

「どうした、そんな顔して」


 ――どどどどどどどどどうしたもこうしたも……!


「な、な、何でチェシーさんがぼぼぼぼ僕の部屋に!」

 ぼぼぼんと頭から蒸気を噴き上げつつ仰け反り、盛大に後頭部からどんがらがっしゃん転がり落ちる。

「っていうか!」

 ニコルは恐怖のあまり枕をちょんぎってしまいそうなほど強く抱きしめながら、ずざざざと後退った。

 絶対何かおかしい。こんなことなどあるはずがない。そうだこれは夢だ夢に違いないよくよく考えれば寝入ったときは間違いなくノーラス兵営の自室にいたはずでそれから考えても明らかに状況が食い違っ――

 ふいに、ぱちくりと眼を瞬かせる。

 分かった。

 これは夢だ。

 見事に結論づけた己の聡明さに酔いしれつつ、あまりの馬鹿馬鹿しさに思わずピンクのお花畑めがけて突進し、麦わら帽子にフリルスカート、もちろん白のサンダルは脱いで指先にぷらぷら引っかけるというお約束の格好で、『ウフフこっちよあなた捕まえられるものなら捕まえてごらんなさいな』『何だと見てろよすぐに君を捕まえてやるからなハハハ……!』と奇声を上げて現実逃避したくなってくる。

 やっぱり夢だ。間違いない。

「朝からおかしいぞ。まあ、君の場合は万年どこかしら変なわけだが」

 夢の中のチェシーは、平然といつも通りの皮肉をものしながら歩き出した。

「それより今朝は早いんだ。悪いがもう出かける。拠ん所ない用事ができてしまってね」

「あ、ああああのチェシーさん出かけるってどこへ」

「何寝ぼけてる。大丈夫か」

 チェシーは――本物ならば絶対にあり得ないであろう、めくるめく微笑みを、これ以上ない優しいまなざしに含ませてニコルをひたと見つめた。

 すっと回り込んで来てベッドに腰を下ろすなり手を伸ばす。

 大きな掌が、ふわりと頬を包み込んだ。

「はうあ!」

 その感触にとんでもなくびくぅっとする。

「さっき落ちたときに頭でも打ったかな、レディ・サリスヴァール」

「い、いえ全然その……っていうか……はぁっ?」

 ニコルは眼をひん剥いた。飛び出した目玉が、頭の上でねずみ花火みたいにすぱぱぱぱと弾ける。

「れ、れ、レディ、何……?」

 声がひっくり返る。こ、こ、これはどう考えてもその、いわゆる……


 新婚さん。


 夢とはいえ、ついに導き出されてしまったとんでもない妄想の極致に、ニコルは絶望に打ち震え、まくらに顔をうずめ、耳の先の先までみるみる真っ赤に染め上げてゆきながら、ふんがぁぁ……! と超高熱を発してぶっ倒れた。

「いいいいいいくら何でもその設定は我ながらどうかと」

「レディ・サリスヴァール。いい響きだろ」

 夢の中のチェシーはニヤリと笑う。

 あり得ない。絶対あり得ない。まさに本当の悪夢だ。同じ見るならもう少しマシな夢にしてくれればいいものを。これでは論理もへったくれもあったものではない。一刻でも早く眼を覚まさねば、この後続く新婚さん的らぶらぶ展開はどう安く見積もっても、ああなってこうなって。


 ――くうぁぁぁぁぁ……!


 想像すればするほど、団子結びにされた蛇の如く、ぐるぐる舞いしながらしゅるるると煙をあげて縮んでしなびてヒラヒラのカラカラに干からびてしまいそうだった。

「まあいい。出かける」

 チェシーはふいとニコルの髪に手を入れ、くしゃりと気安くかき回した。

「さっ、さようですか」

 ニコルは引きつりまくった不自然きわまりない笑いを必死に貼り付けた。カクカクとうなずく。

「い、い、いいい行ってらっしゃいです」

 夢とはいえ、とりあえず出かけてさえくれればたぶん後はどうにでもなる。両方のほっぺたをマシュマロみたいにびよよんと引っ張れば、自然と痛みで目も覚めるだろう。たぶん今頃夢を見ている本体はあまりの寝苦しさにウンウンうなされている最中なのではなかろうか。いやきっとそうに違いない……

 ところが。

「おい」

 なかなかチェシーは出かけてくれなかった。それどころかいっそう機嫌が悪くなってゆく。

「な、何でしょう」

 ニコルはちぢこまった。

「何か忘れてるだろう」

「えっ、ええっ? あ、あ、分かりましたおおおお弁当ですねスミマセンただいま作ってきますんでちょっと待ってて下さ」

 コレ幸いと尻に帆掛けて逃げだそうとしたところを、ぐいと手を掴まれ引き戻される。

「ちょっと待て」

「うえ!?」

「もちろん、君の愛情たっぷり手作り愛妻ランチも捨て難いところだが」

 悪辣な笑みが口元をいろどる。

「今欲しいのはそれじゃない」

「あ、あ、あのそのつまり要約しますとどういう結論になりますので……」

「とぼけないでくれ」

 チェシーはむっと拗ねたような顔で言い、手を振り放した。

「思いのほか意地悪だな、君は」

 責めるような笑うような口振りに、またびくんと身をすくめる。

「そそそそそんなこと言われましても」

「分かった」

 チェシーは指先をニコルの顎に添えた。くいと持ち上げる。

「う」

 どきん、と心臓が跳ねる。

「あ、あの……?」

「行ってくるよ、レディ」

 ゆっくりと笑いながら身をかがめてくる。


 ま、ま、まさか、これは。

 心臓が今にもびよんびよん跳ね転がりそうなほどドキドキ言い始める。こ、こ、これはまさしくいわゆるそのあの新婚さん特有のやはりあああああアレであってつまりちょちょちょちょっとあのその待っ……ああああ!


「逃げるな」

 いたずらに近づく眼差しを正視しきれず、ぶるぶると肩をふるわせながら顔を真っ赤に染める。

 今にも触れそうでいて、なかなか触れられないでいるくちびるに、意地悪な魔法にも似たささやきが吹きかけられ――

「いっ、いいから早く行っ……!」

 混乱のあまり何が何やら分からなくなってさらに墓穴を掘るような訳分からないことを口走ってしまった気がしないでもないけれどそれはそれ、発言に対する責任を負えるような精神状態ではないということで、だいたい人の夢の中にまで入ってきてさんざん勝手なことをほざいた挙げ句いきなりこんな、あの、その、ふ、ふ、ふしだらなことを要求するだなんてまったく信じられないしあり得ないし許せないし本当にこの人は何考えてるんだか、あ、あ、ああっ……そんなにちちちち近づいたら……!


(レイディ……本当の君は、どこにいる……?)


 ふいに冷ややかな声が浴びせかけられたような気がして。

 息を呑んで飛び起きる。

 一瞬のうちに視界が切り替わっていた。

 周囲は穏やかな闇。またベッドの上にいる。今度こそノーラスの自室にいる、らしい。いるように思う。

 ニコルはまだどきどきと高鳴る胸を手でそっと押さえてみた。やわらかく透ける寝着の感触が、触れた指先からさらりと滑り落ちる。

 思わずげっそりと疲れ果てた安堵のため息をつく。

 どうやら無事に目が覚めたらしい。いくら夢と言えども、あれではあまりにも恐ろしすぎ……

 隣で誰かが、むくりと動いた。

「どうした、寝付けないのか」


 ――ふんぎゃあああああああ……!


 つぶれカエルみたいな悲鳴を上げて宙に飛び上がりざま、でんぐり返って、ずでーんと頭から転がり落ちる。

 普通これだけベッドから落ちて後頭部強打したら当然お約束として夢から覚めて然るべきだと思うのになぜ未だに全然覚めないのかまったく理解の範疇を超えている! 

 ぜいぜいと恐怖に息をあえがせながら、ニコルはベッドに横たわる男の寝姿らしき灰色の影を、おののく眼で見やった。

「だ、だ、だからなんでまだ僕の部屋にいるんですかチェシーさん!」

「いい加減、その呼び方はやめてくれ」

 チェシーは無造作に片肘を突いて半身を起こした。筋肉の立体的な影がシーツに落ちている。

 鎖骨のくぼみに落ち込んでいた白金の認識票が針のように反射して胸元からこぼれ落ちた。

 待て。

 ニコルは意識が吹っ飛びそうになるのを必死に押さえた。ど、どこから見ても、は、は、はだ……!

「私のことは、あ・な・た、と呼んでくれるんじゃなかったのか」

「ひいいい!」

「まあそのへんは情状酌量してやるとして」

 チェシーは振り返ってランプに火を入れようとした。ニコルはシーツの端をくしゃくしゃに握りしめ、号泣しながらかぶりを振った。

「あ、あ、明かりは結構です」

「しかし真っ暗で君がどこにいるかも見えない」

「みみ見えなくていいです」

 ニコルは大あわてに慌ててネグリジェの胸元をかき合わせた。そもそもこんなものを着せられている時点で身の危険を察しておくべきだったのだ。

「全然面白いもんじゃないですし!」

「やれやれ。仕方ない」

 チェシーはためいきをつき、頭をかきながら、わずかな月明かりを背にゆっくりと片膝を立てた。つり上がったシーツの皺が、青白いゆるやかな反射と濃い闇の陰影を描き出している。

「ニコラ、こっちにおいで」

 ベッドの縁をまさぐるようにして探している。

「い、いえ、ニコラって、僕はその、違……!」

 あわてて引っ込めようとした手を、チェシーは探り当てたとたん有無を言わさずにぎゅっと握りしめた。

「今日の君はいつにも増して変だぞ」

「え……」

 大きな手。

「ほら、大丈夫だ。こっちに来い」

 まるで催眠術にでも掛けられたかのように、つい、くらりとほだされてベッドへといざなわれる。

 きらめく碧の双眸が間近に覗き込んできた。

「心配事があるなら話してくれ。君の力になりたい」

 あまりの近さに、ずきん、と胸の奥が高鳴った。思わず眼を閉じてしまいそうになる。

「チェシーさん……」

 握られた手がふるえる。心まですくみ上がりそうだった。

「ぼ、ぼく……あの……」

「大丈夫だ。話してくれ」

 ここぞとばかりに腰を抱かれかけたところで――


 ――はんぎゃあああああああ……!


 ニコルは自分自身にぶったまげて飛び上がった。

 い、い、今、思いっ切り身体を寄せ合って見つめ合っていたような気が!

 頬がみるみる上気して、しゅんしゅんと熱を放ち始める。

「あわわわ……ち、ちが、違っ……!」

 唖然呆然としながら髪を振り乱し、うろたえる。チェシーに捕まえられていなければまた転がり落ちてしまうところだった。

「何が」

「た、た、助け……」

「分かった」

 チェシーは思慮深くうなずいた。

「続きはベッドの中で聞く」

「ふぎゃあ!」

 必死こいて逃げ出しにかかるも、すでにがちりと強い力で腕を押さえ込まれ抱きすくめられて、蟻の這い出る隙間もない。

「……ニコラ」

「は、はい!」

 チェシーはにんまりとくちびるを吊り上げた。夏らしい清涼な香水の薫る胸元にニコルを抱きよせ、くくく、とタチの悪い笑いでうそぶく。

「これ以上私を焦らすとどうなるか、分かってるんだろうな」

「いや、そんなこと言われてもあのだからつまり……ひょぇぇぇ!」

 冷や汗だくだくでもがくニコルの身体を、チェシーは後ろから周到に手を回し、放さない。

「覚悟しろよ」

「なな何を!」

 反射的に聞き返してしまいニコルは、うああ、と頭を抱え悶絶しかけた。

 知ってしまったが最後まっとうな人生まで終わってしまう気が……いやしかしチェシー相手にたかがそれぐらいのことでくじけていては一生流されっぱなしで終わってしまう。それでいいのか! いいやよくない!

「チェシーさんっ」

 というわけでニコルはどうにか息を入れて呼吸を整え、ぐぐっと気持ちを取り戻してから拒絶の意図もあらわに言い放った。

「これにはその少々込み入った事情があるのです!」

「事情か。なるほど」

 チェシーは背中から覆い被さるようにして首をかしげた。垂れかかる金髪をふわりと頬にくすぐらせながら、髪をすくい上げたうなじに陶然とくちづける。

 びくりと身体がこわばった。

 寒くもないのに手がぶるぶる震え出す。

「あ……や、やめ……」

 腕を伝い下りた手のひらが、腰から足へと滑ってゆく。

「そんなもの私の知った事じゃない」

 有無を言わさぬ優しい手つきが肌に触れ、まさぐる。

 やすやすとチェシーの胸の中へと引きずり込まれる。ニコルは小さな悲鳴を上げた。

「ぁっ……!」

「夜は長い」

 顔を上げさせられ、意地悪な笑みを敏感な耳元に寄せられて。

 そうしながらも、欲望の指先が喜悦に満ちた仕草でネグリジェの裾をたくし上げてゆく。

 肌が上気して、うっすら汗ばんでいる。そんな様を見られるのもまた恥ずかしく、ニコルは身をよじってじたばたと悶絶した。

「ま、ま、待って!」

「……じっくり楽しませてもらうとしよう」


 ――ふんがああああ……!


 すっかり茹で上がったニコルを見て、チェシーはやっといたずらな手を止めた。しれっと肩をすくめる。

「と、まあ冗談はここまでにしておくとして」

「はあっ!?」

 これのどこが冗談だと喚き返そうとして、ニコルは泣きそうになった。頭の片隅から不気味な想像が湧き上がってくる。これが冗談なら本気のときはいったい……。

 そこまで考えて逆に恐ろしくなり、思考にばたんと蓋をする。本気だろうが冗談だろうが、どうせ人の気持ちなどこれっぽちもお構いなし、結局は手の施しようもなくなるに違いないのだ。考えるだに恐怖である。そんなことはもう、想像したくもなかった。

「ひ、ひどいです……」

 くしゃくしゃのよれよれになりつつも、どうにかこうにか身をよじらせて抗う。

 ニコルは顔を上げ、皮肉にほそめられたチェシーの眼を涙まじりに睨みつけた。

「簡単に騙される君が悪い」

 くっくっと肩を揺らして笑いながら、チェシーは耳朶をくすぐるひどく甘い声でささやいた。

「いや、失礼。嬉しくてつい、いろいろと楽しませてもらった。やはり夢だったんだな」

 ふわりと落ちる前髪をかきあげ、照れたようなためいきをつく。

「さもなくばこんなかたちとはいえ、君にまた逢えるはずがない」

「え」

 ニコルはどきりとしてチェシーをのぞき込んだ。

「夢……?」

「ああ」

「夢を、見てる……?」

「そうだろ。そうに違いない――レイディ、君に会えたのだから」

 そうと聞いて、ニコルは何やら急にホッと胸をなで下ろしたような肩の荷を下ろしたような、やたら気安い思いになって安堵のためいきをついた。ついつい笑いがこみあげてくる。

「何がおかしい」

「だって」

 ニコルはくすくすと笑いながらチェシーを見上げた。

「僕も」

 言いかけてどきりとし、頬をぽうっと赤らめる。

「……じゃなくて、その、わ、わたくしも、同じような、サリスヴァール様と逢っている夢を見てたから……お互いに相手の夢を見てる夢だなんて変じゃないですか」

「まったくだ。私ともあろう者がどうかしている」

 見下ろしてくるチェシーの表情は、不思議なほど穏やかで優しい。まるでどこか遠くに置き忘れてきたものの在処を思い出そうとでもしているかのようだった。

「ご都合ついでに聞こう。本当の君は今、どこにいる?」

 冗談にまぶして問いかける声が、ふと真摯に低くなっていく。

 ニコルは、ゆっくりとかぶりを振った。たとえ夢でも本当のことは言えない。ただ静かに微笑み返す。

「いつか、また、どこかで逢えると思います」

「そうだな」

 チェシーもうなずく。

「夢は追い求めてこそ夢だ。逃避するための場所じゃない」

「ええ」

「と、お互い納得したところで」

 チェシーは再び皮肉な笑みを眼に宿らせてニコルを見返した。

「そろそろ君は目が覚める頃合いだ」

 ニコルは眼をぱちくりとさせた。

「え、どうしてそんなことが分かるんです」

「私の夢だからだ。でもそれにはいささかの手順が必要だ」

 勿体ぶって肩をすくめる。

 ニコルは思いっきり不信の眼差しでチェシーを見やった。

「手順……?」

「なに、簡単なことさ」

 チェシーはわずかに腰を浮かせて体勢を入れ替えた。

「まずこっちを向いて。眼を閉じて。頭の中で三つ数える。それから呪文」

「呪文?」

 言われるがまま素直に眼を閉じながら、ニコルはきょとんとした。

「まずは口を閉じるが先」

 指先がくちびるをふさぐ。

 それだけでびくりと痺れかける。ニコルは動揺の息を吸い込んだ。

「わ、分かりましたからそんないちいち触んなくても」

「いい心がけだ」

 チェシーはかすかに笑って続ける。

「そのままじっとしていろ。動くなよ」

 吐息が頬に感じられる。背筋がぞくりとした。

 近すぎるぬくもりに、なぜか身体がすくむ。

「あ、あの、あんまり、その、近づかないで」

 ゆったりと包み込むようなチェシーの重みが、身体全体に息苦しくのしかかった。

「え……っ」

「お喋りが過ぎるぞ、レイディ。起きそびれても知らないからな。それと私のことは『あ・な・た(はぁと)』と呼ぶんだ。いいな」

「ぅぅぅ……!」

「こっち向いて。顔を上げるんだ。力を抜いて。大丈夫だ、悪いようにはしないから」

 指がゆったりと髪を梳いている。その愛おしむような優しい感触に、ニコルはつい、ぼんやりと気を許して身をもたれかけさせた。

 いつの間にか、腕に抱かれている。髪を撫でてくれるチェシーの手が心地良い。子犬になったような心持ちだった。

「可愛いな、それに素直だ」

「素直……わたくしが、ですか?」

「面白いように引っかかってくれる」

「え」

 何だか話が違ってきているような……あ、あれっ……?

 チェシーの微笑みが目の前に迫っている。悪戯にきらめく、青い、するどい瞳。

 ニコルは縮み上がった。

「あ、あ、あの、話、話が違……」

「なぜ照れる。夫婦じゃないか」

「ちがーーう!」

 とたん、髪を撫でる手がぴたりと止まった。

「やる気が失せた。不本意だ。帰る」

 口調までもががらりと変わっている。チェシーはいかにもつまらなさそうな、落胆の素振りさえ見せながら、そっけなくニコルを押しやった。

「ええっそんな困ります、途中でやめないで」

 一瞬、本気で夢の中に一人で取り残されるかと思ってニコルは慌てた。思わずチェシーの手にすがりつく。

「分かった。では」

 チェシーは得たりとばかりにニコルを髪ごと撫でまわして狼のように笑った。青く燃える眼が本気を秘めて迫ってくる。

「遠慮無く頂戴する」

「ぅぇっ!?」

 いきなり唇が耳朶をかすめた。組み敷かれ、ベッドに肩を押さえつけられる。

 容赦のない手が胸元に掛かった。

「では最初からだ。眼を閉じろ。それから三つ数える」

「え、ちょっと……!」

「最後に呪文」

「ま、待ってくださ……」

「一言一句違わず繰り返すんだぞ。『サリスヴァールさま、愛しています』とね。さあ、心おきなく言うがいい」

「そ、そんな、あ、あのっ」

 熱い息ばかりが耐えがたく洩れる。動悸が止まらない。

「夢から覚める手順ってホントに、こ、こ、こんなこと……?」

「嘘だ」

「ええーーーっ!」

 悲鳴を上げ、身をよじる間もなく。

「逢いたかった」

 ぐいと踏み込んできたチェシーの低い声に、胸をずきりと射抜かれる。

「レイディ、逢いたかった。君に」

 もどかしいほど焦らされるくちびる。吐息が、指先が、てのひらが、せつなく頬をつたい、包んで、持てる熱のすべてでニコルを求めていた。

「私は夢でしか君に思いを伝えられない卑怯者だ。君を捜すことも、あのお人好しなメガネに行方を聞くこともできない愚かな男。不様だと笑われてもいい。臆病者とそしられてもいい。たとえ夢の中だけでも、君に逢えただけで――私は」

 吸い込まれそうなまなざし。

 悪魔の欲望を天使の微笑で包み隠して、チェシーは近づく。その人ならざる何かを宿した瞳に魅入られ、陥れられて。

 のどに甘い吐息がからみつく。目が眩むようだった。覆い被さるチェシーの髪がはらりと目元をかすめる。

「ぁ……だ、だめっ……」

 反射的に眼をつむる。柔らかな髪。すこし汗ばんだ匂い。こらえきれず息を吸い込む。激しい、乱暴な痛みを予感させる熱い手が身体に触れた。もう、何をゆだねたのかも分からなかった。

「チェシー……さ……」

 あえぐような声がふいに途切れ――


 そこでぽかりと目が覚める。


「あんぎゃぁぁぁぁぁぁ……ああああ!」

 飛び起きるなりシーツに足を取られて七転八倒、ベッドから床へ一直線に急降下したと思いきや、鼻を打つわ、上から降ってきたランプに追加攻撃をごつんとくらうわで半泣きのしわくちゃになりながら、ニコルはぎゃあぎゃあと真っ赤な顔でわめき散らし続けた。

「悪夢、悪夢だ! 何で僕がこんな夢っっっ……!」

 唇にまだほのかな熱が残っているような残っていないようなそんな恐ろしい感覚に耐えきれず、あまりの恥ずかしさと悔しさにぼかすかとベッドを叩きながら枕に顔を突っ込んでうめく。

「だだだ誰が絶対あんな恥ずかしいこと、あり得ない絶対違う僕じゃないあれは違うちがうんだああああ……!」

 だが、夜はまだ明ける兆しもない。



 かぼそく喘ぐ少女を、恥じらいに耐えがたく頬を染めるニコラを腕に抱いて――

 チェシーもまた、見果てぬ夢を見ていた。

 真夏の夜の夢だということは分かっている。だがそれでも構わなかった。たとえそれがいつわりの逢瀬であってもいい。ただひたすらに逢いたかった。逢って、確かめたかった。

 吐息に混じる真珠の気配に幻惑され、ただでさえゆらぐ心が千々にみだれてゆく。ニコルの持つナウシズやエフワズの波動とは明らかに違う、限りなく透明に近い無――たとえて言うならハガラズの対極にある色。それを少女の魂の深層にまざまざと感じる。

 今ならどんな秘密でも手に入れられる。こころの奥深くにあるガラスのゆらめきさえもつかみ取れる。奪える。

 手がふるえた。

 あと少し。もう一歩だ。そうすれば手にできる。

「……だ、だめ……」

 ニコラは苦しげにもがいて息を継いだ。しなやかな肢体がのけぞる。

 涙に濡れたまつげが、ついに力なく伏せられ――


「……ヂェジーーーーざぁぁぁん!」


 ずももももももも! と、どこかで聞いたことがあるような無いようながらがら声と、巨岩を転がすのにも似た足音とが騒然と入り混じって響き渡った。

 何もかもが一瞬にして暗転する。

 チェシーは息を呑んだ。少女の気配さえもが消え失せている。

 だがすぐにこれが夢であることを思い出す。腕の中の重みもまた戻ってきている。

 急くことはないのだ。もはや手に入れたも同然とばかりにいつもの傲岸な態度を取り戻し、春機の笑みをかすめさせたところで。

 チェシーはふと何とはなしにたじろいだ。

 少女が、かすかに身じろぎする。

 ベッドが凄まじく軋んだ。

 ……。

 気のせいだろうか。腕に掛かる重みと、みるみる増してゆく違和感とが、いきなりみしみしと凄まじく心を揺るがし……

 いや待て。

 チェシーはぎょっとして眼を剥いた。みしみし言っているのは違和感などではない、ベッドそのものだ。

 そう思って見下ろしてみれば、身じろぎしたように見えたのはそもそも少女ではなく、むしろ少女の首筋から背中にかけて広がる頑強なる僧帽筋そのものであって、更にそれがまた何やらもの言いたげな様子でビクビクッと痙攣したかと思うと、


 ――のどぼとけが、ぐりっ、と。


 チェシーはぎくしゃくと眼をそらした。

 なぜかやたらと冷たい汗が背筋を伝ってゆく。激しすぎる衝撃を受けたせいかうつろになった意識に必死の喝を入れながら、脳細胞を最大限働かせにかかる。

 今、腕の中にあったのは本当にレイディだったろうか。

 きっと気の迷い、あるいは心の迷いが生み出したまやかしに違いあるまい。いくら夢とはいえ、いくら同じ顔かたちとはいえ、たおやかなレイディをよりによってあの貧相なちびと見まごうとは。

 いや、既に違える方向自体を間違っているような気がする。そもそもニコルがあんな男っぽいだみ声で喋るわけが――


 男!


「どうがじまじだがヂェジーざん」

 野太い銅鑼声がびりびりと空気を震わせた。チェシーは心底恐怖して仰け反った。

「ニ、ニコル!」

「ぞんなにじろじろ見ないで」

 いつの間にすり替わったものか、ニコルはきゃっ、とか言いながら手を結びあわせてモジモジと身をくねらせた。見る間に上腕の筋肉がもりもり隆起する。

「ば、恥ずがじいでず」

「貴様、いつの間に」

 あまりの気味悪さに全身の力を込め、ぶん殴る。

 いつものニコルなら、ここは当然ゴキンと目から火花を散らしざまに机やら何やらをどんがらがっしゃん巻き込みつつ吹っ飛んでいって、そのあと真っ赤に腫れ上がったたんこぶを抱えて目の幅涙でぐがああ、と悶絶するところである。しかしあろうことか夢の中のニコルは、チェシー渾身の拳骨をはっしとばかりに受け止めた。

「ぐっ……」

 振り下ろしたはずの拳骨がまるで動かない。冷や汗が流れる。万力で掴まれたかのようだった。

 まっちょは可愛らしく不気味にニヤリと笑った。

「だってヂェジーざんこの間言ったじゃないでずが、もっど筋肉づげろっで。忘れだどば言わぜまぜんよ。ぼら、見で僕の筋肉!」

 いっそう凶悪な逆三角形の超筋肉体型と化してゆきつつ、ニコルはひょいと起きあがった。腰に手を当て、うっとりと光る大胸筋をピクンピクン恥ずかしげにふるわせる。

「ま、待て……見せるな……!」

 絶句するチェシーの前で、まっちょニコルはいきなり前屈みになって両腕をぐっと突き合わせるなり、見事に割れた腹直筋および外腹斜筋を誇示するや、白くこぼれる歯を燦然と輝かせ、破壊力絶大のウインクをうっふんとぶちかました。


 瓦解――!


 次の瞬間、せつなき愛の交歓を夢見たチェシーの精神世界は無情なる瓦礫と化して一気にがらがらと崩れ去った。

 何という破壊力か。まさしく悪夢。

 チェシーはわずかに残った自我の光にすがりながら呆然と考えた。目が覚めた頃にはおそらく一夜にして総白髪化しているに違いない……

「ちょっと待て!」

 ふいに我に返る。

 レイディがまっちょに変わり、まっちょがニコルに変わるということはつまりレイディが――

 チェシーはちりぢりに霧散しかけた自我のカケラを必死にかき集め、怒鳴った。

「何故レイディが貴様に変わる!」

「やだなヂェジーざん」

 まっちょニコルは小首――どちらかというと激しく猪首に近しかったが――をかしげると、身体を横にひねって力を入れ、ばふんと鼻息も荒く広背筋を見せびらかす。

 チェシーは卒倒しかかった。このまま意識を失うことができたなら、どんなにか魂の安息を得られることだろうか。

「あの夜あなだに会っだニゴラも、今あなだと向がいあっでいるニゴルも同じ」

 ふとさびしげに微笑んで、まっちょはささやく。

「同じ僕なんでずから」


 …………おえええええ。

 吐き気で目が覚めるとは……。

 チェシーはげっそりとやつれた顔で半身を起こした。

 暗澹たる思いで頭を抱える。悪い汗をかいたせいか、前髪が濡れて額に貼りついていた。

 月光たゆたう窓の外を振り仰ぐ。

 遠くから、ニコルの悲鳴とおもちゃ箱をひっくり返しでもしたかのような騒擾が聞こえてきた。

 悪夢の原因は絶対にあれだ。チェシーは苦々しく額に手を押し当て、凶悪なまなじりを決する。

 何はともあれ明日の朝一番にすることは決まった――



 夜闇をするどく切り裂くニコルの悲鳴に、ザフエルはふと顔を上げて振り返った。深夜をはるかに過ぎた刻だというのに未だ眠りにも就かず起きている。軍装すら解いていない。

「またぞろ騒々しいですな。性懲りもない」

 ぼそりと言って、再び手にした紙へ視線を落とす。

 暖炉には火が入っていた。血のように赤い照り返しが、紙を透かすほどあかあかとザフエルの手元を照らしている。何かを燃しているのだった。

 くずれた灰が火の粉となって舞い散るたび、昏い影に満たされた部屋はいっそう罪深い色へと染めあげられていく。

 ザフエルは、つめていた息をほどいて窓に歩み寄った。

 さらりとカーテンを引き払う。

 端正な横顔に闇の影が射す。

 森を吹き抜ける夜風に髪をあそばせながら、壁にかるく手をかけ、冷ややかに眼下を眺め渡す。


「だだだ誰が絶対あんな恥ずかしいこと、あり得ない絶対違う僕じゃないあれは違うちがうんだああああ……!」


 ニコルの声はまだぎゃあぎゃあと響き渡り続けている。だがザフエルはもう気に留める素振りすら見せない。

 少し火勢が弱まってきたのを見て、ザフエルはふたたび暖炉の側に戻った。

 机の上には束になった手紙が数十通、すべて乱雑に破られたまま打ち捨てられている。

 捺された消印はツアゼルホーヘン。

 故郷からの手紙だ。

 花の香りもほのかな便箋に、華奢な字で切々と書き込まれた手紙を、ザフエルはまた一枚、平然と破る。つづられた署名はすべて同一人物のものだった。

 逢いたい、逢いたい、逢いたい――

 それらを読み返しもせず暖炉にくべてゆく。火に舐められ、みるみる黒ずみ、めくれ上がって燃え落ちてゆく手紙を見つめながらザフエルは冷涼につぶやいた。

「ユーディット」

 みだりに垂れかかる黒髪を払いのける。

「――お前では駄目だ」

 瞳に宿った火の色は、さながら熔け落ちる呪のようにくるめいて、あやしかった。



 さて、翌日。

 朝の陽射しをまばゆく弾いて建つノーラス城砦は、その凛と純白に輝く外壁の孤高さとは裏腹に、じりじりと茹だるような暑苦しさに襲われていた。

 元気はつらつなのは中庭にうじゃうじゃはびこる夏草や、これ見よがしにと咲き乱れるヒマワリばかり。公都イル・ハイラームの位置するティセニア南部に比べれば格段に涼しい地理的状況……であるにもかかわらず、気温は朝からうなぎ登りの急上昇、一方の士気は急転直下の大減退という、まさに憂慮すべき事態に陥っていてもなお――

「あと一分」

「わわわわちょっとちょっと待っ」

「なりませんな」

「爆破だけはかかかか勘弁してくだ」

「……五三秒。喋っている間があったらさっさと準備」

「うわあああんザフエルさんの馬鹿あっ!」

「四四、四三、四二……」

「鬼ーーーっ!」

 私室ドア前に堂々と陣取り、まったくいつもと変わらぬ調子で爆破までの秒数をかぞえるザフエル・フォン・ホーラダインに対し、これまた毎度おなじみ号泣まじりの返答をドア越しに投げ返すニコルは、大あわてにあわてて軍装を整えにかかっていた。

 この状況におけるザフエルのいいところは、ただ単にドアを勝手に開けないというだけだ。実際の状況はとてもそれどころの話ではない。一秒でも仕度が遅れたら、ドアどころか部屋ごと木っ端微塵に吹っ飛ばされるのである。

 これまで何度、起き抜けに爆死しかけたことか――

 ニコルは、ついめそめそと過去の黒こげ歴を指折り列挙しそうになり、焦ってぶんぶん頭を振った。くしゃくしゃになった髪が肩でどうしようもなくはねる。泣いている場合ではない。そんなヒマがあったらさっさと着替えねば……!

 とは思うものの、ボタンはどれひとつとしてまともに嵌ってくれないし、新しい手袋はどこにしまったのやらさっぱり思い出せないし、あまつさえサッシュの結び目までもがぐるぐるのごろごろの団子結びになってしまって――

「六、五、四、三」

 そんな最中であってもザフエルの冷酷な爆破予告だけが刻々と迫ってくる。

 も、もうだめ、間に合わない……!

 ニコルは半泣き状態で頭を抱え、絶望のどん底にたたき落とされながら部屋をまろび出た。いくら時間内といってもこんなだらしない格好で飛び出してみたところで絶対ああだこうだと叱られるに決まっているのだが。

「間に合いましたな」

 意外なことに、ザフエルは文句を言うでもなく平然とニコルを見下ろしていた。

「おはようございます、閣下」

 鷹揚として挙手の礼をしてくる。

 ニコルはあわててぴんと背筋を伸ばした。勢いで鼻にちょこんと乗っかったメガネがずりおちる。

「お、お、おはようございますザフエルさん」

 メガネを押し戻しながらニコルは上目遣いでおそるおそるザフエルを見上げ、たずねた。

「僕、間に合ったでしょうか」

「全然」

 ザフエルはいきなりニコルの胸元へ傍若無人に手を伸ばした。

「……っ!」

「何というだらしない格好を」

 長身を、ふっとかがめてくる。

「う、うわっ!」

 手袋をはめたザフエルの手が、さんざんに掛け違えたニコルの軍衣のボタンにかかった。

「いっ……」

 ニコルは真っ赤になって身を引こうとした。

「いいです自分で!」

「ボタンすらまともに合わせられないようでは」

 ザフエルは眼すら合わせず冷ややかに言った。

「先が思いやられますぞ」

 指先の感覚を確かめるように、ゆっくりと、ボタンのひとつひとつを上から順にはずしてはしなやかに掛け替えてゆく。

「こ、こっ、子どもじゃないんですから……!」

「シャツがはみ出してます」

「え、嘘」

「部隊章も逆さまです」

「う……」

 そこまで言われては反撃もできない。まるで猫が鼠をもてあそぶかのような手つきでザフエルはニコルの身支度を整え続け、ようやくぱりっとなったところで満足したらしく、やや肩をそびやかせて一歩下がった。

「ふむ、これでよろしい」

「すみませ……で、でもいったいなん……何……」

 いきなりの大攻勢に真っ赤っ赤のしどろもどろになりながら、ニコルは決死の抗議を敢然と……言えずに口ごもった。

「では参りましょうか」

 ニコルの反応など、まるで何処吹く風である。聞く素振りすら見せずに、ザフエルはくるりときびすを返す。

「あの」

 ニコルはあわてて後を追いかけながらたずねた。

「どこへ」

「士官食堂」

「は?」

 ぽかんとして聞き返す。

「何で食堂なんです」

「何を今さら」

 ニコルが抱いた当然の疑問に対し、すでに歩き出していたザフエルはふと立ち止まり、ちらりと肩越しに振り返って冷然と言い切った。

「朝食をご一緒したかったからに決まっているでしょう」


「そんなことでいちいち」

 士官食堂へ至る道程は、ちょっとしたテラスになっていた。とはいえ手入れのまるで行き届かぬ庭の末路にありがちな、とげとげの尖った葉っぱが特徴的なギシギシ、くっつき虫でおなじみのオナモミ、はたまたころころと丸い花がかわいらしいシロツメグサなど、多種多様な雑草が元気よくもっさりとはびこっていて、とてもではないが山懐の白い瀟洒なレストランで朝食を愉しむ、などという文人気取りの優雅な気分には浸れそうになかった。

 足音に驚いたか、ばったがぴょこんぴょこんと四方八方にはね飛んでゆく。

 しかしザフエルはと言えば、まるで周囲の様子になど注意を払っていなかった。食堂へ向かって、そっけなくもすたすたと一直線に歩いて行く。

 そんなザフエルにくっついてちょこまかと急ぎ走りながら、ニコルは小声でぶつくさと文句を垂れ続けた。

「何も朝っぱらから起こさなくったって……」

 いきなりザフエルが立ち止まる。ニコルは勢い余ってザフエルの肘にぶつかりかけ、顔を押さえながらよろよろと後退った。

「鼻、鼻っ」

「どうぞ、閣下」

 ザフエルはガラスの嵌った背の高い扉をゆっくりと押し開けた。慇懃な仕草で閉まるドアを押さえ、待っている。

「すっすみません、わざわざ」

 何だかやたらと口はばったいような申し訳ないような気持ちになりながら、ニコルはザフエルの横をすり抜けた。

 と、眼前のテーブルに、どっかと腰を下ろしたチェシーの背姿が目に入る。

「あ……」

 チェシーは物音に気付いて振り返った。俄然、目つきが悪くなる。

 鋭利な眼差しにニコルは思わず気勢をそがれ、立ち止まった。

「どうぞアーテュラス閣下、こちらへ」

 気を利かせたつもりの給仕兵が、いそいそとニコルとザフエルをチェシーのテーブルへと案内する。

 チェシーは立ち上がった。給仕兵がニコルのための椅子を引く。

「あ、あの、チェシーさん、」

 ニコルは昨夜見た艶めかしい悪夢を思い出し、みるみる真っ赤になっていく気持ちと顔の色のそれぞれをどうにかしてごまかそうと慌てふためいた。

「お、お、おはようござ」

「問答無用」


 ごいん。眼から星が飛び散る。


 哀れニコルはチェシーに頭から凶悪なる一撃を食らわされ、つぶれ蛙のごとくべちゃ、とテーブルにへばりついた。

「ふむ、私ともあろうものが」

 助け起こす素振りすら見せず、ザフエルがふんと鼻を鳴らす。

「間に合いませんでしたな」

「うっ……」

 顔までずぼっとめりこんだテーブルから、どうにかこうにか首を引っこ抜く。

 ぶるぶると濡れた犬のように頭を振るって我を取り戻すなりニコルはたちまち怒髪天を衝く勢いでチェシーにくってかかった。

「な、何するんですかあっわああメガネにヒビがヒビが!」

「これは失敬」

 チェシーは不遜に言い放ち、再び腰を下ろす。

「君の大切なメガネにまで暴力を振るうつもりはなかった」

 ニコルは怒りと抗議の涙を眼にいっぱいためながら、あやうく粉々に割れるところだったメガネをもぎとってチェシーの鼻先に突きつけた。

「め、メガネと僕とどっちが痛いと思って……!」

「やかましい」

 チェシーはぎろりと凄んだ。よほど腹に据えかねることがあったらしいがニコルにとっては青天の霹靂、まさに理不尽きわまりない暴力である。八つ当たりも良いところだ。

「それ以上しゃべったらぶん殴る」

「何言ってるんです絶対に弁償してもらいま」

「公国元帥ともあろうものが」

 チェシーは馬鹿にしきった口調で口の端をつりあげた。

「たかがメガネ一つでムキになるなよ」

「な、な、何……!」

 ニコルが憤慨で顔を真っ赤にしながら反論しかける。

「食前ですぞ。静かになさい、閣下」

 着席したザフエルは、胸の薔薇十字に触れ祈りを捧げてから、一方へおだやかな視線を、だがもう一方には殺気立つまなざしを突き立てて割って入った。

「さもないと朝ごはん抜きです」

「そ、そんなあ……」

 とか何とか騒がしくしている間に、さっそく卵料理やチーズ、カフェオレといった朝食が運ばれてくる。

 焼きたてのパンがふんわり香ばしくかごに盛られている。

 ニコルは目を輝かせて手を伸ばし、大きめにちぎるなりぱくりとかぶりついた。

「うわあ、あったかくてふわふわ!」

 とろける甘さにすっかり先ほどの一件を忘れ去り、天にも昇る心地でわくわくしながら同席者たちを見渡す。

「これ美味しいです! ほら、ザフエルさんもどうぞどうぞ、チーズもありますよ。あ、そうだすみませんルーカスさんちょっと」

 去りかけの給仕兵を呼び止めて手招きする。

「木いちごのジャムとはちみつあります?」

「もちろん置いてございます、閣下」

 まだ若い給仕兵は、本当に嬉しそうな顔でプラッターを抱えて敬礼し、厨房へ戻っていく。

 チェシーはむっとした顔でパンをとった。

「余計なことは言わなくていい」

「え、だってチェシーさん、前に木いちごのジャムが好きって」

 ニコルは言いかけ、盛大なけんかの真っ最中であったことにはたと思い当たった。たちまちぶぅっと頬をふくらませ、乱雑に椅子へ座り直す。

「お節介で悪かったですね。人の顔見るなりぶん殴るような大人気ない人よりはずっとましかと思いますけど」

 チェシーは返事もしない。ニコルもまたぷいとばかりにそっぽを向き、ともかくも気を鎮めようとして、冷たくしたカフェオレを一口飲んだ。

「ところで閣下」

 すかさずチーズをとりながらザフエルが何食わぬ顔で問いかける。

「昨夜はずいぶんと騒がしかったようですが」

「ぶっ」

 思わず飲みかけのカフェオレを噴出しそうになって、ニコルは鼻を押さえ口ごもった。

「き、聞いてたんですか」

「人聞きの悪いことを」

 ザフエルは冷たくニコルを見やった。

「ノーラス中に聞こえましたぞ」

「ご、ごめんなさい」

 ニコルは恥ずかしさのあまりちぢこまった。

「で、何か困った問題でも」

「い、い、いや、その、別に」

「天井に巨大げじげじの大群を発見したとか」

「そんなことになったら未だに意識不明かと思われます」

「では悪い夢でも見たのですか」

「……う」

「夢の話だけはするな」

 チェシーが険悪に口を挟む。ザフエルは完全にそれを無視した。

「例えばエフワズが予知夢を見せるという可能性もあり得ないことではないですし」

「そっそれだけは!」

 ニコルは悲鳴に近い声をあげて息を呑んだ。

 ごくりと唾を飲み込んでザフエルの乾いた眼を見返し、それからチェシーへおそるおそる視線を移そうとしてあわてて眼をそらす。

「ぜ、ぜ、絶対ないと思います……」

「ならばよろしいのですが」

 おごそかにうなずくザフエルを横目に見ながら、ニコルは何とか無事に言い逃れられたと一安心し、ほっと情けないため息をついた。

 あんな夢が予知夢であってなるものか。そんなことになるぐらいならまだ『迷宮』のまっちょ草を摘んできてチェシー避けに服用したほうが百倍もマシ……と考えたところで、ふと目をぱちくりとさせ、今度はまじまじとザフエルを見つめる。

 まさかそんな些細なことを気に掛けて、様子を見に朝食へ誘い出してくれたのだろうか――

「あ、あの、もしかして、それでわざわざ……?」

 だがザフエルはぼそりとさえぎった。

「いえ、士官食堂周りの惨状を一度ご覧になって頂きたく」

「え」

 ニコルは浮かべていたきらきらの笑顔をぴきん、と凝り固まらせた。つつ、と変な汗が伝う。気のせいか嫌な予感がひしひしと――

「それってまさか」

「さすがは閣下。お察しの通りです」

 ザフエルは雑草が伸び放題になった庭をちらと振り返った。

「本日中に草刈りをお願いします」

「やっぱり……」

 ニコルはめそめそとくずおれた。

「下らん話はするなと言っただろう」

 なんだかんだと文句を垂れつつも話だけは一応聞いていたらしい。運ばれてきたジャムポットからたっぷりスプーン二杯分の真っ赤な山盛りジャムを取り分けながら、チェシーは不機嫌な唸り声をあげた。

「寝覚めの悪い思いをさせやがって。人がせっかく愛らしい女性との火遊びを満喫しようとしていたときにだな」

「はぁっ!?」

 ニコルは凄い勢いで振り返る。

「火遊び!?」

「君のあの不気味な絶叫のせいで全て台無しだ」

 チェシーは嫌みたっぷりに吐き捨てた。

「余りにも腹立たしい。君の顔を見るたびに不快度数が増す。いいか、今後一切私の夢には出入り禁止だ。次現れたら問答無用で」

 ジャムてんこ盛りのパンを、剣代わりにニコルの鼻先へと突きつける。

「斬る」

「こ、こっちこそお断りですよ」

 ニコルはチェシーの手からパンをひったくった。

「すけべが伝染る」

「好色で結構」

 チェシーはにやりと腕を組んだ。

「健全な精神を持ち合わせた男子であれば誰だって妙齢の女体に興味を持つ。当然だ」

「なっ……」

 あまりにもあからさまな態度に、みるみる顔が赤くなっていく。

「い、言うに事欠いてだだだ誰がそんな、は、恥ずかしいこと……!」

「これだからガキは始末に困ると言うんだ」

 ニコルの焦燥を知ってか知らずか、チェシーはやに下がった笑いを絶やさない。

「欲望に正直で何が悪い。仰ぎて天に愧じずだ」

「すっ少しは恥じて下さいよ!」

「断る」


 真に受けるのも馬鹿らしい罵り合いに挟まれながら――

 ザフエルは一人もくもくと朝食をいただいていた。給仕兵を呼んでポットの茶をカップに注がせ、かるく口を付けてからやおらエッグスタンドの卵をスプーンで叩いて殻を割る。ぱらりと塩を振り、あまったるい黄身をスプーンですくっては食す所作は、果たしてまともに話を聞いているのかいないのか。


「そんなこと自慢するほうがどうかしてます!」

 ……ちなみにニコルとチェシーは未だ舌戦中だった。

「閨怨の妬みとはこれまた哀れだな」

「はぁっ!?」

 ニコルは怒りのあまり、がしゃんとテーブルを叩いて立ち上がった。膝に掛けたテーブルナプキンを引っ掴むなりチェシーへ叩きつける。

「仮にも聖騎士の前で、そのようないかがわしいことをよくも!」

 だがどれほど怒りがこもっていようと、しょせんナプキンはナプキンである。いかんせん飛距離が足りず、明後日の方向へ飛んで、ぽそっ、とザフエルの頭上に落ちる。

 スプーンを運ぶ手が止まった。

「……」

 だがニコルは応戦に夢中でザフエルの不運になど気付きもしなかった。びしぃっ! とばかりにチェシーを指さしてけんつくを食らわせる。

「いいい今すぐ発言を撤回し神の前で心からの懺悔を」

「馬鹿らしい」

 チェシーはそれらを目で追いながらフンと鼻先で嘲笑った。肩をすくめ、何か払いのけるような仕草で手をひらひらさせてしらばっくれる。

「懺悔? いかがわしい? いつ私が君らの神を信じると言った。そんな殊勝な台詞、一度として口にした覚えはないね」

「よ、よ、よくもまあぬけぬけと」

 ニコルは握りしめた拳をふるわせてさけんだ。

「そういう態度が我慢ならないって言ってるんです! さっきから聞いてりゃ夢の中だろうが何だろうが見境なしに女の人の話ばっかりして、恥知らずにも程があるとか思わないんですか」

「悪かったな、見境なくて」

 チェシーは突然がらりと態度をひるがえした。業腹もあらわにニコルを睨み付ける。

「さっきから何だ。たかが夢ごときにべらべらべらべら文句つけやがって、そこまで言うなら是非も及ばずだ。あと一息でレイディと事に及べたものをよくもいけしゃあしゃあと邪魔してくれたな。どうしてくれる」

「こっ、事」

 思わず絶句する。

「いいか小僧。私は大人だからな、今回だけは見逃してやるが」

 チェシーはなぜか無意味に勝ち誇って肩をそびやかせた。

「お、お、およ、及……!」

「次邪魔したら命はないぞ。分かったな」


 ニコルは一瞬黙り込んだ。


「な、何だ。文句でもあるのか」

 さすがに危険な兆候を感じ取ったらしい。チェシーはがたりと椅子を鳴らして身をひいた。

「次、ですか……」

 ニコルはひくく言った。

「へーえ……」

 見る間に鼻から耳から怒りの湯気がしゅううう、と立ちのぼって頭上で渦を巻き始める。

「……まだ次があるんだ……」

 チェシーの口元がぎくりとひきつる。

「お、おい、ニコル」

「そうやって人を勝手に」

 ニコルは声をつまらせた。ザフエルは頭にナプキンを載っけたまま表情を変えもしない。

「勝手に……!」

 きっと顔を上げ、涙をいっぱいにためた眼で睨みつける。ニコルは一気に息を吸い込むなり、真っ赤な顔でチェシーを怒鳴りつけた。


「……夢の中にまで連れ込むなあああーー!」


 怒り心頭に発するあまり、目の前にあったコショウのびんやら塩のびんやらをふん掴み、中身がこぼれ落ちるのもかまわずめちゃくちゃに投げつける。

「あああああれだけさんざん人のことをからかっておいてそれでもまだ物足りずにちょっかい出そうなんて何考えてるんですかこのケダモノーー!」

「やかましいっ」

 不意打ちを何とか避けたとはいえ、頭から塩コショウをたっぷり食らわされてさすがのチェシーも今度こそ完全に頭に来たらしい。矢のような小瓶の返球をニコルめがけて容赦なく投げ返す。

「変態筋肉魔ごときに人の恋路を邪魔される筋合いはない!」

「何が恋っぎゃあああ何すんだこんちくしょうっ」

 こうなったらもう目も当てられない。

「痛たたたた! このっ! あ痛たっ!」

 びゅん。蝶のように皿が舞い。

「だから投げるなと言ってるだろうっ」

 ぷす。蜂のようにカテラリーが刺す。

「どっちが……ふがあっ!」

 まるで子供の喧嘩である。ジャムポットやら盛り合わせのフルーツやら、テーブル上に炸裂してはびちゃびちゃと撒き散らされる飛散物を見て、ついにザフエルは冷然と息をついた。

 スプーンを皿にかちりと戻し、頭の上に乗ったままのナプキンを引き下ろして口元を拭く。

 しかるのち。

「痴話喧嘩も程々になさい」

 破壊的な一言を。

 …………ぼそっと。


 静寂が訪れた次の瞬間。


「誰がだ」

「だっ誰がですかあっ!」

 憤然と遮るチェシーの声に、右手にスプーン左手にバナナを振り回しながらジャムとはちみつでべとべとに自爆したニコルの怒鳴り声が重なった。

「ふむ」

 ザフエルは容赦なく続ける。

「息もぴったりですな」

「違いますって!」

「違うと言ってるだろう!」

「ほら、やっぱり」

「だだだだから何でそうなるんですか!」

「だから何でそうなるんだ!」


 再び、静寂。


 ザフエルはふとポケットからマル秘メモを取り出した。何やらやたらと熱心にペンを走らせている。ニコルはまた嫌な予感に襲われた。

「あ、あの」

「何か」

「え、ええとその、何を……書くの?」

「さようですな、熱い友情で結ばれた二人はいつしか」

 ザフエルは身も蓋もなくつぶやいた。

「甘く危険な背徳の愛に目覚め――とか」


「誰がそんなものに目覚めるか!」

「誰がそんなのに目覚めるんですかあっ!」


 これまた二人同時にばんとテーブルを叩き、椅子を蹴って立ち上がった――とたん。

 ニコルのマグカップがひっくり返った。

 こぼれた中身がばしゃあっと純白のテーブルクロスに濃い染みを広げたのを見て、大あわてに慌てて手を伸ばそうとしたところ何故か目の前にザフエルのティーポットがあり、必然的にそれもまた突っ転ばせてしまった、かと思いきや、いきなり丸っこいポットがぐるぐると凄まじい勢いで回り出して、淹れたてあつあつの紅茶を茶葉ごとどぼどぼ大量に噴出するという、まさに悪夢の如き様相を前に、うああああ……と気ばかり動転させながら、どうすればこの場を無事におさめ何事もなかったかのような顔で和やかに食事を再開できるだろうかなどと、それこそどこのどんな神様にも不可能に決まっているであろう度が過ぎた思いにとらわれつつ半ば逃げ、半ば狼狽えて後退ろうと図ったはずが。

 つい椅子に足を取られ、ひっくり返りそうになる。

 かくの如き事態を人は言うのであろう。

 溺れる者は藁をも掴む――我を忘れ、目の前をきらんとかすめた可憐な銀色――テーブルウェイトにはっしと掴まったが運の尽き、と。


 ぎゃぁぁぁぁぁぁ……


 時間が凍りつく。

 永遠にも近い一瞬の最中、ニコルは呆然と考えていた。

 このままずっと……食器やら飲みかけのスープやらフルーツやらまだ手をつけてもいない半熟卵やら何やらがすべて宙に舞い続けていてくれたらどんなにか救われた気持ちになれるだろう、と。

 だが、それは無理なねがいだった。



「……言っておきますが」

 食べかけの半熟卵が乗ったエッグスタンドと銀のスプーンだけをちゃっかり手にしたザフエルは、周辺の惨状を見渡しながら極めて事務的に言った。

「これら什器も、師団の備品ですからな」

 頭にパンかごをかぶってぐったりうつぶせに横たわるニコルの頭に、ごいん、とりんごが転がり落ちる。

「全額弁償していただきます」

「ええっ!」

 ニコルは半泣きで飛び起きた。純白の軍衣はもはやケチャップとカフェオレとジャムの迷彩模様である。

「そ、そんな!」

「閣下の埒もない失態のせいで予算が足りず重装備を手に出来なかった前線の兵士百人が無駄死にしたらどうします。この無駄にした食料のぶんだけ兵士が飢え死にしたら、どう責任を取って頂けるのです」

「ううっ」

「このまま貴方を放置しておけばいずれ百人が千人に、千人が一万人に膨れ上がってゆくでしょう。この人殺し。人殺し。人殺し」

「うっ……」

 ニコルはみるみる青ざめた。見る間に眼を涙でいっぱいにしたかと思うと、うわぁぁぁぁんと腕に顔を埋めて泣きながら逃げ出した。

「ご、ごめんなさ……僕のせいで!! あああ何て事をしちゃったんだ!」

 号泣だけが遠ざかってゆく。ザフエルは満足したのか、冷ややかにつぶやいた。

「……これぐらい釘を差しておけば大丈夫ですな」

「おい」

 げっそりと疲れ切ったため息をついて、チェシーは立ち上がった。

「よくもまあ、それだけ堂々と戯言をものにできるな」

 皮肉たっぷりに言う。

「光栄ですな」

「あんたが下らないことを言うからあの馬鹿が勘違いするんじゃないのか」

「閣下の場合は」

 こつん、と音を立ててテーブルにエッグスタンドを戻す。ザフエルはチェシーを見もしなかった。

「勘違いさせるぐらいでちょうどいいのです。少しは人を疑うことを知ったほうがいい」

 廊下まで点々と続くカフェオレと紅茶と涙の入り混じった足跡をながめている。毒のあるまなざしだった。

「信じた相手に裏切られるぐらいなら、最初から信じない方がマシですからな」

「あんたのほうがよほど――いや、失礼」

 チェシーはさも愉快そうに声をたてて笑った。

「何はともあれ面と向かっての御高説痛み入るよ。肝に銘じておくとしよう」

「そうされるがよろしいでしょう」

 しらじらと乾いた目を向け、ザフエルもまた立ち去る。

 チェシーは割れたカップを指にひっかけて拾い上げた。馬鹿にしきった笑いをうかべる。

「何が一万人だ。とんだ安物じゃないか」

 言いかけてふと、考え込む。

「待てよ、あの馬鹿」

 喧嘩の最中に交わした言葉がやたらとひっかかる。チェシーは眉根を寄せた。

「誰があんなちびを連れ込んだりするか」

 抗わなければ吸い込まれてしまいそうな聖ローゼンの虚無。その在処を探る最中、よりによってあんな夢を見てしまうとは。


 ――あの夜貴方に逢ったニコラも、今、貴方と向かい合っているニコルも――


 チェシーはしばらく唸っていたが、やがて苦笑いして頭を振った。

「いくらなんでも」

 やれやれと肩をすくめる。

「……そんな馬鹿げた話、あるはずもないか」


【第七話 終】

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