第6話 むっつり鉄血参謀の陰険にして華麗なる日常

■第6話 ザフエル・フォン・ホーラダイン中将の陰険にして華麗なる日常


「レゾンド大尉はいるか」

 涼やかにしてよどみない声が発せられる。

 土埃どころか染み一つない軍靴の踵音を神経質にひびかせ、つかつかと自らの執務室へ歩み入ったザフエルは、デスク脇に掲げられた聖ローゼンクロイツの軍旗前で立ち止まった。

 胸に手を当て聖十字を切ってから、一瞬の間をおいてデスクの角に置いた鈴を叩く。

 ほどなく狼狽した体のレゾンド副官が控えの間から走り込んできた。

「はっ」

 隙一つ無い直立不動の敬礼。はるかに年若なはずの上官に対しまぎれもない緊張と畏怖の面持ちで対峙している。

 だがそれも詮無いことだ。今、この場に、あのおっちょこちょいのぐりぐりメガネのへなちょこ公国元帥ニコル・ディス・アーテュラス――とりあえず師団で一番エライ人ということになっているわりには、何故かやたら号泣しつつ脱走する後ろ姿をしょっちゅう目撃されている――がいないのであるからして。

「お呼びでしょうか、中将閣下」

 ザフエルの本性を知らぬ大多数の兵にとっては、師団長が側にいようがいまいが、今も昔も恐怖の対象であることに変わりはない。

 呼びつけと同時に返答なしとみるやドアを爆破し。

 提出した書類に一文字の誤字脱字あらば全資料を灰燼とせしめ。

 求めた説明に満足のいく結論を見いだせないときは容赦なく懲戒と粛清を口にしてきた、潔癖にして豪辣なる冷血の軍人――

 聖ティセニア公国軍第五師団参謀長、ザフエル・フォン・ホーラダイン中将。


 黒髪黒瞳の参謀は副官を横目に早々と席へ着いた。

「ゾロ博士はご到着か」

 問いつつも手はすでに忙しく書類のより分けに動いている。

「会議室にてお待ちいただいております。いつでも講義を再開できるとの」

「そんな暇はない」

 ザフエルは再び呼び鈴を鳴らし、従卒に茶湯を淹れてくるよう命じた。次いで壁に取り付けた伝声管の蓋をはね上げて横にずらし、聞こえ具合を確かめる。

「隣室にお呼びしろ。伝声管を通して聞く」

「はあっ?」

 素っ頓狂に声が裏返ったところを見ると、どうやらレゾンドは驚愕したらしい。ザフエルは冷ややかに見返した。

「何か異論でもあるのか、大尉」

「い、いえ、了解いたしました、直ちに」

 あわててきびすを返すレゾンドの背に向かい、ザフエルは追い打ちを掛けるかのようにするどく言いかぶせた。

「戻ったら通信所からの報告を聞く。急げ」

 レゾンドが去ると、入れ替わりに従卒が茶を運んできた。どこかおどおどとしているのを一睨みで追い払う。

 周囲に気配がないのを確かめてから、ザフエルはようやく気を緩め、ひとつふたつばかり吐息をついた。

 椅子を寄せ、机の引き出しに手を掛けて封書を取り出す。

 神殿騎士団からの命令書だ。

 聖ローゼンクロイツの封蝋がされた、いかにも分厚い書類つづりを一枚ずつ紐解きながら、ざっと目を通してゆく。曰く、異教徒から目を離すな練術の成果はどうなっている召喚の術を会得せよ異端分子の監視をくれぐれも怠るな聖女の行方を――

「煩いことだ」

 無造作に命令書を背後へポイ。

「誰が貴様等の命など」

 ぶつぶつつぶやきつつ、今度は胸のポケットから心のオアシスこと『ニコル司令マル秘メモ』を引っ張り出す。

 何処を読んでも情熱と友愛と忠誠心にあふれたメモだ。ニコルの日常をこれでもかとばかりに事細かく書きつづっている。

 ザフエルはゆっくりと手帳を繰った。つい先日書いたばかりの最新頁を開く。


 ※最重要機密――白。


 ザフエルは眉間に皺を寄せ、しばし無言でメモを眺めた。

 表情こそ微動だにしないままだが内心の動揺は隠せない。数日前の自分は何を考えてこれを最重要と判断し書き留めたのか。信じがたい暗愚さである。よほど恐慌をきたしていたのか、それとも。

 しかし……白、である。

 同じ白でも形状は多種多様。三角とかかぼちゃとかレースとか、とにかくさまざまな素材形態のそれを、嫌がる本人に対し着用を無理強いし恥ずかしがらせ……いや違う……可憐な肖像を力いっぱい激しく妄想……いや違う……ぼんやりと夢想し、脳内でくるくる回転させてみる。


 ……。

 …………。

 まあ……逸る気持ちは分からぬでも……。


 ということであっさり納得し、書類盆から新しい紙を取りだす。

 しかしこのマル秘メモ、そのまま書き写せば懲戒除隊どころか破門すらくらいかねない。

 よって脳内頁に換算すれば軽く数千行に及ぶであろう妄想の塊は対外的に存在を完全に隠匿し、新たに一般向け報告書をしたためることとする。

「某月某日ゾディアック軍との戦闘あり。勝利。敵軍砲を多数ろ獲。捕虜九百名超。我が方の被害は軽微にして軍務遂行に一片の支障なし」

 それだけを書いて紙を折りたたみ、封に入れて蝋を落とし印を捺す。

「よう、ホーラダイン」

 と、いきなり扉が開いた。傍若無人なしゃがれ声とともに迷彩服姿の軍人が入ってくる。

「相変わらず副官を馬車馬の如くこき使っていらっしゃるご様子で」

「泥靴は立ち入り禁止です、アンドレーエ卿」

「何言ってやがる」

 現れたのは、いかにも陽気な風体の将校だった。

 人懐っこい雰囲気を振りまくはしばみ色の明るい眼に俊敏な身のこなし、くしゃくしゃの茶髪。

 一見泥まみれにしか見えないぼろ服を着てはいるが、迷彩服の襟元に光るのはまぎれもなくザフエルよりも上の階級、元帥の略章だった。

「泥んこ川をえっちらおっちらと渡って、分捕り品を接収してきてやった功労者さまに向かって何だその言いぐさは」

「話は靴の泥を落としてから承ります」

「人をこそ泥みたいに言うなっつうの」

 アンドレーエ元帥はぼさぼさ頭をかきつつ、笑顔で毒づいた。

「それよりアーテュラスはどこだ。巷で噂の亡命者とか何とか、紹介したい奴がいるって言うから、わざわざ顔を出しに来たのに」

「閣下でしたら」

 言いかけてザフエルは唐突に口をつぐんだ。

 紹介したい相手とは言うまでもなくチェシー・エルドレイ・サリスヴァールのことに違いあるまい。傲岸な無神論者、敵国ゾディアックの将、金髪碧眼の悪魔――

 と、なれば。

 あからさまに失望した素振りで、そらぞらしい吐息をついてみせる。

「本日は倒壊した分派堡塁の検分で御不在のはず」

「マジかよ、てめえで呼んどいてすっぽかしやがるとはふてえ野郎だ」

 そのとき伝声管の向こう側が何やら騒がしくなった。

 ぜぇぜぇと疲れ果てた息づかいが伝わってくる。おそらく練術師のゾロ博士が隣室に到着したのであろう。かなり急かされたらしく、ひどく咳き込んでいる。

(な、な、なぜ儂がこのような目に遭わねばならぬ……のですじゃ)

 ザフエルは伝声管越しに淡々とした声を浴びせかけた。

「ご足労いただいて申し訳ないですなゾロ博士。ではさっそく」

 口先だけは慇懃にねぎらっているが、当然思いやる気持ちなどヒトカケラもありはしない。

(あいや少々、少々お待ちを)

 悲鳴のような声があがる。

(せめて水を一杯……)

「講義を始めていただきたい」

 ぴしゃりと言う。なぜかどんがらがしゃんと人のひっくり返る音が聞こえた。


 ようやくゾロ博士の練術講義が始まったところで、ザフエルは再びレゾンド大尉を呼んだ。

 その間、捨ておかれたアンドレーエは、何とも所在なさそうな態度で部屋をうろうろし、あくびなどしている。

「報告の続きだ」

「あ、あの、ゾロ博士は」

「ちゃんと聞こえている」

「い、いえ、そういう問題では」

「ならば無駄口を叩くな」

 軽く促した――つもりがなぜか恫喝に聞こえてしまったらしい。レゾンド副官はみるみる青ざめ、ものすごい早口で手にした書類を読み上げ始めた。

「第七通信線より報告。敵将アルトゥーリ麾下ゾディアック第十師団はさらに後退。予備兵力を投入し、態勢の立て直しをはかろうとするものと思われます」

「うむ」

 先の防衛戦では、かろうじて勝利を収めたティセニア軍だったが、いつ手痛い反撃を食らうか知れたものではない。油断はできなかった。

 ぼうっとしているようでいて一応それなりの聞き耳だけは立てていたらしく、すかさずアンドレーエが補足する。

「いや、どうやら動いてるのは予備兵だけじゃねえらしい。未確認情報だが、敵の第四師団がアルトゥシー方面に南下を始めている。こっちに来るかどうかはまだ何とも言えねえ状況だ」

「アルトゥシーか。シャーリア殿下の第一師団が近いが」

 ザフエルは冷ややかな眼を戦略地図へと落とす。

「補給はどうなっている」

 レゾンド大尉は報告書をめくり、細かい数字をひとつひとつ挙げ始めた。

 シャーリア公女率いる第一師団は輝かしい戦績を誇るわりに惨憺たる実体しかない。予備兵援軍要請の回数、弾薬の消費が他師団と比べて多すぎ、そのくせ医薬品や衛生用品などの要求は少なく、糧食に気をつかわない。現在も無駄に兵站線を長引かせる行軍を行ったせいで補給が間に合わず、作戦行動休止状態に陥っている。

「シャーリア殿下にはゾディアック第十師団追撃の名目で回避行動を取っていただくことにしよう」

 ザフエルは冷静に続けた。

「アンドレーエ卿には援護をお願いしたい」

「やれやれまたとんぼ返りか」

「第一師団の西翼に回り込み、敵援軍との接触を妨害。可能であれば敵地の物資を略奪し、第一師団に供給できるよう計らってもらいたい。それともう一つ」

 ザフエルは仏頂面でつけくわえた。

「一刻も早く、その泥靴を何とか」

「ちっ、そんなに泥が嫌いなら帰ってやるよ」

 アンドレーエは拗ねた顔で笑った。

「じゃあな。アーテュラスと新人亡命将校どのによろしく言っておいてくれ」

 手を振って執務室から出てゆく。

 レゾンド大尉が恐縮の面持ちで引き留めようとするのを、ザフエルはぎろりと横目に睨んで黙らせた。これで良し。唯一の懸案さえ片づけてしまえば、あとに残るのは些末な事項ばかりだ。

 ディ主計官を呼び、強化胸甲の導入予定について質問、次いで、一度本当に視察に赴いてからと思いつつ敵襲により倒壊した環状分派堡塁の再建および新規設営の見積を命じる。

「委細承知仕りました」

「うむ」

 すべてにおいて満足できる回答を得たところでザフエルは一息つき、壁にかかった宗教画を見上げた。

 ひざまずくハガラズの聖女。

 ほのぐらい光がさしかかる。頭上には幼い天使。右の手に漆黒のルーン、左の手に黒い羽を持った天使は、胸に手をあてがった聖女に向かい、まるでどちらかを選べとでも言うかのように微笑んでいる。

 見つめる薔薇の瞳――

 ザフエルはふいに立ち上がった。そういえば朝から一度も声を聞いていない。

「以上だ、レゾンド大尉。下がってよし。私は出かける」

「はっ?」

 再びレゾンド大尉の声が裏返る。

「ど、どちらに」

「下がれと言ったはずだが」

 顔を引きつらせる副官を非情にも無視してザフエルは歩き出す。

 背後からゾロ博士のかすれきった声がへなへなと続いている。もちろん、退室を報せることもなく放置するザフエルなのであった。



 どうせいないだろうと思いつつ、とりあえずニコル・ディス・アーテュラスの執務室を覗いてみる。

 ドアは開け放しになっていた。しんとして人の気配もない。


 ……やはりいない。


 しばらくの間、無人の、そして乱雑に散らかった執務室を眺める。

 机の脇には聖ローゼンクロイツとティセニアの美しい軍旗。

 白いカバーのかかったソファには、ふちをかがらない麦わら帽子や黒土のついたタオル、軍手といったものが無造作に放り出されている。ちぎれた草が数本くっついているところを見ると、野菜畑に出て水やりをしたあと草むしりでもしたか。

 執務机はもっと悲惨だ。萌葱色のギンガムを貼った籐籠には山盛りの毛糸。手芸用はさみ。棒針。本が数冊。青みを帯びた広口びんに詰め込まれた色とりどりのキャンディに挫折寸前と思われるジグソーパズル。

 どうやら部屋中好き放題に散らかしたまま、何処かへ逃奔したらしい。

 とはいえ仕事しようとした痕跡もないではない。机の上と言わず床と言わず、くしゃくしゃに握りつぶした書き損じの命令書が散らばっている。

 ザフエルは机に歩み寄り、びんの中からキャンディを数個選り出し、つまんだ。一個を口に含み、残りをちゃっかりポケットへ収める。

「いちごミルク味……」

 片頬をぷくりとふくらませ、もごもごとさせつつ床に落ちた書類に目をやる。

「ふむ」

 かるく膝をつき、手を伸ばして拾い上げる。

「各軍団は衛生兵の増員と救急馬車連結道の整備を急ぐげげ」

 いつもながらくにゃくにゃと下手な字だ。つづりを間違った挙げ句、盛大にインクをこぼし、まっ黒けの台無しにしている。

 ザフエルは冷ややかな一瞥をくれたあと、命令書を元通りに丸め直して横へ放り投げた。そのままゆっくりと視線を戻す。

 机の上には資料室から持ち出してきたらしい古ぼけた装丁の本が数冊積み上げられていた。


【近代兵站論と軍制改革】

【有畜農業および綿羊の飼い方とその手引き】

【毛刈りマイスターへの道】

【毛糸の紡ぎ方大事典】

【初めてでも簡単 男の手編み☆】


 ……何だこれは。


 『近代兵站論と軍制改革』はいい。それは認めるが、なぜ軍制改革から有畜農業を経て季節はずれの手編みにまで至らなければならないのか、その変遷過程に一貫性必然性および論理的思考の介在をまったく感じ取れないというのは師団長のとるべき姿勢としてどうかと――

 ザフエルは無言で本と毛糸の山を見比べた。やや表情をけわしくして毛玉をかき分ける。

 あった。つまみ上げる。

 中に埋もれていたのはまだらのヒモだ。おそらく穴だらけのマフラーか、穴だらけの腹巻きか、穴だらけの帽子のいずれかになるであろうと思われる絶望的な出来のブツ。


 欲しい。


 だが下手にそんなことを言えば真夏にマフラーぐるぐる巻きの刑という焦熱地獄を見るはめに陥りかねない。ここは断腸の思いで見なかったことにし、早々に立ち去るべくきびすを返す。

 ドアを開けると、ふと、すずやかに薫る風が背後から吹き込んできた。

 髪がはらりとみだれる。

 ザフエルは足を止めた。振り返り、光あふるる窓辺をしばしながめてから、翠霞立つ山嶺に遠く眼を移す。

 こんな天気のときは――

「でーとですな」

 ザフエルはソファの麦わら帽子を掴み、しずかに部屋を後にした。

 向かうは中庭である。

 ニコルが大切にしている野菜畑の隣を通り過ぎ、木漏れ日がきらきらと揺れる小池を渡って、雑草の向こう側に見える茶色い建物へと歩いてゆく。

 近づくにつれ各種軍畜動物の発するブー、とかコケー、とかいう噪音がかまびすしくなってきた。漂ってくる厩舎特有の香りまでもが、つんとして刺激的だ。

 ザフエルは天を仰ぎ嘆息した。これ以上はどうしても近づく気になれず、やや離れた場所からニコルを捜す。

 めぇぇぇ、と鳴く声が聞こえる。

 幾棟か並び立つ畜舎のひとつ、羊舎の前に設置された広場の隅に羊の群れが寄り集まって押し合いへし合いしている。

 どうやら剪毛作業の最中らしい。

 飼育兵が羊を一頭捕まえた。足を伸ばし尻座りした体勢で前足をひょいと挙手させ、見事な手際で一糸まとわぬ裸の状態へと刈り込んでゆく。

 みるみる積み上がってゆく羊毛の山の手前に、元帥の略式軍装に身をつつんだ人物が、どこか物憂げな頬杖を突いてぼんやりとしているのが目に入った。

 ニコル・ディス・アーテュラス。

 若くして公国軍元帥に登りつめ、第五師団の長としてこのノーラス城砦のみならずティセニア防衛という最大最難の重責を担う人物に――

「……閣下」

 ザフエルはいきなり背後からにゅっと近づいて声を掛けた。

 いつもの如くうわあ! と飛び上がり悲鳴を上げるかと思いきや、意外にもニコルはささめく吐息をもらしただけだった。

 柵にしがみつき、何を言っているのやらさっぱり見当も付かない謎の言語をほっぺたの中でむにゃむにゃと反芻し続けている。

 どうやら、立ったまま寝ているらしい。ザフエルは立ち止まった。

「閣下」

 先ほどよりやや強い語気で呼びかけてみる。

 が、やはり起きる様子はない。

 ザフエルはすたすたとニコルに歩み寄った。この千載一遇の機会を逃す術はない例え悲鳴を上げられようが吹っ飛ばされようが今日こそ熱烈なる偏愛の告白、情熱のセクハラ抱擁、そして嫌がらせの限りを尽くした背徳のくちづけを実行だ突撃だよし行け行くのだ――

 爆裂する妄想とともに突進しようとした、そのとき。

 ふと、ニコルの寝顔が目に入った。


 何という……とろんとした……。


 ザフエルはひく、と口の端を引きつらせた。とりあえずむっつりと視線を戻す。あまりの愛しさに危うく一線を越えてしまうところだった……。

 とにかくここは無念無想の境地を取り戻さねばなるまい。

 と、いうことで不自然に広げたまま硬直していた両手を引っ込め、腕を組み、静かに眼を閉じる。

 して如何なる手法を用いて起こすべきか、しばしの間沈思黙考に耽った――つもりが。

 つい片方の眼だけを半眼に開いて、ちらり、と横目に盗み見てしまう。

 ザフエルはごほごほと咳払いした。だが、どういうわけか、見たいという欲求を抑えることができない。

 仕方なく、ちらりと。

 見る。目を伏せる。唸る。

 また我慢できなくなって、ちらり。

 ちらり。さらに、ちらり。もう唸り声も出ない。

 あっけなく我慢の限界に達したところで、ザフエルは、ふんと鼻を鳴らすや深く息を吸って前に進み出た。

 じろり、と、惰眠貪り中のニコルを見下ろす。

 あくまでも落ち着き払った表情である。腕も後ろ手に組んだままだ。

 当然だ。何をうろたえることがあろう。そもそも聖騎士たるもの軍人である前に末端とはいえ聖ローゼンクロイツの聖職位なのであるからして寝顔如きに惑わされるなどあり得るわけもな――


 吹きすぎる風が寝乱れた髪をくしゃりと揺らす。

 ザフエルは声を呑んだ。

 たゆたう木漏れ日の透き影。遠い小鳥のさえずり。

 また、風がそよぐ。

 ニコルが鼻に掛かったあまやかな寝息をたてる。

 まつげに残ったあくびの跡らしき涙の粒がぽつんと光って、白河夜船の鼻ちょうちんがぷぅ……


 ……鼻ちょうちん……!?


 ニコルは相変わらずうっとりとした寝顔でまくら代わりの柵に抱きついている。

 ふくらんだ鼻ちょうちんがひょろろ、としぼんだ。また、ぷぅ、と膨らむ。

 ザフエルはぴき、と柳眉を逆立てた。

 平時とはいえ軍務中にそこまで熟睡するとは良い度胸である。かくなる上はもはや最終手段を執るより他にすべはない。

 まずは軽く耳元にあやしい愛をささやいたのち、聖職者にあるまじきあんなことやこんなことやそんなことといった有難くも感動的な説教の数々を身体の芯までぐったりねっとりたっぷりじっくりねちねちねちねちと延々思い知らせ――


 突然、ぱちんと鼻ちょうちんが割れた。

「なっ、何」

 ニコルは、がばと上半身を跳ね起こした。あたふたと左右を見渡す。右手にはめた赤いルーンが切迫した明滅を放っている。

 どうやら、不覚にも悶々と立ちのぼらせてしまった暗黒のオーラに気付かれてしまったらしい。

 さすがは奇襲探知のルーン、先制のエフワズ使いだ。ザフエルは内心、むすりとした。

「お目覚めですか、閣下」

 だが宮仕えの身ではそんな我が儘など言ってはいられない。仕方なく何食わぬ顔を取りつくろって、丁重に声を掛ける。

「ああ、ザフエルさんか。びっくりした。おはようございます」

 ティセニア公国元帥、ニコル・ディス・アーテュラスは肩越しに振り返った。薔薇の眼が大きく見開かれている。

「どうかなさいましたか」

 素知らぬていで問う。ニコルは何やら怖じ気づいたかのように口の端を引きつらせた。

「い、いえ、虫の知らせと言うか何と言うか、耐え難い悪寒が」

 ぶるっと肩を震わせる。ザフエルは冷ややかなまなざしでニコルを見返した。

 こんなところで昼間からくだを巻いておきながら何をか言わんやである。かくも遊惰な有り様では、いずれ元帥としての指揮統帥能力を無能大臣バラルデスあたりに問われ、更迭されかねない。

「閣下、居眠りとは浮薄にすぎますぞ」

 本当は怒っているのだと知らしめねばなるまい。せっかくの楽しい覗き見のひとときを鼻ちょうちんで台無しにされたとか、そんな大人気ない理由で腹を立てているわけではないのだ。

 声をひくくし、脅すような口調で告げる。

「いくら師団長と言えどこれは目に余る所業かと存じ――」


 めぇぇぇ。


 いきなり羊たちが声をそろえ一斉に鳴き出した。ものすごい音量である。

「は?」

 ニコルは耳に手をあてて小首をかしげた。

「何て仰有いました?」

「ですから執務をおろそかに」

 めぇ。めぇぇ。

「え、よく聞こえ……」

 めぇぇぇ。めぇぇぇぇ。

「……と申し上げているのが」

 めぇぇぇぇぇ。めぇぇぇぇぇぇ。

「なぜお分かりに」

 めぇぇぇぇぇぇぇ。

「だから聞こえないって」

 めぇぇぇぇぇぇぇぇ。めぇぇぇぇぇぇぇぇぇー。


 ……。


 ザフエルは口をつぐんだ。凍てつく闇のまなざしで羊どもを睨みすえる。

 本来ならば即刻このめえめえと煩い生贄どもをディナーの刑に処すところであるが、聖ローゼンクロイツの首座騎士伯にしてティセニア公国軍中将たる自分が、たかだかひつじ混声四獣合唱団ごときの粗相に目くじら立てるなど笑止千万。よって寛大なる処置として罪一等を減じてやることとし、ザフエル自身は悔しまぎれにフンと目をそむける。

 そんなことよりも重要なのは本題である。

「閣下、実は……」

 と、分派堡塁建設予定地の視察について説明を始める。聞き終わったニコルは、妙に納得した顔でぽんと手を打った。

「何だ、視察の話だったんですね。いいですよ。で、いつ行けばいいんです?」

「本日ただいまより」

「え」

 ニコルは眼を押し開いた。

「何か不都合でも」

 じろりと見やる。

「いえ、あの」

 ニコルはあわあわとうろたえて口ごもった。

「アンドレーエさんが来てるはずなんですけど、えっと、その、良い機会なんで、午後からチェシーさんを紹介しておこうかなってことで、お引き合わせする約束をしてまして」

「アンドレーエ卿でしたら先ほど帰りました」

 間髪を入れず言い放つ。

「ええっ」

 さすがに予想外だったらしく、ニコルは眼を丸くした。

「もう帰っちゃったんですか。せっかく久しぶりに会えると思ったのに、そんなあ」

「くれぐれも閣下によろしくお伝えしてほしいとのことでした」

 まさかわざと追い返したとは口が裂けても言えない。視察だの検分だの、そんなものは口から出任せ、理由など在って無きが如し。本心は当然こうである……せっかくの楽しい午後の逢瀬をお邪魔虫連中ごときに邪魔されてなるものか……。

「う、うーん」

 ニコルはザフエルの陰謀を知ってか知らずか、しょぼんと落胆した様子で肩を落とした。が、すぐに気を取り直し、鼻をこすり上げて顔を上げる。

「じゃ、僕チェシーさんに、ちょっとお断りしてきます」

「その必要はありません。副官を通じて連絡を入れさせてあります」

 ザフエルはぴしゃりとさえぎった。ここで下手に接触され妨害工作が発覚しては元も子もない。

 ニコルは疑わしげに微苦笑した。頭をぽりぽりとかく。

「ザフエルさん、少々手際良すぎでは」

「恐れ入ります。では馬を牽いて参りますので」

 しらじらしくとぼけてみせる。そこでザフエルはふと思い出し、手にした帽子を差し出した。

「帽子をどうぞ」

「あっ僕の帽子! わざわざすみません。ありがとうございます」

 ニコルは帽子につられてぱっと表情をかがやかせた。こぼれんばかりの笑顔で受け取る。

「やっぱり帽子は麦わらに限りますよねえ」

 さっそくあみだにかぶり、つばの先をつまんで角度をいじっている。

 確かに本人の言うとおりだ。ティセニア広しと言えど、ニコルほど麦わら帽子とタオルと軍手の着合わせが似合う元帥はいないだろう。

「ふむ」

 そんな様子もまたフンと鼻先であしらいつつ、ザフエルは穏やかに目をほそめた。



「けだかき~ばらに~~いだ~か~れし~~」

 調子っぱずれの歌が、明るい森の小径に響いている。

「みどりご~は~~こころ~やすくねむ~~りたも~う~~」


 蹄の音もぽくぽくと、ザフエルとニコルはそれぞれの馬を打たせていた。

 ゆらゆらと折り重なる陽だまりに、ほんのり甘い土の薫りが立ちこめている。

 射し込む陽が新緑の色にうっすらと透けて見える。まるで光の薄羽がたなびいているかのようだった。色とりどりの小さな花が道ばたに咲きこぼれている。

「何ですそれは」

「聖歌ですけど」

 まるで聖歌に聞こえないから尋ねているのだが。

 ザフエルはあきれて首を振った。どうやら質問の意図を理解していないらしい。仕方なくそのまま続ける。

「少々声がお高いのでは」

「大丈夫大丈夫」

 まるで気にも留めていない。

 お手馬である芦毛の鞍上に揺られながら、ニコルは相も変わらずのんきな仕草で手首にはめた美しい赤のルーンを撫でた。

「ほら、エフワズにも全然それっぽい反応ないですし」


 ――この世界には、いくつかの稀少な宝珠が存在する。

 たぐいまれなる福音、旧きルーン一文字を刻んだそれらの珠は、薔薇の聖女と呼びならわされる乙女の祈りによって神々より授けられる。

 存在が確認されているルーンの種類は、二十五柱。聖女を守護する騎士に、人智を越えた絶大なる力を与えるとされている。

 だが、実際にルーンを手に出来る者は限られていた。守護騎士自身が、ルーンの呪力を制御しきれないためだ。

 ルーンを制御できるのは、ルーンに選ばれし者だけ。

 今現在、第五師団に存在するルーンは、師団長であるニコルの所持する先制のエフワズ、封殺のナウシズ。

 参謀であるザフエルが持つ破壊のハガラズ。

 そして、聖騎士ではないが、敵国より亡命してきたチェシーの持つ栄光のティワズ。この四種のみであった。


「反応がないと言われましても」

 ザフエルが繰り返してつぶやく。

「先日もそうぬけぬけと言いつつ、敵軍の侵入を許したではないですか」

「えっ、あれを僕のせいにしますか」

 ニコルは不満そうにくちびるをとがらせた。ぷいと横を向く。

「ザフエルさんが練術に失敗してヘンテコなものを出したりしなければ、もっと早く気づいたはずです」

「しかし、いつどこでゾディアックの残党と遭遇するやもしれぬ今の状況では」

 さらに続けようとするザフエルを、ニコルは手をさっと振ってさえぎった。

「歌ぐらい別にいいじゃないですか。僕だって、いつまでもちっちゃい子なんかじゃないんだから。ザフエルさんと知り合って何年になると思ってるんです」

 屁理屈をこねる駄々っ子のように言い返され、ザフエルは頭の中でニコルの誕生日とされている日のことを思い浮かべた。

 ざっと逆算し、無表情に答える。

「何年と言われましても、たかだか六年と七十八日かと」

「たかだかじゃないでしょう。ルーンの聖騎士叙任から六年ですよ六年。もう立派な大人と言ってもはばかりない年齢です!」

「ふむ、すぐ仕事を放り出して遊びに行くのが大人の所行ですか」

「う」

「執務室中におもちゃを散らかしっぱなしにするのが大人ですか」

「ううっ」

「あの頃と比べても、まったく遜色ない御成長ぶりで何よりですな」

 ザフエルは仕上げにぴしゃりと嫌みを言って黙らせた。

「そんなに言わなくっても」

 よほど図星だったらしい。しょんぼりとうなだれている。

「でも、昔のザフエルさんよりはましだと思うんですけど」

 さすがに聞き捨てならない。ザフエルはじろりとニコルを睨み返した。

「今の私と何がどう違うと」

「何言ってるんです忘れもしませんよ初めて逢った時のことは」

 ニコルは麦わら帽子を後ろにはねとばし、大袈裟な身振り手振りを交えて、力説し始めた。

「笑わないししゃべらないし人の話全然聞いてないし、しばらくは何でこの人が僕の副官なんだろうって本気で悩みましたもの。だいたいザフエルさん僕のことを全然上官だと思ってないでしょう。いくら年下だからって、これでも一応は聖騎士だし~、元帥だし~、師団長だし~、それから、えっと、あと何かそれっぽい肩書きなかったっけ……」

 放っておけば際限なく続くであろう繰り言を右から左へ聞き流しながら、ザフエルはふと、ニコルと共に過ごしてきた歳月に思いをはせた。


 最初から、今のように思っていたわけではない。

 監視役を命じられたこと自体には何の感慨も湧かなかった。

 ただ、その無垢な瞳に宿ったけざやかな薔薇の福音だけがひたすらに呪わしく、ねたましく、苛立たしく――


「でも今はそうじゃないっていうか」

 照れたような困ったような遠い目をしてから、ニコルはちらっとはにかんだ笑顔を見せた。

「ザフエルさんにもちょっとは優しいところがあるんだなあって」

「ちょっとで悪うございましたな」

 そっけなく言い返す。ニコルは、ぐっと言葉に詰まった。

「いや、べ、別にそういう意味では」

「ではどういう意味です」

「だからその」

 みるみる顔が青くなっていく。

「つまりええと鬼の目にも涙っていうか」

 どうあっても、さらに墓穴を掘りたいらしい。

「誰が鬼です」

「い、い、いや間違えた、そうじゃなくってあの」

 どうしようもない逃げ腰で慌てふためいた、そのとき。

 焦って振り回したニコルの指先が手綱に引っかかった。馬に噛ませたくつわが、ぐいと横へ引きずられる。

 いきなりの乱暴な扱いにニコルの馬は猛々しく首をしならせた。灰色のたてがみを炎のように振り立て、高々といななく。

「きゃあっ!」

 振り落とされそうになり、ニコルは思わず鞍にしがみついた。手綱が手から離れる。

 芦毛馬は闇雲に跳ねあがった。

 完全に制御を失っている。

 ザフエルは即座に膝で馬の腹を蹴った。前方に、ニコルを乗せて暴走する芦毛馬ががむしゃらに走ってゆくのが見えた。あっという間に姿が見えなくなる。

 前のめりに体重をかけ、猛追する。土を蹴る蹄の音が、絡み合うように森を疾走した。

「うわああん止めておねがいザフエルさん何とかして……!」

 けたたましい泣き声が尾を引く。

「ちょちょちょちょっと待って行かないでそこはだめぎゃあぁぁぁ……」

 ただならぬ響きに顔を上げると。

 ニコルを乗せた芦毛は、狭い道を一直線に――大きく右傾した角を曲がる素振りすら見せず、突っ切ってゆこうとする。

 白い馬体が、がくっと沈み込んだように消えた。悲痛ないななきが空へと放たれる。斜面から転がり落ちたに違いない。

「痛い痛いぶつかる落ちるうぅぅぅ!」

 めきめきと小枝のへし折れる音が響き渡った。加えて水音やら地滑りの音やらが入り交じる。盛大な水しぶきの音がはじけ飛んだところを見ると、どうやら川に突っ込んだらしかった。

「あぅぅぅぅ……」

 悲鳴ばかりがどんどん遠ざかってゆく。

 ザフエルは思い切って森の中へ馬を乗り入れた。びしりと肌を裂くするどい枝に片頬をゆがめつつ、草をちぎり飛ばし、土くれを蹴立てて、斜面を豪快に駆け下りる。

 突然、目の前が明るく開けた。

 小川だ。

 ザフエルの騎乗する鹿毛は、ぐっとはみを取るなり全身の筋肉を躍動させ、一完歩で流れを飛び越えた。

 エメラルドと真珠の色に輝く小川の縁に水しぶきをまきちらして着地し、体勢ひとつ崩さずに走り抜けながら甲高くいななく。

 だが、さすがにこのまま河原を駆けるのは足場が悪すぎる。ザフエルは手綱を引き、馬首を返して周辺を見渡した。

「閣下、どちらに」

 声が返っては来まいかと耳を澄まし、ざわめく森の気配を探る。

 かすかないななきが聞こえた。

 ザフエルは声のする方向へと馬を駆り立てた。しばらく馬なりに進んでゆくと、ぬかるんだ土手から川に向かって倒れ込む樹木があった。

 灰色まじりの白い馬体が覗き見えている。

「まったく」

 ザフエルは安堵と苦々しい思いの入り交じった声を掛けた。倒木の裏側へと回り込む。

「おたわむれもいい加減に」

 だがそこでザフエルは声を止めた。

 肝心のニコルがいない。

 と、視界の隅にきらりと赤く光るものが映る。ザフエルは馬から飛び下りた。水辺に踏み込む。

 袖が濡れるのもいとわず、残酷に笑いさざめくせせらぎへとためらうことなく腕を差し入れる。

 水底を探って、ようやく引き上げる。落ちていたのは繊細な彫金を施された腕輪に嵌め込まれた深紅のルーンだった。

 先制のエフワズ。

 掴んだ手から、ぽたりと冷たいしずくがしたたり落ちる。

「……馬鹿な」

 胸の奥に生まれた焦燥を抑えるために、ゆるくそろえた人差し指と中指をこめかみに持ってゆき、歯がみする思いで押し当てる。

 そのとき。

 ふいに掌中のルーンがぎらりと瞬いた。焼け付いた鉄のかぎろいが立ちのぼる。

 ザフエルは口の端をわずかにゆがめた。

 先制のエフワズは、守護騎士たるニコルの身に危害が及ぶことを告げるルーンだ。ニコルへの敵意以外には反応しない。すなわち――

 感情の失せた漆黒の瞳に血の色が映り込んでゆく。


 危険が、迫っている。


 帯につるした剣の鞘を掴み、片手で器用に留め具を押しはずしながら無造作に引っさげ、ゆらりと立ち上がる。

 手中のエフワズが、切り裂かれた傷にも似たなまなましい光を放った。

 甲高く、するどく、おそろしい色。そんな気配をむしろ無感動にながめながら、ザフエルはおもむろに振り返った。

 エフワズの放つ微細な固有震動、光とも音ともつかない呪魂の細動が、指先を痙攣させる痛みとともに伝わってくる。

 切迫した感覚。

 ニコルはこの痛みを映像や音、感情の渦として感じるという。だがどれほど感覚をするどく研ぎ澄ましても、ザフエルにはエフワズの啓示が聞き取れない。ニコルがハガラズの放つ破壊の呪を使えないのと同様に。

 だが深く考えることはせず、剣を取るついでに引き抜いた黒炎のカードをいったん口の端にくわえ、片手一本で取り急ぎエフワズの腕輪をはめながら歩き出す。

 人の精神力を具現化するカード。

 それは、この世界に存在し続けてきた、人知を越える”魔法の鍵”である。いわゆる呪符の一種と考えて良い。すなわち、人間がその魂に秘めている魔力の扉を開くカードキーのようなものだ。呪術師や錬術師たちによって念を込められ、作り出されるカードには様々な種類があり、下級かつ普遍的なカードであれば、極稀ではあるが法具として市場に出回ることもある。

 ルーンと違い、持つべき人を選ばない。そのかわりに精神の力を大量に消費するため、不相応な者が扱えば、魂の崩落を生じ、人事不省に陥ることもあるとされる。どちらにせよ、不用意に扱えるものではない。

 荒ぶる蛇のようなルーンの感覚だけを頼りに、河原を抜け、土手をのぼり、腰辺りまでうっそうと生い茂った蔓草を打ち払って、道無き森奥へと分け入ってゆく。

 しかし、数歩と行かぬうちにザフエルは苦々しく眉をひそめた。

 ぎらつく幾対もの眼。樹陰を伝い走る黒い影。

 押し殺した唸りが聞こえた。

 最初はひとつやふたつでしかなかったものが、やがて幾重にも取り巻く敵意となり、無数に波打つ反響へと変わっていく。

 ザフエルはそれらを冷然と見やった。

 この辺りの野獣には異界の影響を受けているものが多い。夜ともなれば、地下の迷宮に潜む魑魅魍魎どもが這い出して来ることもあるという。

 煤煙のごとく漂い出す脂ぎった獣の臭いが、喉の奥にまで、ねっとりとからみついてくる。

 ざわり、と、不穏な風が吹きすぎる。

 木の葉が小刻みに揺れた。下生えの草が一斉に反り返り、身をよじらせる。

 小枝を踏みしだいて近づく、したたるような害意。

 そして。

 かつて狼と呼ばれていたであろうけだものが、牛ほどもある頭を振り立てて現れる。

 耳の下まで裂けた凶悪なあぎとをだらりと開け、泡立つ毒の涎をだくだくとまき散らし、血に飢えた唸りをあげて、一歩、また一歩と足を踏み出し――

「邪魔だ」

 ザフエルは、獣が次の一歩を踏み出す前にむんずと首の皮をつかまえるや、ぶんっと空高く放り投げた。


 ぷぎゃぁぁぁぁぁ……


 悲鳴もろとも、あっけなく獣は消え去った。

 流星がきらりん、と天空を流れ去る。

 驚いたのは今にも襲いかからんと身をたわめていた配下の狼たちである。

 まるで鳩が豆鉄砲を食らったかのような顔でポカンとし、パカンと顎を外して、一投のもとに消去せしめられた群れのボスの行方を見送っている。

 ザフエルは手についた埃を払った。

 ちら、と狼どもを振り返る。

 氷のような視線に、狼たちはきゃいんと悲鳴を上げて飛び上がった。尻尾を巻き、足を滑らせ、七転八倒しつつ、我先に森へと逃げ込んでいく。

「気配はまだ先、と」

 狼どもの後を追うでもなく先制のエフワズを見下ろして、ザフエルは物憂げにつぶやいた。

 と、ふいに茂みの向こう側からさらに巨大な黒い影がむくむくと、まるで小山がいきなり邪悪なる生命を得て動き出したかのように地面ごと盛り上が――

 いや、盛り上がるより先にいきなりカードを閃かせ、黒炎の呪をぶちかましたものだからたまらない。


 ぐぎゃぁぁぁぁぁ……


 非情なる爆雷投下に、周辺一帯が木っ端微塵に吹っ飛んだ。結局何がいたのかも分からないまま、ぼとぼとと土くれやら木ぎれやら降りしきるなかを、ザフエルは顔色一つ変えず通り抜けてゆく。

 ルーンの放つ不穏な光が、暗い森を罪深い残照の色に染め上げた。

 鳥が数羽、ギャアギャアと耳障りに鳴き交わしながら、羽ばたき逃げてゆく。

 森の梢が激しく揺れ動いた。何かが飛び回っている。

 凄まじい羽音が雲霞のように湧き上がった、息を呑む間もなく、視界を真っ黒に埋め尽くす虫の群れがきりもみ急降下で突っ込んで来――

「うるさいですな」

 振り仰ぎもせず漆黒の弾幕を頭上へ撃ち放つ。


 ぴぎゃぁぁぁぁぁ……


 続けざまに炎を撃ちばらまく。

 一帯は炎の渦に包まれた。

 再び大爆発。煙を突き破ってばらばらと魔物の羽片が降る。

 まさに通った後はぺんぺん草も生えない暴虐の限りをつくしつつ、ザフエルは相変わらずの無表情ですたすたと我が道を突き進んだ。まさしく最強の悪魔。

 哀れなる悲鳴がこだまする。

 しかしここまでくると、どう鑑みても異常事態だとしか言いようがない。いくら何でもこれほど大量の魔物が脈絡もなく出現するなど――

 あり得ない。

 この異常事態を引き起こしている元凶が、必ず近くに潜んでいるはずだ。

 もし、それがニコルへ迫る危機を示しているのだとしたら。

 ザフエルは抜き差しならぬ予感に、背筋をこわばらせた。

 不穏にゆらめく眼をほそめる。

 先制のエフワズが明滅し始めた。

 灼けつく痛みの中に、清浄なるたまゆらの響きが入り混じっている。

 ニコルの持つもう一つのルーン、封殺のナウシズが近くにある。間違いない。感じる。ニコルがいる。

 耐えきれぬ痛みが頂点に達したとき。

 ザフエルは、つと立ち止まった。

 鉛のような眼をつめたく光らせ、やや腰を落とす。手袋をはめた手を滑らせて剣の柄へ運び――

 次の瞬間、息をもつかせぬ神速の居合いで漆黒のサーベルを抜刀し、なぎ払った。

 鳴り渡る風切りの音とともに凄まじい太刀風が放射状に巻き上がる。

 下生えが挽きつぶされ、ねじれ飛んで空に舞った。

 ふいに、ぐらり、と。

 視界がゆがむ。

 いや、歪んだのは視界ではない。その場を支配する空気ごと、目の前の巨木が根本から斜めに断層のずれを起こしている。

 ザフエルは深く息を吐いた。ひそやかに眼を上げる。

 刀身をするどくいろどる銀象嵌から、青白い霧のような冷気がたなびき出している。

 かすかな軋み。

 気配もなく木の葉が舞い散ってゆく。

 ゆるやかな冷気の弧を空に描いたのち、刃を鞘に添わせ、流れるような所作で剣を納める。

 かちん、と金属の堅い響きが指先に伝わった。

 巨木が、傾ぎはじめた。抜けるように白い木目が現れ出でる。

 と、見えた刹那。

 巨木は木っ端微塵に四散し去った。一瞬、舞い上がる土煙に視界がすべて覆われる。ザフエルは動かない。ただ、待っている。

 ゆっくりと――

 煙が晴れてゆく。


「……馬鹿者、動けといったら動かんかー! 何をやっとるか、このうすのろ猿がー!」

「で、で、でも隊長……今までの魔物は出した端から全部逃げ……」

「それがどうした。この紋章さえあれば魔物だろうがノーラスの悪魔だろうが恐るるに足らんわー!」

 豁然として空が広がる。

 離れた場所に、何やら赤ん坊をあやすかのような仕草で背中を丸め、ウホウホ言いながら座り込んでいる全身灰色の巨大な魔物が見えた。

 なぜか背中を向けたままの魔物を前にして、黒地に赤の縁取りが入った軍衣を羽織った下士官らしき小男が、まるまるとした腹を突きだしてがみがみと怒鳴りつけている。

 ひぃぃと首を縮めているのは、遠目からも雲を衝く体躯と分かるゾディアック兵だ。まるで体格に似合わない鈍重な仕草でおろおろと頭を抱え、涙までうかべている。

 ……どうやら少々、いや、かなり斬りどころを間違ったらしい。

 大柄な兵士が、ふと涙目をまたたかせてザフエルを見た。

「あ……」

 兵士は抱えていた頭から手を放した。おずおずとザフエルを指さす。

「た、隊長……」

「文句言う暇があったらきっちり見張っておれー!」

 たちどころに風船男が噛みつく。

「わしは今こいつを手なづけるので忙しい。ええいこの猿め、召喚主をないがしろにするとは、まったくもってけしからん魔物だ」

「だから……敵……」

「うるさい黙らんかー!」

 風船男は意味もなく高圧的な態度で、部下と魔物の双方に怒鳴り散らす。

「この猿めが、そいつを放せと言っておろう。それはお前のおもちゃなどではない、大切な捕虜だと、何度言えば分かるのだー!」

 ザフエルはぴくりと眉を動かした。

 やおら歩を進め、距離を狭めてゆく。

「あ、あ、あの、ちょっと」

 兵士は来てくれるなとでも言いたげな素振りで手を突き出し、ぶるぶると青ざめたかぶりを振った。だがザフエル自身の興味はもはやゾディアック兵になどない。刮目するはけむくじゃらの背中だけである。

 気配を察したか、魔物がのそりと動いた。首だけをひねって、ぎろりとすがめ見る。

 さすがに目つきが悪い。

「うわあ急に動くな驚くではないか……ん、誰だ」

 そこでぴたりと風船男は押し黙った。ようやくザフエルの存在に気が付いたらしい。

 タオルを出し、額に浮いた脂汗をぬぐう。さびしくなった前髪の束が一本、はらりと鼻の上に落ちた。

 ザフエルは風船男を見下ろした。

 次いで背後の魔物へと視線を移す。どうやら今のところ暴れる様子はなさそうだ。

 刺激することのないよう十分に用心しつつ、手をすっと差し伸べる。風船男の目が真ん中に寄った。

「な、何の用だ」

 戦場で敵将と鉢合わせしておきながら何とも間の抜けたことを言う男だ。

 ザフエルは白々しく相手をながめ、あからさまなため息をついてみせてから、優雅かつ凄涼たる物腰で言い放った。

「その捕虜とやら……返していただきましょうか」

「ははっ、ただいま」

 命令し慣れた口調に、つい条件反射で服従してしまったのか、風船男は敬礼してくるりと背を向ける。

「……ん?」

 そこで、我に返ったらしい。

「ふざけるなー!」

 風船男はいきり立った大声で怒鳴り始めた。

「我ら誇り高きゾディアック軍人がティセニア人ごときの脅しに屈するとでも思っているのかー!」

「……静かにしたほうが良いのでは」

「きさま、馬鹿も休み休み言えー!」

 風船男はさっと大柄な兵士の背後に飛び込んだ。精一杯の虚勢を張って拳を振り回す。

「行けいラーゲル二等兵、ゾディアック軍の底力をみみみ見せつけてやるのだー!」

「む、無理で……あります」

 兵士はぶるぶるとかぶりを振った。

「なにぃ貴様上官の命令が聞けんというのかー!」

「だ、だってパパ」

 兵士はめそめそとハンカチを噛みしめる。

「この人……どう見ても……ノーラスのホーラダイン……」

「戦場ではパパと呼んではいかんとあれほど言っただろう息子よ! それより滅多なことを言うものではないぞこんな若造のどこがホー」

 変なところで口ごもり、ごくりと唾を飲み込む。

「……ラダイン?」

 ちらっ、と様子を窺うような上目遣いでザフエルを見上げる。

「ノーラスの?」

 ニコル相手ならいざ知らず、ゾディアック兵ごときにわざわざ茶番を演じてやる必要もない。ザフエルは冷ややかな一瞥をくれて突き放した。

「答える義務はないでしょう」

「う」

 風船男は首を絞められたアヒルのようなうめきを上げて絶句した。

 顔が真紫色に変色している。

「よし、一時、撤退!」

 指を一本、軍旗のように立てて振り下ろしたかと思うといきなりくるりと背を向け、スタコラと逃げ出してゆく。

「た、隊長……」

 残された兵士が、ああ……と失望の声を上げて頭を抱える。ザフエルは逃げてゆく背にぼそりと問いかけた。

「逃げるのですか」

「見損なうなー! ティセニア人ごときに後れを取る我ら帝国軍人ではないぞー!」

 風船男は手の届かない遠くに逃げおおせてから、やおらくるりと振り返った。恐怖におののく泣き笑いの表情を、赤くしたり青くしたりと忙しく塗り替えながら騒々しく喚き散らす。

「ノノノノノノノーラスの悪魔が怖くて魔召喚を使いこなせるとでも思っておるのか!」

 ノが多すぎる。ザフエルは酷薄に目を細めた。

「た、隊長、お願いですから」

 みるみる渦巻き始める不気味な気配に、大男は後追いの手を伸ばした。

「自分、自分も今すぐ逃げたいです……」

 一方の魔物は、何やら腕に抱いた白っぽいものに頬ずりしては甘えた猫なで声をあげ続けている。

「ぬうう我が息子を人質に取るとは何たる卑怯、何たる下劣ー! よよよようしそこまで言うなら相手してやろう! ただし!」

 今にも逃げ出さんばかりの勢いで地団駄を踏みながら、風船男はうずくまる魔物をびしぃっと指さした。

「戦うのは我らではない、この、魔物だー!」

「……ウホッ?」

 指名を受けた猿の魔物は、ぽりぽりと尻をかいた。臭いを嗅ぎ、うっと鼻をゆがめて顔をそむける。風船男などまるで眼中にないらしい。

「ききき聞いておるのか猿! 今こそ貴様の秘めたる力を見せる時だと言っておろうっ!」

 風船男は逆上して息巻く。猿が顔を上げた。凄味のある目でねめつける。

「おお、やっと戦う気になったか」

 風船男は俄然元気を取り戻し、腰に手を当て、胸を張り、肩をそびやかせた。

「よし、まずはそのティセニア人を踏んづけてしま――」

 猿の魔物は片腕を地面についた。身体を前に傾けつつ、ゆらりと立ち上がる。

 直後、毛むくじゃらの太い腕を凄まじい速度で振り払った。


 あんぎゃぁぁぁぁぁ……


 風船男の姿が一瞬にしてかき消える。

 じたばた足掻く姿があっという間に芥子粒の大きさに変わった。遙か彼方にまで吹っ飛ばされていく。

「ああっパパ……」

 後を追おうと走り出した兵士もまた、目も止まらぬ早業で襟首を掴まれ、雑巾のように振り回された挙げ句、これまたポイと森へ放り込まれる。

 どこか遠くから、ぼすんっと木のてっぺんに引っかかる音が聞こえた。

 猿は喉をいっぱいにふくらませ、ごうごうと激しく吠え猛った。

 全身の毛が逆立っている。腕の中の白いものは相変わらず剛毛にうもれて定かには見えない。

 それを見ながら、ザフエルはふと、何とも言えない幻滅を感じて片頬をゆがめた。

 確か先程まで捕虜の話をしていたような――


 かの魔物はうるさい小蠅を追い払って満足したらしく、再びずしんと座り込んだ。

 小脇に抱えていたものをまるで着せ替え人形のように優しく抱き直す。途端、先制のエフワズが悲鳴にも似たくるめきを放って身をよじらせた。

 魔物の腕に押しやられた麦わら帽子がふわりと風に浮き、草の上に落ちる。

 ザフエルは眼をほそめた。

 川に落ちた所為か、ぐっしょりと芯まで水に濡れた白い軍服姿が、ティセニアの定色である襟と袖のすずやかな空色とともに視界へ飛び込んでくる。

 おそらく意識もないのだろう。まるで奴隷か何かのように縛り上げられていながら抗いもせず、ただぐらぐらと細い首をつたなくよろめかせるばかりのニコル。

 その華奢な身体を、猿の魔物は熱に浮かされた危ない眼で陶然と見つめ、強烈な胸毛がもじゃもじゃと渦巻く胸にうっとりと引き寄せ、抱きすくめて。

 事もあろうに。

 よりによって。

 ザフエルの目の前で。

 何を血迷ったか、ひどく青ざめたくちびるに向かって、分厚い皺だらけのクチビルをぷりんと突き出し、今にもその、つまり、ぶっちゅぅぅぅ……と。


 ……。


 ふと、猿と目が合う。

 次の瞬間、頭の中の何かが百本ほどまとめて一度にぶち切れた。


「ふむ」

 ザフエルはひくくつぶやいた。

 黒剣をゆらりと抜き放つ。

「……たかだか猿の分際で」

 瞬時にその身が地を蹴り宙を舞う。

 身じろぎする間もない。

 闇よりも冷たい喉元への一撃が、空を切り裂いて一気に肉薄した。

 魔物の目玉が今にもよじれ出そうなほど剥き出される。

 刹那、喉の皮一枚ほどの距離のみを隔てて止まったサーベルの切っ先に、ぎらりと殺意の光が伝い走った。

「……この私よりも先に閣下にくちづけようとは」

 口の端が、ゆるやかにつり上がっていく。だが、眼はいささかも笑っていない。

 空気がみるみる凍りついた。

 壊れた笑みが、消える。

「その罪、万死に値する」

 カードを取る手が流麗な呪を空書してゆく。森一帯があやしく照り渡った。印の最後に、カードを剣の刃区はまちに作られたスロットへ、すべり込ませる。

 光とともに荘厳な音の震動があふれ出した。

 切っ先を震わせるたび、剣身から流れ出す冷気が金色の微細な粒子状に代わった。そのひとつひとつが意味のある音、そして呪をあらわす。


(全能なる神と真実と正義の名において)


 どくん、と鼓動が響く。

 ザフエルは呪の光跡を引く剣を振りかざした。一片も変わらぬ表情に、総毛立つ陰が射す。

 光が収斂した。高らかに剣が歌う。

「ウホホンウホ! ウッホホ、ムッホホホーーー!」

 あまりの恐怖に即効改心したのか、猿の魔物は両の手を固く結びあわせ、ハナミズと涙を噴水のようにびしゃびしゃまき散らしてザフエルの足元に這いつくばった。まさに一世一代の命乞いである。

 しかし時すでに遅かりし。

 漆黒の眼に酷薄な闇が滲む。

 一瞬、剣がすべての光を吸収したかに見えた。


(悔い改めぬ者に神の怒りを――ヘヴンズ・ゲート!)


 聖なる呪が解放される。ひび割れた大地から放たれた光が、四方八方に散乱する金色の矢となって天へと突き刺さった。

 叩きつけるような浄化の光。調和の和音と旋律が響き渡る。

 そして、意に添わぬものすべてが薙ぎ払われた。


 ……明らかにやりすぎと分かる土煙が晴れたあと。

 猿の魔物は跡形もなく消え失せていた。

 ついでにニコルの姿も。

「……」

 さすがにきまりの悪い顔をしてから、ザフエルは上空を振り仰ぐ。

 ちょうど放物線の頂点に達した何かが、ひゅるるる……と風を切って落下してくるところだった。

 疑問に思う間もなく一気に落ちてきたところを、軽く宙へ飛んで両の腕に受け止める。

 そのまま空を蹴って地面に着地。

 やはり無痛とはいかなかったか、ニコルは意識もないまま眉根を寄せて衝撃にうめいた。髪がくしゃくしゃに乱れている。

「閣下」

 呼びかけようとして、声を呑む。

 腕の中のニコルは、聖騎士を自称するにはあまりにも華奢な肢体でしかなかった。

 男にしては、あまりにも軽すぎ、柔らかすぎ、なよやかにすぎる身体。

 感情を押し殺した眼で、見つめる。

 今なら。

 心の奥底で薄暗い感情が渦巻く。

 確かめられる。

 気を失ったニコルは、光まぶしい昼間に見た健康的な寝顔とはまるで違って見えた。熱を帯びた朱が頬に散っている。

 ただちにノーラスへ運ばなければという切迫の思いに反して、許されざる思いの濁流が自らの裡なる深淵へと音もなくなだれ込んでゆくのを感じ、ザフエルは戸惑った。

 こぼれる、ちいさなうめき。

 木に蜂蜜を塗ったようなひどい色のくちびるがふるえている。

 思わず抱いた手に力がこもった。

「閣下」

 ザフエルはニコルの意識を確かめるようにつぶやいた。

「……閣下」

 無意識に頬を寄せる。

 耳元に、かすれた吐息が吹きかかった。

 ふいに身をこわばらせる。ザフエルはつい今しがたまで頭の中を支配していた馬鹿げた考えを一蹴した。抗えぬ身の弱みに付け込んだところで何の満喫も得られはしない。そんな行為は唾棄すべき卑怯以外の何ものでもなかった。だいたい、聖職者が猿と同程度の思考に陥ってどうする……

 そのとき、腕の中のニコルが咳き上げたかと思うと、ぶえっくしゅん、と派手なくしゃみをした。ぱち、と眼を開ける。

 幸か不幸か。間近でまじまじと見つめ合ってしまう。

「……!!!!」

 見る間にニコルの顔が真っ赤に上気した。

「……ざ、ざっ、ザフ……!」

「おはようございます」

 とりあえず素っ気なく言っておく。

「な、な……」

 ニコルはバネ仕掛けのように飛び降りようとしてできず、じたばたと腕の中で暴れ回った。

「つ、つ、冷たっ! なんで濡れ……っていうか縛られてるんですか! どういうことですザフエルさんきっちり説明して下さい」

「暴れると落っこちますぞ」

 ニコルは半泣きでぶるぶる頭を振りながらわめいた。

「いいから早く降ろして」

「これは失礼」

 ザフエルはぼそりと言ってニコルを降ろし、縄を切って立たせた。足に力が入らないのか、ふらりとよろめくニコルに手を差し伸べて支える。

「す、すみませ……じゃなくてそもそも何でこんな、い、痛いじゃないですか」

 ニコルは縛られて赤くなった手の痕をさすりさすり、まだ少し涙の残る眼をきっと吊り上げてザフエルを睨みつけた。

「いえ、あまりにお目覚めが遅いようでしたので」

 今までの事情にまったく気付いていないところを見ると、どうやら最初から今までずっと気を失ったままだったらしい。都合の良いことだ、とザフエルは思った。嫌な思いをせずに済むならそれに越したことはない。

「つい日頃の欲望がムラムラと」

「う」

 ニコルは真っ青な顔で後退った。

「ザフエルさんの馬鹿ぁぁ……ってわああ!」

 再度、つるんと足を滑らせる。ニコルの姿がまたまた消えた。斜面を転がり落ちてゆく音が聞こえる。

 最後にぱしゃん、と間の抜けた水音があがった。

「うわあああんザフエルさん助けてぇ……」

 噴水のようにあがる水しぶきが、まぶしい光に溶けてゆく。

 ザフエルはニコルを追って斜面から飛び降りた。

 そこは本当に小さな泉だった。水中から青々とした草が伸びて、澄み切った光と水玉をはじいている。

 熱帯魚も飼えそうな可愛らしい水辺に、ニコルは再び頭からびしょ濡れになって、しょんぼりと座り込んでいた。奇跡的に残ったメガネが鼻のてっぺんから斜めにちょんと引っかかっている。

「何で僕っていつもこうなるんだろ……ううっ」

 めそめそとほざくニコルの姿に、ザフエルは片眉だけをぴくりと吊り上げた。

「視察は後日ですな」

「誰のせいだと思ってるんです」

 また頬を膨らませてぶうぶう言い始めるニコルを前に、ザフエルはざぶりと泉に踏み込み、手を差し伸べた。

「日のあるうちに戻りましょう。さすがにこの季節と言えど夜はかなり冷えますし」

 いったん言葉を切る。先ほどのゾディアック兵が召喚した魔物がまだ残っている可能性も皆無ではない。

「何より危険ですからな」

「一番身近にいる人が一番危険なんじゃどうしようもないでしょう」

 手を取ってもらいながらニコルは情けない顔で冗談を言う。

「よくお分かりですな」

 ザフエルは濡れたニコルの肩にちゃっかり手を回した。

「ささ、脱いで」

 ニコルはぶるっと震え、青い顔でザフエルを見返した。

「い、いいです今は」

 再び、ぶえっくしょん、とくしゃみする。もう一度。止まらない。

「お風邪を召しますぞ」

「そ、それは分かってますけど、今はその」

「ご遠慮なさらず」

 ザフエルは背後から悠然と迫った。

「何でしたら暖めて差し上げますが……もちろん人肌で」

「ひぃぃ!」

 唐突に飛び上がってあたふた逃げ出そうとするニコルの手を、後ろからがっちりとつかみ取る。

「閣下、お忘れ物ですぞ」

「ええええ遠慮します!」

「一転して恥じらうさまもまた愛くるしい」

 手を逆手に取ったまま、先制のエフワズをしっかりと握らせる。

「ますますそそられますな」

「なななな何言ってるんです馬鹿馬鹿馬鹿もうザフエルさんなんて大っっっっ嫌い……!」

 瞬く間に赤く火を噴いた顔でニコルは一目散に逃げ出していく。

 蹴った水がまぶしく降りかかった。

「つれないですな」

 ザフエルは指先で濡れた髪をかるく払う。

 六年。

 長いようで短く、何気ないようでいて他に代え難い日々。

 少年の頃から、ずっと出来の悪い弟のように思って過ごしてきた。だがそうやって共有した時間が長ければ長いほど、伏せられた真実を知る日が恐ろしくなる。

 まさか。

 本当は。

 その疑念のすべてが馬鹿げた誤解であればいいのにと思うあまり、喉まで出かかった言葉を何度、違う意味にすり替えてきたことか。

 ザフエルは空を仰いだ。

 森の奥がざわめく。風が出てきたのかもしれない。つい先程まであれほどまばゆかった初夏の日差しが、まるで眼をそらしでもしたかのように、しんとして、かげって。

 小鳥の声さえ、うつろに遠ざかってゆく。

 腕にはめた破壊のハガラズが冥々とゆらめいている。

 ニコルはなぜザフエルが副官につけられたのか、その本当の理由を知らない。


 ザフエルは森に紛れて逃げるニコルを目で追いかけた。言葉にできない思いが、水面に投げ込まれた小石のようにいくつものざわめきをかきたててゆく。

 だが、今はそれどころではない。

 早く追わないとまた迷子になりかねない。どこかの穴に足を踏み外すのも、道ばたの小動物やおいしそうな果物にふらふらと気を取られるのも、ニコルならばお手の物だろう。

「ま、いつものことですな」

 言ってからザフエルはふいと肩をすくめ、歩き出したのだった。


【ザフエル・フォン・ホーラダイン中将の陰険にして華麗なる日常 終】

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