こちらがいいのです
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翌朝。
乳白色に濡れた早朝の空気が、柔らかい日差しをふくんでしっとりと輝く。森のこずえでたわむれる小鳥たちの声も、常と変わらず愛らしい。
昨夜の戦闘で疲れ果てた兵も、今はノーラス城砦に戻って、十分な休息を取っていることだろう。
そして、ニコルは。
「ない、やっぱりない。どこ行ったんだろ」
大会議室にはまだ、押しつぶされたジャングルの残骸が無惨にちらばっていた。
机の足。壊れた鳥かご。逆さになった鉄鍋。泥に埋もれた粗大ゴミが、山のように折り重なっている。
そんな中で、ニコルは分厚いゴム手袋をはめ、泥に手を突っ込んでは、コレも違う、アレも違うと後ろにぽいぽい放り投げていた。
「ああ、どうしよう。マジで見つからない」
「いい加減あきらめろよ。ないものはない」
まったく手伝う気のないチェシーが、すっかり他人事みたいな顔をして腕を組み、壁にもたれている。
「ダメです。大事なものなんだもん」
「だから、何を探してるんだ。ってさっきから聞いてやってるだろ」
「そんなの、チェシーさんに言ったって一緒に探してくれるわけじゃないじゃないですか」
「だから、面倒な真似をせずにだな、ゴミの山を一発で吹っ飛ばしてやるって」
「もっとダメです!」
悲嘆にくれつつ、それでもあきらめきれずに探し続けていると。
「閣下」
背後に軍靴の響きが迫った。
ニコルはおそるおそる振り返る。靴音の主はやはりザフエルだった。言うまでもないが、いつも通りの白い軍服で全身を固めている。
「あの、何か御用ですか」
おずおずと聞き返す。胸の奥に、小さなトゲがまだ引っかかっているような気がした。
ザフエルは、疲れを見せぬ目を底光らせた。
「昨日の報告にあがりました」
ちらりとチェシーへ目をやる。人払いはしないのか、という視線だ。
ニコルは気にするな、という素振りをしてみせる。チェシーは皮肉な肩のすくめ方をした。
「承ります。どうぞ」
昨夜、面と向かって叱責したことへのしこりはもう心にないらしい。ニコルはひそかに胸をなで下ろした。まだ見放されてはいない、と思うと、急に嬉しくなる。
ちんまりと床に正座して、膝に手を置いて。
ザフエルを見上げる。
「あの後、どうなりました」
ザフエルは、手にした書類止めにちらりと目を落とす。
「敵
「お疲れ様でした。無理には追撃しなかったんですね」
ニコルは、馬鹿丁寧にぺこりと頭を下げた。
「ノーラス方面からの渡河は、森林地帯ゆえ視界悪く、敵第四師団の魔召喚防衛網にかかるおそれがあるため、深追は危険と判断しました」
「賢明な判断だな。イェレミアスは間抜けな奴だが、少なくとも《紋章》の扱いにだけは長けた男だ」
チェシーが、横から余計な口を挟んだ。ザフエルは相手にしない。
「現在もまだ、工兵隊による接収作業中です。おおよその報告によりますと、
「それだけあれば、捕虜交換の交渉も有利に運べそうですね。橋渡し役に適任者はあります?」
「現在、中立都市のブリスダルに、第三師団のヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハが外交武官として着任しております」
「エッシェンバッハさんか。彼なら信頼して全権をお任せできますね」
「なお、当方の人的被害は、城内設備を除いて、きわめて軽微につき、引き続き通常の軍務遂行して支障ありません」
それを聞いて、ニコルは、今度こそほっと安堵のためいきをついた。笑顔でザフエルの労をねぎらう。
「うん、これで一安心だ。ホーラダイン中将、ご苦労様でした。お手柄でしたね」
「いえ、閣下の機転あらばこそです」
「あとで、怪我した人のお見舞いに行きましょう。ザフエルさんも昨日一晩の強行軍でお疲れでしょうけど、同行よろしくです」
「お供
そこでニコルは顔をかがやかせた。ぽんと手を打ち合わせる。
「そうだ、素晴らしいこと思いつきました」
「何を」
ザフエルは、いかにも取ってつけたように聞き返す。チェシーは薄笑いを浮かべた。
「余計なことをの間違いだろうよ、どうせ」
ニコルは、ニコニコしながら、両手をいっぱいに広げてみせた。
「これぐらい大きなばけつにですね、
「自殺願望ありすぎだろ。何をどう考えたらアレを増やそう、だなんて思うんだ君は」
チェシーは、すっかり呆れ果てた顔で額に手をやる。
「そこまで脱げと仰有るなら今すぐにでも脱ぎますが」
ばけつをひっくり返す仕草のまま、ぴきんと凍りつくニコルを尻目にザフエルは冷ややかに背を向けた。ポケットからマル秘メモを引っ張り出す。
「可愛い顔して案外サディストですな」
聞こえよがしにぶつぶつ言って、傾聴した意見を書き込む。
「誰が」
「閣下が」
「何でそんな発想に」
ザフエルは書き終えると気むずかしげに腕を組み、あごに指をそえた。
「さすがは閣下、まさしくアレに使うべしとのご提案に、
「アレって何」
「何と言われましても」
ザフエルは耐え難い間をおいてから、ちらっと天井など見たりしてとぼけた。
「別に」
「はっきり言って下さい」
「拷問部屋」
「はいぃいいい!?」
ニコルは、真っ青になってザフエルの腕をつかんだ。強く揺すぶる。
「何言ってるんです拷問だなんて、そんな、非人道的な」
「大袈裟ですな」
ザフエルは、ふっと鼻先でニコルの動揺をあしらった。
「人体に影響を及ぼさずに服を溶かすだけの拷問など、拷問のうちに入りませんぞ」
「
「何を仰有います。個人的には」
ザフエルは、眼の奥を不気味に光らせた。
「サリスヴァールのような大の男をなますにして切り刻むより、むしろ閣下のような美少年を
「…………い、今、何と」
頰がぴくりとひきつる。
「何事も経験が大切ですぞ。万が一、敵に捕まったときにべらべらと白状してしまわぬよう、拷問に対抗する訓練が必要かと存じます」
ザフエルは一歩、足を踏み出した。抱きすくめようと差し伸べる手つきがすでに激しくあやしい。
「大丈夫ですぞ。フフフ。閣下には痛くしませんから」
「な、なななななんですとーー!!」
「……こっちには痛くする気満々かよ」
酸欠の金魚もかくやとばかりに、声にもならない悲鳴をぱくぱくとあげ、なりふり構わぬ土砂降りの滝涙で撤退をこころみる。
ニコルの敗走姿に、さすがのザフエルも、もののあはれを感じたらしい。後ろから襟を掴みつつ、ごほんと咳払いして話を変える。
「ところで、こんなところで一体、何をなさっておいでなのです。何か、探しものでも」
ザフエルは、ニコルが答えるのをじっと待っている。
ニコルは、ぐすっと鼻をすすり上げた。
いくら何でもこれは酷すぎる。さてはあの秘密――スライムに弱いという――を握られた腹いせに、口封じとして暗々裏に脅す気だろうか。そうだきっとそうに違いない。
「べ、別に。その、ザフエルさんは気にしなくていいですから」
「そんなこと言われると、なおさら追求したくなりますが」
「いや、あの、だから」
と、そのとき。
奇跡のように、視界へ飛び込んでくるきらめきがあった。
ニコルは、はしゃいだ声を上げ、ゴミの山に突進した。穴を掘って、手を突っ込んで、見つけたそれを掴み出す。
「あった!」
薄汚れた棒きれにしか見えないものを、服の裾で、ごしごしとぬぐう。
「何なんだ、それは」
チェシーが横から覗き込んでくる。
戻ってきた金色に、ニコルは顔をかがやかせた。
それは。
ザフエルの万年筆だった。
「良かった! 返せなかったら、どんな目に遭わされるかと思って心配で心配で、もう……ってうああなんだこりゃ!」
ニコルは、手の中の万年筆を見て、衝撃のあまり愕然とよろめいた。ゴミの山にうずもれていたせいか、深い傷が何本も表面を走っている。
「あんなにきらきらして綺麗だったのに。どうしよう、ひどいことに。ああっ消えない」
必死に息を吹きかけ、袖口でこすってみるものの。
ざっくり行ってしまったものは、もう、どうしようもない。
「ふむ」
ザフエルは、ニコルの手から万年筆をかすめ取った。しばし、なめらかな金の表面からのぞく、深く黒い傷を見下ろす。
「確かに私の物ですが、しかし」
ニコルは、ザフエルの手に戻った傷だらけの万年筆を、怖じ気づいた目で見つめた。
頭の中で、後悔の言葉がじくじくと沁みた。さっさと返していればこんなことにはならなかったのに、とか。また怒られるかも、とか。
びくびくしながら、ふとザフエルの胸元に揺れる参謀飾緒に眼をやる。
「……あ」
気の抜けた声をたてた。
よくよく見れば、ザフエルが手にしている万年筆とまったく遜色のない、それどころか傷一つない新品が、すでにぶら下がっているではないか。
今の今まで、目の前にありながらまったく気付かなかった間抜けさに、ニコルはうろたえた。
「もう新しいの持ってたんですね。なあんだ、だったら無理に探すことなかったかも……じゃなくて」
とたんに飛んできた厳しい視線に、ぎくりと首をすくませる。
「やっぱり弁償しなくちゃですよね……、でも、その、今月はちょっとお小遣いが……ええと」
指先を突き合わせて、困ったようなやるせないような、お追従の笑いをおろおろと作る。が、しどろもどろで何を言いたいのか、自分でもさっぱり分からない。
「すぐには払えないけど来月には、あの、必ず」
もごもごと口の中で言い訳を並べ立てつつ、ニコルは、おそるおそる、ザフエルとチェシーを見比べた。
新旧二本の万年筆を見て、どうやらチェシーは事の
もちろん、ザフエルも言わずもがなだ。
むしろザフエルにとっては、たかが万年筆の一本や二本程度の話だろう。傷ごときに表情を変えることもなければ、あえて何かの歓心を買うこともない、いつもとまったく同じ態度だ。
しょせんは代わりのきく程度のものでしかない。
そう、自分に対しても同じ評価を下されたような心地がして、ほろ苦くうなだれる。
こんなことを言っていれば当たり前だ。
何が、たかが、だ。
さっきから何を卑屈にごまかしてばかりいるのだろう。こういうときは、まず何よりも先に言わなければならないことがあるのではなかったか。
ニコルは、何度か眼をまたたかせた。しゅんとして頭を下げる。
「ごめんなさい。大事な万年筆を壊してしまいました」
ザフエルは、相変わらず無表情のままニコルを見下ろした。
「お気になさらず。使えればそれで良いのですから」
何気なく飾緒についた万年筆をはずし、ニコルが差し出した傷だらけのペンと付け替える。
「あ……」
ニコルは気後れした表情でかぶりを振った。
「無理に壊れかけのペンと替えなくても、その」
「こちらがいいのです」
「え」
意外な言葉に、ニコルはなぜかうろたえた。何だか急に気恥ずかしくなって、首をちぢこめ、鼻をくしゅっとこすり上げて、赤くなった顔をそむける。
「い、いや、何でしたらその、ええと、壊れちゃってるならお下がりとしてあわよくばもらっちゃおうかなーなんて、あはははは!」
「ダメです」
ザフエルはすかさず否定する。チェシーが片目だけを薄めに開けて皮肉った。
「また昼飯代をケチって食堂通いか。斜陽貴族極まれりだな」
「うう、毎日ヒルデさんのごはんか。嬉しいんだかつらいんだか」
少々複雑な心境ながら、何はともあれ、ほっと一安心して笑い交わす。
そんなニコルに、ザフエルはほんのわずか、彼にしては柔和すぎるまなざしを流し向けた。
「ありがとうございます、閣下」
言った端から仏頂面に戻ったザフエルの表情にはもう、笑みのかけらもなく。
相も変わらず淡々として、素っ気ない。
だが、嬉しくなるにはそれで充分だった。
【第五話 男装メガネっ子元帥、ちょっとした手違いで、触れると服が溶ける謎の物体Xに襲われる 終】
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