ねちねちねちねちねちねちねちねち。



 かくて、書類の塔は地響きをたてて根元から崩れ去った。

「ふんぎゃぁぁ……ぐふっ」

 暴虐なる量の紙なだれと化して、悲鳴を飲み込む。

 くして、約一名の不幸なる遭難者は、床一面を埋め尽くす白い書類のマットに沈んだのであった。

「ふむ」

 ザフエルの髪がひとすじ、こめかみから離れて、風圧でふわりと乱れる。

 目の前には茫洋と広がる書類の海。

 ザフエルは乱れた黒髪を払った。冷めきった黒い眼差しで、ニコルを――正確に言えば、ニコルが埋もれている書類なだれの山を見下ろす。

「おふざけが過ぎますぞ、閣下」

 はらり、と。最後の一葉が床に落ちた。


 ザフエルは、腕を背中にまわして組んだ。助けようとする素振りすら見せず、無表情に言い放つ。

「そもそも、当初の予定通りに行動して下さらないから、余計に仕事が増えるのです。出張日程から半日も帰着を遅らせるとは言語道断」

「僕のせいじゃありません」

 ニコルは、ずっしりと重い書類を背中にのっけたまま、弱々しく反論した。

 そもそも論で言えば、ノーラスを離れていたのはたった数日のことである。なのに、こんな大量の仕事がたまるなどあり得ない。どう考えても当てつけか意趣返し、さもなくばイヤガラセのどれか。あるいは全部である。

「なるほどサリスヴァールのせいと。分かりました管理不行き届きですな。さっそく重営倉入りを命じ」

 ザフエルは堂々と聞きたがえる。

「異議申し立てます」

 ニコルは、よれよれと力なく抗議する。まったく、ことあるごとにこのざまである。油断も隙もあったものではない。

 ザフエルは鼻をふんと言わせた。仏頂面で肩をそびやかせる。

「部下を甘やかしすぎですな。閣下には、師団長としての自覚と威厳が足りません」

 ニコルは鼻梁に不満のしわを寄せた。ずれたメガネを斜めに傾けて口吻を尖らせる。

「今さら何をおっしゃいますか。僕に威厳を求めること自体、間違ってます」

「断言されても困ります」

「じゃあ、ご立派な皇帝カイゼルひげを生やせとでも?」

 半ばやけくそで反抗する。ザフエルは、ぼんやりと視線をさまよわせた。どうやら、頭の中で、白タイツにキンキラキンのかぼちゃぱんつをはいた皇帝ヒゲ姿のニコル王子(白塗り)を想像しているらしい。肩がひくりと上下した。

 ニコルは、更なる抗議のシュプレヒコールを掲げる。

「とにかく、第五師団においては、僕には僕なりの役目があると自負しています」

「たとえば」

「組織のお飾りとか、傀儡かいらいとか、あるいは戦場の好餌こうじといった方向性にです」

 ザフエルの黒い目が鈍く光った。

「何をおっしゃいます。閣下の身の安全を、いつ、私が、おろそかにいたしました。かかる事態に於いては、まず一番に閣下の御身をお守りすること。それこそが、参謀長かつノーラス副司令たる私の第一の責務であり、第五師団におけるルーンの守護騎士フラターとしての唯一の存在理由であり、」

 相変わらずの仏頂面で、ねちねちと忠義論をまくし立て始める。どうやら、かなりのご立腹らしい。

 たかだか半日遅刻したぐらいで、そんなに怒らなくても、と思うが。

 よくよく考えれば、以前のザフエルなら、起床時刻に一分遅れただけで、いきなりドアに黒炎射こくえんしゃの乱射を浴びせかけ、爆破モーニングコールをしていたわけである。

 それをおもんぱかると、ずいぶん甘くなったというか丸くなったというか。

 戻ってくるなり、「お帰りなさいま(ドカン)」の黒こげ丸焼きの刑に処されなかっただけでも神の恩寵おんちょう。青天の霹靂へきれき。この世の奇跡というべきであろう。

「私がおそばはべりさえしていれば、決してこのような失態は犯しませんでした。やはりサリスヴァール准将には騎士としての資質が根本的に欠如していると言わざるを得ません」

 まだ、ねちねち言っている。

「ですから、その前に、まずはこの状態をですね」

「黙って最後までちゃんとお聞きなさい」

 ねちねちねちねちねち。

「閣下が甘やかすから、あのように付け上がるのです。懶惰らんだなる生活。軍務に服するにあたっても怠慢、横着、無精、傲慢の限りを尽くした態度。すべてにおいて容認しがたく」

 ねちねちねちねちねちねち。

「きゃつと違って、この私が如何に閣下をお慕い申し上げ、つ心酔申し上げているのか、閣下にはしっかりと身をもって分かっていただかねばなりません。私が聖騎士として閣下にお仕えするようになってから、早や六有余年ゆうよねん

 ねちねちねちねちねちねちねちねち。


 い、いったいいつまで続くんだ……。


 このまま逆らい続ければ、最悪の事態、すなわち完徹カンテツのうえ朝食のジャム抜きという厳罰もあり得ない話ではない。ニコルは抵抗をあきらめた。手を上げて、ねちねち攻撃をげんなりとさえぎる。

「ザフエルさん。お願いがあります」

 ザフエルは、ぴたりとお説教の口を閉ざす。

「どうぞ何なりと」

 ニコルは、危機に陥っている現状を、まずはせつせつと訴えることにした。

「さっきから、ええと、その、僕、書類に埋もれちゃってるんですが」

「見れば分かります」

「重いんですけど」

 ザフエルは、黒い眼をしらじらしく瞬かせた。

「それが、何か、問題でも?」

 いちいち回りくどく、文節をきっちり分けて言う。

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