第5話 ニコル・ディス・アーテュラス、ちょっとした手違いで、触れると服が溶ける謎の物体Xに襲われる

■第5話 男装メガネっ子元帥、ちょっとした手違いで、触れると服が溶ける謎の物体Xに襲われる


 暗く深く、遙かに青く。

 天空の如く、どこまでも突き抜ける光陰の輝きをはなって。

 包んであった白絹からまず青い光がこぼれおちる。それはまるで日が暮れ落ちる寸前のような、蒼から藍さらには漆黒へと、仰ぎ見る角度によって次々に色あいを変えてゆく、さながら人の心の闇にも似た陰鬱さを秘めるルーンだった。ふしぎなことに、通常は含有物を含まないはずの仙石の内部に金砂銀砂を散りまぶし、降る星くずのようにさえ見せている。


 刻まれた呪は、《ティワズ》。


 チェシー・エルドレイ・サリスヴァールはどこか残酷にふくみ笑って、自らのルーンを鷲掴んだ。同時にいかにも北方風、豪奢できらびやかなこしらえの段びらを取りあげると、おもむろにすらりと鋼の音をさせて抜き放ち、柄に空いた穴へ《天空のティワズ》をがちりと押し込む。

 一瞬、ぎらりと。

 銀の刃紋が青い光に染まった。普段は目に見えないよう刃の奥深くに刻み込まれた呪魂が、切っ先からほとばしり出る火に照らし出され、あやしく、くらく、透き通る。

「うわっ……」

 あおざめる燐火に気圧され、ニコルは呆然とつぶやいた。

「す、すごいな。初めて見た」

「《栄光のティワズ》、あるいは《天空のティワズ》」

 チェシーはかろやかに縁を鳴らして剣をしまうといつにも増して挑戦的なまなざしをニコルへすり流し、うたうように言った。

「これが私の――《天空の魔女》たちさ」



 さて、そんなこんなで現在は夜である。通常は草木も眠る時間帯だ。

 聖ティセニア公国最北端にして最強の防衛要塞、対ゾディアック方面軍第五師団四万五千が駐屯するノーラス城砦もまた、大半がぐうぐうと餓えたような眠りをむさぼっている最中、であった。

 ……約一名を除いては。


「うぐぐぐぐ」

 そんな深夜に、ランプ一つを頼りにしたニコル・ディス・アーテュラス元帥閣下は書類と仕事の山に埋もれ、ご愛用の計算尺を前にいきなり唸っている。それも相当でろでろと煮詰まったうなり声で。

「うがあだめだ!」

 ニコルは頭をぐしゃぐしゃ掻き回すなりエンピツを放り投げデスクにごいんと突っ伏した。そのまま数秒間ピヨピヨと頭上を走り回る謎の妖精さんに正常な意識をうばわれていたかと思うといきなり復活して椅子を蹴立て飛び上がり喚きちらすや、ばぁんと掌で机を叩きつけた。

「こんな大量の仕事一度に持ってきやがってゴハンまで抜きで一体どうしろっていうんだこんちくしょうッ!」

 どうやら仕事させられすぎて理性の限界を超えてしまったらしい。

 しかしそれが何を意味するかは想像するに難くない。

 ザフエルの冷酷きわまりない命により、半ば拘束され強制労働させられ続けるニコルの哀れな姿などまるで見えないほど積み上げられた書類の山が、この無謀かつ無意味な八つ当たりによりわずかに揺れはじめて……


 ニコルの目の前、第一の書類塊が大きくぐらりと傾いた。

「!」

 とっさに右手で押さえたつもりが、やはりというべきがいつの間にか別の塊にひじ鉄をくらわしている。

 第二の書類柱が変な形にぐにゅ、と折れかかった。

「はうあ!」

 顔面蒼白になって息を呑み、みるみる倒れかかってくる書類を不自然な体勢のまま左手で支え、どうにかこうにか崩落を防いでふぅ……などと一服ついたつもりが―――はっと我に返ると思い切り逆の方向へ押し返しているではないか!

「ちょ、ちょっと待っ」

 待てと言われて待てるほどこの世界の重力は微弱にあらず。

「たたたた頼むからお、お、お願いやめてやめてうあああ……」


 ちょうどそのとき、運良くあるいは単なる偶然かはたまた故意に狙ったものか、いきなり白皙の参謀ザフエル・フォン・ホーラダイン中将がノックひとつを高くひびかせ、書類の束を脇に抱えて入ってきた。

「閣下、追加のお仕事がございます」

 言いながらすたすたやってきて、どすんとばかりに書類をデスク隅に置く。

「朝までに全中隊再編成の任官状発行および主計監より提出されました予算の決済、それともう一件こちらは内々のご相談が」


 ……崩壊寸前のぐらぐらには見事なまでに一瞥もくれず。


 かくて書類の山は地響きをたてて崩れ落ち、猛烈な紙のなだれと化して約一名の不幸なる遭難者をデスクから完全に押し流し埋め尽くした、のであった。

「ふむ」

 ザフエルは風圧でふわりと乱れた黒髪を肩ではらい、醒めた眼差しでニコルを――文字通りに言えばニコルが埋もれている書類なだれの山を見下ろした。

「おふざけが過ぎますぞ、閣下」

 これのどこがふざけているように見えるのか……腕を背中にまわし組んだまま、助ける素振りすら見せず無表情に言い放つ。

「そもそも当初の予定通りに行動して下さらないからこういうことになるのです。半日も帰着を遅らせるとは」

「僕のせいじゃありません」

 ニコルはずしりと重い書類の下から弱々しく反論した。

 そもそも半日でこんなに大量の仕事がたまるなどあり得ない。どう考えても当てつけか、さもなくばイヤガラセのどちらかだ。絶対そうに決まっている。

「では管理不行届ですな。さっそくサリスヴァールには重営倉入りを命じ」

「異議申し立てます」

 ……まったく油断も隙もない……。

「甘やかしすぎですな」

 ザフエルは鼻先でふんと言って肩をそびやかせた。

「閣下には師団長としての自覚と威厳が足りません」

「今さら何を」

 ニコルはずれたメガネを直すこともできないままむっとして言い返す。

「僕に威厳を求めること自体間違ってます」

「断言されても困ります」

「僕には僕の」

 きっと眉を逆立てて――半ば埋もれているせいでどうせザフエルには見えやしないのだが――ニコルはもごもごと力いっぱい続けた。

「役目があると認識しています。お飾りとか、傀儡とか、あるいは戦場の好餌といった」

「何を仰有います。閣下の身の安全をいつ私がおろそかにいたしました。かかる事態に於いては一番に閣下をお守りすること、それこそが参謀長かつ副司令たる私の第一の責務であり第五師団における唯一の存在理由であり」

 相変わらずの仏頂面ながら、ねちねちと忠義論をまくし立て出したところを見るとどうやらかなりのご立腹であるらしい。

 たかが半日遅刻したぐらいでそんなに怒らなくてもと思うが……よくよく考えると以前のザフエルなら軍議に一分遅刻しただけでいきなりドアを爆破していたわけで、それからするとずいぶんザフエルも甘くなったというか丸くなったというか、遅刻して戻ってくるなり黒こげ丸焼きの刑に処されなかったのはまさに青天の霹靂、聖ローゼンの奇跡というべきであろう。

 しかしまだねちねち言っている。

「そう思うなら早く」

「黙って最後までちゃんとお聞きなさい」

 ねちねちねちねちねち。

「だ、だから……」

 ねちねちねちねちねちねちねちねち。


 い、いったいいつまで続くんだ……。


 このまま逆らい続ければ、最悪徹夜、朝食抜きもあり得ない話ではない。ニコルは抵抗をあきらめ、げんなりと遮った。

「ザフエルさん」

「はい」

「お願いがあります」

「どうぞ何なりと」

「さっきから、ええとその僕、う、埋もれちゃってるんで」

 ザフエルの目がしらじらと瞬いてニコルを見下ろした。

「そんなの見れば分かります」

「うっ」

 埋もれてると分かってるなら会話する前にまず助けてくれればいいのに……。

 などと思ったニコルであったが、よくよく考えてみればザフエルにそのような善意の発動を期待すること自体過ちというか無謀というか夢のまた夢だ。どうして今まで気付かなかったんだろう、とニコルはいまさらながらそんな自分の馬鹿さ加減をめそめそと悔やんだ。

「ですからもしよかったらその、助け」

「ふむ」

 ザフエルは素知らぬ顔で小首を傾げた。

「確かに重そうですな」

「いや、ですから下敷きになって動けな」

「……お楽しみはこれから、というわけですな……」


 ……言葉もない……。


 何を言ってものれんに腕押しぬかに釘。ニコルは挫折感で袖を涙にぐっしょり濡らしながらしくしくと嘆願した。

「つ、次からはちゃんと言うこと聞きますから」

 どうせその一言を言わせたかったに違いない。やはりこいつも闇の眷属だった……。

「助けて。お願い。動けません」


「ふむ」

 ザフエルはゆっくりと片膝を折りニコルの前に屈み込むと、薄情きわまりない表情をほんの少し、おそらく彼自身も気付かないほどかすかに優しくゆるめて黒手袋の右手を差し伸べた。

 ニコルの手を取り、ぎゅっと握る。

「素直でよろしい」

 ミノムシのごとくにずるんと引きずり出される。

「好きで素直になってるんじゃありません……」

 自らの無力をしょんぼりと噛みしめつつ、ニコルはやっとのことで凶悪な重圧から解放されたのであった。


 ようやく人並みの心地となったところでニコルは、それはそれはぶすりとした顔でザフエルに向き直った。

「で、内々の相談って」

 声がめちゃくちゃ拗ねている。ザフエルの持ってくる話は、たいていがロクでもないことと相場が決まっているのだ。

「閣下が以前仰有っておられた《紋章》のことで」

「チェシーさんがどうかしたのですか」

 その名を聞くなりザフエルは憮然と口をつぐむ。よほど信用していないのか、それとも――

 どちらにしろザフエルがそんな状態では”盤石のノーラス”など絵に描いたモチなわけで。

 なぜか中間管理職の悲哀なるものをひしひしと感じて、窓辺に腰を下ろし空を見上げてはひとつまたひとつと気鬱なためいきなぞついてみたくなっちゃうニコル師団長、なのであった。


「分かりました。じゃ、すいませんがこれを一緒に片付けて」

「発令は明日の正午です。それまでによろしく」


 ぴしゃんとはねつけられる。

 どうやらこれっぽっちも手伝う気はないらしい。ニコルは仕事する前からぐったり打ちのめされた気分になって、床に座り込んだ。

 悲しい目で散らばった書類を眺める。ちなみに大半は配属替えの令状であった。発令するにはそれに師団長の承認サインを書き加えなければならない。

 第五師団四万五千の兵を、現状の歩兵主体の編成から二個旅団に分割、もともとある兵科大隊を中心に、ニコル指揮下へ歩兵大隊二個機甲兵団一個を、チェシー麾下に騎兵大隊二個猟騎兵団一個を編入する。


 再編成数、つまりサインしなければならない枚数は三万。

 ……生き地獄である。考えただけで脳みそが茹で上がりそうだ。ニコルは情けない顔で上目遣いにザフエルを見上げ――


 ふと、その右肩章から襟下の第二ボタンにかけて優雅に弧を描いている金絹の参謀飾緒に目をとめた。

(こっこれは!)

 ボタン側の留め金から筒円状に飾り巻きされた細い緒が二本下がっている。

 その先端にきらきらと美しく光るのは、まさに第五師団の青年将校憧れの――かどうかはいまいち自信がないところであるが、とにかく今をときめく知的演出型文具――万年筆であった。


 ニコルはにやっとした。じーっと穴が空くほど万年筆を見つめる。

「それ、貸してください」

「いやです」

「えー、困ったなあ」

 ニコルは天真爛漫を装って無邪気に手を出した。

「ペンがないとお仕事できないです」

「……」

 ザフエルは無言の抗議を全身からずもももと立ちのぼらせつつ、飾緒の先にとめつけた万年筆をはずし、限りなく嫌そうにニコルへ手渡した。

「汚さずに使っ……」

「うはあ、カッコイイ! これが万年筆かあ」

 ニコルはかっぱらうなりさっそくつやつやとしたその手触りに頬ずりし、きゃあきゃあ言いながらためつすがめつ眺め回すと指先にくるくる遊ばせ、ようやくすぽんと軽やかにキャップを抜いた。

「いいなあぴかぴか! 僕も欲しい。ねえダメ?」

 あらわれた金色のペン先とそこに映る愉快にゆがんだ自分の顔をそれぞれうっとりとながめる。

「どうぞ」

 ニコルは目をキランと輝かせるなり有頂天になってザフエルに抱きつこうとした。

「えっホントにっ!? いいのうわあありがとザフエルさ」

「いえ、お仕事をどうぞと申し上げました」


 片時もたじろぎを見せぬとはさすがは鉄の男である。


「ううっ……一瞬でもザフエルさん優しい、なんて思った僕が甘かった」

 がらがら崩れ落ちる偶像を前にニコルはがっくり意気消沈して首を垂れた。

「心外ですな。私のどこが優しくないというのです。こんなにも閣下をお慕いしているというのに」

「えー?」

 思わず疑いの声を上げてしまう。

「どう考えてもめちゃくちゃ歪んでいるとしか」

「だれが」

「ザフエルさんでしょう」

「私はこれで直球なのですが」

「魔球にしか見えません」

「むう……仕方ありませんな」

 ザフエルは酷薄に目を細めた。

「ならば場外乱闘で決着を」

「くっ、良い度胸です。受けて立ちますよ」

「この私に勝てるとでも」

「なんの、僕には伝家の宝刀『師団長権限』が」

「ふっ甘いですな……そんなもの私に通用するとでもお思いですか」


 そんなことをやっている間になぜか時間の感覚がなくなって。

 ……。

 …………暗転。


 どこかで小鳥がチュンチュンさえずっている。昨夜のうちに雨でも降ったのだろう、葉先までしっとりと露に濡れた冷たい森の上空を、編隊を組んだ渡り鳥が一直線に飛びすぎてゆく。

 朝練の時間なのか、規則正しいかけ声まで聞こえてきて。


 ニコルはそんな早朝の気配をぼんやりと感じながら、気持ちの良い惰眠をむさぼっていた。

「あ、もう朝か……うーん……」

 不覚にもソファでうたた寝してしまったのだと気付く。たしか、昨夜は、ええと……。


 むにゃむにゃと寝返りを打とうとして。

 こつん、と何かに額が当たる。

 肩だ。たぶん。飾緒がきらきらしているから……


「ふんぎゃあああああああっ!!!!!」


 悲鳴、なんてものではない。口からごろごろ心臓が二つか三つぐらい転がり出てきて、そのあまりの驚きに象の群れがどどどと地響きを上げて潰走し跡形もなく踏んづけてぺしゃんこにしてしまうぐらいの叫びだ。

 目が覚める前にむしろ心臓のほうが先に止まってしまいそうだった。


「ざ、ざざざザフエルささ……!?」

「む?」

 隣に。

 そう。隣に。

 ……寝ぼけまなこの、ザフエルが。


「うあああああああああ! ああああっ!?」

「おや、閣下。なぜ私のベッドに」

「ちっちっちっ違うでしょううううっ!! 何馬鹿なこと言ってるんですかっ!!」

「ふむ」

 さすがのザフエルも衝撃的な事実を目の当たりにして顔を引きつらせた。そうしながら外の景色へちらちらと目をやる。少々焦っているらしい。

「……大変なことをしてしまいました」

「し、してませんよ何言ってるんですかかか勝手な誤解してないではやく何とかしてください!」

「何とかせよと言われましてもな」

 ザフエルは片手で目と額を一緒に押さえ、むうう、と唸った。

「一夜をともにしてしまった以上、私も男です。責任をとって閣下と結婚するしか」

「し、し、し、してませんってばわざわざ勘違いするなあーーーーっ!!」


 後世にまで長く語り継がれることとなった伝説の一日――

 ノーラス城砦史上最大にして最悪の一日は、かくのごとき波瀾万丈の幕開けと相成るのであった。



「とにかく、これだけははっきりしてます。正午の発令なんてぜったい間に合いません」

 驚きと衝撃の嵐が過ぎ去ると、解決すべき問題だけがずーんと重くのしかかる。ニコルはげんなりしつつも必死で反論しようとした。

「間に合わせてください」

「鬼」

「閣下ならできます」

「くっ、騙されるもんか」

「言い争っている場合ではありません。事は急を要します」

「……」


 さすがにしょんぼりする。

 誰のせいでこんなせっぱ詰まった状況に追い込まれたのか……ちょっと考えただけで胸がせつなくなる。だが、ここで負けては男(?)がすたるというものだ。

 ニコルは半ばヤケになって、とにかく目の前にあった報告書を披見し始めた。

 しかし、眠い。やたらと眠い。

 少しでも気を抜けば、すぐにうつらうつらしてしまいそうになる。

 ……こんなことではイカンと思ひつつ、ふいほにゃぁらら……にょ……


「閣下」

 低い声に思わずびくんと体を震わせる。ニコルははっと目を覚ました。

「寝てませんよ」

「寝てました」

「そんなこと言ったって眠いものは眠いんです」

「我慢なさい」

「鬼」

「閣下なら……(以下同文)」

「くっ、騙……(以下同文)」

「言い争っ……(以下同文)」


「……」


 だめだ。やはり眠い。眠すぎる!

 ザフエルもまともなようでいて、さっきと言っていることがまるで同じだ。

 ニコルはメガネを取り、目の間をきゅっとつまんだ。そのまま、ソファにもたれ、気を休めるだけのつもりが、すーっと安眠の世界へ……

 ああ、このまま永遠に眠ってしまひはにゃらへにょ……


「閣下!」

 ぎょっとして飛び起きる。さすがにこれ以上(以下同文)のようなお間抜けな真似を繰り返すわけにはいかない。

 ニコルは泣きそうな顔をして、ちょうど目の前にあった新設騎兵連隊用の装備品支給の決済を求める書類を手にとった。

 中身をちらっと見て、ふと真面目な顔にもどり、眉をひそめる。

 ……使える。使えるぞ。

 誰が考えても魔が差したとしか言いようのない無謀なたくらみを思いついて、ニコルはひそかににやりと笑った。


 さっそくうーんとばかりに腕を組み、ペンを耳に挿して考え込む素振りをしてみせる。

「強化胸甲の支給がかなり遅れてますよね。よくないですよね」

 ザフエルもその点は同感らしかった。声に出しこそしないが、深くうなずく。

 ニコルはメガネを指先で押し上げては落とし、悩ましげに考え込んだ。書類の数値を右、左と何度も見比べる。

「よし、決めた」

 ついに決心して、テーブル上の書類をぱん、と平手でたたく。

「配備はできるだけ前倒しの方向でいきましょう。これだけ急ぎで差し戻し。ディー主計監に修正をお願いしてください」

 えいやとばかりに肝心の五桁目を二から三へ書き換える。

「この件はあとで僕からバラルデス護国卿とアーテュラス内務卿に請願書を書いときます。あと、ええと、元老院には可及的速やかに案件の審査を行うよう要求するとして」

 伏せた顔の下で、表情を秘め隠すぐりぐりメガネがキラン、と不穏に光る。

 ニコルは聞こえるか聞こえないかぐらいの小さな声でぼそりと付け加えた。

「ついでに僕も万年筆欲しいな」


「却下」


 ……。


 まさに電光石火の早業で拒絶される。さっきまで眼を開けたまま堂々と寝ぼけていたくせに……とニコルはやや見当違いの怒りにテーブル下の握りこぶしをプルプルわななかせて憤慨した。

 だが、こんなところで躓いていては元も子もない。何せ敵は百戦錬磨の老獪なる将軍、事は慎重に運ばねばならない。陽動作戦をそれと感づかれては何もかもが水の泡だ……


「ところで昨日言ってた話ですけど」

 水面下の悪巧みを悟られないよう、ニコルはザフエルに背を向け真面目に仕事をするふりをしながら、ゆっくりとたずねた。時すでに昨日、というところが何だかとてもわびしい。ザフエルと言い争いをしようものなら、結局いつもこうなるのだ――

 一方のザフエルは相変わらず答えない。もしかしたら答えられないのかもしれなかった。

「あれってチェシーさんのことですよね」

 ニコルは仕方なく何気なさを装って続きを促した。その隙に、書類の束へささっと別の紙切れを紛れ込ませる。

「はい」

 ザフエルはためらいつつもうなずき、ようやくその重い口を開いた。

「……先日の査問会でサリスヴァールが行った供述によりますと、ゾディアックは既に《悪魔の石板》を解読し召喚術の研究に着手しているとのこと。早急に対処されたしとの通達が幕僚本部よりございました」


 泥水を含んだような不安が、胸にひたひたと滲み出してくる。

 チェシーは自らの亡命許可を取る代わり、代償として《紋章》の話を持ち出したのだろう。だがその条件は諸刃の剣だ。《紋章》の使い手だと明かすことは、すなわち聖ローゼンクロイツに対して”異端”の表明をするに等しい。

 左腕につけた《封殺のナウシズ》が、視界の隅で薄青く輝いている。

 なぜか、息苦しい。

 ニコルは母の温もりにも似た光を放つ守護の石をてのひらにぎゅっと握りしめた。


「つまるところ、異端審問せず生かしてやる代わりに《紋章》をよこせってことだよね」

 突き放すようなニコルの言葉に、ザフエルはなおのこといっそう表情を秘め隠した。

「そこまでは」

「いいよ、分かってる。要はそれまでの命ってわけだ。ずいぶん足下を見られちゃったな」

 ニコルはいささか皮相に微笑むと、顔だけをふんぞり返らせてザフエルを見上げた。

「じゃ、こうしましょう。第五師団の士官全員に初級技能の講習を義務づけます。僕だけだと目立つしね。ということで神殿騎士団にはうまいこと報告よろしく。それと」

 あくまでもさりげなく――机の上の書類をとりまとめ、角をざっと均してから勢いよくザフエルの手へばさりと渡す。

「えっと、こっちがディー主計監あてで、こっちが今日の発令分。とりあえず中隊長の任命だけですけど」

「了解。十分です」

 ザフエルは丁重に敬礼した。

「ありがとうございました。これで明後日の発令には何とか間に合います」


「……ぇ」

 何だろう。今、とんでもない一言が聞こえたような……。


 ニコルはごしごしと眼をこすってみた。

「あ、あさって?」

「はい」

「今日じゃなくて?」

 何度目をこすろうが音を聞くのは耳であって目ではない。ザフエルは白々しくそらとぼけて視線をそらした。

「申し訳ございません。私の勘違いでした」

「……あ、あの」

「では私はこれにて失礼仕ります。お疲れさまでした」

「ちょっと待って」

 ニコルは凶悪な目でザフエルを見上げた。

「ザフエルさん」

「はい」

「どういうことでしょうか」

「どうもこうもありませんな」

「ひ、人に徹夜させておいてその言いぐさはどういうことかと」

 猛然と抗議の声をあげかけたニコルに対し、ザフエルはふいに、手にした書類の中の一枚を目にもとまらぬ早業で引き抜き、ニコルの鼻先にびしぃっと突きつけた。


「ひいい!」

 ニコルは総毛だって凍りついた。

「何ですかな、これは」

 書類のタイトルは『万年筆(青・黒)購入稟議書』。

 もちろん――偽造文書である。


「こんなものを紛れ込ませるとは」

 黒い眼が勝ち誇った光を放って、またたいた。

「軍法会議に掛けたらどうなるか、もちろんお分かりでしょうな」

「あ、い、いや……その、僕、ええと……」

 ニコルは真っ青な顔でぶるぶる頭を振りながらあとずさった。

「あ、あの……その、あああのつまりで、ででで出来心というかその……ど、ど、どうしてもこれが欲しくってあの……!」

 ザフエルはふと、名状しがたい表情を浮かべてニコルを見つめた。

「そんなに」

 ためらいがちに口ごもる。

「そんなにあの万年筆が欲しいのですか」

「う、うん」

 ニコルはぐすん、としゃくりあげつつ、気弱にうなずいた。

「ふうむ」

 さすがのザフエルも情に流されたか、どことなく考え込むような仕草を見せている。

「そうですな……まあ、私のお古でよろしければ……」

「全然大丈夫! 欲しい欲しい欲しい!」

 ニコルはぱっと顔を輝かせ、それはもう激しくコクコクと首がもげるほどにうなずいた。

「では、差し上げましょう」

「うわああやったあ!」

 やっぱりザフエルさんだ信じてましたよもうスキスキ大好き大好きはっはっはそうですか差し上げた甲斐があったというものです閣下が喜んでくださることこそ無上の喜びですよはーはっはっはっはっ――などという空想が脳裏をよぎったかどうかは別として、とにかくあまりのうれしさに駆け寄って飛びついて子犬のようにごろごろすりすりとじゃれあいかねない勢いのニコル、ではあったが。


 なぜか――

 突然、微妙なさむけに襲われる。


「その代わりといっては何ですが」

 ニコルの空想の中にいた偽ザフエルとはまるで違う口調で、本物のザフエルは酷薄に目をほそめ、出来の悪い偽造文書をゆっくりと手の中に握りつぶした。

 丸めた紙くずを、不気味に足下へ投げ捨てる。

「私からも願いがございます」

 ニコルはその一言に心臓を鷲掴みにされ、心底恐怖した顔で凍りついた。

「な、何……」

 ザフエルは悪魔の両翼のごとき腕をいっぱいに広げると、無表情のままニコルをがば、と抱きすくめた。

「ぎゃ!?」

「さあ閣下。今宵もまた」

 ――ふいに声を低くして、あやしくささやく。

「ともにめくるめく夜を」


 ――あんぎゃあああああ……!!!


「うわあああんザフエルさんのばか! 変態! いけず!!」

 一度は期待したぶんだけ衝撃も大きい。心身ともに完全に打ちのめされたニコルは頭を抱え号泣しながら逃げ出した。

「タダほど怖いものはない」

 その背中へ向けて、ザフエルは冷ややか且つ身も蓋もない追い打ちを浴びせかけるのであった。


「政治にしろ戦争にしろ、一見うまい話ほど裏があるものです。ようく覚えておくのですな」



 一般兵向けの食堂は戦場だ。連日の厳しい練兵でくたくたになった兵士たちが、昼飯時になると餓狼のごとくなだれを打って飛び込んでくる。

「おばちゃん、めし!」

「おばちゃん、ビール!」

 鷲掴みにしたパンを早くもむしゃむしゃやりながらスープをもらいに駆け寄ってきた兵士の群は、そこで信じがたい存在を目にして、まるでガラスの壁にでもぶつかったかのごとく凍りついた。

「かっかっかっ」

 先頭の兵士がカラスのような奇声を上げていきなり急停止し、直立不動で最敬礼する。

「閣下!」

 もちろん後ろからは、メシメシとうるさい兵隊さんたちが続々押し寄せているわけで、つんのめった兵士は口々にうわああとかぎゃああとか言いながらばたばたと倒れ、みるみるその場は面白いように兵隊のてんこ盛りになっていく。

「のあああああ!」

「重い重い!」

「しーっ!」

 ぐりぐりメガネにゲリラまがいの覆面をした、見るからに挙動不審のあやしげな人影が両手を振り回す。

「違う違う!」

 これだけの騒ぎを起こしておいて、しーっはないだろうと思うが……。

 ともあれ、何の自覚もないらしいその人物は、あたふた焦りながら手にした自前のスプーンをくちびるに押し当て、あくまでも見なかったことにしろと声高に言い張っている。

 しかしたとえどんなに身をやつそうと、上級将校の肩章をつけたままほっかむりするメガネのちびなどこの僻地ノーラス城砦において某元帥の他、唯の一人でも存在するだろうか!


 ……いるわけないのである。


「な、何やってるんですアーテュラス閣下こんなところで」

「しいーーっ!」

 ニコルは真っ赤な顔でぶんぶん頭を振った。

「今月お小遣いが足りなくってさ。士官食堂のランチはお金が要るしとてもじゃないけど手が出ないんだよ。だから他のみんなには黙って……」

 と言った舌の根も乾かないうちに。


「おいニコル」

 いきなり凄んだ低い声が背後から降ってきた。

「うわあ出たっ」

 ニコルは悲鳴を上げて飛び上がる。

「姿が見えないと思ったら」

「たっ助けて」

 半泣きで逃げ出しかける。その襟首を瞬時に伸びた純白の手袋がぐいと掴んでつるし上げた。

「何をしているこんなところで」

「くくくく苦しいってばチェシーさん!」

 子猫のように首根っこを捕まえられぶら下げられて、苦しそうに喉を押さえじたばたする最高司令官の姿に、居合わせた兵士全員が唖然とする。

「サリスヴァール准将!」

 一瞬の緊張が風のように吹きつける。

 きりきりと敬礼を始める兵たちを、チェシーはいかにも命令し慣れたふうの、どこか尊大な態度で遮った。

「我々のことは気にしないでくれ。敬礼も不要、すぐに退散する。諸君らは食事をしっかり取って休憩。午後の訓練に備えるように。そうだな師団長閣下」

「うっ……えっと、いや、あの、僕は」

 ニコルは泣きそうな顔でチェシーを見上げた。

「こっちでご飯を」

「何やってんだいあんたたち!」

 とつぜん、銀色に光る二つの巨大なおたまが、逆巻く十字に風を切り裂いて降りせまった。

 びしッ、とばかりに鼻先一寸前に突きつけられる。

「う……」

 まさに寸止めだ。

 目の前の視界がおたまで塞がれている。

 まるい表面を、つ、つっ……と滑ったしずくが、鼻の上にぽたっとしたたり落ちて――


 ――動けなかった。


 ニコルはたらりと冷や汗が流れるのを感じた。

 自分はともかく、まさかあのチェシーでさえもが、身動き一つできないまま脇腹をおたまの柄でぐーりぐりされているとは。


「腹空かした坊やたちが泣きそうなツラしてあんたら睨んでるの分かんないのかい!」

 迫力ある女性の声が響き渡る。

 今にもぶん殴ろうかという勢いで立っていたのはニコルの数倍は横幅があろうかというそれはそれは剛毅なおばちゃんだった。

「いいか、兵隊は昼飯が命なんだよ! あたしの鉄板スープぶっかけられたくなかったらイチャイチャ突っ立ってないでとっととそこをお退き、このデコボココンビ!」

 再びびゅっとスープの滴を振り散らしながら二刀流のおたまを引き払い、堂々と腰に手を当てて、ざっ、と立ち位置を変える。


「ごごめんなさいヒルデ班長! 並びます、並びます!」

 呆然とするチェシーの手を振り払うや、ニコルは大慌てでぺこりと頭を下げた。

「お昼も食べます!」

 おばちゃんはそれをきいてようやく表情をやわらげた。

「ならいいんだよ閣下。あんた食べ盛りのくせにちょっと細すぎるんだ。そこのデカイのも一緒にお相伴だよ。分かったかい」

 厚生部隊給糧班、糧食担当長ヒルデブルク軍曹――人は鬼軍曹と呼ぶが、むしろ肝っ玉かあちゃんと呼んだ方が相応しいかもしれない――は磊落に笑って、チェシーの手に昼食一式のトレイをいきなりどすんと乗せた。

「ほら、しっかり食ってきな!」


 ジューシーな匂いがぷんぷんのソーセージに焼きベーコンにくんせい卵。加えて、ニンニクを効かせた塊ベーコンと野菜の煮込みにカリカリに焼いたライ麦パンを直角に突き刺し、じゅわっとあふれんばかりにボウルへぶち込んだスープ。

 見ただけ、においを嗅いだだけでお腹がぐぅぅぅと鳴るほど、それはそれはパワフルな昼飯だった。

 ニコルは思わずよだれをだらーっとたらして両手を結び合わせると、さっそく鼻を突っ込まんばかりにして自分のトレイにしがみついた。

「うはあ美味そう! いただかせてもらいます!」

「だ、誰がデコボコだ……」

「いいからはやく。こっちこっち。僕もうお腹ぺっこぺこです」

 ニコルは、未だ衝撃さめやらぬチェシーの袖を無理やりひっぱって、食堂の隅っこに連れ込んだ。

 がたがたと当て布ごと破れたボロ椅子を引いて腰を下ろす。

「何ぼーっとしてるんです。ほら、チェシーさんも座って。一緒に食べましょうよ。はいスプーンとお水。よかったらマスタードもありますし胡椒も……」

 突っ立ったままのチェシーを、まるで行儀の悪い子供を咎めるかのような目で見上げ、あれこれ要らぬ世話を焼き始める。チェシーはどこかぽかんとして、こんなときだけはやたらと手際のよいニコルの指先を見つめていた。


「おーい閣下」

 そのとき、群がる兵士たちの向こう側から、何か思いだしたらしいドスの利いたヒルデ班長の声が聞こえてきた。

「さっきの話ね、了解だよ。ちょうど在庫もあるし」

 ニコルはもう口一杯にじゃがいもを詰め込んでいて返事もできなかったが、満面の笑みでスプーンを振り回し、大きく何度もうなずいた。


「何だ、話って」

 ようやく我に返ったチェシーが腰を下ろしながら不思議そうに訊く。

「はえに《ほんひょー》のはらしひらのほぼれへるへひょ」

「わかった。特別に許可する。先に食え」

 チェシーはげんなりした顔で肩をすくめると、受け取ったスプーンでニコルの食器の縁をカンカンと叩いた。

「んん、いわれらくれも……んぐぐぐぐ」

 あんまりかき込みすぎたせいか、ニコルは飲み込みきれないじゃがいもを思い切り喉にひっかけ、目をぐるぐるに白黒させた。

「う、ううううみず、みずみず……」

 胸をどんどん叩き、グラスの水を一気に流し込んで、どうにかごっくんと飲み込むと、はああ……と必死の生還を果たしたかのごとくなためいきをつく。

「お、美味しすぎて危険だ」

 それを聞いたチェシーはあきれた目でニコルを見やった。

「何やってるんだ、あさましい」

 ニコルは苦笑いでこたえた。

「だって、ええと、いつからだっけ」

 ひぃ、ふぅ、みぃ、と指を折って数えてみせる。

「昨日の晩から何も食べてなくって……いや、昼だったかな」


「師団長ともあろうものが日々の食事にまで事欠くとは」

 チェシーはわざとらしいためいきをついた。

「斜陽貴族もここに極まれりだな。深く哀矜の意を表させていただくとしよう」

 言いながらテーブルの端にあったレモン水の水差しをとりあげると、すっかり飲み干されて空っぽになったニコルのグラスへ、からりと澄んだ氷の音をさせてつぎ足す。

「ま、一杯やってくれ師団長。私のおごりだ」

「ううう、こりゃどうもすみませんです。ありがたくお受けします」

 ニコルはグラスをつかみ、くーっと一気に杯をあおると投げやりな仕草でテーブルへ戻した。

 ぷっはー、と息をついて濡れた口元をこぶしでぬぐう。

「ああもうまったくザフエルさんときたら」

 調子に乗ってぐすぐす泣き真似しつつ愚痴を言いかける。


 ……が、そんなことをチェシーに訴えてみてもどうせ鼻の先でフンとあしらわれるに決まっている。ニコルはあわてて笑い、口をつぐんだ。

「何言ってるんですただの水じゃないですか」

「よく分かったな」

「もう、毎度毎度チェシーさんは」

 くちびるを軽くとがらせて、じろっと見上げる。

「その挑戦的ボケツッコミ体質どうにかしてくださいよ。いいから冷えないうちに早く食べちゃってください。お昼まだだったんでしょ、食べ終わったらすぐ行きますから。いちおうチェシーさんにも見てもらわないと」

 チェシーはわずかに表情を変える。

「何を」


「花誕祭に捧げる子羊って」

 ニコルはやや皮肉な目をヒルデブルク班長に向けたあと、ゆっくりと視線をおよがせてチェシーに戻した。

「その時が来るまでは目一杯いいもの食べさせてぷくぷくに太らせておくらしいです」

 チェシーはひるみもしなかった。

「ほう、そういう習慣があるのか」

「ご存じないですか。ルーンの名を冠した聖女の生誕を祝う日なんですけど」

「知らないな」

 チェシーに気付いた様子はない。それでもニコルは満足して気を取り直した。

「それにしても、このスープ美味しいな。いつか作り方教えてもらおうっと。そしたらチェシーさんにも食べさせてあげますよお毒味役としてですけどね」

 ニコルはぐりぐりメガネを湯気で白く曇らせながら、心底嬉しそうに笑った。こんな喧噪の中で、時間に追われながらもかき込むようにはふはふ食事できることが、実は嬉しくて嬉しくて仕方ないのだ。

 チェシーは苦々しく鼻で笑った。

「さては私を太らせて食おうという魂胆だな。悪趣味な――ありがちな話だ」

「煮ても焼いても食えそうにないですけどね」

 くすくす笑いながらニコルは元気よくソーセージにかぶりつく。ぷりぷりに張りつめた皮がぱりん、と油を飛ばしてかろやかにはじけた。

「よく言う。良薬口に苦しのたとえを知らないのか」

「毒薬の間違いでしょう。どうせ一杯食わされるのがオチです」

「黙って聞いていればこの野郎」

 チェシーはにやりと笑って手を伸ばし、ニコルのほっぺたをぶにゅううううと引っ張った。

「ひひひひたいひたいひたい……!」

「あとで廠舎の裏に来い。鉄拳制裁だ」

 とか何とか言いつつ案外まんざらでもなさそうな顔をしたチェシーは、ノーラス地方独特の家庭料理と思われる見慣れない煮込みをおそるおそるスプーンの先でつついたが、やがてニンニクの香りとともにほろりと煮くずれる甘い湯気にさそわれて黙り込むや、真っ赤に腫れた頬を押さえて涙するニコルを無視し、猛然と食べ始めた。



 ノーラス城砦、大会議室。扉を開けるとそこは謎のジャングルだった。


 妙にしっとり、いや、じとじととまとわりつくような重たい空気がよどんでいる。

 壁一面に生い茂る緑濃いツタ、そこらじゅうに生えまくる極彩色のキノコ、巨大な花だか目玉だか分からないような未確認飛行物体がばっさばっさ飛び回っているかと思えば、どこからともなくホロロロロ……と不気味優しい鳴き声までがつたわってくる。

「……う」

 扉を開けた途端ひろがる太古の光景に、さすがのニコルも顔をひきつらせて立ち止まった。

「い、いつの間にこんな」

「なるほど、こういうことか」

 一見しただけで興味を失ったか、チェシーは驚きもせず悠揚と壁にもたれ、高をくくった薄笑いをうかべた。

「逆にこの程度でしかないことに驚いたよ」

「――閣下」

 突然。

 妖刀を擦り構えるにも似た気配が背後に近づいた。

「うわっ」

 ぎょっとしたニコルが飛び上がる。

「ざざざザフエルさんいいつの間に」

 ザフエルは珍しく苛立った様子でニコルとチェシー双方にするどい眼差しを差し向けた。

「相も変わらずちょろちょろと。もう逃がしませんぞ。さあ、早く」

 手を突きだしてニコルを捕まえようとする。

「あいかわらずはそっちだホーラダイン中将」

 チェシーはとがった笑い声をたて、おもむろに身を起こした。

「毎度毎度、気配もさせずに忍び寄ってくるとは」

「おや」

 ザフエルは飛んできた矢のような視線を知らぬ顔で受け流した。

「それは申し訳ないですな。貴方と違ってどうも私は存在感が希薄なようで」

「その代わり面の皮が厚いんだろ」

「准将は面白くもない冗談がお好き、と」

 チェシーの皮肉をザフエルはわざとらしい咳払いで遮った。いつのまにか『サリスヴァール准将マル秘アンケート』なる黒革表紙の真新しい手帳を取りだしている。

「ちょうど手元にこんな資料が」

 ぱらりと最初のページをめくる。

「ふむ、師団内部の最新意識調査に拠りますと、サリスヴァール准将は」

 ザフエルは漆黒の眼をかみそりのように細めて読み上げた。

「『毎朝、鏡に向かってナルシーポーズを取っていそうな将校第一位』……『女性士官に聞きました顔を見るなりいきなり口説いて来そうな将校第一位』……『何か言うたびキザに髪をかき上げるっぽい将校第一位』……『彼女を奪られた士官に逆恨みされてそうな将校第一位』……『隠し子三人……』」

 チェシーの眼が凶悪に光った。

「寄越せ」

 しゅっ。

「お断りですな」

 ひょい。

「そんなものいつ作った」

 びゅっ。

「査問会如きに手間取る貴方が悪いのです」

 すいっ。

 神速の居合い、静かなる毒舌。下段からの凄まじい猛突を闇の揺らぎにも似た体さばきで受け流す。

「……それにしてもすごいなあ」

 その間、何も気付かないままニコルはおそるおそるといった様子で、うようようごめきまわる異界の生物に埋め尽くされた会議室をのぞき込んでいる。

 しかしてその背後では、たかが一冊のしょうもないノートをめぐり、凄腕二名による目にもとまらぬ無言の攻防がしゅばばばばばと繰り広げられていたのであった。


「でも、これと『召喚』と何の関係が……って、さっきから何やってるんです二人とも」

 耳元をかすめた風がニコルの髪をひゅんと逆巻かせる。ようやく不気味な拳圧を背後に感じて、ニコルはきょとんと振り返った。

「いえ、別に何も」

 その瞬間、すでにザフエルは髪の毛ひとすじ、呼吸のひとつも乱さぬまま、素知らぬ顔でメモ帳をしまい込んでいる。

「くそっ」

 チェシーは完全に手玉に取られた悔しさを隠しもせず、苛立たしげにザフエルを睨むなり吐き捨てた。

「知るか。勝手にやってろ。俺はもう知らん」

「え」

 敗北を認めもせず、ずかずかと足音も荒く去っていく。ちょうどその入れ違いに、ヒルデブルク軍曹と厚生部隊看護班のビジロッテ中尉が廊下の角を曲がってやってきた。

「退け」

「これは大隊長どの、申し訳……」

 あやうく突き飛ばされそうになったビジロッテ中尉があわてて踏みとどまる。

 ニコルは当惑してザフエルを振り返った。

「チェシーさん、何で怒ってるんです?」

「さあ」

 何食わぬ顔でザフエルは答えた。すっと身をひるがえす。

「存じません。ともあれ邪魔者も消えたことですしさっそく始めましょう」

「え?」

 ニコルが反論しようとしたときにはすでにザフエルの姿はそこにない。とっくの昔に話を打ち切ったような態度で会議室をすたすた横切り奥へと向かっている。


 行く手には見知らぬ黒衣の男が一人。


 毒々しい目玉模様の蛾。一口かじっただけで笑い死にしそうな、赤地に緑の星もけばけばしいもじゃもじゃキノコ。

 周囲に積み上げられた、それら怪しげな材料をすりつぶしては怪しげな液体と一緒にフラスコへたらし込み、言い逃れのしようもなく危険なドドメ色の煙をぼひゅ、ぼひゅ、と立ちのぼらせている……

 どうやら、背後に魔方陣を背負ったその不気味な人物こそ、このはた迷惑なジャングルを出現させた張本人であるらしかった。



「つまり、”練術”とはこれら異界の影響を受けた生物や物質を触媒と霊的に合成する技能でありまして、この技法を用いることによって様々な属性を帯びる物質に再構成することが可能となるわけであります。聖騎士の皆様方には誤解も多々あろうかと思いますが我々は神と聖なる薔薇の御名において清廉なるを誓い、闇との契約をかたく禁じてまいりました。して合成できる種類には甘露の秘薬ヴィタエをはじめ――」

 うららかな午後。

 極彩色のキノコや顔よりも巨大な人面蛾の飛び交うジャングルではあっても、窓からはいつも通りあたたかな陽光が射し込み、そよそよと心地よい風が頬をかすめる。ゆりかごのように揺れる葉先が、床にあわい影を落として。


 青い空にほわんと流れる綿雲のような時間がゆっくりとすぎていく。


 ニコルはちょうど日だまりになったその場所に小さな椅子を持ち込み、ときおり――いや正直に言ってしまおう最初からずっとだ――こっくりこっくりやりながら、練術師ゾロ博士の『技能初級講座』を子守歌代わりに聞いていた。

 背後ではヒルデ班長が豪快ないびきをかいている。その隣、看護班のビジロッテ中尉だけは真面目な性分らしくエンピツをカリカリ鳴らしながら必死にノートを取っていた。

 開け放った窓から聞こえてくるのは調練の掛け声。土を蹴立てて行進する靴音には一糸の乱れもなく、いかにもよく訓練されているように聞こえる。

 威勢の良い進軍らっぱが鳴り響く。どよめきが起こった。

 隊形転換の檄を飛ばしているのはチェシーだろうか。まだ怒っているのか、やたら声がするどい。

 どんなふうに訓練しているのか、今すぐ窓から身を乗り出して眺めたい気持ちに駆られる。話では連隊の域を超え、歩・騎・砲の三種を混合した編成を組むことになったらしいが――


 ふと、視線を転ずる。

 すこし離れた場所にザフエルは一人で座っていた。よせばいいのにほとんど向かい合うような形でゾロ博士のど真ん前に陣取っている。

 そのくせ腕を組みブーツの足を組み、妙に姿勢良く椅子の背にもたれて堂々と眼を閉じている。うたた寝しているらしい。


 完璧な、しかし無防備な寝顔。


 ニコルは思わずくすっと肩をすくめて笑った。なんだかんだ言いながらザフエルも相当に眠かったのだろう。結局ニコルの半徹夜に付き合ったせいで昨夜はろくすっぽ寝ていないはずだし……

「それでは実技に入ります」

 ゾロ博士がぼそりと言う。

「準備をいたしますので少々お待ちを」

 声が聞こえたのか、ザフエルはすっと目を開いた。

 しばらくぼんやりとした後、やや眉間にしわを寄せ、痛みをこらえるかのような顔をつくる。

 と、ふいに気配を感じでもしたのか唐突に振り返った。

 ニコルはどきっとして眼をそらした。

 ずっと見ていたことに気付かれたのだろうか。あわてて資料の陰にかくれ、ほのかな色に頬を染めて、うつむく。


 ――いや、待て。何だその反応は。


 ニコルは逆に照れて苦笑いした。よく考えたらこそこそ恥ずかしがらなければならない理由などどこにもない。そりゃ、今朝は確かに――


(おや、閣下。なぜ私のベッドに)


 取り出そうと思った記憶とは違うとんでもない別の記憶に、ニコルはげっそりと絶望的な気持ちになって頭を抱えた。だからあれは単なる事故だ。だいたい前日からずっと半ば軟禁状態で働かされ続けてきて、眠ってしまわない方がどうかしている……それに、それに……あれっ……


 なぜかいっそう鮮明によみがえる記憶の断片。


 ……頬に触れる肩。

(そ、そうじゃなくて!)

 ……回された腕。

(だ、だからそういう状況じゃないんだって!)

 ……顔を上げた目と鼻の先には、じっと見つめ返してくる、ザフエル。


 ――だっ……誰がそんな想像をしろと!


 ニコルはへなへなと突っ伏した。そ、そう言えばあんな近くでザフエルを見たことなんて今まで一度も……い、い、いやそうじゃなくって!

 ニコルは、よれよれになった頭に必死で理知的な思考回路を再構築しようと無駄な努力をかさね続けた。よくよく考えれば、隣で寝てしまっていただけでその他の行動はいつものザフエルそのものではないか。別段、何がどうということは……。

 だが言い訳を重ねれば重ねるほど、頭の中がぐちゃぐちゃしてくる。

 ニコルは顔から火が吹き出しそうな、泣きそうな思いで恐ろしい悪夢を一蹴しようとした。

 今までそんなふうにザフエルを意識したことなど一度もなかったのに、何で急にこんな……


 とそこでふいにひらめく。

 ニコルはその”こんなこと”になった原因にずばり思い当たって、ぐぐぅとばかりに怒りの鉄拳をつくった。

 チェシーだ!

 顔を見るなりいきなり口説いて来そうな、どころか本当にいきなり口説く将校第一位、諸悪の根元、ケダモノモードフルスロットルの大暴走チェシーに無理やり迫られた心的外傷のせいで、ザフエル自身はいつも通りなのに、それを受け取る側である自分のほうが無駄に強烈すぎる精神的ダメージを食らっ……。


 ――いや、待て。


 そんなときだけ妙に冷静な警鐘が意識の底でひそやかに鳴り渡る。

 問題は。

 なぜザフエルが朝まで執務室にいたのかだ。

 鉄の軍規をもって鳴らすザフエルが、たとえ自分も眠くなったからといってそのまま師団長たるニコルの部屋でぐうぐう寝てしまうなどという失態を演ずるだろうか。そんなことはまずあり得ない。絶対という修辞を添えてもいいぐらいだ。

 では……。

 ニコルはううむ、と腕を組み首をひねって、ついでになぜかパイプをくわえるまねごとなどしながら考え込んだ。

 まず、現場の状況から推理してみよう。被害者ニコルは床で熟睡している。一応、その周りを白いチョークでかたどって……それを見たザフエルはどうするか。

 おそらくザフエルは被害者と愚にも付かない口論をやり続け、心身共に限界まで疲れ果てているだろう。その上で取りそうな行動として考えられるのは以下の三つ。


 その一。

 ……放置。

 思いついた瞬間、げんなりする。

 だがこれの可能性が一番高そうだ。気持ち的にはもっと憤慨すべきなのだがほかの選択肢に比べればずっとずっとマシに思える。

 ではその二。

 ……とりあえずソファに転がしてその後放置。

 これもあり得ない話ではない。ザフエルの目にも涙、たまには優しい気持ちになるときぐらいあるだろう。

 そして、その三。

 ……とりあえずソファに寝かし、その後あの状況に最も近い展開となるためには――熟睡中のニコルをああしてこうして……そして……。


 ……。


 想像しただけで――

 かぁぁっ、とみるみる顔が真っ赤になった。かっ……考えたくもない……。

 でも。

 まさか……。

 ふいに、恐怖にも近い感情がこみあげる。

 ザフエルならニコルを抱え上げるぐらいわけもないだろう。どこで寝込んだのか覚えてもいないけれど、起きたのは間違いなくソファだ。とするとやはりザフエルがソファまで運んでくれたのだろう。

 もし、そのときに。


 突然、ザフエルが椅子の背を支えに立ち上がった。ちらりとニコルを見つめ、そのまま真っすぐ、ゆっくりと近づいてくる。

 ニコルはおもわず息をつめて見返した。ザフエルの黒いまなざしはニコルに突き刺さったまま、そらされもしない。

 何の変哲もない、いつも通りのそっけない表情。


 なのに。


 ニコルはがたりと椅子を下がらせ、身をこわばらせた。無意識に腕で胸元をかばう。

 ザフエルの視線がひどく恐ろしい。

「ざ、ザフエルさん……」

 ニコルの恐れに気付いたのか、ザフエルはようやく歩みを止め、一歩離れたところで立ち止まった。

「閣下」

 静かな、そして恐ろしい声。黒い瞳に一瞬、嵐が吹きすさむ。

「まさか昨夜のこと、お忘れになったわけではないでしょうな」

「な、何のこと……?」

 たまらず、声がふるえる。

 《先制のエフワズ》までがざわざわと騒ぎ出した。腕にびりっとした刺激が走る。

 熱く、狂おしく、痛みにも近い感覚。

 ルーンごと腕をぎゅっと抱きしめて、ニコルはザフエルを見上げた。

「何……?」


 耐えきれないほど長い――そう思えた沈黙のあと。

「おとぼけになっても無駄です」

 ザフエルは冷ややかに言い放った。

「持ち逃げした万年筆、とっとと返しなさい。まったく、油断も隙もない」

 ……哀れニコルはどんがらがっしゃんと椅子から転げ落ちた。


 そこへゾロ博士が影の薄い背後霊のように近づいてきた。

「師団長閣下、参謀殿、準備できておりますのでそろそろ」

「す、すみません」

 ゾロ博士は鬱屈した視線をやや物思うかのように遠くへ転じてから、とある机の前にニコルを案内した。

「こちらになります。では」

 慇懃な暗い顔が、奇怪に笑っている。

「ごゆっくりどうぞ」

「い、いやちょっと待っ……」

 何が何だか分からず、ニコルはあわてて博士を引き止めようと手を伸ばした。

「あ、あの」

 一人、ぽつねんと取り残される。 ニコルはひきつる顔で机を振り返った。

 絶句する。

 これでいったい何の実技をしろと言うのか。


 目の前に、虫かごというには余りにも巨大な、あえていうならば犬小屋とか檻の部類に近いしろものがでんと置かれている。

 オリの中には、断末魔の表情をうかべる人にも似た模様を羽に持つ巨大な蛾が一匹。

 ……当然、元気いっぱいである。

 そいつがばっさばっさと翼をうならせ羽ばたくたび、あやしげな極彩色の燐粉がそこらじゅうに舞い上がる。かるく一息吸い込むだけで、そのまま発疹が吹きだしそうな毒々しさだ。

 はっきり言って、怖い。

 泣きたいほどだった。

 蛾はときどきニコルを威嚇するかのごとく檻に突進してきては、触覚を痙攣させ無数の複眼を青銅色に光らせて、ガラスを掻きむしるような悲鳴を上げている。

 ニコルは頭を抱えた。

 ゾロ博士が言うには、これら異界の影響を受けた魔物たちは、決して会議室の床に描かれた魔方陣から逃げ出すことができない――らしく、つまり境界線さえ保持できれば、たとえ練術に失敗して悪夢のような状況に陥ったとしても絶対安全、なのだそうだが。


 ……”らしい”とか”だそうだ”とか、”たとえ失敗して悪夢のような状況に”などという、いかにも取って付けたような言い訳に少々、いやかなり嫌な予感を感じ取ってしまうのは気のせいだろうか。いや、そうではないだろう……。

 どうやら講義の肝心なところ及びその周辺を全般的に聞きそびれてしまったらしい。

 この蛾の何をどうすればよいのか。それさえ分からないのでははっきりいってどうしようもない。

 残された手段はただひとつ。


 ――カンニングである。


 というわけで、ニコルはさっそく隣にいるヒルデ班長の索敵に出かけた。

 ぴゅうぴゅうとのんきに口笛など吹く振りをしつつ、何気なく、しかし極めてわざとらしい仕草で衝立からひょこんと頭だけを突き出す。

「やあやあヒルデ班長、調子はいかがですか」

 言いながら、何かヒントになるものはないかと鵜の目鷹の目で探り回る。挙動不審にも程があろう。

「おや閣下、さすがだね。もう終わったのかい」

 ヒルデ班長は手の甲で額の汗を拭い、振り返った。

 いつも厨房に立っているのと同じ格好だ。すなわち腕まくりして長い木べらを手に持ち、腰エプロンに白い長靴、バンダナをきゅっとねじり巻いて豪快に鍋をかき回している。溶岩色にぐつぐつと煮立った鍋の中身は、まさしく凶悪なトカゲ一匹まるごとのぶつ切り。にも関わらず、めったやたらに美味そうなのはなぜだろうか……。

「それ、何ですか」

 ニコルは指をくわえてたずねた。

「マグマトカゲのスープさ」

 ヒルデ班長はご機嫌に答える。

「精が付くよ」

「へぇ」

 つい、ぐるるると腹が鳴る。い、いやいやきっと気のせいに違いない。こんなもの食べたらきっと口から熱線がゴーーーッと……

 じゃなくて。

 ニコルはなぜか無差別に火を吹いてまわるザフエルを夢想して恐怖に駆られ、速やかに妄想を記憶の淵へと片付けた。

 結局何の参考にもならず、さらに隣をのぞく。

 隣はビジロッテ中尉だった。

 ニコルが見ているのに気づきもせず、一心不乱に何やら緑の葉っぱや根っこを乳鉢でごりごりやっている。

 それを茶さじですくっては金属片の上にのせ、ピンセットで板をつまんで、眉毛がアフロになりそうなほどのぞき込みながらランプであぶる。心底うきうきとして作業に没頭しているところを見ると、どうやらこういうちまっとした研究が性に合っているらしい。

 ニコルは微笑ましく思って、しばらくの間ビジロッテ中尉の燃える眉毛を見つめ続けていた。だが中尉もヒルデ班長と同様、蛾を材料にしている様子ではない。

 となると、残る最後の希望は――


 う、うーむ。


 ザフエルと顔を見合わせるのは、さすがに先程のこともあるし、ちょっとばかりためらわれた。別にイヤだとか気がかりだとかいうほどではないけれど、やはり、何とはなしに気が引けて、なかなかいつものように冗談は冗談としてさっさと済ませようという気にはなれない。

 それではいけないと、内心分かってはいるのだけれど……


 しかし。

 ニコルはげんなりと頭を垂れた。

 よく考えたら、そんな悠長なことを言える立場ではなかった……。

 今は正体がばれるかどうかより、このまま何もできず情けなくも追試の憂き目にあうことのほうがずっと重大なのである。考えてもみるがいい。ぐうぐう居眠りしたあげく落第の烙印をおされるなど、名誉ある第五師団の師団長かつ聖ティセニア軍元帥たる自身の沽券に関わる一大事ではないか。

 ニコルは意を決し、ずかずかと隣の衝立へ歩み寄った。

 まるで道場破りにでもなったかのような気分だ。ままよ、とばかりに手を掛け、勇気を振り絞って向こう側を覗く。いや、覗こうとした――そのとき。


「……うぎゃあああああああ!」


 突如、謎の悲鳴がザフエルのいる衝立の向こう側からつんざいた。

 ゾロ博士の声だ。

 次いで何か重いものがびしゃりと床へ倒れ込むような、のたうち回る蛇にも似た粘着質の音がひびきわたる。

 ニコルはとっさに衝立を払いのけた。巨大植物の葉や投げ渡されたツル状の触手が、さながら緑の滝のように一気にはじけ、ざあっとのしかってきて視界を覆いつくす。

 ジャングルが巨大にうねる何かによってめきめきとなぎ倒されてゆくのが見えた。

 外へ通じる窓の桟が粉々にへし折れ、ガラスが四散する。

「ザフエルさん!」

 信じがたい光景にニコルは思わず声を振り絞った。闇雲にジャングルへ駆け込もうとする。

「入っちゃだめだ」

 飛んでやってきたヒルデ班長がその腕をとっさに掴んだ。無理やり引き戻す。

「危険すぎるよ」

「大丈夫です。放して下さい」

 ヒルデ班長の手を強く振り払う。危急を告げるルーンの感覚さえもがまるで嵐の波のようにうねりながら近づいたり遠ざかったりしていた。

「いいからチェシーさんに至急連絡してください。ビジロッテさんは僕と一緒に残って傷病兵に備え待機」

 泣きそうになる気持ちを押し殺し、ジャングルを見上げる。

「あの二人を助けないと……!」

 そのとき。

 ジャングルの奥にうごめいていた何かが、いきなり天井まで津波のように盛り上がった。


 茫然自失するニコルの目の前に這いずりだしてくる、それ。

 自身の重みを支えることもできず、みるみる溶けくずれ、あふれ落ちながらそれでもなお前に進もうとのたうちまわり、ぼたぼたとしたたる身体をとめどなく垂れ流す――薄緑色をした半透明のかたまり。


 それが、うようよと無数にうごめいて……!


「……!」

 悲鳴を上げる間もなく、いきなりジャングルの端から漆黒の光が四方八方へ放たれた、かと思うとすさまじい爆焔に変わって吹っ飛んだ。

 めらめらと降る火の粉を避けもせず、罠のようにからみついてくる太い根に片足をかけて、ザフエルがどこか悽愴な姿をゆらりと現す。

 右の手には《黒炎》のカード。

 左の手にはあのスライムから助け出したものか、ゾロ博士の襟首をずた袋のように掴み引きずっている。

 無惨なありさまだった。博士はまるで食われかけの最中ででもあったかのように、びしょぬれの破れ墨衣一枚をかろうじてひっかけ、半ばぱんつ一丁になって失神している。

「ザフエルさん!」

 駆け寄ろうとしたニコルへ、ザフエルは凄惨な眼差しを突き立てた。

「来てはなりません」

 こわばった声でうめく。

 顔色が悪い。蒼白にちかい血色だった。

 ニコルは驚いて立ち止まった。

 と突然、ゾロ博士がもがいた。ばたつく身体がザフエルの足をひっかける。

「危な……!」

 ニコルはあわててザフエルを支えた――つもりがどうにも重みと勢いを支えきれず、そのまま一緒くたに押し倒されかける。

 すると、あろうことかザフエルは、ためらうことなくゾロ博士をぽいと放り投げ、代わりにニコルをぐいと抱きとめた。

「ふんぎゃぁぁぁ……」

 悲鳴の尾を引き、せっかく来た道を博士はまた巨大スライムめがけて、ぴゅーーんと放物線を描いてすっ飛んでいく。

「博士っ!」

 思わず伸ばした手がむなしく空を切る。ニコルは真っ赤になってザフエルの腕をつかんだ。

「な、な、何てことを!」

「も、うしわけない、失礼、閣下、その」

 ニコルを腕に抱えたまま、ザフエルはかすかに取り乱した様相で口ごもった。眼がうつろに泳いでいる。

「あれだけは私の生涯最大の宿敵にして、その」

「え……?」

 一瞬、ぽかんとする。ザフエルの言わんとする意味がまったくわからない。

 だが、すぐ目の前にある差し迫った危機に思い当たる。

「ふ、ふざけてないでちゃんと状況を報告し……っていうか!」

 ニコルは声をひっくり返らせ、手を突っ張った。

「……ちょっと、何、いつまでしがみついて……!」


 抱きかかえられているのかそれともしがみつかれているのか。ザフエルの腕が万力のようにニコルをがちりととらえて離さない。

「う、動けないじゃないですか……!」

 ニコルは必死で身をよじった。

「しかし、あれ、あれ、あ、あれがいてはどうしようも」

 ザフエルはいっそうニコルを抱く腕に力を込め、顔を蒼白にひきつらせながら、うわずった声音で口走った。

「こ」

 ザフエルのくちびるがぱくぱくとまるで腹話術人形のように動く。

「こ、腰が」

「はぁっ!?」

 素っ頓狂な声をあげてニコルは聞き返した。

 どこかネジが一本飛んでしまったのかもしれない。ザフエルは声を軋らせ、うめいた。

「――腰が、抜け、抜けまちた」


 衝撃の一瞬だった。

「えっ」

 抱きすくめられたまま、ぎょっとして振り返る。

 ザフエルは感情のそげ落ちた青い顔でニコルを見下ろした。

「ああああああの系列のものだけは幼少のみぎりわわわ我が食卓上にて悪夢の邂逅を得て以来二度とあああ相容れぬ存在となななな」


 こっ、壊れてる……!


「わわわわ分かりましたから」

 ニコルは滝のような冷や汗をかきかきまくしたてた。

「は、離してってば」

 離されることを恐れてか、ますますくっついてくるザフエルに顔を真っ赤にしてあわてる。

「無理、です」

 ザフエルのうわずった声が耳元に吹き込む。

 ニコルは顔をひきつらせた。

「だ、だからってこんなことしてる場合じゃ」

 まるで抱きぐるみみたいにしがみつかれ、むぎゅむぎゅにされ――

「だ、だめですってば」

 そうこうしている間に、巨大スライムの群はさらにその数を増殖させ、床一面にでろーんと広がりだしている。

 ニコルの裏返った声に反応したか、表面から小さな眼が突き出し、ぱちくりとこちらを向いて一斉にうじゃうじゃうじゃうじゃうじゃ(以下自主規制)……


 ――ぎょえああああああああああ……。


 ザフエルならずとも今までの人生で最も卒倒したい瞬間である。ニコルは完全に全身ぷつぷつの鳥肌と化してパニックへ陥った。

「い、い、イヤだあああザフエルさんななな何とかしてっ」

 恐怖の余り砂岩のような顔色に変わってしまったザフエルの胸元に顔をうずめ、ぎゅううっと上衣をつかんですがりつく。

「たったったっ助け」

「ご心配なく、閣下」

 不思議なほど穏やかな声で、ザフエルは静かに応じる。

 ゆっくりと両肩に手を置き、安心させるようにかるく、それでいてしっかりと支えて。

「ぇ……っ?」

 ザフエルにしては気後れしすぎるため息が、そっと耳元の髪をゆらす。ニコルはびっくりして眼を見開いた。

 少しずつ、肩を抱いた手に力が加わる。

 まさか……

「大丈夫。私が貴方を」

 まるで、大切なものをぎゅっと押しいだくかのように、ザフエルはひどくゆっくりとその長身をかがめ――

「お守り、申し上げ――」

 ぐっと、もたれ込む力がかかって。


 ――ぇ……っ?


「ざ、ザフエル……さんっ……だ、だめっ」

 ニコルは突然うわずって高鳴り出した胸の動悸に気付かれまいと、あわててザフエルを押し戻した。だが、もはや勢いは止まらない。

「だ、だめですって、馬鹿、な、な、何、何やって……!」

 眼を閉じたザフエルの顔がおそろしいほど間近に迫って、身体の重み、濡れた髪の感触、吐息――そんなもろもろのものがいっそう、まざまざと感じられて。

「や、やだ……!」


 半ばずしりと押し倒されかけながら、ニコルは悲鳴を上げ――いや、正式には上げかけて――そこで、うぐ、と息を呑んだ。

 もたれかかったザフエルの腕が、背中でぶらんぶらん揺れている。当然、本人は無言のまま、ぴくりとも動かない。

「ザフエルさん……?」

 ニコルはおそるおそる声を掛ける。

 ザフエルはあらぬ方向を向いたままだ。


 ――気を失ってる……!


 そのとき、視界さえ覆いつくすほどの巨大なスライムがずももも……と不気味な鎌首をもたげ、あふれ、泡立ちながら噴水のように裏返った。

 決河の勢いでなだれかかってくる。

「きゃあっ!」

 避けきれず、頭からスライムの波濤に押し流される。

「うわわわあきしょくわる……!」

 手といわず顔といわず、ぐるぐるにからみつかれては怖気を振るう間もない。

 ニコルはザフエルと抱き合ったまま、どうっとばかりに床へ倒れ込んだ。支えもないまま、一気に引きずられる。

 ザフエルの身体が力なくあおられ、のけぞった。

「ザフエルさん」

 引き離されそうになってニコルはまた声を高くした。無我夢中でザフエルの頭をかかえ、胸に引き寄せて抱きしめる。

「しっかりして、気を確かに」

 うねり来るスライムに取り込まれながら、溺れそうになる息を必死に喘がせ、眼をかたく瞑って――

 ふいに刺胞に刺されたような焼け付く痛みが指先から腕へ走りぬけた。服で覆っていない素肌の部分が、みるみる熱を帯びて真っ赤に腫れあがった、かと思うと。


 なぜか、いきなり。

 ザフエルの白い軍衣が、ニコルの腕の中でべり、と破れた。

「……うえ゛?」

 背中が破れ、襟がはずれて、首に掛けていたらしきローゼンクロイツの銀架が澄んだ鎖の音をたてて飛び出す。

 ニコルは驚くのも忘れて、逆にぽかんとした。

 なぜ服が……思考が停止する。だが、事態はそれだけに止まらない。

 茫然とするニコルの腕の中で、ザフエルの従軍軍装がみるみるしぼんだ。

 腰の青いサッシュが一瞬にしてスライムに溶け、ボタンが飛んで前がはだける。中に着た白絹のシャツもまた引き延ばされたように薄く、細く裂けて垂れ下がり、ついに片肌も露わに――

「わわわ、ま、ま、ま待ってちょっとそれはマズ……!」


 ニコルはたちまちふんぎゃあああ……! と頭を抱えてのごろごろ七転八倒状態に陥った。

 今頃になってやっと、ゾロ博士がびしょぬれのぱんつ一丁だった理由に思い当たる。あの時は別に何とも思わず、服が破れたのもスライムに食われかけたせいだろうと、特に原因を意識することもなくおぼろげに考えただけで見過ごしてしまったのだが。

 と、いうことはだ。

 ……ふいに浮かんだ恐怖の事態に、意識が異世界へ逃避しそうになる。

 このまま状況が悪化すれば、おそらくザフエルもゾロ博士と同じ運命を辿ることに……すなわち、ぱ、ぱ、ぱんついっちょ――


 違う違う違うそれどころではない!

 ニコルは半泣きでぶるぶると頭を振るう。

 もちろんそれはそれでめちゃくちゃ忌避すべき事態ではあるのだが、要するにザフエルやゾロ博士がそうなるであろうということはだ、すなわち自分もまた同然であって、そ、その……何というか……つまり……


「いやあああそそそそそれだけはイヤああああ!」


 あまりのことに水鉄砲のような涙の奔流を噴出させつつザフエルを突き飛ばす。ザフエルの身体はもろくもスライムの海にしぶきをあげて沈んだ。

 それに背を向け、びしゃびしゃスライムを跳ね飛ばしながら身を起こし、逃げ出そうとしかけて。

 ニコルは唐突につんのめった。

 やっぱりだめだ。見捨てるなんて真似はしちゃいけない。

 たとえ怪人ぱんつ男と化すことになろうと、気を失ったザフエルをスライムの中に放置するなど、師団長として、いや、仲間として戦友として、兄弟のようにずっと一緒に暮らしてきた自分に許されることではない。


 と、とはいえ。

 究極の二択に、頭を抱えて悶絶する。

 そんなことをしている間に、もし、少しでも……その、肌を、身体を、見られでもしたら……!

 恐怖にも似た恥ずかしさに、ニコルは顔をくしゃくしゃにして地団駄を踏む。

 悪魔のささやきにも似た危急の報せが脳裏を占めた。助けなくてもいい。逃げ出すべきだ。どうせ死にはしない、見捨てるわけじゃない、ただ助けを呼んでくるまでの辛抱だ――

「……!」

 ニコルはぐっと歯を食いしばった。強くかぶりを振って弱い心を振り払う。そんな事でぐちぐちと悩んでる暇なんてない。

 悲壮な決意をかためて顔を上げる。

 助けるに決まっている。当たり前だ。逃げてどうする……!

 だが、そんなニコルの目に、これぞ最終兵器、とどめの一撃とばかりにぽかりと浮かぶザフエルのモザイク映像が飛び込んだ。

 

 ――で、出たああああああああ。


 本日二度目、卒倒目盛りが最大出力に振り切れる。かぁん、と何か諦めにも似た空しい失格の鐘の音が脳内に響きわたって。

 そのままぶくぶくと泡を吹いて倒れそうになったとき。


 ふいに、気付く。

 ザフエルの胸に刻み込まれた、凄惨な、信じがたいもの――


 あまりの恐ろしさに息を凍りつかせる。

 何のためらいもなく斬り裂かれたとおぼしき、心臓の位置から一直線に右の脇腹へと至る古い傷跡。それを覆いつくすほどに広がる、今だに燃えさかってでもいるかのような酷い火傷の痕。

 ニコルが知る限り、ザフエルが第五師団に配属されてから今の今まで、一度たりとも敵に傷を負わされたことなどない。

 では、いったい、いつ、どこで――

 思わず他のことを忘れ、ニコルはスライムを蹴散らしザフエルに駆け寄る。

「ザフエルさん」

 露わになったザフエルの肩をつかみ、傷を間近に見ないよう眼を必死にそらしながら何度も揺すぶる。

「起きて。起きてくださいってば!」

 耳を引っ張り、頬をつねり、鼻をつまんでぶらぶら振り回して怒鳴る。

「失神してる場合じゃないんですってばーー!」

 ところがまるで起きる気配がない。

 ニコルは自棄のやんぱちでザフエルの頭を抱え上げるなり、ごめんと一言、おためごかしに言い置いてから、両頬を盛大にべしべしべしッ! と見事な往復で張り飛ばした。

「起ーきーろーーー!」

 勢いできっちりとあわせていたはずの襟がはずれた。がば、と前がはだけ落ちる。

「きゃっ……!」

 あわてて胸元を掻き合わせる。と、胸襟のボタンまでがちぎれて散らばった。

「う、嘘っ……や、やだ……っ」

 いつの間にかサッシュまでが溶けて、なくなっている。押さえた肩が半分ずり落ちた。

 隠しきれなくなった下から白い肌がこぼれ、ほそく華奢な鎖骨までがのぞいてしまって――

「お願い、早く」

 絶句し、細腕にザフエルの身体をかたく抱いて、涙まじりの声を喉につまらせる。

「ザフエルさん!」


 こんな姿を見られてしまったら。

 ずっと隠してきた本当のこと――本当は女だと、ザフエルやノーラスの皆や、聖ローゼンの教えまで謀っていたと――

 知られてしまう……!


 いきなり腕の中のザフエルがごほんと咳払いした。

「膝枕もなかなか」

「わーーーーっ!」

 ニコルは息が止まりそうなほど仰天して反射的にザフエルを放り投げた。

 しかしどうやらぶん投げた拍子に後頭部あたりをしこたま強打したらしい。ごいん、と鈍い音がし、持ち上げた指の先がぷるぷる痙攣したかと思うとそのままばたりと折りたたむように倒れ、動かなくなる。

 ニコルはあわてて四つんばいのまま駆け寄った。

「ザフエルさん、ごめん、大丈夫!?」

 せっかく意識が戻りかけていたのに、あたら気を失わせては元も子もない。

 肩を掴み、首がすっぽ抜けそうになるぐらい激しくガクガクと揺すぶる。そのたびに後頭部がごちごち床に激突しているような気がしないでもないが、とにもかくにも今は由々しき事態なのである。有事の際は得てしてそういう状況に陥りやすいものだ。取捨選択している猶予はない。たんこぶの一つや二つ――

 というわけでようやくザフエルが眼を開けたとき、頭の後ろは見事に鈴なりのじゃがいも状態と化していた。

 常日頃どんなにすっとぼけたことを言っていても、どこか奥に言いしれぬよどみを残していた双眸が、今はまるでふにゃらかと腑抜けて、ただぼんやりと視線をただよわせるだけになっている。

 ……さすがに打ち所が悪かったらしい。

 先ほど平手打ちを無数にくらわせたせいもあってか、ほっぺたもまた見るからに痛々しくぷっくりと腫れ上がっている。

「ユーディット――」

 黒いまなざしがニコルの上に止まった。聞こえないほど小さな声で、機械のようにつぶやく。

 ザフエルは目を瞬かせた。

「ちがう」

 瞳に理性が、そしてかすかな驚きが舞い戻っている。

 それらには気付かずニコルは安堵のあまりあふれそうになった涙をぐいと拳で拭い、逆にいっそうまなじりをつり上げて睨みつけた。

「気絶してる場合じゃないでしょう」

 言いながらザフエルの手首を両手で掴んで、顔を真っ赤にしてうんうん唸りながら引っ張り起こしにかかる。

「まったく誰のせいでこんなことになったと思って」

「まったくですな」

 ザフエルは今はじめてその様相に気付いたとでもいいたげな眼でニコルを無感動にながめた。腕を突き、身を起こしながらむっつりと眉をひそめる。

「何というはしたないお姿だ。はれんちな」

「どっちがです」

 ニコルはびしぃっとばかりに怒りの指先をザフエルの鼻先へ突きつけた。

 言われてザフエルは我と我が身を見下ろした。

「うーむ、確かに」

 はしたないを遙かに通り過ぎ、もはや犯罪としか言いようのない姿にさしもの鉄仮面も軍人としての矜持を見事にうち砕かれたらしい。あごをなでなで神妙に静まり返る。

「何ともはやこれは申し訳ない」

「それよりも先にアレを何とかしなくっちゃですよ」

 ニコルは青ざめた眼で廊下を見やった。

 さっきからやけに静かだと思ったら、あれほど大量発生していたスライムの群れが、いつの間にやら忽然と姿を消している。

 会議室の扉という扉はことごとくちょうつがいごと押し破られていた。残った木屑だけがバラバラの木っ端微塵状態で廊下に散乱している。

 謎のジャングルもまためちゃくちゃに轢きつぶされ、ねっとりと垂れる粘液にまみれた悲惨な残骸を晒していた。丸太にしがみついたまま気を失っているらしきビジロッテ中尉の尻が、少し離れた場所でぷりぷりと浮いている。ゾロ博士とヒルデ軍曹の姿はない。

 どうやら――魑魅魍魎を城砦内に放ってしまったらしい。最悪の事態にニコルは頭を抱えた。目の前がまっくらになりかける。

 ゾロ博士の言った、『たとえ練術に失敗して悪夢のような状況に陥ったとしても魔方陣があるから絶対大丈夫(と思う)』説は、やはりまったくのガセだったようだ……いや、前半部分だけは確実に的中したわけだが。

「やれやれですな」

 ザフエルはわざとらしくため息をついた。

「すこしは反省したらどうです。これ全部ザフエルさんの仕業でしょう」

 ニコルはすかさずうがーと噛みついた。

「なぜ」

「この期に及んでまだとぼける気ですか。どうせ居眠りして適当に合成してみたらこうなったとか言うんでしょう」

「適当とは聞き捨てなりませんな。少々自説を応用してみただけです」

「やっぱり……」

 ニコルはげっそりとやつれた目でザフエルを見返した。もう睨み付ける余力もない。

「とりあえず早くあれをどうにかしないとノーラス自体がヘンタイだらけの伏魔殿になりかねませんぞ」

「あ、あ、あんたがそれを言うか……!」

 口角泡を飛ばして拳を振り回しさらに追求しようとした、そのとたん。


 何やら、腰の辺りからぶちん、という音がした。

 続いて、ずずず、とずり落ちていく気配。腰まわりがやたらすぅすぅとして――


 ……まさか、この感触は……


 おそるおそる視線を下方修正する。

 ……!

 目玉がメガネをばりんと突き破って斜め下四五度方向に吹っ飛びかける。

 先程まで履いていたはずの白のズボンが、な、な、な……!

 溶けかけのシャツがかろうじて目線を遮っているそのすぐ下。

 やたら危なすぎる形に裂けたタイツの破れ目から、まるで打擲でも受けたかのようにひりひりと朱に染まった内腿の肌が、それもまたよりによって座り込んだザフエルの目と鼻の先に、ちらっ、と――


「うむ」

 ザフエルが小難しく腕を組む。

「やはり同志かと」

「いやあああああああああああ!」

 ニコルはみるみる涙目になって両手でズボンをたくし上げた。ところがズボンの奴めは持ち上がるどころか逆に破れるわぶっちぎれるわ、ゾンビもかくやとばかりの切れっ端と化して巻きついてくるからもうたまったものではない。

「みみみみ見ちゃだだだだうわあああ」

 あまりの恥ずかしさに全力でザフエルの前から遁走しようとしかけて思い切り絡まったズボンに蹴つまづき、びたーんと盛大にひっくり返る。

「あ、あ、あっち向いてて」

 必死に膝を伏せ隠して涙ながらに後ずさる。

「見るなと言われましても」

 ザフエルは表情ひとつ変えない。

「見られた私の立場は」

「見てませんってばーーーーっ!」

 混乱のあまり湯沸かしみたいに上気しきった喚きを噴き上げる。ザフエルは頭のてっぺんにスライムをひとつのっけたまま、つまらなそうに横を向いた。

「一夜をともにした仲だというのにつれないですな……」

「ち、ちが、ななななな何言ってんだーーーーーーッ!」


 突然。


 指先が石に変わってしまったかのようなこわばりと痛みが腕に走った。

 ニコルはカエルのようにはいつくばった格好のまま息を呑んだ。《先制のエフワズ》が、悲痛なくるめきを立ちのぼらせている。

 顔色を失い、愕然とルーンの輝きを見つめる。それはもはや危険を告げる注意の色ではなかった。血を騒がせるにも似た、激しい明滅。

「ふむ」

 静謐を破ってザフエルが声を発した。寒々と細められた黒い眼に《エフワズ》の放つ赤光がゆらめきかぎろいつつ映り込んでいる。

「敵襲ですな」

 その声にはもう、いささかの揺るぎもない。

「どうして」

 言いかけてニコルはあからさまにうろたえた。言葉に詰まる。

 なぜもっと早く気付かなかったのだろう。よくよく思い出してみれば昼前から何度もそれらしき予兆はあったのに。

 くちびるを噛んでうなだれる。

「ごめん、僕の失敗だ。どうしたらいい」

 遠雷を思わせる砲撃が鳴り響く。わずかな間をおいて床が振動した。

「お気になさらず。敵情観測を。着弾はありません」

 ザフエルはそれだけを端的に答える。

 ニコルは不安を押し殺し、うなずいた。

 気を鎮め、ゆっくりと眼を閉じて、ルーンの告げる声に耳を澄ます。

 稲妻が照らし出すのにも似た鮮烈な印象が浮かび上がった。

 燃えさかる火。櫂に打たれざわめく河面。黒々とした影を連ね対岸へと伸びてゆく橋の骨組み。

 材木、煉瓦、捏ねられたセメントなどが次々に運び込まれてくる。埃立つ現場の脇には炸薬の木箱。ばらばらに分解されたままの攻城砲一式。見回る兵士の軍装はかつてのチェシーと同じ、黒地に赤のゾディアック定色だ。

 なぜかずきりと胸が痛んだ。思わず眼をそらしかける。

 その矢先に、放たれた毒矢のごとき悪意の光跡をなびかせて森を疾駆する部隊が見えた。どうやら別働隊らしい。意識を収斂させて位置と方角を確認する。その数一個、二個、いや――三個小隊以上だ。

「えっと、何て言えば」

 見えた光景をどうにか上手く言い表そうと、ニコルはもどかしい手振りを交えてしゃべり始めた。

「ここから北北東、川沿いに三角の岩がある辺り、橋頭堡が出来かけてます。未造営のターレン型重加濃砲確認。あれが投入されたら砦へ直の弾着があり得るかもです。それとさきほどの砲煙から見て――敵砲兵部隊数は一個中隊、野戦砲六門、着弾角算出済み。追尾にかかります」

「ノーラスを包囲するにしてはずいぶんと性急――貧弱な装備ですな」

「ええ」

 ニコルは真っ直ぐにザフエルを見返した。

「それより気になることが一つ。敵猟騎兵三個小隊が移動開始しました。こっちには向かってないんだけど」

「なるほど」

 ザフエルは黒い眼を冷ややかに細めた。ゆっくりと促すように言う。

「第一、第三師団への兵站補給線を分断されるおそれもあるかと」

「つまり砲撃は陽動だと」

 質問から答えを導き出すのにそれ以上の時間はかからない。

「十中八九」

 ニコルはぐっと唇を引き締めた。

「分かりました。では猟騎兵部隊の掃討を第一に」

「了解。確保を徹底します」

 ザフエルはうなずいた。

「ただちに迎撃体勢をとります。閣下、戦闘配置命令を」

 おもむろに膝を立て、冷静にざぶりと身を起こす。腰にほんの僅か残った布きれだけがせめてもの救いか。

「うわっ」

 ニコルは状況を忘れて恥も外聞もなくうろたえた。真っ赤に茹だったくしゃくしゃの顔を両手でがばと覆い隠す。

「み、み、見てないですから」

「どちらでもよろしい」

 たじろぐニコルにザフエルは厳格な口振りで言い放った。

「まったく、いくら久々とはいえこの非常事態に攻めてくるとは何と人騒がせな」

 杖代わりの剣で悠然と床を突き、肩をそびやかせる。裸だろうが何だろうがまるで平気らしい。男らしいのか恥知らずなのかあるいはもともとそっちの気があるのか、とにかく気にしないにも程がある。

「せ、戦闘配置の前にお願いが」

「何でしょう」

「せめて、その」

 ニコルはほそく開けた指の合間からおどおどとザフエルの顔を見上げ、動揺のあまり耳の先までかぁっと朱に染めながら、怯えきった声で付け加えた。

「ぱ、ぱ……ぱんつだけは絶対に死守願います……」

「ぱんつ死守了解」

 平然と復誦する。ザフエルは左の手を腰高に当てると、傍若無人にニコルを見つめた。

「さては閣下も黒をお召しで」

 言ったかと思うともうきびすを返し、すたすたと会議室を歩み出にかかっている。

「待って下さいよ」

 ニコルはあわててぼろぼろのズボンをからげ、ずり落ちるのを押さえながらぴょこぴょこと後を追いかけた。

「ザフエルさんじゃあるまいし誰がそんな変な色」

「さては見ましたな」

「だから見てないって」

「とすると、この間干してあった紫のまだらぱんつはやはり閣下の」

「違う! 僕のは白だって何度言えば」

「なるほど」

 事ここに至ってようやく、ニコルは自分が何の色について力説したのかはたと思い当たった。自分の馬鹿さ加減に脱力してがっくりとくずおれる。

 こんな思い切りベタな誘導尋問にひっかかるとは。何が悲しくて自らぱんつの色なぞ告白せねばならないのか……。


 その矢先、ザフエルがふいにぴたりと足を止めた。

 ちょうど起きあがろうとしたところに立ち止まられたものだからたまらない。ニコルは思い切り顔をむにゅっとザフエルの背に埋め込んだ。

 触れた肌の感覚に、一瞬こおりつく。

「な、何っ何で止まっ」

 どうやらぶつけたのは鼻だけではなかったらしい。ニコルは真っ赤になって口元を押さえた。

「はて」

 ザフエルはどこか当惑の仕草で腰まわりをごそごそまさぐっている。

 おそらく何かを探しているのだろうが、まさぐるも何も、そもそもぱんつもどき一枚しか身につけていないのだから、捜し物の行方など推して知るべしである。

「ど、どうかしたんですか」

 さすがにあきらめたらしい。尋ねたニコルの声に、ザフエルはちらりと肩越しに振り返った。

「《カード》を紛失したようです」

「え」

 ニコルは思わずザフエルの手に握り込まれた黒剣に視線を降ろした。

 いつもなら刃区(はまち)に作られたスロットに強化系の《カード》なり《黒炎》なりを仕込んでいるはずが、今は銀線を巻いた柄と濡れたような漆黒の輝きを放つ素の鞘以外、装飾さえ見あたらない。

「どうしよう、探してきます」

 ぱっと身をひるがえそうとするニコルの手を、ザフエルが冷静に掴んで引き戻した。

「そんな暇はありません、閣下」

「で、でも」

「今は迎撃を急がねば」

 有無を言わさぬ態度だ。ザフエルは一方の手でニコルを引き、もう一方に剣を提げたまま、廊下へと続く半壊した扉を蹴り破った。

 かろうじてちょうつがい一枚でぶらさがっていただけの戸板はもろくもちぎれ、横転しつつ吹っ飛ぶ。

 勢い余って向かい側の壁に跳ね返ったのを踏みつけ廊下に出、左右を見渡して、ニコルは思わず憂鬱なためいきをついた。

 階段へと向かう廊下はいっそうひどい有り様になっている。天井につかえるほど互い違いにもつれあったツタカズラの残骸が視界をふさぎ、まったく向こう側が見えない。まるで壁に仕掛けられた槍襖のようだった。

 どこか遠くから悲鳴が聞こえた。崩落の礫音が響き渡る。

「失礼」

 呆然としていると、視線をそらしたままのザフエルがそっけなく言った。

「急ぎますので」

「へ?」

 ニコルがうろたえたときにはもう、やすやすと樹上に引き上げられている。

「う、わっ!?」

 ぱっと手を離される。いや、そんなところで手を離されても――あまりにも足場が細すぎて、歩くどころか立つことさえままならない。

 いきなり体勢を崩し、足を滑らせる。

「ちょちょちょちょっとうわああ」

 ニコルはぐるぐる空を掻くように腕を旋回させ、これ以上ないくらい背中を反り返らせながら情けない悲鳴を上げた。

「おおお落ち落ち落ち……っ!」

「騒々しいですな」

 ザフエルはわずかに眉をつりあげると、掴んだ手を強くたぐり寄せた。ふらつく身体が一瞬ふわりと宙に浮き、肩にぶつかる。

 と、いきなりザフエルはニコルの腰を後ろ背に抱き込んだ。

 そのまま、不安定きわまりないツタカズラの上を、平地と変わらぬ足取りですたすたと歩き始める。

「う、うわっ、ざ、ざ、ザフエル……!」

 頭の中に真っ白けの煙が噴き出して、みるみる何が何だか分からなくなっていく。

 直に肌と肌が触れあうほど抱き寄せられ、腰にまでぐいと手を回され、押しつけられて。

 ――いくら何でもこんな、こんな、格好……!


「あ、あ、あのっ、じ、じ、じぶ、自分で」

 悲鳴のような声をあげてもがく。

「お静かに」

 ザフエルは前方を一直線に見つめたままぴしゃりと言う。臆面もない。

 二人分の体重がかかるせいか、歩くたびに足下がみしみしと軋み、今にも踏み抜いてしまいそうなほど揺れ動いていた。

 ザフエルはときにツタカズラのトンネルをくぐり、ときに反動をつけて飛び移りながら、平然と進んでゆく。

「あ、あ……!」

 眼が回りそうな心許なさに肝をひっこ抜かれ、ニコルはすっかり腑抜けのよれよれ状態と化してザフエルの腕にしがみついた。

 まるで鞄と間違えて洗濯されてしまった子猫のようだった。振り落とされないよう、身をこわばらせて眼をつぶるしかできない。息までがとまってしまいそうだ。

 ようやく――

 ザフエルはニコルを片腕に抱えたまま、不安定なツタカズラの橋を悠然と渡り切った。

 周囲を見渡し、天井近い高さから事もなげに飛び降りる。

「ふんぎゃああああ……」

 ニコルの悲鳴だけが空しく響き渡るなか、ザフエルは靴音ひとつ立てずひそやかに着地した。何の衝撃もない。

 風にたなびく燭火のような身のこなしでゆらりと体を起こす。

 それは闇に混じる霧にも似ていた。たかが参謀軍師の所作ではない。

「お怪我はありませんな」

 抱きかかえていた腕の力をゆるめ、ニコルを解き放つ。

 ニコルはくらっと立ち眩んでよろめいた。壁の支えを求め、額を押さえて後ずさる。

「す、すいません……お手数をおかけ……」

 まだ胸がどきどきと高鳴っている。

 怖いほどだった。

 肩に被さった髪を指の先で払い、ザフエルはどこか冷ややかな眼差しでニコルを見下ろした。ふと気付いたかのように。

 ニコルはぞくりとして、緊張しきった吐息を呑みこんだ。


 ときどき――

 こんなときは特に、ザフエルが分からなくなる。何を考えているのか、どこまで気付いているのか。

 未だ煮えたぎるかのような胸の古傷に重なって揺れる銀のアンクが、醒めきった血のように光っている。

 聖ローゼンクロイツの象徴。剣と薔薇を意匠した形の、神殿騎士団出身のザフエルなら肌身離さず身につけていて当然の十字架だ。

 なのに、なぜかそれがひどく恐ろしいものに――首を縛めるイバラのように映る。声さえ届かなくなる日が来るような気がする。

 ……怖いのかもしれなかった。

 白皙黒瞳の参謀がときおり向けてくる底知れぬ眼差し。その奥にひそんだ別の色――ほのぐらい薔薇の闇が。

「あとは二手に分かれたほうがよろしいかと」

 突然突き放すようにザフエルは言ってニコルから眼をそらした。

 軍靴を鳴らしてきびすを返す。階段は目の前だ。

「閣下は砲台へおいで戴いて後方より援護斉射を。私は出られるだけのマスケット兵を率いて敵本隊へ向かいます。サリスヴァールには騎兵突撃を指揮するよう命じ――」

 平静を取り戻し歩き出したはずの声が、突如、段上に途切れた。


 ……阿鼻叫喚スライム地獄!


 とは、まさにこのことか。

 会議室からあふれ出たらしきスライムが階段の壁という壁にどっぷりと貼りついて、でろでろとその身を垂れ流しながら兇悪きわまりない蜘蛛の巣もどき、いや、粘液の巣を張り渡してうごめいている。

 悲鳴すらもはや聞こえてこない。

 噴き上がってくるのは、ごぼごぼという泡の音ばかり。わずかに伝い聞こえる怒号でさえたやすくなぎ倒され、次々に場所を変え数を増やしては瞬く間に飲み込まれていく。

 無数の目玉を生やした壁がニコルとザフエルを認め、ざわり、と食指を動かし始めた。

 空気が不穏に凍りつく。

「ザフエル……さん?」

 ニコルは顔をこわばらせ動かなくなったザフエルの背に手をかけた。

「だ、大丈夫?」

「か」

 ぎ、ぎ、ぎぃと……まるでお化け屋敷の操り人形みたいに首だけが回っている。何かヘンなものが乗り移ったかのようだった。

「かっかっ、か、スススススラ」


 ――ま、また壊れてる……!


「眼、眼が、うご、動い」

 さっきまでの凄味はどこへやら。

 再度正気を失ったらしきザフエルが、顎の外れた人形みたいに全身の関節をカクカク痙攣させながらニコルめがけ襲いかかって……もとい、倒れかかってきた。

「ににに逃げ逃げ逃げ」

 凄い力でつぶれそうなほど抱きすくめられる。

「い、いやあああああっ!」

 引きずり倒されニコルはまた悲鳴を上げた。

「に、逃げればいいんでしょう、連れてってあげるから、大丈夫だから、落ち着いて、焦らないで、ほら」

 ニコルはザフエルの下敷きになって身をよじりながら必死で手を伸ばし、逃れようとした。が、絡みついてくる腕に押さえ込まれ、まるで動けない。

 ザフエルの手がふいに襟元を鷲掴んだ。

「離して、離してってば……それはだめ、だめだって……!」

 必死で抗い、胸元を押さえる。だがザフエルの耳にはまったく届いていないらしい。

 今にも引きちぎらんばかりの力でたぐり込まれる。

 破れる。破り取られる。

 もうだめだ。ニコルは悲鳴を上げる。

 今度こそ、本当に……!


「何やってんだい」

 いきなりヒルデ班長の焦った胴間声がひびきわたった。どすどすどすと熊の爆走に似た重量感ある足音が床を跳ね上がらせる。

「このヘンタイ野郎!」

 猛烈な回転とともに唸りを上げて飛来した銀の旋風が、いきなりザフエルの後頭部に命中した。すこーん、と爽快な鐘の音が鳴る。

 星のかたちをした火花が飛び散った。

「う゛……!」

 ザフエルは哀れ断末魔の呻きを漏らし、ぐんなりと伸びた。そのままピヨピヨクルクル回る妖精さんに意識を運び去られ、ぴくりとも動かなくなる。

 跳ね返った銀の光跡は吸い込まれるようにヒルデの手へと返ってゆく。受け止められたのは巨大おたまだ。

 駆け寄ってきたヒルデは、昏睡中のザフエルを掴むや、情け容赦なくひっぺがし、えいやと後ろへ放り投げた。

 心配そうに上からのぞき込んでくる。

「大丈夫かいお嬢ちゃん、って」

 仰天した眼がまじまじとニコルに見入って、押し開かれる。

「閣下じゃないか!」

「ヒルデさん、よかった、ご無事で」

 ニコルは泣きかけの顔で胸を押さえ飛び起きた。

「あ、あたしゃ全然だよ。閣下が無事で何よりだ。それよか驚いた、女の子かと思ってつい……ってことはあのヘンタイは」

 おそるおそる振り向いて、ヒルデは蒼白になった。

「参謀! あああ、あたしゃ何てえことを」

「す、すみません、僕のせいで」

「い、いいって。いくら参謀どのでもやっていいことと悪いことが、と、それより」

 ヒルデは急に思い出したように息せき切った。

「閣下に言われてデカイ准将ずっと探してたんだけど、全然見あたんないんだ。誰に聞いても分からないんだよ」

「え」

 意外な言葉に虚を突かれ、ニコルは絶句する。まさか、チェシーまで……!


 と、そのとき再び砲声がとどろき渡った。

 ノーラス城砦を包む空気全体がびりびりと揺れ動く。今度はかなり近い。ガラスの割れる音までもが聞こえてくる。

「ば、馬鹿なことやってる場合じゃなかった」

 はっと夢からさめて飛び起きるかのように自ら引きとどまる。

 ニコルは下くちびるを吸い込むように噛んでザフエルを振り返った。とりあえずまだ意識を取り戻す気配はなさそうだ。

「ヒルデさん、お願いがあるんですけど」

 言いながら駆け寄ってひざまずき、気を失ったままの体を抱き起こす。

「ザフエルさんが眼を覚まさないよう、見張っといて欲しいんです」

「いいけど……」

 掌に触れる肌が冷たい。ニコルは眼をみはった。濡れた身体が凍え始めているのかもしれない。

 焦って上着を脱ぎ、衿のスカーフとあわせて冷たい肩に覆いかける。

 長身のザフエルにとっては小さすぎるうえに身頃が半分以上破れていて、とても毛布代わりにはなりそうにもなかったが、それでも裸のまま転がしておくよりはずっとましに思えた。

 そうしておいてから、背中をゆったりと壁にもたせかける。力ない首ががくんと前のめった。

 あわてて支える。偶然、ひやりとつめたく触れた唇の感触に、ニコルはどきんとした。

「待ってて。すぐにスライム片付けてくるから」

 息苦しくならないよう頭の角度を直してやりながらつぶやく。

「よし、これで後顧の憂いはなし、っと」

 ニコルは肌寒さに少し鳥肌の立った上腕をさすりながら立ち上がった。

「ザフエルさんのことお願いします」

「一人で大丈夫かい」

「これでも一応、師団長なんで」

 心配そうに訊くヒルデに、ニコルは頭をかきかき苦笑して見せた。

「せめてやることだけはちゃんとやっとかないと。またザフエルさんにお説教食らっちゃたまんないです」

「そうか、おおかた忘れちまうとこだったよ」

 ヒルデはにんまりとした。

「そういや閣下ってうちの師団で一番偉かったんだっけね」

「う」

 ニコルはしょぼんとした。

「本気で忘れないでくださいよ」

「気にしない気にしない」

 ヒルデは豪放に笑ってニコルの背中をばんとひっぱたいた。

「ぎゃあ!」

 猛烈な勢いで吹っ飛ばされる。ニコルは頭からザフエルに突っ込んだ。

「うわったたたた!」

 思わずしがみついたザフエルの肌のあまりの近さに仰天し、真っ赤になって転がり落ちる。

「なな、な、何するんですかあっ!」

「やっぱいいコンビだよあんたら。参謀どのに可愛がられるのも分かる気がするねえ」

「かかか、か、かわ、かわっ」

 ニコルは絶句し、湯たんぽみたいにしゅうぅぅ……と湯気を頭のてっぺんから立ちのぼらせつつ硬直した。

「ち、ちが……!」

「いいからいいから」

 悪びれる様子もなくヒルデはまだ笑っている。

「それより気をつけてお行き。頼りにしてるよ閣下」

「は、はあ」

 ニコルはぐったりと恨めしげにヒルデを見上げた。

「じゃ、あとはお願いします」

「あいよ。任せときな」

 ヒルデは、あのザフエルを一撃で床に沈めた最強の巨大おたまを引っこ抜くと、目にもとまらぬ早業でびゅんっと旋回させるや手ぐすね引くようにびしっと構えてみせた。

「ガツンとやっとくから」

「え……」

 ニコルは少々青ざめた目でザフエルを見やった。気を失ったザフエルをこの場へ残していくことに――しかもよりによってそれを依頼したのは自分だ――どことなく一抹の不安を覚える。

 だがそれもまた因果だ。

 ニコルはそう自分に思い含めることにして、スタコラサと身をひるがえした。

 まずは何にせよ、あの階段をどうにかしなければならない。ニコルはザフエルの提案を頭の中で反芻しつつ、手すりを掴んでぐいと身を乗り出した。

 天地を一気に見はるかす。

 ところどころ引っかかっているのは逃げ遅れた兵士だろうか。上階はまだましなようだが、階下はものの見事にスライムの塗り壁と化している。

 この様子では、ザフエルの予言したとおりのヘンタイ伏魔殿となるのも時間の問題だ。もはや一刻の猶予も許されない。

 ニコルはぶるっと頭を振るうと、くちびるを強く引き結んだ。

 《カード》を抜き払う。

 壁にあやうい虹の波紋が映し出された。水面をついばみ飛ぶかのような光の輪が広がっていく。

 スライムがざわりとうち震えた。反応している。

 いきなり、はちきれそうなほど伸び上がった。怒濤のように押し寄せてくる。

「……っ!」

 腕にはめたルーンが、どくん、と脈打つ血の色の光を帯びた。

 くちびるからほそく放たれた呪が、はばたき散る鴉の羽根のごとく不吉に舞い上がってゆく。


《……死と暗黒を司りし闇の門番に命ず……》


 《カード》にかけられた暗黒の呪が、突如閃く稲妻のようにニコルを取り巻いた。疾風に髪が逆巻く。

 蒼白の表情がするどく、きつく変わった。

 闇の影が翼のように射して。

 瞬間、漆黒に帯電した光の帯がスライムへと一直線に奔り憑いた。

 力任せに薙ぎ払う。

 壁が粉々に砕け散った。周辺のスライムが破裂した風船のように吹っ飛ぶ。

 生臭い緑の煙がもうもうと立ち込めた。視界が完全に奪われる。

「……倒せた……っ!?」

 ニコルは噴き上がってきた煙をいきなり吸い込んでむせ、咳き込んだ。よろめき、後ずさる。

 あれで倒せなければ、とてもじゃないが勝てそうにない。目にしみる煙を払い、メガネをむしり取って涙をぬぐい、手すりにしがみつく。

「スライムは……」

 固唾を呑んで見守る。

 うっすらとたなびく煙がようように晴れてゆく。とりあえずスライムの姿はない。

「よし!」

 ニコルはやっと入り込めるようになった階段を、猛然と駆け降りた。

 壁の中途にぽっかりと巨大な穴が抜けている。

 この悪夢が始まってからいったいどれぐらいの時間がすぎたものか、気がつけば外は朱金と濃藍を流し混ぜた夕闇の色だ。

 走り抜けた勢いで、がらがらと壁が崩れる。

 開いたすき間から、はるか遠いリーラ河が望見できた。

 一瞬、空にばらまかれた砲火が河面に赤く光跡を引いて反射する。こちらからの反撃がないと見越したか、砲列を布いて射すくめに出るつもりらしい。

 ニコルは踊り場から一気に階下へ飛び降りた。

 横滑りに制動を掛けつつだんと壁を蹴って向きを変え、半ば宙空を飛ぶかのように廊下を駆け抜ける。


「総員防衛配置について!」


 おそらくまだぼんやりとして事態を把握していないのだろう、うつろに座り込んだままこめかみを押さえている者、あるいは幽霊のようにむっくりと起きあがろうとしている者――どいつもこいつもぷりぷりの尻を手で隠している――に向かってニコルは鞭のようにするどい声を飛ばした。

「各中隊ごとに所定の稜堡へ。敵散兵を確認次第、斉射撃退してください。砲兵所属員は射撃準備、観測指示を待て。敵砲兵陣地に基準砲弾着標定後、一斉効力射!」

 ニコルはふいに上を見上げ、天井からどろっと垂れ落ちてくる寸前のスライムを弱めの《地獄門》で焼き切った。

 黒こげの消し炭が代わりにぼとりと目の前に落ちる。

 ブーツの踵でそれを蹴散らし、飛び越える。

 じゅっと火の消える音がした。

「ほか衛生兵は全力を挙げて負傷兵の治療に当たってください。以下全員に徹底せよ。繰り返す、まずは各自ぱんつを穿いて集合! 事はそれからだ!」

 しかし、どれほど倒してもスライムはまるでその数を減らす様子がない。

 それどころか、ますます増えていくような気さえしてくる。

 ついにニコルは息を切らして立ち止まった。

「だめだ」

 額から流れ落ちる冷たい汗を拳の背で拭う。

 こんなとき、チェシーが肩を並べていてくれればどんなにか――

 強く頭を振って気弱な、そしてどこか不安な思いを払拭する。


 ……勝手に持ち場を離れ、連絡もつかないなんて。


 通気口から、あるいはドアのすき間から、ごぼごぼと泡のようにあふれ出続けて止まらないスライムを前に、ニコルは歯を食いしばった。

 息がはずんで、苦しい。

 無数の眼がニコルを見つめている。

 ニコルは手にした《カード》をぎゅっと握りしめた。

 《地獄門》を撃ち続けていればいつかはスライムすべてを焼き尽くせるだろう。それは分かっている。だがその”いつか”がいつ来るのかが分からない。五分後か、あるいは五時間後か。

 じり、と後ずさる。

 つられてスライムが伸び上がる。


「……え?」

 今の動きは――


 ニコルは顔を上げた。

 そういえば先程も同じ動きをしていたような気がする。《カード》の放つ闇の気配に引き寄せられているのかもしれない。

 突然見えた光明にニコルは笑い出しそうになった。

 《カード》でひゅっと風を切りまぜ、死を帯びた霧を陰鬱に渦巻かせる。また、スライムの表面が踊るように波打って伸び縮んだ。

 間違いない。確かに呼応している。

 そういうことなら話は早い。

 去年の夏、まだチェシーがいなかったころに、一日だけ生存自活訓練と称してリーラ河でキャンプしたことを思い出す。

 あのときは本当に面白かった。のんびり釣りなどしていると、いきなり陸上を平気で走り回るとんでもない巨大爬虫魚が釣れてしまって、それはもう上を下への大騒ぎになったのだ。

 たしかその魚は結局ザフエルが神速の居合いで瞬断し、こんがりと飾り揚げにしたんだった――

 ニコルは片唇をつりあげて笑った。

 きっと今回もすごい大物釣りになるだろう。そうに違いない。

「さてと、どうしてくれようかな」

 ニコルはあごに手を当て、うーむと陽気にひとりごちた。《カード》から流れ出す闇をゆらっとなびかせる。

「どうせならびしっとカッコ良く決め……」

 スライムの目がぎろりといっせいにニコルを睨む。

「……う゛っ」

 思い切り気圧されて怖じ気づくニコルの目の前で、カエルのタマゴみたいな半透明のかたまりがぶるっと震え……たかと思うといきなりでろでろ流れ落ちながら、噴水のように盛り上がった。頭からなだれかかってくる。

「うひゃあ!」

 びちゃびちゃ飛び散る目玉のかたまりを、悲鳴を上げて避ける。

「や、やっぱやだーーーっ!!」


 と、突然。

 前方の階段方向から素っ頓狂な悲鳴がわき上がった。

「おおおお化けお化けお化けーーーーっ!」

「な、何っ」

 ものすごい勢いで走ってくる足音に加え、いやあああとかきゃあああとか、絹を裂くような悲鳴が放射状に放たれて。

「いったい、何……」

 そこへ。

「わああああああ危ないです退くですぶつかるですーーー!」

 まるで狙いすましでもしたかのように、紺と白のスカートを穿いた少女が宙から一直線に急降下してきた。

「な……っ!?」

 恐怖の表情で振り仰ぐ。

「きゃあああぁぁぁぁですーーーっ!」

 つんざくような悲鳴と同時に、純白のフリルペチコート、かぼちゃぱんつ、裸足のつま先、破れかけのガーター等々――に視界が覆い尽くされて。


 ……直撃、であった。


「ぎゃああああ!」

 ニコルと少女はごちーんと正面衝突し、それぞれに目から火花を散らしつつ、もつれ合った毛糸玉みたいに吹っ飛んだ。

 あまりの衝撃にメガネが飛んでいく。

 一緒くたにごんごろごんごろ壁にまで転がっていって、ごいん、と頭をぶつける。もはやどちらが上やら下やら分からないダンゴムシ状態だ。

 ニコルは眼をぐるぐるに回しながら、うぐぐともがいた。

「お、重い……」

「何言うですかあっ! アンシュベルは重くなんかないです!」

 猛然ととんちんかんな抗議を始める少女の下で、ニコルはじたばたと床を蹴った。まったく動けない。

「ご、ごめん……」

「分かればいいんですっ!」

「アンシュベル、あの……」

「何か御用ですか!」

「お願いが」

「そんな失礼な人のお願いなんて聞いてあげないです」

 ニコルをぺちゃんこにしておきながらアンシュベルはぷいっと顔をそむけ、あまつさえくちびるをとがらせて文句を言い続けた。

「アンシュベルだって怒るときはちゃあんと怒るんですう!」

「じゃなくて……そろそろ降りてくれないかなって……」

 ニコルは涙ながらに懇願した。

「え」

 きょとんとした声がのぞき込む。くるくるカールのふんわりブロンドが、まるで少女人形みたいな童顔にくりんと覆い被さった。

 目が、大きく見開かれる。

「うそおっ師団長ーーーーっ!?」

 頬を挟んで仰天の声を上げ、ぶんぶん頭を振る。衝撃でニコルの背骨がぼきぼき無惨な音を立てた。


 ――うがごげぐがああ……!


 口の端から魂がひょろひょろと立ちのぼっていく。

「あうう、ホントにごめんなさいですぅっ!」

「そ、そう思うならはやく退いて……」

 アンシュベルがあたふた飛びのく。ニコルは、ずきんずきんと乱れ鐘を突くかのような頭を振り振り、よろりと起きあがった。

「うう、何で僕がこんな目に」

 視界の隅で何かがキラリと光る。きっとメガネだ。

 半ば朦朧としながらぼんやりと手を伸ばす。


 ……ぷにゅっ……


 予期せぬ感触に遮られ、ニコルは一瞬、はて? と考え込んだ。

 何だろう……

 目をぱちくりさせて小首をかしげ、今度は指に力を入れて、つんと押してみる。

 悲鳴が上がった。

 ニコルはあわててメガネをひったくり、鼻に乗せ直した。つるが歪んで視界が互い違いになってしまっているが、見えないわけではない。

「アンシュベル!」

 可哀想にスライムに食われかけでもしたのか、いつものエプロンドレスがまるで夜会服か何かのように背中や胸元まで溶けて、いかにも女の子らしい可憐なレースの下着が透けて見えてしまっている。

「なんて格好してるん……それより大丈夫!?」

 ニコルは冷や汗をうかべてアンシュベルに詰め寄った。

「どうしてこんなところに」

「……全っ然!」

 アンシュベルはみるみるその大きすぎるぐらいまん丸な目に真珠の涙をため、頭のてっぺんに突き抜ける金切り声をあげた。

「大丈夫なんかじゃないですっ!」

 こぶしを振り上げ、いきなりぽかすか殴りかかってくる。

「師団長のばかあっっっっ!」

「う、うわっ何するんだやめ、やめ、やめろって」

「もうお嫁に行けないですーーーっ!」

 胸ぐらにすがりつかれゆさゆさ揺すぶられるたびに、今にもちぎれそうな下着から胸がはずんでこぼれ出しそうになっていく。

「ああああ落ち着いてっあの、あの、全然、その、何て言うか待て、待て違うんだって、その誤解っていうかちょっと当たっただけで……!」

「どこ見てるですかえっちーーー!!」

「えええええーーっ!?」

 ニコルはあわててその真っ白な谷間から目をそらそうとした。だがあまりの発育の良さに、眼をそらすことはできても身体までは避けきれない。

 我を忘れあられもなく迫ってくる胸にぎゅうぎゅう押しまくられ、まさに息も絶え絶え……。

「い、息が、息ができな……」

 指先をピクピクさせ、半死半生で虚空を掴む。

「あ、あ、……アンシュベル!」

 必死で、谷間で窒息死などという聖騎士にあらざりし最悪の事態から身をもぎ放す。

 ぷはあっと半泣きで息を継ぎ、よれよれと倒れかけて、ニコルははっと我に返った。今はこんな埒もない応酬に血道を上げている場合ではない!

 きっと真面目な顔をつくって、しかりつけるように声を荒らげる。

「いい加減にして。何で僕がそんなことしなくちゃならないんだ、チェシーさんじゃあるまいしっ!」

「あ」

 アンシュベルは涙目をはっと見開いた。

「そ、それもそうでしたです……」

 それで納得するのもどうかと思うが、とにかくアンシュベルはもじもじとしなをつくり、恥ずかしげに手をねじりあわせた。

「……ごめんなさいです、てへっ」

「まったく、テヘどころの騒ぎじゃないって」

 ようやく落ち着いたと見て、ニコルはげんなりとため息をついた。

「分かればいいんだ。それよりも早くここから逃げ」

「きゃーーーーっ!」

 再度いきなりアンシュベルは耳元でガラス瓶をたたき割るかのような悲鳴をあげた。

「うわあっ」

 あまりの突拍子のなさにニコルもまた同調して飛び上がる。

「な、何っ」

「お、お化けが、あ、あ、あそこに……!」

 ぶるぶるとふるえる指先が肩越しの階段を指さしている。

 泥流のようなスライムが段上からぼたぼたと押し出されてくるのが見えた。どろりとこぼれ、階段を流れ落ちてくる。

 ニコルは、固唾を呑んだ。

 はっとして背後を振り返る。

「しまった……!」

 思わず《カード》を握り込む。

 とたん、アンシュベルが苦悶の悲鳴を上げてもがいた。ニコルの手から離れようと身をよじってもがき、手をつっばねる。

「アンシュベル!」

 ニコルは目を恐怖に押し開いた。あわてて手にした《カード》の闇を振り払う。

「大丈夫!?」

「痛……っ」

 アンシュベルは声を震わせた。弱々しくかぶりを振る。


 真っ白な手首が内出血を起こしている。

 火傷にも似た傷が、ニコルが握っていた手の形そのままのあざとなって、残酷に滲んでいた。


「ごめん」

 悲壮な声をあげ、後ずさる。

 アンシュベルは息をすすり込んだ。禁呪に傷ついた手をあたふたと背後に隠す。

「だっ、大丈夫です! 全然痛くなんかないですホントに……っ!」


 ニコルは強い後悔にほぞをかんだ。

 近すぎるのだ。

 以前、チェシーがルーンなしで《デス・トルネード》を放ったときの情景がなまなましくよみがえる。

 《カード》を持つ手全体が煮溶かされたかのようにただれ、腫れ上がって、まるで毒の沼に手を浸したかのようだった。でも、あのときは確か……。

 とっさにルーンを渡そうとほどきかけて、ぞくりとする。

 アンシュベルにルーンは使えない。ルーンの庇護は、誰にでも使える力ではないのだ。

 身体が震えた。

 アンシュベルを庇ったまま《地獄門》は撃てない。かといって逃げるにはもう遅すぎる。

 前方からも後方からもスライムが次々に押し寄せている。もはや蟻の這い出るすき間もない。完全に取り囲まれている。

 冷や汗が流れた。背中がつめたい。

「ごめんなさい……」

 蚊の泣くような声がふるえる。

 ニコルはかぶりをふった。雨に濡れた子犬のように立ちすくむアンシュベルの小柄な身体を、そっと抱き寄せる。

「そんなことないよ」

「でも!」

「大丈夫だって」

 ニコルは徒手空拳ながら精一杯の虚勢を張った。痩せた笑みを浮かべてみせる。

「いくら僕でも君一人ぐらい護れる。護れなくてどうするんだ。じゃなきゃ、何のために騎士になったのか――」


 突然。

 スライムがひとつ、ぼとりと目の前に落ちた。

 悲鳴すら出せないまま、反射的に上を見上げる。

 そこにあったもの――

 いや、もう頭上だけではない。

 天井一面に渡って貼りついた無数のスライムが、寄り集まり膨れあがって、今にもどろっ……と垂れ落ちてこようとするのが、凍りつくニコルの目に映り――


 今度こそ、アンシュベルが耐えきれない悲鳴を上げた。


 もう、眼も開けていられない。

 ぼたぼたと滝のように流れ落ちてくるスライムに触れるたび、酸を浴びせかけられたような痛みが全身を走り抜ける。

「いやああ来ないでえっ」

 頭を抱えてうずくまるアンシュベルの背に、べっとりとスライムがからみついた。

「アンシュベル!」

 とっさに払いのけたつもりが逆に巻き付かれる。腕を逆さにひねられ、ニコルは苦悶のさけびをあげた。

「師団長から離れるですこのでろでろお化けーーー!」

 アンシュベルがニコルの手に飛びついた。泣きながらスライムを引っぱる。

「あ、ありがと」

 ようやく逃れて一息をつく。アンシュベルは涙でいっぱいの目を笑ませてニコルを見上げた。気弱そうにかぶりをふる。

 刹那、アンシュベルの笑顔が途切れた。悲鳴がつんざく。

 恐怖に見開かれた目が、見る間にスライムの向こう側へ引きずり込まれていく。

 ニコルは手をいっぱいに伸ばしてアンシュベルの指先を追いかけた。

「来ちゃだめですうっ」

 アンシュベルが身をよじらせ叫ぶ。

「今のうちに《カード》使うですっ」

 思いも寄らない金切り声に、ニコルはぎょっとして立ちすくんだ。

「そんなことしたらアンシュベルが」

「やっちゃうです!」

「できないってば!」

 ニコルは強くかぶりを振ってアンシュベルに駆け寄った。ありったけの力を込め、引き戻しにかかる。

「あんっ」

 アンシュベルは鼻に掛かった声をあげた。

「手を放すです」

「あきらめちゃだめだ!」

「そ、そうじゃないですっ!」

 アンシュベルは真っ赤な顔でニコルの手を振り払った。

「ひひひひひ引っ張ったら脱げちゃうですーーーっ!」

「うえっ!?」

 思わず赤面し、ぱっと手を離す。

 そのとたん、アンシュベルはものすごい勢いで頭からスライムに突っ込んだ。

「あんぎゃあああ!」

「ふんぎゃあああ!」

 半分めくれた紺のスカートから生えたかぼちゃぱんつ丸見えの足だけが、半狂乱の金魚のようにじたばたしている。ニコルは頭を抱え右往左往のパニックに陥った。

「あわわわしまったどうしようハマっちゃったアンシュベルがーーーーっ!」

「師団長の、ばかあああーーーっ!」


 そのとき。


 足元が崩れそうなほど突き上がった。

 凄まじい火柱が天井めがけて噴き上がる。渦巻く熱風に声を上げることもできない。行き場をなくした火が灼熱の雨と化して次々にスライムを射抜き、降りしきった。

 ニコルはすっぽ抜けたアンシュベルを頭から抱えて床に身を投げ、転がり伏せた。

「も、も、もうだめですうっ」

 アンシュベルが煤だらけの真っ黒な顔でニコルにしがみつき、泣きべそをかく。

 ようやく、衝撃がおさまって――

 ニコルはおそるおそる顔を上げた。

 火の海が広がっている。

 熱にあぶられたスライムがめらめらと溶け、あるいは階段の奥へと縮むように消えていくのを唖然として見つめる。

「な、何が起こっ……」

 言った端からいきなりめきめきと天井が剥がれた。崩れ落ちてくる。

「師団長危ないですーーっ!」

 アンシュベルが悲鳴を上げた。思い切りニコルを突き飛ばす。

「うわあちょっちょっちょっと待……!」


 ……再度、直撃……であった。


 もうもうたる土煙が立ちこめてゆく。

 ニコルは瓦解した天井に埋もれ、ピクピクと手足を痙攣させた。

「ううっ……」

「だ、大丈夫でしたですか?」

 アンシュベルが心配そうにのぞき込んでくる。ニコルは仕方なくへなへなと笑って白旗代わりのハンカチをを振った。

「何とかね」

 がらがらと瓦礫を払いのけ、打ち身ねんざ打撲にたんこぶとそれはそれは哀れきわまりない姿でしょんぼりと起きあがる。

「君のおかげで助かったようなそうでもないような」

 見回すと、瓦礫と油をまぜて撒きちらしたかのような床に、まだじりじりと燃え残りの火がくすぶっている。

「と、とにかく今のうちに脱出を」

「止まれ。まだいるぞ」

 突然、鈍色をした煙の向こう側から冷ややかな声が聞こえてきた。

「片付け損ねたか」

 ニコルはぞくりとして息を吸い込んだ。火と煙の向こう側をうかがう。

「その爆弾、もう二、三発ぶち込んでみたらどうだい」

「言われるまでもない」


 ――えっ……?


 ひとすじ、ふたすじとまとわりつく煙をいらだたしげに振り払って、人影が現れる。

 まぶしいほどに整えられた純白の軍装。

 未だかぎろい残る熱気の中、埋み火混じりの瓦礫をこともなげに踏み越えて、人影はしずかに立ち止まった。

 流れ込む風に黒髪がふわりとなびく。冷然とした表情があらわになった。

 その姿に、ニコルは思わず腰を浮かした。太陽のようにぱあっと顔を輝かせる。

「ザフエルさん!」

 さすがのザフエルもぎくりとした様子で振り返った。

「な……」

「やっぱりザフエルさんだっ!」

 満面の笑顔に加え、土埃やら煤やらスライムやらといった余分なものまでばらばら振りまきつつ、ニコルは両手を広げザフエルに駆け寄った。

 バネ仕掛けの子犬みたいに力いっぱい飛びはねて抱きつく。

「助けに来てくれたんですね!」

 勢いあまっていつもより余計に二回転ほど回りながら、ニコルは半泣き顔をザフエルの胸にうずめ頬をすり寄せた。

「あああありがとです今度こそ本当にもうだめかと思いました!」

「あんたら、いたのかい」

 せっかく新調したらしき軍衣を真っ黒に汚され、愕然として立ちすくむザフエルの代わりに、側にいたヒルデがニコルの首根っこをつかんでべりべりと引き剥がした。

「あんな爆弾くらって、よくもまあ生きてられるもんだね」

「いいんです助かったんだし結果さえ良けりゃこの際もう何でも」

 ニコルはいかにも嬉しそうに声を弾ませてヒルデを見上げた。

「ちょうどよかった。ヒルデさん、実はまたお願いがあるんですけど」

「もうぶん殴るのは堪忍しとくれよ。こっちの神経が持ちゃしない」

「そうじゃなくって」

 くすっと笑って続ける。

「あるものを厨房から取ってきてもらいたいんです」

 ひそひそとヒルデに耳打ちする。とたん、ヒルデは大声で笑い出した。

「それ本気かい」

「もちろん」

 ニコルは自信たっぷりに腰に手を当て、胸を張った。

「ヒルデさんだけがスライムに食われてないのは、きっとそのおかげだと思うんです」

「なるほどね。一理あるよ」

 ヒルデもまた愉快そうにうなずいた。

「どこへ持っていきゃいいんだい」

「第二堡塁です」

「あのデカイ大砲があるとこだっけ?」

「ええ」

 ニコルはにっこりと笑った。

「できるだけ大量にお願いします」

「あいよ。任せときな」

 ヒルデは胸をばんと叩いてみせた。

「ほら行くよアンシュベル、まったく何て格好だい若い娘さんがそんなはしたない格好するもんじゃないよ。あとであたしのシャツ貸してやるからきちんと着な。いいかい」

「ごめんなさいですぅ……」

「アンシュベル」

 ニコルはちょこまかとヒルデの後を追いかけていくアンシュベルの背に声を掛けた。きょとんとした顔が振り返る。

「はい?」

「ごめん。頼りなくって」

 ニコルが言うと、アンシュベルは小さく首を振り、気恥ずかしげに笑った。それから突然思いついたようにぱたぱたと駆け戻って来る。

「師団長っ」

「え?」

「ありがと、です」

 ひょいっ、とつま先立ちして。

 アンシュベルはニコルの頬にちょこんと小さくキスをした。

「てへっ」

 そのままこまっしゃくれた笑みをうかべ鼻の頭をくしゅっとこすり上げて、すたたたと駆け去っていく。

「え……えっと」

 ニコルは意表を突かれ、ぽかんとした。

 かすかな感触の残る頬を押さえ、しばし考え込む。

 今のキスはいったい……。


「閣下」

 どこか突き放すような鉄の声が夢想を破った。あわてて振り返る。

「なぜ《カード》をお使いにならなかったのですか」

 底知れぬ眼が、表には決してあらわれ得ない怒りを秘めてニコルを見つめていた。

「何度申し上げれば分かって頂けるのです」

 ザフエルはゆっくりと言った。

「師団長ともあろう方が、目先の犠牲に萎縮し大局を見失って軽挙妄動に走るとは」

 声は静かだが、頭ごなしのきびしい叱責だ。しょんぼりと視線を落とす。

「う、うん……」

「一将兵の命など大事の前の小事にすぎません。貴方を失っては何にもならない」

 ニコルはきっと顔を上げた。反射的にザフエルの言葉をさえぎる。

「そうじゃないです。違います。いくら怒られたってそれだけは」

「笑止」

 ザフエルはぴしゃりと否定した。

「非現実的な発言ですな。その甘さこそ戦場における貴方の最大の欠点であり弱点だと自覚すべきです。たとえどんなにそれが我々部下にとって――」

 たたみ込むように言いかけて、ザフエルはふいに口をつぐんだ。じっとニコルを見つめ、緊迫の気配を解いて、あきらめたようなためいきを長々とつく。

「今はそんなつまらぬ私情など全くもってどうでもよろしい」

 再び、むっつりと不機嫌そうな声に戻って続ける。

「とにかく、かかるありさまでは麾下の兵に示しがつきません。以後謹んでいただきます」

 ニコルはうなだれた。厳しい態度を取るザフエルの真意もまた痛いほど伝わってくる。それだけに今以上の反論はできなかった。

「は、はい……」

 ためらい、口ごもる。

「あの、ごめんなさい。僕、心配ばっかりかけ……」

「分かればよろしい。分かれば」

 終いまで聞きもせずにザフエルはふいときびすを返した。

「では」

 そっけなく去りかけ、つと立ち止まる。ザフエルは羽織っていた上衣を手早く脱いだ。顔も見ずにニコルの肩へぱさりと打ち掛ける。

「え……」

 ニコルは眼をみはった。と胸を衝かれ、顔を上げる。

「失礼。出兵準備がありますので」

 それだけを言い残し、ザフエルは立ち去った。


 薄闇にルーンの灯火が赤く、青く、吸い込まれるように明滅している。

「……あーあ」

 がっくりとためいきをつき、まだ少しぬくもりの残った軍衣に袖を通す。

 燃え残りの火がちらちらとあやうい影をゆらめかせるなか、ニコルは他に返す言葉もなくザフエルの消えた廊下の向こう側をぼんやりと見つめた。

 胸元の折り返しをぎゅっと握りしめ、思いつめた表情でくちびるを噛む。

 お小言代わりにくどくど嫌みを言われるのはいつものことだ。でもあれほど面と向かって叱りつけられたことは今までに一度もなかったような気がする。

「怒らせちゃった……かなあ」

 ぽつんと力なくつぶやく。

 が、ニコルはそこできっと顔を上げた。

 こんなところで落ち込んでいては、せっかく叱ってくれたザフエルの期待にこたえることもできなくなる。本気で見限るつもりならいつものごとく言いたい放題、ねちねちの限りを尽くした挙げ句けむに巻いてどろん、という顛末になっているはずだ。

「つまり、やるべき事はちゃんとやれってことだよね」

 ともすれば辛気くさくなる考えを勢いよく振り払う。こういうときは万事自分に都合良く解釈するに限るのだ。

 ふいに暗闇がうごめいた。濡れたものが背筋をかすめ落ちる。びしゃりと床につぶれる音が聞こえた。

 仰け反るようにして飛びすさる。

「うわっととと……!」

 ニコルはつんのめって逃げだした。

 幕壁を目指し、迷路のように入り組んだ城砦内を疾駆してゆく。床を蹴るするどい軍靴の音が響き渡った。長く引き延ばされた影がアーチの続く天井に踊る。

 ニコルは回廊を越え営門を抜けて一気に城砦前面の第二堡塁へと向かった。

 暗黒の匂いに惹かれたスライムはますますその数を増し、巨体に似合わぬ敏捷さでニコルに追いすがってくる。

「師団長閣下!」

 騒ぎに気付いた歩哨があわてて銃を肩から降ろし、最敬礼で出迎えた。

「どどどど退いて退いて退いてーーーっ!」

 ニコルは両手を振り回し怒鳴り返した。背後から法外な数のスライムが雪崩を打って襲いかかってくる。

「うわあああっ!」

 ともすれば覆い被さってこようとするスライムの擬足を必死にかいくぐり飛び上がって避けながら、絡め取られる寸前、前のめりに幕壁の中へ転がり込む。

 間一髪、待ちかまえていた歩哨が重い防火扉を閉め切った。

 勢い余ったスライムが何度も扉にぶつかってくる。

 渦を巻く凄まじい音にみるみる壁が崩れかける。不気味にたわんだちょうつがいが怖ろしげな音をたてて軋んだ。

「かかかかか閣下今の今の今のあああの物体は……!」

 蒼白を通り越して赤になったり土気色になったりと、もう今にも泡を吹いてぶっ倒れそうな顔色の歩哨がだらんと下がった顎をわななかせながら尋ねてくる。

「いやもう何が何やらさっぱり」

 ニコルはぜえぜえと息を切らしながら胸を押さえた。苦しげに左右を見回す。

「ところで階段はどこ」

「あっちであります」

「ありがと!」

 礼を言うが早いかニコルは階段に飛び込んだ。塁壁に掩体化された堅牢な三階建て稜堡塔の最上階へ一気に駆け上がる。

「ごめん、遅くなって」

 飛び込むなり叫ぶ。

「アーテュラス閣下!」

 配置についていた砲手たちがニコルを見るなり顔を輝かせた。

 壁塔内に据え付けられた要塞砲は三門。ニコルはそのうちの一つに走り寄って銃眼から外を見はるかした。

 闇が遠い。どこまでも広がっている。

 星の散る北の夜空はわずかに藍をふくんだ黒。アリアンロッドの輪と謳われる小さな星座が天上にきらめいている。

 次いで視線を地に転じる。

 河の手前で何かが激しく燃えているのが見えた。

 集中した砲火の前に善戦空しく崩れおちた分派堡の残骸だろうか。河面に火がこぼれ映っている。

 血を流してうずくまる瀕死の姿を思い起こし、おそろしさについ立ちすくんでしまいそうになる。ニコルは自らを叱咤し、凛と声を張り上げた。

「一気に邀撃します。第一要塞砲、基準弾装填にかかれ」

 砲兵たちは希望を取り戻した明るい顔できびきびと動き出した。

「了解」

「掃拭急げ」

 威勢の良い声が次々に放たれる。合図とともに砲手が一斉に綱を引いた。がらがらと音を立てて滑車が回る。鎖が床を滑った。

 目をみはるほど巨大な要塞砲が、重金属の軋みを上げつつみるみる前方へとせり出してゆく。

 ふいに塔の下の方から、めきめきと何かへし折れるような音と鈍い振動とが伝わった。

 ガラスの砕ける音、悲鳴、そして一発の銃声が鳴り渡ったかと思うとそのまま吸い込まれるように聞こえなくなる。

 ぎょっとして振り返る。

 もう時間がない。

「え、え、ええと、まずどうすればいいんだっけ」

 ひたすらに焦るばかりでまともに働きもしない頭をぐしゃぐしゃかき回しながらニコルはとりあえず近くにいた砲兵を捕まえた。

「まずは急いで作業して欲しいことがあるんです。えっと、炸薬のかわりに僕の《カード》を使って」

 闇を帯びて光る《カード》を砲兵たちに示す。

「これを仕込んだ薬包弾を作ってください。危険だから素手で触らないようにして、で、《地獄門》が三枚ありますから一枚ずつで合計三発」

「やってみます」

「お願いします」

 砲兵たちが火ばさみで《カード》をつまむのを確認してから、中央に設置された砲へ駆け寄る。薔薇と剣のレリーフを豪奢に施したノーラス城砦最大の巨砲である。

「シャナン砲長!」

「はっ」

 たちどころに駆け寄って直立不動の敬礼姿勢を取る下士官の首にかかったままの望遠鏡をむぎゅうっと引ったくって眼に押し当てる。

「敵砲の位置は確認できてますか」

 絞められた首をつかみじたばたしながら、無精髭の下士官はげほげほとかぶりを振った。

「い、いえっまだであります閣下」

 突然、ルーンが光り出した。

 ニコルははっとして手を振り上げた。闇の一点を指さす。

「そこだ。測距用意して」

 哀れ砲長はいっそう首を絞め上げられ目をグルグルに回している。どう見ても距離を測れそうな余裕はない。

「来ます!」

 ニコルが声を高くした次の瞬間。

 暗い森の中から狼煙のような光跡が打ち上げられた。

 走り火が曲射弾道を描いて空を突き抜ける。漆黒の天蓋がまがまがしく色づいた。

 やや反応が遅れて、どん、と空気全体が激しく振動した。

 空谷に噪音が鳴り渡る。

「着弾!」

 誰かが叫ぶ。

 ノーラス城砦を取り巻く覆道の一部が土塵につつまれ吹き飛ぶのが見えた。火の手が上がっている。

 ニコルは思わず顔をゆがめた。

 偶然の命中ではない。おそらく正確に狙ってのことだろう。このままでは反撃のいとまもなくただ射すくめられ続けるばかりだ。

「敵射出点確認しました」

 測距儀を操っていた砲兵が冷静に報告する。

「測距開始します」

 斜めに組み合わさった二本の望遠鏡にも似た測距儀のレバーをぐるぐると回し、すばやく目盛りを読んでいる。

「目標確認。距離一六〇〇」

「距離一六〇〇、了解」

 ニコルが望遠鏡からぱっと手を放すと、ようやく首つり地獄から解放されたシャナン砲長はむせかえってぶくぶく泡を吹きながら前のめりにばったりと倒れた。

「ああっシャナンさんどうしたんですどこかお具合でも」

「だ、大丈夫であります、何のこれしき」

「第一射仰射角および方位盤設定完了しました」

「基準弾発射準備完了」

「よし、発射!」

 気を取り直したシャナン砲長が引き金索を引く。

 凄まじい爆音とともに巨砲が火を噴いた。

 反動で半ば跳ね上がりながらレール上の砲架が後座するのを、壁と床あわせて十本以上も取り付けられた鎖がいっぱいに伸びきって支える。

 漆黒の森に炎が吸い込まれてゆく。

 と、ふいにまばゆいほどの火柱が膨れあがった。火はすぐに真っ黒な煙にまぎれ見えなくなる。

 砲手たちが歓声を上げた。

「命中!」

「やったあ!」

 ニコルは飛び上がった。そこへ先ほど《カード》を仕込むよう頼んだ砲兵が駆け寄ってくる。

「準備完了しました、閣下」

「ああっどうもです! よかった間に合って」

 ニコルは炭で真っ黒の鼻をこすって顔を輝かせた。

「じゃ、いつでも撃てるように準備をよろしくです」

 砲兵が駆け去る。入れ替わるようにしてシャナン砲長がやってきた。

「何です今のは」

「あ、すみません、地図あります?」

 たちどころに軍議用の机が用意された。ノーラス城砦を中心とした地図が広げられる。

 ニコルは腕を伸ばすたびにだらんと垂れ下がる袖を何度もまくりあげながら地図の一点を差し示し、木で作った砲型の駒をひとつ置く。

「さっき参謀とも協議したんですけど、この位置にターレン型重加濃砲を配備されると」

 木の駒を中心にして円を描き、補助線を引いて距離を入れる。

「ほら、城砦全域が射程距離内に入るため被弾の恐れがあります。当然ゾディアック軍は橋頭堡を死守してくるでしょうからこちらとしても絶対に配備を阻止しなければと思ってですね、先ほど作ってもらった必殺の薬包弾で一掃しようかと」

「何わけのわからんことを」

 砲長はいらだたしげに地図をばんと叩いた。勢いで砲台の駒が逆さまにひっくり返る。

「いくら閣下の御提案とはいえ、たかが大砲の弾一発ごときに何ができると」

 再び地面を揺るがす発射音が連続で鳴り響いた。

 巨砲を設置した床が今にも砕けそうな勢いで振動する。

「そんなにうまく行くはずありませんて」

「うわっ凄い音だホントに何にも聞こえないや」

 ニコルは耳を押さえ髪を爆風に逆巻かせながら、砲声に負けじと大音声で怒鳴り返した。

「ありがとうございますじゃあさっそく準備を」

 シャナン砲長も同様の仕草で耳を押さえつつ、声を荒らげた。

「そんなもの撃って暴発でもしたらどうする気ですか吹っ飛びますよ城砦ごと!」

「大丈夫、三発ありますからどれかは当たりますって」

「はあっ!?」

 シャナン砲長は強面の声を裏返らせた。

「わからんお人だな、だからそんな危険な」

「そうですよねまずはやってみなくちゃ何事もわかんないですよね」

「人の話聞いてるんですか!」

「効き目は見てのお楽しみですよ」

 何を言ってもまともな会話にならない。

 シャナン砲長はあきれ果ててげんなりとため息をついた。

「……だめだこりゃ」

 ニコルはそれを聞いて、にんまりと笑った。


「では快諾いただけたことですしさっそく発射の準備を」

「だから誰が」

 最後の抵抗を試みようとする公国軍人の鑑シャナン砲長のまったくもって正当な反論を完全に無視し、ニコルはざっと机上計算した距離と方位を担当の砲手たちに告げた。すぐさま測的が行われ数値が読み上げられる。

「方位盤照準完了しました」

「仰角設定完了。基準針合致開始、旋回はじめ!」

「アイ・サー!」

 小気味よいほど揃った返答とともに、その場に居合わせた十数名の砲手全員が巨大な巻き上げ機前に走り寄る。

「僕も手伝います」

 いてもたってもいられなくなったニコルは勢いよく袖をまくり上げて巻き上げ機に向かった。しかしあっけなくシッシッと追い払われる。

「いいから無理しないでそっちで待ってて下さい」

「……うっ」

 さすがにしょんぼりとして部屋の隅に座り込む。

 そもそもは自分が作り出した現場重視の指揮管理体制ではあるのだが……

 壁に向かっていじいじと指文字を書きながら、そんなに冷たく言わなくったってとか僕だって少しは役に立ちたいのにとかよくよく考えたら元帥にむかってそんな言い方ないんじゃないのとか、うら寂しい気分をどんよりと背負い込んだりしていると。

「きゃあああああ!」

 突然、絹を裂くというよりはむしろガラスに爪を立てて引っ掻くのにも似た悲鳴が階下から駆け上ってきた。

 続いて砲塔全体がぐらぐらと揺れ動いた。猛烈な地響きが迫り来る。

「いやあああついて来ないでええええ!」

 甲高い声が耳を突き抜ける。ニコルは青ざめた。

「な、何」

 引きつった声をもらす。あの声、あの足音はもしや――

「うおりゃあああ!」


 火花ほとばしる裂帛の気合いが炸裂したかと思うと、鉄鋲で頑丈に裏打ちされた完全防備の扉が一撃のもとに蹴破られた。つっかい棒やらちょうつがいやら、何もかもがぶっちぎれて吹っ飛んでゆく。

 もう、押っ取り刀も何もあったものではない。

 粉砕した戸を激烈に乗り越えて、右腕にアンシュベル、左腕に巨大な皮袋を抱えたヒルデが、噴煙のごとき鼻息をまき散らして躍り込んで来た。

「ぎゃああああ」

「熊だ熊が出たああ」

 たちまち砲塔は大混乱に陥った。

「死んだふりし……げぶぅっ!」

 うがあーっとまさに火を噴かんばかりの血相でヒルデが吠える。

「誰が熊かーーーッ!」

 狂瀾怒涛の喊声に圧され、そのへんにいた砲手たちがばらばらとアリンコのように吹き散らされた。みるみる犠牲者の山が築かれてゆく。遅れて爆風が巻き起こった。

「うわあっ」

 ご多分に漏れず、ニコルもまた頭から壁の掃除道具置き場に突っ込んだ。ブラシやモップをがらがらと一本残らずなぎ倒してひっくり返る。

「ヒルデさん何やってるですかっ」

 引き離されまいと必死にヒルデの肩にしがみついていたアンシュベルが耐えきれず叫んだ。

「あ」

 憤怒の形相で砲兵たちをちぎっては投げちぎっては投げていたヒルデの動きがぴたっと止まる。

「あ痛たたた、さすがは師団最強……」

 ぼさぼさのモップを頭に載っけたまま、ニコルはしたたかに打った腰を押さえ、よろっと立ち上がりかけた。

 とたん、目の前が渦を巻いたようにゆがんで見え、思わず倒れそうになった。視界がとんでもなくぐにゃぐにゃになっている。

「し、しまったメガネっ」

 ニコルは大あわてで顔や頭に引っかかってやしないかとべたべた触りまくり、どこにもないと分かると今度はがばと床に屈み込んで探し始めた。

「こんなときに、どどどどうしようっ」

「ごめん、閣下」

 こわばった声に顔を上げる。ヒルデの指先にちんまりとわかめみたいなものがくっついている。

 どこかで見たような、しかしそれにしてはまるで原形を留めていない薄べったい針金。

 嫌な予感がひしひしとこみあげた。

「それってまさか」

 ヒルデは苦々しくうなずく。

「閣下のメガネ」

「えーーーっ!」

 思わず半泣きで抗議の声をあげようとした、とたん。


 通路から、窓から、床の隙間という隙間から――


 一瞬にして膨大な量のスライムが噴きだした。渦を巻きつつなだれ込んでくる。

「出たあぁぁぁぁっ」

 ヒルデに抱えられたアンシュベルが目をつむり耳をふさいで悲鳴を上げた。

 《カード》が放つ異界の闇に惹きつけられてかスライムは砲頭めがけ一気に襲いかかってくる。

「この化け物めらが」

 蒼白な顔ながら、砲兵の誇りであるハンマーを高々と振り回してシャナン砲長が怒鳴った。

「私の目の黒いうちは一歩たりとも近づかせ……っぐぼばッ!」

 ハンマーごとあっけなく呑み込まれ、何やらわめく声もまたぶくぶくと泡だって消えていく。

「ああっシャナンさんっ、ど、どこっ」

 ニコルは見えない目をこすり、必死で状況把握にかかった。

 ぼんやりと映し出される悲惨な光景。

 世にもおぞましき触手を次々に伸ばしては失神した砲手たちの体を取り込むスライム。

 それはまさに、ゆれゆれと不気味にぱんつをかぶって迫り来る凶悪な物質の群れ、群れ、群れ――!


 ――あんぎゃあぁぁぁぁ……


 耐えきれぬ光景に自分の悲鳴さえもが遠くこだましてゆく。

 なかばモザイク入り状態にひん剥かれ、進退きわまった状態でおぼれもがく砲手たち。

 その姿を目の当たりにして、さすがに諦めの悪いニコルもがくりと膝をついた。目玉でびっしりの天井を仰ぎ、己に降りかかるであろう残酷な運命を呪う。

 今度こそ、もう本当に……!

「……ってきゃあぁぁぁばかあっち行くですこっち来るなですううっ!」

 だが、悲痛なアンシュベルの泣き声にはっと我に返る。

 ニコルはふんぬと歯を食いしばった。素晴らしいことに気が付いたのだ。

 ぱんつ恐るるに足らず! 思い出せ、今の自分はメガネなしのド近眼ではないか!!


 まさしく天の配剤……!


 ニコルはなぜかキラキラと感動にうちふるえながら跳ね返るようにして飛び起き、そばに落ちていたデッキブラシをがっしと掴んだ。華麗なる掃除テクニックで近づくスライムをぼかすかと殴りつけつつするどい声で怒鳴る。

「塩だよアンシュベル」

 その声が耳に入ったか、泣きながら顔を覆っていたアンシュベルが両手をぱっと放してニコルを見返す。

「ほえ?」

「ヒルデさんに持ってきてもらったアレだってば」

 ニコルはデッキブラシでヒルデの腕にまだ抱えられたままの皮袋をびしっと指し示した。

「分かったですお任せくださいです」

 アンシュベルは顔を輝かせてヒルデの腕から飛び降りた。袋に手を突っ込み、中の塩を両手いっぱいにすくい上げ、投げつける。

「ぎゃああこっちに投げないでえっ」

 撒き散らされた塩の塊がどさどさと大量に頭上から降ってくるのを、ニコルは真っ白になりながら逃げまどった。涙目でげふげふと咳き込む。

 だがアンシュベルの一撃は信じられないほど強烈な効き目をスライムにもたらした。なんと、塩をくらったスライムがみるみる縮み、声にならない苦悶のうめきを上げながらぐにょぐにょと身をよじらせ、ふるえ、苦しんでいるではないか。

「きゃああすごい効いてるですっ」

 大喜びのアンシュベルはさらに調子に乗って次々と塩を投げまくる。

「えいえいえい!」

 完全に脱水症状に陥ったらしきスライムはぐるんぐるんねじれ、のたうち回ったかと思うといきなりぱんつと砲兵を山のように吐き出し始めた。

「頑張れアンシュベル」

 百花繚乱花吹雪、赤やら白やらしましまやらの目にもあやなるぱんつの雨を八艘飛びにひらりととかわし、ニコルはご機嫌に呼ばわった。

「ヒルデさん、今のうちに方位盤をお願いします」

「あいよ」

 ヒルデは豪快に腕まくりするとむんずとばかりに巻き上げ機に手を掛けた。顔を朱に染め、渾身の力を両腕に込めて一気に押し込む。

「どりゃあああーーッ!」

 すさまじい重金属音が響き渡った。がらがらと鎖を引きずり空転し始めたかと思うと、がちりという手応えとともに要塞砲が向きを変え、敵陣地へ砲口を向ける。

 ニコルはデッキブラシを投げ捨てた。すぐさま片手を巨砲にかざし呪をとなえ始める。

 漆黒のかぎろいがめらめらと立ちのぼった。四方八方に光と影が放たれてゆく。


《死と暗黒を司りし闇の門番に命ず――》 


 誰かがはっと息を呑む。

 漆黒の翼が壁から天井へ、さながら幻燈の映し出す悪夢のようにまざまざとうち広げられ、舞い散って。

「せーの」

 ニコルは片目をつぶって息を止め、決死の覚悟で引き金索を引き絞った。

「全軍、突撃ーーーーッ!」

 黒く膨れあがった稲妻とともに。

 超高速低弾道、暗黒の虹光を帯びた黒焔弾が空を引き裂いて撃ち出された。敵橋頭堡めがけて一直線に突き進んでいく。

 と、同時に。

 スライムが飛んだ。

 天翔る流星群かはたまた深海に降る淡雪か、煌々と照る月のもと清冽なる氷塵の反射をまき散らして。

 ……いや、真実はそうではない。おそらく”それ”を目にした者全ての心に去来したであろう客観的表現――どうひいき目に見ても膨大な量のハナミズとしか見えないモノがぶびびび(以下自主規制)。


 ……悲鳴と、絶望が交錯して。


 緑色した半透明の不気味な物体、それはそれは絶望的な量のスライムは、《カード》の放つ闇の波動に引きずられて宙を翔け、ノーラス城砦攻略の準備を整えつつあったゾディアック軍三万の頭上に飛来。悪魔の如くぼとぼとと降りしきり襲いかかって、敵本陣を阿鼻叫喚のぱんつ地獄へと陥れたのであった。


 ……ゾディアック軍、壊滅。


 後世にまで長く語り継がれることとなった伝説の一日――

 ノーラス城砦史上最大にして最悪の一日は、かくのごとき悲憤慷慨の幕切れと相成るのであった……。



 翌朝。

 乳白色に濡れた早朝の空気が、柔らかい日差しをふくんでしっとりと輝いている。森のこずえでたわむれる小鳥たちの声も常と変わらず愛らしい。

 昨夜の戦闘で疲れ果てた兵もいまはノーラス城砦に戻って十分な休息を取っていることだろう。

 そして、ニコルは――


「ない、やっぱりない。どこ行ったんだろ」

 押しつぶされたジャングルの残骸が無惨にちらばる大会議室で、ゴミの山に手を突っ込んではコレも違うアレも違うと後ろにぽいぽい放り投げつつ何やら悩ましげに探し回っている。

「ああ、どうしよう」

「閣下」

 背後にするどい軍靴の響きが迫った。

「うわっ何」

 ニコルは大仰に驚いてしりもちをついた。おそるおそる振り返る。靴音の主はやはりザフエルだった。

「ざ、ザフエルさんか。何か御用ですか」

「御用と言われましても」

 ザフエルは疲れを見せぬ目を底光らせ、ニコルを見下ろした。

「戦果のご報告にあがりました」

「あ、ああ」

 

 昨夜叱ったことのしこりはもう心にないらしい。ニコルはひそかに胸をなで下ろし、ちんまりと床に正座した。膝に手を置いてザフエルを見上げる。

「あの後どうなりました」

 ザフエルは手にした書類止めにちらりと目を落とす。

「敵橋頭堡は陥落炎上。ゾディアック軍本隊も一日歩後方へ撤退した由」

「お疲れ様でした」

 ニコルは馬鹿丁寧にぺこりと頭を下げた。

「じゃあ追撃はしなかったんですね」

「ノーラス方面からの渡河は敵防衛網の真正面にあたるため深追は危険と判断しました」

「妥当ですね」

「現在もまだ工兵隊による接収作業中ですが、おおよその報告によりますと、ろ獲した敵砲数はターレン型を含めて十門、軍旗十五本、それと逃げ遅れたゾディアック兵を九百名ちかく捕虜とし衣服上下を支給したのち後方の収容所へ送検する予定です。なお、当方の被害はきわめて軽微につき引き続き軍務遂行して支障ありません」

 それを聞いてニコルは今度こそほっと安堵のためいきをつき、ザフエルの労をねぎらった。

「よかった、これで一安心だね。ホーラダイン中将、ご苦労様でした。お手柄でしたね」

「いえ、閣下の機転あらばこそです」

「あとで怪我した人のお見舞いに行きましょう。ザフエルさんも昨日一晩の強行軍でお疲れでしょうけど同行よろしくです」

「お供仕ります」

「あ!」

 そこでニコルは顔をかがやかせ、ぽんと手を打ち合わせた。

「素晴らしいこと思いつきました」

 ザフエルはいかにも興味なさそうに眉をつりあげる。

「何です」

 ニコルは両手をいっぱいに広げてみせた。

「これぐらい大きなばけつにですね、スライムをいっぱい培養していざってときにこう、どばあっと」

「そこまで脱げと仰有るなら今すぐにでも」

 ばけつをひっくり返す仕草のままぴきんと凍りつくニコルを尻目にザフエルは冷ややかに背を向け、マル秘メモを引っ張り出した。

「可愛い顔して案外えっちですな」

 聞こえよがしにぶつぶつ言いながら書き込んでいる。

「……だっ誰が!」

「閣下が」

「違います!」

 ニコルは顔を真っ赤にし、あわてて話題をそらしにかかった。

「そっそんなことどうでもいいです! それよりチェシーさんは」

「つい先程帰城のようでしたが」

 ささっとメモをしまいながらザフエルは端的に答えた。

「彼奴の供述によりますと昨日夕刻、ゾディアック軍による砲撃が始まると同時に騎兵五十を率いて出撃、兵站線上にて遭遇した敵猟騎兵三個中隊すべて撃破、第一および第二師団への補給路を一応は確保したとのこと」

 ニコルは驚いて目をぱちくりとさせた。

「つまり抜け駆けしたってこと!?」

「重罪ですな」

「まったく勝手なことを。運良く撃破できたからいいようなものの」

 ニコルはすっかり呆れはてて再び捜し物に没頭しようとしたが、ふと肝心なことを聞き忘れたと気付いて顔を上げた。

「で、今どこに」

 返事がない。

 あわてて振り返ると、なぜかそそくさと立ち去るザフエルの後ろ姿が見えた。

「ちょっと待って」

 ザフエルはぴたりと立ち止まった。

「何か」

「何かじゃなくて」

 ニコルはじろりとザフエルを睨む。

「まだ話終わってないですけど」

 一方ザフエルは何処吹く風だ。

「はて」

「はてじゃないです。チェシーさんはどこですか」

 ザフエルはあきらめたようにやや肩をすくめた。しらじらしく目を伏せ、つまらなそうに言う。

「軍法会議に備えて地下牢に拘留中ですが」


 ……やっぱり。


 ニコルはげっそりとやつれた目でザフエルを見返した。

「今すぐ釈放してください」

 ザフエルは気むずかしげに腕を組み、あごに指をそえて唸った。

「残念ですな。せっかくアレを使う良い機会でしたのに」

「アレって何」

「……」

 ザフエルは耐え難い間をおいてから、ちらっと天井など見たりしてそらとぼけた。

「いえ、別に」

「はっきり言って下さい」

「拷問部屋」


 ――な、なぁにぃぃぃぃーーっ!!


 ニコルは真っ青になってザフエルの腕をつかんだ。ゆさゆさと強く揺すぶる。

「な何言ってるんですそんな非人道的な」

「大袈裟ですな」

 ザフエルはふっと鼻先でニコルの動揺をあしらい、手をつめたく払いのけた。

「少々拷問したところで、あれほどの男ならばどうということもないはず」

「少しも何もそもそもそういうことは!」

「何を仰有います。個人的には」

 ザフエルは眼の奥を不気味に光らせた。

「大の男を切り刻むより、むしろ閣下のような美少年を責めさいなむ方がよほどぞくぞくとして興に乗れるのですが」


 …………い、今、何と。


「何事も経験ですぞ」

 ザフエルは一歩、足を踏み出した。捕まえようと差し伸べる手つきがすでに激しくあやしい。

「大丈夫です……痛くしませんから」


 ――な、ななななな……!!


 酸欠の金魚もかくやとばかりに声にもならない悲鳴をぱくぱくとあげ、なりふり構わぬ土砂降りの滝涙で撤退をこころみるニコルの敗走姿に、さすがのザフエルももののあはれを感じたらしい。後ろから襟を掴みつつごほんと咳払いして話を変える。

「ところで、こんなところで何をなさっておいでです」

 ニコルは目の幅涙で頬を濡らしつつめそめそとザフエルを見た。

「さっきの話題は」

「ご所望とあらば続けます」

 ニコルは首がもげそうなほどふるふる強く振った。

「けけけ結構です」

「それで、何か探しものでも」

 ザフエルはニコルが答えるのをじっと待っている。

 ニコルはぐすんとすすり上げ、涙を拭いた。いくら何でもこれは酷すぎる。さてはあの秘密――スライムに弱いという――を握ってしまったから口封じとして暗々裏に脅す気だろうか。そうだそうに違いないそうでなければいくら何でもこの不埒っぷりは……。

「べ、別にそのザフエルさんは気にしなくていいですから」

「そんなこと言われるとなおさら追求したくなりますが」

「い、い、いや、あの」

 気圧されて口ごもる。と、そのとき奇跡のように視界へ飛び込んでくるきらめきがあった。

 ニコルは歓声を上げてゴミの山に飛び込んだ。ずばばばと穴を掘って潜り込み手を突っ込んで一気に掴み出す。

「あった!」

 薄汚れた棒きれにも似たそれを服の裾でごしごしとぬぐう。途端に戻ってきためくるめく金色にニコルは顔をかがやかせ、喜びに声を弾ませて子どものようにはしゃいだ。

 それはザフエルの万年筆だった。

「今度こそ返せなかったらどんな目に遭わされるかと思って心配で心配でもう全然寝られなくて……ってうああなんだこりゃ!」

 ニコルは手の中の万年筆を見て衝撃のあまり愕然とよろめいた。ゴミの山にうずもれていたせいか、深い傷が何本も表面を走っている。

「あんなにきらきらして綺麗だったのに。どうしよう、ひどいことに……ああっ消えない」

 必死に息を吹きかけ袖口でこすってみるもののざっくり行ってしまったものはもうどうしようもない。

「ふむ」

 ザフエルはニコルの手から万年筆をかすめ取った。

「確かに私の物ですが、しかし」

 しばしそのなめらかな金の表面からのぞく深く黒い傷を見下ろしながら、何事か沈思している。

「すみません、もっと早くちゃんと返していればこんなことには」

 ニコルはザフエルの手に戻った万年筆を見つめていたが、ふと胸元の参謀飾緒に眼をやり、「……あ」と気の抜けた声をたてた。

 よくよく見れば、ザフエルが手にしている万年筆とまったく同形にして傷一つない新品がすでにぶら下がっているではないか。

 今の今まで、目の前にありながらまったく気付かなかったというあまりの間抜けさにニコルは思わずうろたえ、恥ずかしさのあまりみるみる赤く染まっていく頬を押さえた。

「も、もう新しいの持ってたんですね。やだなあ、だったら無理に探すことなかったかも……じゃなくて」

 とたんに向けられたするどい視線にぎくりとする。

「やっぱり弁償しなくちゃですよね……でも、その、今月はちょっとお小遣いが、ええと」

 困ったようなやるせないような追従笑いを浮かべ、大汗をかきかき下手な弁明を試みるも、あまりにしどろもどろで何を言いたいのか自分でもさっぱり分からない。

「すぐには払えないけど来月には、あの、必ず」

 もごもごと口の中で言い訳しつつ、ニコルはおそるおそるザフエルを見上げた。

「う」

 突きつけられた表情の冷ややかさにまたずきりと胸を痛くして落ち込み、ほろ苦くうなだれる。

 さっきから何をごまかしてばかりいるのだろう。こういうときは何よりもまず言わなければならないことがあるのではなかったか。

 ニコルはしゅんとして頭を下げた。

「……ごめんなさい。大事な万年筆を壊してしまいました」

 ザフエルは静かにニコルを見つめた。

「お気になさらず」

 言いながら何気ない仕草で飾緒についた万年筆をはずし、ニコルが差し出した傷だらけのペンと付け替える。

「あ……」

 ニコルは気後れした表情でかぶりを振った。

「無理に替えなくても、その」

「いえ」

 ザフエルは素知らぬ様子で肩をすくめる。

「こちらがいいのです」

「え」

「探して下さったそのお気持ちだけで」

 意外な言葉にニコルはなぜかうろたえ、小さくかぶりを振った。何だか急に気恥ずかしくなって鼻をくしゅっとこすり上げ、真っ赤な顔で眼をそらす。

「い、いや、何でしたらその、ええと、あわよくばもらっちゃおうかななんて、あはははは……じゃないけど……」

 ザフエルはぴしゃりと言った。

「却下」

「う」

「当然です」

「け、けち」

「望外ですな」

 そんないつも通りのお約束なやりとりが交わされた後。

 少々複雑な心境ながら、何はともあれほっと一安心して苦笑するニコルに、ザフエルはほんのわずか、彼にしては柔和すぎるまなざしを流し向けて、言った。

「ありがとうございます、閣下」


 なぜか、その横顔にどきりとする。


 言った端から仏頂面に戻ったザフエルの表情にはもう笑みのかけらもなく、相変わらず淡々として素っ気ない。

 だが、嬉しくなるにはそれで充分だった。



 しかしてその同時刻。


「理不尽だ。理不尽すぎるぞ! 早急にして公明正大な審議を要求する。聞いてるのかホーラダイン! 不当逮捕だと言っているだろう。早くここから出せ! ニコルも何やってるんだ、毎度毎度丸め込まれやがって! くそっ、貴様ら……覚えてろよーーー!」


 不気味に水滴がしたたり落ちる地下牢。

 わずかに揺れるランプの明かりを映し込んでとろりと光る鋼鉄の格子を前に、何重にも鎖で囚われたチェシーの悲痛な怒鳴り声だけがどこまでも、どこまでも空しく反響し続けていたという……。


【第5話 終】

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