第4話 レイディ・ニコラ、忘れ得ぬ夜に君と、偽りの愛を

■第4話 レイディ・ニコラ、忘れ得ぬ夜に君と、偽りの愛を

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第4話

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 ことん、また、ことん、と、天井に送風扇がまわっている。

 どこかの窓先に吊されてでもいるのか、白珊瑚のモールがからからと澄んだ音を鳴らす。壁一面のモザイク画には、イルカが躍りカモメが飛び、南国の花が咲き乱れて、まるでそこが海に続く薔薇窓でもあるかのようだ。

 たゆたうは花の香り、水の匂い。誰かが興に乗って弾かせているのか、十弦のタールに合わせて足踏みの鈴が舞い、シンバルを打ち、陽気な笛を吹く。


 海からの風が王宮に吹きわたる。


 海鳥が空に舞い上がるかのような白く長い回廊とアーチ、青い丸屋根、吹き抜けの塔。まるで地上に降りた雲の城にも似た、それはそれは優美な白亜の宮殿、人々の畏敬と感嘆を一身に集め築かれた――聖ティセニアの古都、イル・ハイラーム。

 その、一角で。


 忍びやかな紅の香がほんのりとかすむ。

「仕掛け損ねたか。まあよい、下がれ」

 疑り深い声は老人のものだが、己が身まで案じているようすではなかった。

「泳がせておくのも術であろう。いずれ分かる。急くこともない。切り札は未だ我が手の内にある」

 南の空は果てしなく暗い。夕立の予兆か。



 雨が降っている。横殴りの強い雨だ。

 道ばたで座り込み、ぶるぶると水をふるう野良犬に、頭から泥水がざばあっとかかる。その脇を四輪馬車が一気に駆け抜けた。犬はきゃん、と甲高く鳴きつつ、尻尾を巻いて逃げ出していく。

 がらがらとまわる轍の音だけが、さながら春雷のように響き渡る。

 チェシー・エルドレイ・サリスヴァールは荒々しく駆る馬車の御者席でずぶぬれになりながら、それでも背後の客車を心配そうにみやった。御者席の横に掛けた黒金のランプは火が消えるどころか中にたまった水があふれてこぼれだしている。

「道はこれでいいのか」

 怒鳴りつけるが返事はない。

「くそっ」

 苦々しく吐き捨てながらも、ただひたすらに教えられた通りを急ぐ。やがて下町を抜け、美しく整えられた庭園を思わせる野が広がるなか、丘陵へとつながる道があらわれた。相変わらず空は真っ暗で、昼なのか夕方なのかもよく分からない。

「すみません、あと少しです」

 馬車の中、ニコルが弱々しく身を起こす気配があってチェシーは振り返る。

「濡れるぞ」

「だって道が」

「分からなくても適当に行くさ」

 チェシーは少し安心したようすでかすかに笑い、濡れた顔を前に向き直らせて手綱をぴしりと振り鳴らした。石畳の隙間に車輪がはまって、とんでもなく跳ね上がる。

「ぐあっ」

 ずごん、どすん、ばたり。

 不穏な音とともにくぐもった悲鳴が聞こえ、そのまま不気味な無反応が続く。いつものニコルなら「痛い痛い痛い痛い痛い痛い!」ぐらいには大騒ぎしているはずだが……。

「おい」

 まだ返事がない。

「おい、ニコル」

 あまりに静かなのでチェシーは馬を急かす手をゆるめた。それで少しは振動がましになっただろうか。

「仕方ない……安らかに眠れ」

「誰が!」

 いきなり窓が開いてニコルが頭を突きだした。みるみるメガネが雨に濡れて真っ白にくもり、前髪までびしょぬれになって額に貼りつく。

「はうっ何も見えません」

「いいから病人は引っ込んでろ」

「……」

 ニコルはやや傷ついた顔をして窓を閉め、今度は御者席の真後ろ、チェシーのお尻近くから顔を出した。

 ごん、とまた馬車が跳ね上がる。

 とたん、ニコルは目の前の物体に顔を突っ込んだ。

「いやあああっお尻お尻いやあああっ」

「連呼するな。というか出すなそんなところから顔を」

「チェシーさんの馬鹿!」

「人の尻に顔突っ込んでおいて何だその言いぐさは」

「だだだ誰がいつどこでそんな真似を!」

 ちらっと振り向く。頬から耳の先まで一気に赤く染まり火照っている。どうやらかなり怒っているらしい。

「だいたいチェシーさんが……っ」

 鼻を押さえ、涙目でふがふがと抗議しかけたそのとき、突然道がするどく曲がった。振り回された馬車はぐらりと大きく斜め横に傾ぐ。浮いた片輪ががららら、と猛烈な勢いで空回っている。

「うわあーあーあーあーー!」

「おっとっと」

 ようやく曲がりきって着輪。馬車は暴れ馬のごとく跳ね上がる。このまま宇宙まで吹っ飛んでいきそうだ。

 客室の中でごろごろと転げ回る音がしている。

「災難だったな」

 チェシーは鼻の先で笑う。いつもながら、ニコルをからかうのはやたらと反応が大げさで面白い。


「も、もうだめです。チェシーさんの御する馬車の中でじっとしてろなんて無理というかむしろ全身打撲で病状悪化で死にそうです何とかなんないですか」

 ニコルはよろよろと起きあがり、懲りずにまた御者席近くの窓から顔を出して悲痛に訴えた。

「熱を出して倒れる君が悪い」

 チェシーは冷ややかにかつ速やかに訴えを却下する。

「だから治療しておくようにと言ったはずだ」

「ううくそ、見てろ。死んだら絶対化けて出てやる」

 ニコルは恨めしげに呪った。

「墓碑銘はこうですよ。『ニコル・ディス・アーテュラスここに眠る/チェシー運転の暴走棺桶に詰め込まれ/我が家を前に不運にも力つきる/友情の証、無数のたんこぶとともに』……」

「……生きながら本物の棺桶に突っ込まれたいか」

 しかしニコルはふと顔を上げ、激しい雨の彼方にけむる古い城館を指さして言った。

「あれが僕の家です」


 雨をはじき飛ばしてすべり込んだ車回しの奥は、古めかしいながらも壮麗な彫刻の扉になっていた。両側に火が燃えて、足下の階段をあかあかと照らし出している。

 ようやく止まる馬車の戸を、待ちかまえていた黒燕尾の執事がうやうやしく開けて一礼する。

 いや、するつもりだったのだろうが――そうする間もなく、止せばいいのにニコルがいきなり飛び降りた。


「お帰りなさいま……ぐえっ」

 執事の頭に強烈な肘の一撃。

「……あ」


 燕尾服の裾がひくひく痙攣している。執事は身をかがめたまま、頭をかかえ無言でうごめいた。

「ご、ごめん、セバスチャンさん」

 あわててニコルがのぞき込むと執事はようやく取り繕うすべを取り戻したか、むっつりと起きあがる。視線はやや上方、背筋はぴんとして威風堂々、もはや後頭部強打の痕跡はどこにもない。……さすがだ。

「私の名はオルブラントでございます、ニコルさま」

「えー、せっかくセバスチャンっていかにも執事らしい名前があるのに」

「オ・ル・ブ・ラ・ン・ト、でございます、ニコルさま」

「うっ……」

 こころなしか執事の顔がぐぐっと迫り、緊張の度合いを増して巨大化している。空気がやたら重い。まるで石のようだ。これは相当の頑固者らしい。いや、今のは絶対的にニコルが悪いのだが。

「お怪我をなさっておいでとのこと。どうぞ、こちらへ。同行の方も」

 執事は皺深い顔をしゅうう、としなびさせてチェシーを見やった。いかにも空を使った様子が失せ、代わりに内心をまるで伺わせない動作で慇懃に頭を下げる。

 存在を聞いていないわけでもあるまい。何か含むところがあるのだろう。チェシーはひそかに肩をすくめた。


「ニコル、ご苦労だったな」

 館に入ると、ちょうど正面の階段から、見事な刺繍をほどこした上着をゆったりとはおる恰幅の良い男が降りてくるところだった。

 隣に、春の花をふんだんに散らしたオリーブ色のローブをたっぷりと床に引きずり、手に白い扇子を持った女性を付き添わせている。三角帽子のように高く結い上げた金髪の先に、黒地に花柄のレース帯を巻き付け腰の辺りまでくるくるとカールさせなびかせた様はまるで別注のかつらのようだ。

「義父上、義母上、ニコル・ディス・アーテュラスただいま帰参仕りました」

 ニコルは胸に拳を当てて敬礼する。男はうなずくものの、一見してひどい負傷と見抜いたか、すぐにいかめしい顔に変わって執事を呼び寄せた。

「ご苦労だった。すぐ休みなさい。あとのことは私にまかせて」

「まあ、ニコルさんの足が足が貴方とんでもなく大変ですわ……あああ」

 女性はニコルの足に巻かれた包帯を見てふらふらと顔色を失い、階段の手すりを掴んで顔を扇子で覆った。

「すごく痛いんじゃありませんこと」

「大したことありませんよ、母上。それより」

 ニコルは苦笑して母親をぎゅっと抱きしめてからその扇子をひょいと引き抜いて耳にくちびるを寄せ、ひそひそと何かをささやき入れた。

「ええ、ええ、分かってますわ。いじわるね」

 母親がおっとりと優しそうな青い瞳をまるく見開いて不満そうに言いかけるのを、黒燕尾の執事が慇懃に遮る。

「ではニコルさま、お部屋へどうぞ。医者を呼んでございます」

「うん」

 ニコルはうなずき、階段を二、三段上がってからチェシーを振り返った。チェシーの立つ位置から見上げると、ちょうどニコルの背後に踊り場があって、その壁に巨大な肖像画がかけられている。

 母と赤子。背景は深紅のベルベットクッションを積み上げたソファ。ローゼンクロイツを象徴する色でもある。光と影の落とすやわらかな表情が、母親の背後から十字の陽の光のようにさして、膝に眠る赤子の上にほんのりと淡くかげりおちている。

「絶対待っててくださいよチェシーさん。僕も行きますからね、査問会」

 どこか不安そうに言う。チェシーは眉をひそめた。

「無理するなよ」

「ニコルさん、私にも付き添わせて下さいましな。いろいろお話ししとうございます」

 レディ・アーテュラスがレースの手をさしのべる。ニコルはその手を優しげにとりながらもやれやれといったようすでチェシーに肩をすくめてみせた。

「はい母上。どうぞ、お手を」

 チェシーはうなずいてニコルがレディ・アーテュラスと並び階段を上っていくのを見送った。

 いつもなら――こう考えるのは何度目だろうか――ぎゃあぎゃあ大騒ぎしながら階段を駆けのぼっていきそうなものだが、今のニコルは見上げている者たちに不調を悟られまいと、必死で手すりで身体を支えているように見える。

「貴官がゾディアック第四師団のサリスヴァール上級大将か」

 ニコルの父、つまり聖ティセニアの内務卿であるアーテュラスは、やや心配そうな眼差しでニコルを見やりながらさりげなく声を発した。

「自分はすでにゾディアック軍籍を剥奪されております」

 目の前に立つ初老の男を、チェシーは身じろぎもせずまっすぐ見つめ返す。

 アーテュラス卿はやや黒髪の混じる灰色の髪、灰色の目の持ち主だ。一目見れば分かることだが、両親のどちらもニコルと似ていない。母親の顔立ちはやや似ているように思えないでもないが、それでも印象がまるで違う。

「そうだったな」

「申し訳ございません。自分の力が及ばぬばかりに師団長閣下には無用の怪我をおわせるようなことになり」

「いや」

 アーテュラスはかぶりを振った。

「むしろよくあれを守ってくれた。礼を言う」

「恐縮です」

「貴官の名は諸々な方面から各種聞き及んでおる」

 内務卿はそのときはじめて狡猾な笑みを浮かべたが、それは悪意をかけらも覗かせない、どこか愉快さをこらえきれずにいる表情だった。

「バラルデスが口惜しさのあまりあれこれと悪態をついていたからな。なに、かまうことはない。ところで貴官はシュゼルム殿下と前々からの知り合いか」

「いえ」

 チェシーは用心深く否定した。ゾディアック王族の中には、ティセニア公子シュゼルムとひそかに親交を結ぶ者もいると聞く。当のシュゼルムはサリスヴァールの家になど見向きもしなかったようだが。

「ご高名はかねがね伺っております」

「なかなか気前のおよろしい方だからな。社交的で」

 アーテュラスは皮肉を言い、表情をひきしめた。

「それより午後の査問はいかがされる。もし体の不調が残るようであれば後日延期を願い出てもよいと思うが。バラルデスは早々の決着を付けたがっているようでもあるし、何やら思うところがあるのやもしれぬ」

「師団長閣下のお加減次第かと存じます」

「ニコルは休ませる。あれに無理はさせられぬ」

 内務卿は明かり取りの天窓を叩く強い雨を見上げる。まるで悪天候を歓迎しているかのようだった。

「ほかの用事もあると妻が申していたことだし」

「ならば予定通りにお願いしたく」

 チェシーは自身の胸に手を当てた。傷つき汚れているゾディアックの軍装を示してみせる。

「いつまでも肩身の狭いゾディアックの赤と黒に袖を通していては我が身のあかしを立てることもままなりませんゆえ」

「よい心がけだ。貴官が極めて優秀な軍人であったことは衆目の一致するところだ。バラルデスにもその旨伝えておく」

 チェシーは「光栄に存じます、閣下」と心ない言葉だけをかえす。

「気に病むことはないぞ。貴官のことはニコルから書簡をもらっておる。いつもの調子でくどくどと長たらしく書いておったよ。よほど貴官を信用しているようだ。困った息子よ」

 語尾に苦笑が混じって聞こえる。どこかに嘘があるのか、信じているようないないような口振りだ。

 内務卿は豊かなガウンをひるがえし立ち去ろうという仕草を見せた。

「夕刻までまだ間がある。身なりを整えられてゆくがよい。私は枢密院へ戻る。ニコルのこと、くれぐれも頼む」

「重ね重ねの御配慮痛み入ります」

 チェシーの敬礼を見ることなくアーテュラスは急ぎ去った。



「どうしましょう。熱が一〇五度もあるみたいなんです」

 ニコルは額に冷たいタオルを乗せ、口に体温計をくわえさせられた情けない顔でベッドに入っていた。喋るたびに体温計の先がぴよぴよと左右に動く。

「ちゃんと薬は飲んだのか」

 枕元のテーブルには、飲みかけで放置してあるらしい水の入ったグラスと、いかにも苦そうな色の丸薬がひとつふたつ、白い皿の上にころんと残されている。

 チェシーは脇の椅子をつかみ引き寄せながら腰を下ろした。窮屈に足を組んで、背にもたれかかる。

「ええ、飲みましたというか飲まされたというか。でもこんなに熱があるなんてぜんぜん気付かなくて。それよりどうしたんだろさっきから何だか妙に眠い……」

 ニコルは手で口を覆って、ふあああ、と力ない生あくびをもらした。まったく重病人らしからぬ態度だ。

「そこはかとない陰謀の臭いがするな」

 チェシーは、部屋に入ろうとしたときにちょうどすれ違ったニコルの母を思いだして苦笑した。

 そういう大胆なことをする女性には見えないが、人は見かけによらない、ということなのだろう。しかし微笑ましい陰謀ではある。そのたくらみならば加担してもよい、と誰しもが思うような。

「陰謀?」

 ニコルはきょとんとして首をもたげた。タオルが鼻の上にずりおちる。

「気にしなくていい。独り言だ」

「ふうん」

 これでごまかせるのだからのんきなものだ。チェシーはさりげなく話をすり替えた。

「治りそうになければ査問会は出なくていいらしいぞ」

「え、だめですよおひとりでなんて。どうせバラルデス卿がちょっかいを……」

「名にしおうタカ派だな。よほど私の存在を前例として認めたくないらしい」

「え、何かあったんですか」

「さあな」

 チェシーはしらじらしくとぼけて視線をはずす。

「ま、何とかするさ」

 ニコルはついうとうとしてしまいそうになるのをぶんぶんと振り払うような仕草で遮りながら言った。

「だったら尚更です。根性で熱下げますからもうちょっと待っててください」

「下がるわけないだろう」

「いや分かりませんよ。もしかしたら一気にどーんと景気良く三十度ぐらい下がってるかも」

「景気は良くても縁起は悪そうだな」

「うっ……確かに」

 ニコルは片手を伸ばしてテーブルからメガネをとり、一方の手で体温計をつまんで、目を真ん中に寄せ、ためつすがめつしながら目盛りを読んだ。

「……え」

 どうやら心外だったらしい。ごしごしと目をこすり、次いで気の抜けたあくびをし、再度確認。水銀の目盛りは百十五をさしたまま、完全に振り切れている。

「ひゃ、百十五度!?」

 ちなみにC=(5/9)*(F-32)ということで興味のある方は計算されてみるとよい。ここまでくればもはやユデダコ、人間の体温ではない。

「こりゃだめだな。さて、私は先に失礼するとしよう」

 さすがに仕掛けがバレる頃合いと見て、チェシーは早々に退散すべく腰をあげかけた。

「さ、さては何か……あっ分かったぞふああああ、みんなグルだったんですねふあああ。チェシーさんまで何で、ふわわああ」

「言っておくが私は無実だ」

 ニコルは重たげに下がってくるまぶたに逆らえず、あくびを連発させながら弱々しく抗議した。体温計とメガネを握ったままの両手をくたっと胸に重ねる。

「ひどい、一緒に行くって約束したじゃないれすか……」

 急に押し寄せてきたらしい睡魔に連れてゆかれつつ、半分泣きそうな声でつぶやいている。

「心配無用だ」

 チェシーはニコルの手から体温計とメガネをとりあげてテーブルに戻した。薄暗い笑みに陰りがさす。

「私には悪魔がついてる。それも極上の」

「みんなに分かってもらえるまで言わなくちゃ……どうせ決まってるんです、ノーラスは防衛の要だから……傭兵を入れるわけにはいかない、盤石の地盤でなければならないって」

 一瞬、チェシーの表情がはがれ落ち、仮面のような顔に取って代わった。ゆっくりと抑揚のない声でたずねる。

「私が地盤を割るくさびになるとでも」

 ニコルはぼんやりとかすんだ目を開く。微熱のせいか、うつろな眼差しがとろんとした艶色を帯びて見えた。

「信じる理由なんて……ないけど……でも信じたっていいじゃないですか」

「その気持ちだけで十分だ。あとは任せておとなしく寝てろ」

 チェシーはすっと手を伸ばし、ニコルの額のタオルを目の上にまで引き下げた。表情の半分が隠れる。ニコルはわずかに首をよじって抗った。

「いやだぜったいねない……」

 まるで子供だ。チェシーは自嘲気味に低く笑う。その気になればニコルを騙すことなど赤子の手をひねるより簡単だろう。

 もし内務卿の息子でなければ師団長に抜擢されることもなかったに違いない。参謀にザフエル・フォン・ホーラダインを就けたのは、信用できない七光り登用人事への抵抗と見るべきか。

 いや、そうではない。

 チェシーはくちびるをぐいとひきしめる。

 それだけの理由で元帥を拝命し防衛の要たる師団を預かるなどあり得ない。ティセニアにそれほどの余裕はないはずだ。ゾディアック軍が攻略に手間取っているのはノーラス城砦だけ。他方面は何万という死者の呪詛で満ちている――潮が満ちるように、波が引くように。土地を奪い、踏みにじり焼き払い憎み合い殺し合って――

 ひっかかる。何かが。ひりつくような何かが。


「君にだけは本当のことを言っておく」

 チェシーの表情に、もはやいつものふざけた笑いはない。鋭い眼――刃の切っ先にも似た眼光が宿って、ニコルを刺し殺すかのごとく見おろしている。

「私がゾディアックに弓を引くのは、それが祖国を守る最も正しい方法であると信じるからだ。これ以上、間違った道を進ませないために」

 聞こえているのかいないのか。ニコルは返事をしない。

 ごろんと背中を丸めて寝返りを打つ。またタオルが枕元に落ちた。くちびるがむにゃむにゃ動いている。あとはもう、ただの寝言だった。

「な、なにっ」

 チェシーは思わず拍子抜けして笑い、静かな眠りへと落ちていくニコルをおいて立ち上がった。

「ちゃんと最後まで聞けよ。人が珍しくシリアスな台詞で決めてやったというのに」

 続けて何か言いかけ、思い直したように口をつぐみ、肩をすくめる。その表情にはもうさきほどの殺伐とした様子はない。

 チェシーは窓に近づき、半分閉じたカーテンを指先でちらりと開けて、暗い緑にけむる外の景色をみやった。ぽつりとつぶやく。

「私は君の信頼に足るほど――誠実な人間ではないよ」


 雨はまだ、止みそうにない。



「ねっねっ寝過ごし……わーーーーっ今何時! ……夕方ああっ!?」

 ニコルは悲鳴に近い大声を上げて飛び起きた。額に乗っていたタオルがどこかに吹っ飛んでいくのも気が付かない。

 レース越しの窓から朱色の光が斜めに差し込んでいる。雨はどうやらすっかり上がったらしく、部屋の中までまぶしく感じるほどだ。

 当然、チェシーの姿はどこにもない。

「うわっ、もう、どどどどうしようっ」

 シーツを足でけ飛ばし、ベッドから飛び降りてスリッパも履かず頭を抱え、その場でじたばたと足を踏みならす。どうやらすっかり元気になったらしい。よかったよかった……

「全然良くないっ! いや待て、動揺してもダメだ。こういうときは」

 頭の中に数限りなくしまってある遅刻の言い訳を一つ一つ引っぱり出して実演してみる。

「馬車が脱輪転覆して……だめだそんなことあるわけない! じゃあちょうど出かける前に靴の紐が切れて……うわあっ履き替えれば済むじゃないかっ! 本日はお日柄も悪く……ってそんなの会議に何の関係もないし!」

 騒ぎを聞きつけたのか、レディ・アーテュラスがおっとりとドアを開けて顔をのぞかせる。

「あらあら、どうなさったのニコルさん、ずいぶんお慌てになって」

「母さま、ひどいじゃないですか」

 ニコルは部屋に入ってきた義母を認めるなり詰め寄った。

「あんなに起こしてくださいってお願いしたのに」

「ごめんなさいね。あんまりすやすやと気持ちよさそうにしておいでだったから、つい」

 ふくよかなくちびるをいたずらっぽく扇子で隠し、全然違う方向をわざとらしく見上げながらオホホホ、と笑っている。ニコルはやられた、と思ったものの、それ以上怒るに怒れず、むうう、と口ごもった。

「でもね。これは旦那様のお言いつけでもあるのですよ」

「うぐあ、義父上まで」

 ニコルは頭を抱えた。

「今さらノコノコ行けるわけないし。いったいぜんたいどうすればいいんだ」

「それよりお願いがあるんだけれど、聞いて下さるかしら」

 レディ・アーテュラスはニコルの悩みにはまるで耳を貸さず、逆にふわふわと甘ったるい生クリームのような微笑を浮かべて言った。

「ママとサロンに行って下さらない?」


 ……。

 …………。


「……え゛っ」


 ようやく吹っ飛んでいた意識が戻ってきて、ニコルは絶句する。サロンって、何でまたいきなりそんな突飛なものが……いや、そういう社交場に出入りするのはやぶさかでないが、知的かつ優雅な芸術の殿堂であるべきサロンへ、無骨な軍人――無骨という表現から最も縁遠い場所にいるであろうことは、おそらくニコルを知る全員が雁首揃えてカクカクうなずくと思うが――それも対外的には息子を同伴してゆくというのは、あまりにも内務卿夫人として似つかわしくない行為だ。

「ぼ、僕とですか」

「ううん、ニコルさんとではなくてね」

 レディ・アーテュラスはころころと鈴を振るような声で笑う。

「”ニコラさん”と行きたいの」

「な……」

 その致命的な一言に、ニコルは石化状態におちいった。い、いくらなんでもそれは。

「ね、ね、ママ一生のお願い」

 レディ・アーテュラスは両手をもみ合わせしなをつくりつつ、大きな水色の瞳をきらきらうるうるさせてニコルをのぞき込んだ。

「せっかくのお年頃なのに、ちやほやされる喜びを一度も味わうことなく過ごしてしまうなんてあんまりでしょ。少女といえば恋、恋といえば乙女。恋は少女を夢みる乙女に、そして愛は少女を大胆な女に――ではなくって」

 レディ・アーテュラスはごほごほと咳をしてごまかす。

「一度でいいからママと一緒にサロンに行ってくれれば。ニコルさんは可愛いから女装したらきっと綺麗だと思うのね。だからお願い」

「あ、あのっ」


 一気にまくし立てられてニコルはたじたじとする。レディ・アーテュラスは、普段は楚々としたレディだが本当はこういう人だ。サロンではたいてい人の輪の中心に陣取り、大輪の花のように良くしゃべりかつ良く笑い転げている。最も声楽家に近い貴婦人だと評されることもあると聞く。それはいい。全然かまわないのだが。


 女装って……。


 ずーんと落ち込むニコルの様子から、レディ・アーテュラスも失言に気付いたらしい。いかにも取りつくろうかのように、よしよしと扇子でニコルの頭を撫でて言う。

「あらま、いやだわ私としたことが。ごめんなさいねニコルさんそう言えばそうだったかしらおほほほほ」

 そもそも女であることを伏せて育てられたのだからやむを得ないとはいえ、ニコルはがくりと肩を落とし、頭を抱える。いくらなんでも、こうまで見事に忘れられてはさすがに立場というものが……。

「い、いや、だめです」

 ニコルははっと我に返って拒否した。

「もしそんなことしてチェシーさんに見つかったら」

 それこそ何を言われるやら知れたものではない。これだけは安易に想像がつく。どうせ言いたい放題好き放題、毒舌をまき散らすに決まっているのだ。ザフエル作マル秘怪文書も同様だ。これでもか!とばかりにデカデカと派手な大見出しが踊ることになるだろう――ニコル司令ご乱心、公務出張先で乱痴気女装パーティ!?――とか。


 そんなの、イヤ過ぎる……!


「大丈夫」

 妙な確信と断言をもってレディ・アーテュラスは決めつける。

「念入りにお化粧してカツラ被れば案外分からないものよ。それに殿方ってね、どうしようもなくそういうことには疎いものなの。パパなんてお化粧変えても髪型変えても全然気付いても下さらないのよ。んもうくやしいったら」

「あ、あの、いや、でも、絶対ムリです」

 あたふたとしかけるニコルの様子を見て、レディ・アーテュラスはふと優しく手を取ると、柔らかな仕草でぎゅっと握りしめた。

「本当は怪我のこと、心配で心配でたまらなくて。何かで気を紛らわせていないと、とてもじっとしていられなかったの。ごめんなさいね」

「いえ……すみません。僕のほうこそいつも母さまにご心配ばかりおかけして」

「ううん」

 レディ・アーテュラスはかぶりを振る。

「ニコルさんの力になってあげられないママの無力さが悲しいだけ。でもね。たとえこれが貴女の運命だとしても、一度ぐらいは神様に逆らってみてもいいんじゃないかしら。貴女が貴女であること、今は偽っていても、いつか他の誰でもない本当の貴女でいられるようになること。それだけがママと、」

 レディ・アーテュラスは言葉を区切り、ためらって目を伏せる。ニコルは小さく頷いた。レディ・アーテュラスはゆっくりと顔を上げて、続けた。

「シスター・レイリカの――貴女の本当のお母さんの、ただ一つの望みでしたから」

「母さま」

 切ない響きを込めて告げられる言葉に、ニコルは思わずじわりと目に涙をうかべ、あわてて指の背でぬぐう。

「僕は……」 

「あらあら、うさぎさんね」

 レディ・アーテュラスはレースの花柄ハンカチをとりだしてニコルの目元を押さえた。

「いけないわ。ねえ、今からドレスを選びましょ。ニコルさんが帰ってくるって聞いてママがんばって可愛いドレスいっぱい持ってきたから。きっとどれもよくお似合いだと思うの」

「な……ななななんですと」

 ニコルは口をポカンと開けてレディ・アーテュラスを見返す。

 まさか、最初からそのつもりで……いやそんな大胆不敵なことがあるわけがない査問会と言えば任意とは言え軍事法廷に次ぐ強制力を持つ軍の処分決定委員会のようなものでそれをたとえ内務卿夫人とはいえ文民の一女性が勝手にサロン連れ出し目的で欠席させるなどあってよいはずが――

「じゃ、準備してくるわね。やだもうどれがいいかしら。今から楽しみで楽しみで、ほんとにどうしましょわたくしったらどきどきしちゃう、ウフ」

 レディ・アーテュラスはまるで新しい着せ替え人形を手に入れた少女のごとく大はしゃぎしながら去っていく。


 ……思い切りその気だ!


 あとにはただぽつねんと、真っ白に石化したニコルが立ちつくすのみ、であった……。



 ニコルは呆然と鏡の前に突っ立っている。おそらくレディ・アーテュラスが連れてきたのであろう見知らぬ侍女たちが、目にもとまらぬ手際良さで文字通りニコルを別人に塗り替えてしまったのだ。

 鏡に映る自分の姿に、先ほどからひきつった笑いが止まらない。

「あ、あははは……」


 だ、誰だこいつは。


 思わず自分でツッコミを入れたくなるような姿だった。まるでデピュタントを思わせる楚々とした純白のドレス、結い上げた髪に挿した淡い花綱、なよやかな月の青を思わせる透き通ったスカーフに大粒の真珠と銀のリング。

 うっすらと化粧したおもてはほのかに色づいて、紅をさしたくちびるはまるでみずみずしく光る果物のよう。

 それはさておき。

「か、か、母さま」

 ニコルは泣きそうな目でレディ・アーテュラスを見つめる。

「こ、こんな踵の高い靴履いたら一歩も動けません」

 とりあえず着てみたローブの裾をたくし上げて、情けなくへこへこ震える膝を露呈させる。履いているのはまるでつま先立ちのようなピンヒールだ。

 ほっそりと若竹のごとく伸びた膝下を半透明なタイツがつつんで、はりつめた中性的ななめらかさを醸し出している。スカートの下はすでにフリルペチコートでうずめつくされているが、それだけは絶対嫌だと拒否した、腰をちょんぎれそうに締め付けるコルセットはない。だいたいニコルの体形にコルセットをつけたところで何か少しでも女性らしさが増すかと言えばそんなものまったく期待できな(以下自主規制)。

 それでもレディ・アーテュラスはニコルの頭のてっぺんから爪先までを一通り眺めてから、完璧な出来映えに満足してほほえんだ。

「本当に素敵だわ。良くお似合いよ、”ニコラ”さん。さ、参りましょ」

「と、とてもそうは思えないんですけど」

 足に根が生えたかのような、これっぽちも動けない状態で、ニコルはぎごちなく硬直した声を返す。

「大丈夫よ」

「大丈夫じゃないですって……」

 というわけで。

 ニコルはなぜか初めての女装で、ロクに歩けもしないままいきなりサロンデビュー、と相成ったのであった。



 さて。

 ところでサロンとはいったいどういう場所なのであろうか。

 本来は、貴族や裕福な階級の夫人が日を定めて自宅の居間を開放し、同好の友人、あるいは芸術家を招いて、文学や芸術、学問その他洗練された文化全般について、自由に談話を楽しむ社交界の風習――であるらしい。

 しかしそんな解説はニコルにとってどうでもよかった。メガネを持ってこなかったせいもあって、ここが誰の、そして何のサロンなのかもさっぱり分からない。

 何もかもが信じられないほどきらびやかで気取っていて、まるで鏡の向こう側に広がる異世界のようだ。

 仮面舞踏会でしか見たことのないような奇抜なヘアスタイルの――ソフトクリーム状だったり、頭のてっぺんに宮殿の模型が乗っていたり、あるいはきらきらピカピカふわふわした金魚、クラゲ、グンカン鳥、はてはヤシの木の群生みたいなのを生やした――貴婦人や令嬢たちがオホホホウフフフアハハハ……とまるで水の底から聞こえてくるようなあやしい笑いを混声合唱のようにかさね広げては、右に左にうようよと群れて泳いでいる。

 貴婦人たちの波にときどき浮かび上がる正装の男性陣は、さながら獲物を狙うシャチといったところだろうか。

「め、眩暈がします」

「大丈夫。黙って笑ってるだけでいいの。ほら」

 レディ・アーテュラスは楽しそうに笑いさざめいて、すれ違う貴婦人に会釈などしている。

「レディ・バラルデス、ご機嫌うるわしゅう。お招き下さって光栄ですわ」

「ご機嫌麗しゅう、レディ・アーテュラス。とても素敵なお嬢様とご一緒ね」

 ニコルは言われたとおり黙ってニコニコ笑ってみた。

「レイディ・キーリアのお美しさには叶いませんわ」

 ……あっち向いてニコニコ。

「んまあ、それほどでもありませんでしょう」

 ……こっち向いてニコニコ。

「いえいえティセニア一の才女と誉れ高いキーリアさまのこと、さぞやお鼻も高うございましょう」

 ……どっち向いてもニコニコ。

「おほほほそうかしらやっぱりそうお思いになりますわよねおほほほホホホ」

 そして延々と続くオホホホとウフフフの波状攻撃。


 ダメだ……ついていけない……。


 ニコルはぐったりと幽体離脱しかけた意識のまま口をポカン、目をうつろに泳がせてしまって、いやいや、それではあまりにも不審きわまりないと気づき、とりあえず気持ちだけ頭をぶんぶんと振って周囲をみやった。

 どうやら音楽家を呼んであるらしく、部屋の中程には真っ白なピアノ。すでに華奢な背格好のピアニストが腰を下ろして、繊細な指使いでゆったりとした夜想曲を弾いている。ピアノのまわりにはいくつかの椅子、譜面台などが置かれてあって、さては弦楽四重奏でも聴きながら恋愛詩を詠ませ、うっとりしたところをあわよくばムフフ――いやいや何でもございません――などという趣向への期待を否が応でもかき立ててやまない。

 だが、それらが目に付いたのは音楽のせいではなかった。

 ピアノの回りに、ひときわ大きな貴婦人たちの取り巻きができている。女性たちが向ける熱い視線の先、勢い込んで弾むおしゃべり、それらからするとどうやらピアニストを囲んでいるわけではなさそうだ。

 輪の中心にいるのは――

 残念ながら、さっぱり見えない。

 なるべく目立たないよう、壁の花に徹しつつ目を凝らす。メガネを持ってくればよかったのだが、それだけはダメよ、とレディ・アーテュラスに釘を差されていたのでしかたなくうーんとばかりにしかつめらしく手にした扇に隠れて様子を探ってみる。

 よく見えないが、どうやら取り巻かれているのは男性二人のようだった。一人は茶色の巻き毛、もう一人はずいぶん背の高い軍人のようだ。両方とも背中しか見えない。

 もっとも、たとえ顔が見えたとしてもどうせ目と鼻の区別もつかないのだが。

「あらま、シュゼルム殿下がお見えのようね。どういう風の吹き回しかしら」

 レディ・アーテュラスが戻ってきて、グラスに入ったシェルピンクの飲み物を差し出した。

「えっ」

 ニコルはつい驚きの声をあげ、しまったとばかりに白い手袋をはめた手で口を押さえる。声が届いたのか、取り巻きの数人がきょとんとしたようすで周りを見回すのが見えた。

 あわてて目をそらし、レディ・アーテュラスにひそひそとささやき返す。

「ま、まずいですそれは。僕、殿下には何度かお逢いしたことが」

「大丈夫よ大丈夫。ま、一杯くわーーっといきなさい」

 レディ・アーテュラスの目尻はすでにほのあかく染まって、官能的なブランディの香りを漂わせている。ついでにろれつも少々あやしい。

「そ、そうじゃなくって母さま、あのっ」

 ニコルがあたふたと呼びかけると、レディ・アーテュラスは袖にするかのようにくなくなと微笑んで、それからいきなりくいっとグラスを空けた。

「はふん」

 甘い吐息が洩れる。

「ああんニコラさん、おねえさまと呼んでくださらなくちゃ、イ・ヤ」


 ……完璧できあがっちゃってるではないか!


「あら」

 しかし、ふと空を見上げて虹を見つけたかのような、そんなうららかな仕草でレディ・アーテュラスは振り返った。

 取り巻きの輪が崩れている。先ほどまで中心にいた礼装の軍人が、きゃあっと群がる貴婦人たちに微笑みを配りながら歩み出てくるのが見えた。

 まるで色とりどりのキャンディが入った瓶を倒してしまったかのようだった。あるいは無数のビー玉を床に落としたかのよう。軍人が輪を離れるに従ってさんざめきとためいき、嬌声がない交ぜになって波紋のように広がっていく。

「まあ」

 少し酔いが醒めたのかもしれない。レディ・アーテュラスの声が変わった。

「どうしましょ」

「……え?」

 ニコルはきょとんとして、近づいてくる軍人を見つめる。

 不思議な感じがした。こんな背格好の将校がティセニアにいただろうか。

 びっくりするほど背が高くて、髪の色は淡い金色。金刺繍の縁取りも眩しい純白の聖騎士礼装に身を包んでいて、襟に入れたスカーフと腰にしめたサッシュは輝きを帯びた青。

 軍服の形からするとティセニアの上級士官であることは間違いなさそうだが――相変わらず顔だけはボンヤリとしてさっぱり分からない。

「あ、あの、何か」

 ニコルは後ずさろうとして、壁にこつん、と踵を当ててしまい、思わずおびえて手をかきあわせ、立ちつくした。

 将校が気遣ったようすで立ち止まる。それでもまだ、誰なのか分からない。

 ニコルはどうしたらいいのかすっかり弱り果ててしまって、おろおろとレディ・アーテュラスへ救いを求める目を向けた。

「先程は有り難うございました、レディ・アーテュラス」

 目の前の将校が場の雰囲気に合わせた軽やかな敬礼を行う。思わずいつもの癖で返礼しそうになり、ニコルはあわててくちびるをちいさく吸い込んだ。

 どうやら知り合いらしい。ここはひとまず知らんぷりを決め込むのがよさそうだ。

「サロンの雰囲気を楽しまれていらっしゃるようですわね」

 親しげにレディ・アーテュラスは挨拶を返す。

「ええ。とても楽しませていただいております」

「それにしてもずいぶんと女性の扱いに手慣れていらっしゃるのね」

「まさか。とんでもない。それはきっと南国の開放的な雰囲気が見せる蜃気楼でございましょう」

 将校が爽やかに笑う。

「私は生来の無調法者ですので」


 ――ちょ、ちょっと待て。


 突然だらだらと滝のように脂汗を流し始めるニコルの頭上で、とりとめのない会話だけがすり抜けていく。

「ところで査問会はいかがでしたの」

「おかげさまでつつがなく終えることができました。本日付けで、第五師団騎兵連隊に配属、階級は准将に任官と相成りました。内務卿閣下、師団長閣下には多分なるご配慮お力添えをいただき、心より感謝する次第であります」

 しかしニコルの頭の中はそれどころではない。こ、こ、この声は。まさか。いや、違う、違わない、どどどどどうしたらいいのか。いやいやそれより、いったいぜんたい何でまたこんな大変なことに。ちょっと、まずいやばいこれはあのっ――

 そんなことなど露とも知らず、レディ・アーテュラスは鈴を振るような微笑とともに、着任の祝辞を述べた。

「それは何よりでしたわね。おめでとうございます、サリスヴァール准将」


 ――え……そ、そんな……えええええーーーーっ!?


「な……」

 ――な、なんでチェシーさんが。


 ずざざざ。

 音を立てて血の気が引いていく。対処法を模索したくても脳が完全に現状を拒否しきっていて、何をどうすればいいのかさっぱり分からない。

 とりあえず風化寸前の化石にも似た微笑を浮かべてはみたものの、その仮面の下は汗だらだらの片頬ひくひく、頭の中はがちゃこんがちゃこん回転上下する蒸気クランクから洩れ出す噴気のごとく真っ白。

 息が詰まって、涙がでそうだった。

「な?」

 チェシーが小首を傾げてのぞき込む。思わず取り込まれそうになるほど、人なつこい笑顔だ。

 ニコルは悲鳴を上げかけ、ひゃああ、とばかりに身をちぢめる。頬を真っ赤にして、とにかく顔を伏せ必死にうつむいて。

 こんな状態でまともな受け答えなどできるわけが――

「もしかすると、私の名前を聞いて下さったのかな、可愛いレイディ」

 鼻持ちならない微笑を含んだ声でチェシーがたずねる。ニコルは泣きそうな状態でさらにいっそうぶるぶるとかぶりを振って、正視し難く目をつむった。


 ――な、名前なんて聞いてない!


「あの……いえっ……」

 おろおろ、もごもごと口ごもる。

「そんなに恥ずかしがらなくても」

 チェシーが苦笑しつつ言うと、レディ・アーテュラスは扇子を口元に当てて艶めかしく笑った。

「驚かれたでしょう」

「ええ」

 チェシーは微笑をくずさないまま、まだ、じいっとニコルを見つめている。というか見つめ過ぎだ。よほど疑われているのか、それとも――

「ニコルさんにそっくりと思われますでしょ?」

 ――うああああ。

 ぼん、と意識が吹っ飛ぶ。できることなら針で刺した風船のように、そのまま爆風に乗ってぴぅ~っとばかりにすっ飛んで消えてしまいたい……。

「ええ。本当に驚きました。まさかニコルが」

 チェシーはほんのわずか、いつもの皮肉っぽい片鱗を眼に宿らせて言い直した。

「師団長の悪戯かと思うところでした」

「あ、あのっ」

 ニコルはようやく我に返る。

 泡を食ってレディ・アーテュラスを見つめ、半ば涙目でじたばたと訴える。ヒールを履いてさえいなければその場でドレスを引っからげて、ずだだだとばかりに地団駄を踏んでいるところだ――踏めさえすればの話だが。

(だめ、だめです、母上それ以上言っちゃだめっっっっっ!)

 心からの悲痛な叫びもまるで馬耳東風、そよとも届いていない。レディ・アーテュラスは澄ましたようすで典雅に答えた。

「姉の娘の義理の兄の姪の従姉妹に当たるレイディ・ニコラと申しますの。ニコラさん、こちらはサリスヴァール准将。ニコルさんと同じ第五師団に所属していらっしゃるそうですの。どうぞご挨拶なさって」

「はっ、はい……あの……」

 動揺のあまり声がかすれて、まともに出ない。ニコルは小さく縮こまり、半分震えながら、ようやく蚊の泣くような一言を絞り出した。

「は、はじめまして……ニコラ、と申します」

 たったそれだけを言うのに、どきどき高鳴る心臓が今にも口から転げ出しそうだった。あんまり苦しすぎて涙がにじむ。もし気付かれたらと思うと礼儀作法も何もできなくなって、顔も上げられない。蛇に睨まれたカエルとはまさにこのことか。

「……」

 言い終えたあとの一瞬が、さながら永遠のように長く思える。どうしてすぐに返事してくれないのだろう。まさか――とか思いながら、おそるおそる上目遣いでそうっとチェシーを見上げると。

 微笑む眼と、ばっちり視線がぶつかった。

 思わず息をすすり込んでうつむく。本当に、悲鳴を上げられるものなら上げてしまいたかった。


 ――ああっ今のでバレた! 絶対ばれちゃった!


 堅く目をつぶって、頭の中でうんうんと泣きそうに唸る。こんな状況に陥るぐらいなら、あのまま百二十度でも百三十度でも熱があったほうがずっとましだ。

 顔全体が真っ赤に火照って。

 息はできないわ目はうるむわ、頭の中にいたってはぴーぴー沸騰しているかのようだ。

 まるで生き地獄だ。精神的に耐えきれない……!


「実はニコルさんの双子の妹にあたりますの」

 レディ・アーテュラスは素知らぬ顔でとぼけ続けている。

「二人に並ばれると私たちにも分からないときがあるほどですのよ」

「なるほど。しかし本当によく似て――レイディ」


 チェシーにそっと手を取られて、ニコルはふんぎゃああああ!、と心の中で悲鳴を上げた。一瞬、かるく握られる。手袋越しに、あたたかい体温が伝わった。

「チェシー・エルドレイ・サリスヴァールと申します。以後お見知り置きを、レイディ・ニコラ」

 低く優しい声色に、ついくらくらと引き込まれそうになる。思わず気がゆるんで、ぼうっとなりかけたそのとき。

 申し分のない騎士の作法に則って、チェシーはニコルの前に軽くひざまずいた。手を押しいだたくように包み込む。


 ――やっ……ちょ、ちょっと……っ。


 凍り付きかけたニコルの手の甲に。

 チェシーは気障ったらしいほどさりげなく柔らかなくちづけをおとした。


 ――き、きっ、キスっ…され……ああああ!


 あくまでもこの叫びは内心であって、声に出したわけではない。とはいえニコルの口から奇妙な煙状のエクトプラズムあたりが放心状態でだだもれしているのを、もしかしたら能力有る魔術師ならば仰天しつつ見上げたかもしれないが。

 半ば幽体離脱状態に陥りながら、ニコルはかろうじてぎくしゃくと応えた。

「あ、あのっ……こちらこそ……よろしくお願いいたします」

 みるみる声がしりすぼみに小さくなっていく。

「大丈夫だ、レイディ」

 チェシーはまるで励ますかのように耳元でくすりと笑った。やや口調がくだけ、いつもの感じに近い、ざっくばらんなものに変わっている。

「実は、こう見えて私もかなり緊張しているんだ。なにせ異邦人の新参者で、周りは気位の高い貴婦人ばかり。知り合いもいなくてどうしたものかと思案していたところだった」

 サロンの一段奥で、燕尾服を着た楽士たちが集まって調音を始めている。ゆるやかに重なる不均律な音色が逆に貴婦人たちの期待を呼び起こしたのか、皆が表情をかがやかせてその様子を見やった。

 やがて軽やかなワルツのメロディが試し弾きされはじめた。楽士たちはそれぞれに呼吸をあわせて和音を作り、音程を上げ下げしては気ままに練習を続ける。

 そうこうするうちにタール弾きが姿を現した。ぱらぱらと素朴な音色をつま弾きながら腰を下ろす。チェシーは微笑して振り返った。

「珍しい楽器だ。北では見ない」

「え……?」

 耳になじんだタールのゆるやかな響きをそう評されて、ニコルは急に胸の奥がちくりとするのを感じた。

 ティセニアに生まれ育つものなら知らぬはずもない楽器、タール。婚礼などの宴席では必ずタールの楽士が呼ばれるほどだ。

 そのせつなく震える弦のひびきをチェシーは知らない――つまりティセニア人ではなくゾディアック人だと言っている。

 祖国を棄て、ノーラスの森を越え、誰一人として知る人のないティセニアへやってきた『亡命者-エグザイル-』。

 それがどれほど孤独な行程か、今まで考えもしなかった。不埒極まる態度の端々にふと見せる寂しげな表情は、もしかしたらそのせいだったのか――などと、つい甘い気持ちでほだされかけたとき。

「レイディ・ニコラ」

「は、はいっ」

 突然呼ばれ、ニコルは思わずびくりと体をすくませた。急に胸がどきどきと脈打ちはじめる。その音をまさか聞かれやしないかとおびえた仕草で両手をむすび、胸の前にきゅっと重ね合わせてチェシーを見上げる。

「な、何でございましょう」

 チェシーはまた破顔した。

「もしかして私が怖いのかな。ゾディアック人だから」

「い、いえ」

 虚を突かれ、ニコルはどぎまぎと答える。

「そうか。ありがとう。もし君にまで嫌われたらどうしようかと思っていた」

 ニコルはうつむき、ちいさなかぶりを振る。

「そんなこと、ありません」

 胸の奥がずきりと痛む。そんなふうに思われるのも心外だ。嫌いだなんて――

「でもこれで安心して申し込める」

「え」

 とっさには意味が分からずニコルはきょとんとしてチェシーを見かえす。

「レイディ・ニコラ」

 チェシーは気持ちを切り替えるように微笑んで、白い手袋をはめた手をすっと差しのべた。

「出来うることならば最初の曲を、この私と踊っていただけませんでしょうか」


 …………(表現不可能)!!


「ぼ、ぼ、いえ、わ、わ、わた、わたくしは」

 みるみる体温急上昇、あごの先から耳のてっぺんまでかあっとばかりに真っ赤っ赤に染め上げて、ニコルは後ずさった。

「だ、ダンスはそのまったくというか、えとそのあの歩くことさえちょっとあの」

 チェシーは手を差し出し微笑んだまま、じっとニコルを見つめ答えを待っている。たたえられた優しい表情は、今までニコルに対して向けられていたような皮肉で意地悪でそれでいて気の置けない苦笑とはまるで違っていて。


 ピアノの奏でるワルツに、ゆったりと物静かなタールの調べが重なる。

 部屋の明かりがそれぞれ一つずつに落とされてゆくと、今までお喋りや笑い声の響いていたサロンは次第に穏やかな語らいとささやきの場へ変わっていく。ひっそりと寄り添う影がいくつも生まれ、見つめ合い微笑みあって、やがて――


 ニコルは呆然として、いくつもの光と影が生み出す恋の瞬間を見つめていた。

 ためいきがもれる。


 チェシーもまたしずかにささやいた。

「私もダンスは苦手だ。でも君となら踊れる気がする」

 手を取られ、ふわりと引き寄せられる。まるで雲の上を歩いているかのような――

 でも、そう思ったのは高揚した一瞬だけだった。

 すぐにニコルは後悔し始めた。踊れないのだ。ステップは間違うわ、他の人とぶつかるわ。そのたびに、穴が有れば入りたいぐらい恥ずかしくなって縮こまる。

 そうしているうちに誰かとぶつかりそうになって。

 ふいに、背後から聞こえよがしの悪口が聞こえた。

「何なのあの娘、ろくに踊れもしないくせに」

「サリスヴァールさまも、どうしてあんな小娘を」

 自分のせいでチェシーまでが悪口を言われている。ニコルははりさけそうな気持ちになってうつむき、ぎゅっとくちびるを噛んだ。

「ご、ごめんなさい。私、もう」

 こらえきれず逃げ出そうとしたニコルの手を、チェシーは引きとめた。

「待って」

 そのとき。

「お退き遊ばせ」

 わざとか否か、意地悪な嘲笑の視線とともに、ふいに近づいてきた貴婦人がどん、とばかりに背中からぶつかってきた。ニコルはちいさな悲鳴を上げかけた。不慣れなヒールの足をがくりとくじきかけ、身体がぐらりと傾く。

 不格好にしりもちをついてしまう、みんなに笑われて、馬鹿にされて、チェシーにまで恥をかかせてしまう……!


 ――と思ったはずが。

 とっさに差し伸べられたチェシーの腕に、ニコルはぐっと仰け反るような形で抱きかかえられていた。

「きゃ……!」

 そのまま高く抱き上げられ、くるくるとまわる。ドレスのすそがまるで流れる雲のように空を舞った。

「羽のように軽いね」

 チェシーはとん、とニコルを降ろした。いつの間にか、サロンのはずれ、月の光の射し込む窓際にいる。チェシーはにやりと笑って耳元にささやいた。

「このまま君を連れて逃げ出してしまおうか」

 ニコルが驚いた眼で見上げるとチェシーは微笑み返した。

「冗談だ。それよりここの空気は少し暑苦しくていけない。こちらへ」

 手を引かれ、小走りにベランダに出る。あれほど手こずっていた靴が軽く感じられる。まるで空を飛んでいるみたいだった。

 退屈な授業からこっそり抜け出す時のような、ほんのちょっぴりの後ろめたさと、それを補って余りある小気味よさ、何か物語を読んでわくわくするときの心浮き立つ高揚感を胸一杯に感じて、ニコルは思わずくすくすと笑った。

 藍色の空に細くかがやく三日月。眩しすぎない夜空に一面の星がきらめいて。

 ひんやりと涼しい。懐かしい海の香りがかすかに鼻をくすぐる。

「やっと笑ってくれたね」

 チェシーは悪戯っぽく笑って手を離す。

 純白の立ち姿が濃い灰色の闇に浮かび上がった。今まで取り合っていた手の感触を思い出して、ニコルは恥じらいに頬を染めた。

「あ、あの、そういうつもりでは」

「いや、責めてるんじゃない。思った通りだ。君には笑顔が似合う」

 チェシーは息を弾ませて笑うと、後ろ手にぱたりと窓を閉めた。


 今までの喧噪がまるで嘘のような――

 静かな風が頬を撫でていく。穏やかな月に照らされた庭園の泉を雲の影が横切って、さざ波立つ水面を一瞬、けざやかな黒と銀に染め変えて。

 静かで、とても綺麗な夜。

 ニコルはショールを胸元でおさえた。軽さのあまり悪戯な風にとられ舞い上がって、どこか遠くまで飛ばされてしまいそうだった。


「ふう。涼しいな。それに静かだ。音楽も聞こえないし」

 そんなことには思いもよらないのか、チェシーは青いスカーフを入れた襟元をゆすってかるくゆるめた。中空に丸く突き出す、こぢんまりとしたベランダの手すりに肘をつき、長身をゆったりと預ける。

 その後ろ姿が、ずきりと胸にくるしい。ニコルは一歩、あとずさった。高揚した気分が急速に遠のいていくのがわかる。


 ――何で、こんなことをしちゃったんだろう。


 チェシーが気配に感づいて振り向く。

「どうかしたのか」

「あ、あの……さっきは、その、ご迷惑を」

 まるで口が回らない。違う違う、とばかりに純白の手袋をはめた両手を精一杯ばたばた振ってみるものの、まるでだめだ。どうしようもなくごまかしきれない。

 自分にも、チェシーにも嘘をついてしまった。急に罪の意識がこみ上げてくる。

 気付かない方が悪いとか、ホントは女の子だからとか、そんなの理由にならない。だって”ニコラ”は本当の自分じゃ――

「……ごめんなさい」

 後ろめたさに耐えきれず、弱々しくうつむく。

 ほかは、声にならない。

「どうして君が謝る。謝らなくていい。それじゃまるで私が」

 言いかけて、チェシーはふいに微笑した。

「何だか前にも同じような事を言ったような気がする。貴女にではないけど」

 ニコルはぎくりとして立ちすくむ。

 リュックを吹っ飛ばしてしまったときのことだ。どうしてそんなことまで覚えてるんだろう。

 チェシーは、滑るような仕草で身を起こした。周りが急にしんとする。声だけがふわりと浮き上がったように聞こえた。


「実は査問会のあと、シュゼルム公子殿下に無理やり連れて来られてね」

 何気なく話をそらす。

「本当はさっさと切り上げて帰るつもりだったんだ。師団長どのの容態も心配だし、何より彼に黙って出てきてしまったからね」

「あ、兄の、ニコルのことですか」

「そうだ」

 言いっぱなしで今度は背中から手すりにもたれ、そのまま気を持たせてのんびりと首をひねり、月など見上げたりしている。

 あまやかな、花の香りを含んだ風がそよそよと吹きすぎていく。

 耳元の髪がひとすじ、ふたすじほつれて、心許なげに揺れる。そんな些細なことがやたらどぎまぎと気恥ずかしく、ニコルはあわてて耳元へ手をやった。真珠のイヤリングが指先に触れ、こつん、とちいさく揺れる。

 淡々と話すチェシーの横顔は、ぼんやりとかすんで、遠い。

 わずかにそらされた横顔はこんな時にかぎって陰になり、はっきりしない。

 ……いったい、どんな表情をしているのだろう。なぜか無性に知りたくてたまらなくなる。何も知らず微笑んでいるのか、疑惑に眉をひそめているのか、それとも。


「でも、どうしてかな」

 ふいにチェシーは顔を上げた。

「今は貴女の側を離れたくない」


 ――なななななななな何をいきなりそんな戯言ぶちかまし……!


 また頭の中がぼぼんと真っ白に吹っ飛んだ。バネやらネジやらゼンマイやらが頭からびよんびよん転げ出しそうだ。

 い、いやちょっと待て。こんな場面、前にも――

 突然、記憶に沈んでいた情景のカケラが浮かび上がってくる。この表情は看護部隊のフェリシア上等兵を口説いていたときと同じ顔だ。楽しんでいるような、からかっているような、それでいて獲物を狙う狼の舌なめずりにも似た、危険な情熱を秘める眼。この視線をくらった末路は、確か――

 何やらやばいモザイク付き映像が脳裏に浮かぶ。ああっいけませんわそんなフフフよいではないかよいではないかピヨピヨピヨ(意味不明)……あああああ。

 思わず目の前が真っ暗になって、ニコルはくらっとよろめいた。

「レイディ」

 声を掛けられて、はっと我に返る。チェシーの腕に抱かれかけた瞬間、ニコルはちいさな悲鳴をあげてかわし、あとずさって、怯えた眼差しを振り向けた。

「ご、ごめんなさい。わたし、私、あの」

 せっぱ詰まった息を呑み、ぎゅっと手を結びあわせて、拒絶の仕草もあらわにぶるぶると強く左右に首をふる。いくらなんでもチェシーとふふふふ二人っきりだなんてあまりにも危険すぎる――!

「なれ、慣れない場所で緊張してしまって、それでその、あの、決してチェ、じゃなくてサリスヴァールさまが怖いとか、えと、あの、あの、そういうんじゃなくて……っ!」


「大丈夫。落ち着いて」

 チェシーは一歩下がり、少しばかり困惑の微笑を浮かべると、やれやれといった仕草で髪をかき上げた。端正に整えられた前髪がほどけて、はらりと指の間からこぼれ落ちる。

「少し夜風に当たっているといい。私は、そうだな、何か飲み物でも取ってくるとしよう」

「あ、あのっ」

 ニコルはあわてて顔を上げた。心臓がどきんどきん、あちこち引き延ばされたゴムボールみたいにふくれあがって真っ赤に乱れ打っている。これ以上こんな所にいたら本当に熱を出して倒れ――

「わ、私はもう」

「ちょっと待っててくれ。すぐに戻ってくる」

 チェシーは軽く手を挙げて言うと、薄いガラスの戸を開けて部屋に戻っていった。人混みにまぎれて消えていく。

「あ……」

 その後ろ姿を呆然と見つめていたニコルは、ふたたび我に返って現状を鑑み、うひゃあ、とばかりに頭を抱えた。

「も、も、も、ヤバイヤバイやばいめちゃくちゃヤバイって、一体なに考えてるんだあいつは。冗談じゃない!」

 あわてて脱走にかかる。つまんだドレスの裾をひきずり、真っ青な顔で辺りをうかがい、始終後方確認。よたよたふらふらしながらサロンの隅をつたってよろけ走る。

 あまりに挙動不審とは思うが、ここで見つかっては元も子もない。

 とにかく一刻も早くこの場から逃れなければ。ただその一心でどうにかこうにか扉にたどりつく。

 ドア近くに立つ礼装の執事にあからさまな珍奇の視線を向けられつつ、ニコルはぜえぜえと鬼気迫る息をつき、一気に廊下へと飛び出した。

 よし、これでどうにか――ニコルは長々と安堵の吐息をつき、うっすら浮かんだ額の汗を拭った。

「戦線離脱完了、何とか無事に全軍撤退でき……」

 ぼそぼそひとりごちながら、ぐるんと振り返って歩き出そうとした――そのとき。

 いきなり誰かと正面からぶつかった。勢いで相手の手にしていたグラスが跳ね飛んで、床にぱりん、と甲高く割れる。

 ニコル自身も反動でぐらぐら転びそうになって、おもわず相手の差し伸べた手にしがみついた。

「きゃ……!」

 思いがけず白い軍服の腕にしっかりと抱きとめられる。

「大丈夫かレイディ」

 相手の声のあまりの近さにニコルは一瞬うろたえ、手を突っ張ろうとした。目線よりずっと上にある胸元の青いスカーフがあざやかに意識へ飛び込んでくる。

「あ痛たたたごごごめんなさいすいません急いでてましたもので……」

 思い切りひりひりする鼻を押さえながら、ぶつかった相手にぺこぺこ頭を下げる。

「いや、それより怪我はないか」

「いえそんなの全然本当に申しわけ――」

 謝りながら、ふと違和感を感じて凍りつく。

 純白のティセニア軍礼装。青いスカーフ。こ、こ、これはそのつまり、もしかして。

 涙目でおずおず見上げる。


 ――あ、悪夢再来……。


「さささサリスヴァール……さま」

 ニコルはぶくぶく泡を噴いて昏倒したい気分になりながらうめいた。何でこんな――よりによって最悪の相手とぶつからなければならないのか!

「大丈夫か。顔色が悪いぞ」

 チェシーは真摯なまなざしでニコルをのぞき込んだ。

「気分でも悪いのか」

 おそらくチェシー本人に悪意はないのだろう。声の調子もいかにも心配そうだ。だがそんなことはすでに問題ではない。あまりにもはりつめすぎた極限状態の連続に、ニコルはぶるぶると身体中が震え出すのを感じた。

「い、いいえ」

 必死でかぶりを振る。

「熱があるんじゃないのか」

 チェシーは抱きしめた腕をはなさないで額に掌を押し当てようとし、手袋をはめたままと気付いたのか一瞬苦笑いして指先をくわえ、するりと脱ぎ払った。

 何の隔てもない素の手が、そっとニコルの頬を手挟んだ。いきなり熱を推し計られて、また頬が一気にかぁぁっと火照り出していく。

「あ、あ、そうじゃなくて」

 思わず身をすくませながら悲鳴のように答え、もどかしく震える手でチェシーの腕を押しやろうとする。

「本当に熱がある。熱いぞ」

 チェシーは目を瞠った。

「送っていくよ」

「い、いえ大丈夫です一人で帰れますしそそそそれに別に熱なんかじゃ」

「手が震えてるじゃないか。そうだ、ちょっと待って。何か薬を持ってこさせよう」

 押しのけようとしていたはずがいつの間にか手を振りほどかれ、逆にしっかりと握りしめられて、どうにも逃げ出せない。

「い、いえあのそんな」

「騎士の好意には素直に甘えるものだよ、レイディ」

 あわてふためくニコルを見下ろすチェシーの眼に、一瞬、いつもの皮肉な笑いがかすめた。

「少し休んでいくといい。ちょっと、君」

 ちょうど廊下の向こうに姿を現したボーイを呼び止め、ブランデーと軽い滋養の薬を持ってくるようにと命じる。

「こちらのレイディが御不例だ。部屋を借りるぞ」

「ちょ、ちょっと……」

「どうぞ、サー」

 言葉少なに案内するなり、要らぬ気を利かせ慇懃に立ち去るボーイを背に、ニコルはいきなりチェシーに肩を抱かれ、そばの小部屋に連れ込まれた。あまりの手際よさに半ば愕然と立ちつくす。


 部屋の片隅にほんのりと揺れる灯をともした、薔薇を意匠する豪奢な燭台。籐籠にあふれるほど盛られた、まるで砂糖かお菓子のような色とりどりの花、たっぷりした二人掛けのソファには見るからにやわらかなヴィヴァン織りのクッションがあり、貴石を象嵌した華奢なテーブルと対のキャビネットもまた配されて。

 奥のドアがほそく開いている。

 その向こう側、静かな闇に沈んで見えるのは透き通るレースのかかった天蓋付きの――


「あ、あの、わたくし、本当に」

 真っ赤な顔で抗おうとするニコルの背を、チェシーはそっと、だが有無を言わせない力で押した。くすりと笑ってソファへ座らせる。

「ぁ……っ!」

 身体がふかぶかと沈み込む。

「しかし意外だったな。あのニコルに貴女のような御令妹がおいでとは」

 その前にまず人の話を聞けーーーっ!

 心の声を知ってか知らずかチェシーは素知らぬふりで気障に笑うと、からりと氷の音をさせて冷たい水をグラスにいれた。添えてあった檸檬の蜂蜜漬けをすべり込ませストローを添えて、手がしずくで滑らないようぬぐって差し出す。

「ほら、元気を出して」

 誰のせいだ誰の! ……と力いっぱい怒鳴りつけたいのを必死でかみ殺し、震える手でグラスを拒否し、顔をそむける。

「――レイディ」

 ふいにチェシーの声が変わって。

「分かってる。全部、私の我儘だ」

 グラスを下げ、ことりとテーブルに戻す。一瞬そのまま、ためらうかのように手を止めて。

「君の兄上みたいに、私のせいで怪我をさせたり具合悪くさせたり、そういうのはもう……したくない」

 まるで祈るかのような、思いつめた寂しげな眼。

「頼む。これ以上、心配をかけさせないでくれ」

 ニコルはどきりとして声をなくした。

 息を詰め、驚きに揺らぐ目を押し開いてチェシーを見上げる。

 ああだこうだとどんなに口先で美辞麗句を並べ立ててみせたところでどうせ下心ありありの送り狼間違いなしだと思っていたのに、どうして急にそんな――


「君を見てると本当に」

 大きく息をついて表情を変える。チェシーはわずかに浮かんだ動揺をかき消して口調を改めた。

「いや何でもない。忘れてくれ」

「兄のことは」

 ほんの少し、声が震える。

「義叔母より聞いております。本当に危ないところだったと」

「そうでもないさ。あいつは何でも大袈裟に言い過ぎるきらいがある」

 言いかけてチェシーは目を瞬かせ、かすかに笑った。

「すこし、元気になったね」

「……ご心配ばかりおかけして」

「もう大丈夫そうだ。屋敷まで送ろう」

「い、いえ、それは……あの」

 反射的にびくっとするニコルへ、チェシーは皮肉な笑みを投げかけた。

「無理は言わないでおくとしようか。ともあれお手をどうぞ、レイディ・ニコラ」

「は、はい」

 ニコルはちいさくふるえる手をチェシーに取ってもらい、深く沈み込むようなソファからどうにか立ち上がった。

 長い夜がようやく――そう思ってつい、ためいきがこぼれる。

「レイディ」

 チェシーが身をかがめ、ためらいのくちづけを手の甲に寄せる。

「レイディ・ニコラ」

 せつなく何度も繰り返す。

 儀礼よりもずっと長い、別れがたいキスを。


 真珠の薔薇が浮かび上がるランプシェードから、まるで噴水のようにこぼれおちる灯。ゆらゆら揺れて、陽炎のように淡く、ゆらめく。


「また、お逢いしていただけますか」

 サリスヴァールの驚くほど真摯な顔が、半ば影にしずみ、半ば光に照らされて見上げていた。

「私はいずれまた死地に赴く身です」

 チェシーはニコルの手を取ったまま立ち上がった。どこか遠くを見つめて、ぽつり、ぽつりとささやく。

「次はいつ逢えるか。明日か、来月か……戦況によっては来年まで戻れないかも知れない」

 チェシーは手をゆっくりと愛おしげに撫で、からめるようにてのひらを重ね合わせた。たったそれだけの仕草なのに、指先から伝わる感覚がなぜか燃えるように熱く、どきどきとして息苦しい。

「そ、それは、あの、ええと御武運をおおお祈り申し上げ……」

 ニコルは頬を真っ赤に染め、しどろもどろになりながら手をぎゅっと握り戻そうとした。その手をチェシーが声もなく引きとめる。

 澄んだ瞳が、強い光を帯びてニコルを見つめていた。

 あわてて眼をふせる。

「眼をそらさないで」

 ニコルはぶるぶると首をすくませて、息を呑んだ。き、気のせいかめちゃくちゃ顔が近づいてきているような……!

「レイディ、私を見て。貴女の忠実なる騎士に下さるお言葉はそれだけですか」

 くすっと笑うチェシーに手袋の指先をつままれる。

「ゃ……」

「ほら」

 レースの白い手袋が、チェシーの指にあやつられるかのように、するするとニコルの手を滑り抜ける。


 ――ぬぬぬぬ脱がされて……!


「あ、ちょっと……やだ……っ」

「貴女の声を聞かせて欲しい。貴女の笑顔を見せて欲しい」

 抜き取った手袋を足下にすべりおとし、まるで小ねずみをいたぶる無邪気な猫のように笑って。

 素肌のままの手を強く握られ、半ば引きずられるように抱き寄せられる。

 ニコルは悲鳴を上げかけた。

「そう、一目見て、欲しくなった――貴女が」

 チェシーはニコルの耳元で熱っぽくささやいた。


 ――ぎゃあああ…ま、まっ待て……はや、はや、早まるなばかぁっ!


 もうパニック寸前である。なりふりなどかまっていられない。ニコルはチェシーの手からもがき逃れようと身体をよじらせた。

 勢いあまってふらつき、ぽすんとばかりにソファへくずおれる。

 身体が沈んだ勢いでローブの裾がみだれ、中に着た純白のフリルペチコート、銀のアンクレットにいろどられなめらかに切れ上がった足首、ふくらはぎ、あわや膝までがあらわになった。

「きゃあっ!」

 ニコルは声を裏返らせ、膝をつき合わせてじたばたともがいた。

「い、い、いけませんわたわたわたくしは全然そんな、だめ、あの、い、いけません……!」

「大丈夫」

 隣に腰を下ろしてきたチェシーに半ば抱きすくめられながら、いきなり腰ごとぐいと引き寄せられる。

「ゃ……っ!」

 チェシーは悪魔の微笑みをたたえニコルをソファの背に押しつけると、鳥肌の立つ首筋に淡くくちづけた。

「眼を閉じて」


 ――うぎゃああああああ……!


 悶絶寸前。足の先から頭のてっぺんまで、全身がぶるぶると震い上がる。

「……怖がらなくてもいい」

 チェシーのくちびるが、喉元に触れたままささやく。


 ――やめ……やめてって……ばかばかばかうぎゃああああっ……!


 頭の中がぐちゃぐちゃだ。何が何やら分からない。かくなる上は、正体がばれようがその後どうなろうがかまやしない、そばの花瓶の口を掴んで思い切り頭からぶん殴って蹴っ飛ばしてしかるのち渾身の力を込め《デス・トルネード》と《地獄門》三連発をぶちかましけちょんけちょんのまっ黒こげにしてチェシーという存在そのものをこの世界から滅殺するしか――!

 半ばやけくそで心に思い決め、ぜえぜえと大きくあえぐなり胸に息を吸い込んで、あわや怒鳴りつけようとした、そのとき。


「かつての私を、皆が何と呼んでいたかご存じですか」

 チェシーの声が、ふいにぞくりと耳たぶをかすめた。


 のぼせきっていた怒りが、一気に凍りつく。

 はりつめた糸が切れたかのようだった。胸のなかの悲鳴が途切れ、ニコルは呆然とチェシーを見上げる。

「ぞ、存じません……」

「ゾディアックの悪魔。そう呼ばれていました」

 見交わした瞳にうかんだ自嘲気味の微笑が、ふつりと途切れた。

「血塗られた名です。本来なら明日をも知れぬ身、亡命など許されるわけもなく、逆にいつ処刑されてもおかしくない。そんな私を信じ、受け入れてくれたのはほかでもない貴女の兄上だけだった」

 チェシーは淡々と、まるで人ごとのように続ける。

「だから、彼のためならば喜んでこの腕を振るおう、かつての祖国に牙を剥く残忍な悪魔にもなろうと誓った。でも、それは哀れな間違い、愚かすぎる過ちだった」

 腕を取られ、頬をすり寄せられ、まるで掌にのせてもてあそぶかのように身体のあちこちに触れそそられて。

「サ、サリスヴァール……さま……」

 吐息がかかるほどに。

 そうしながら微笑んでいる。どこかさびしげな、遠くを見つめているような、そんな眼で。


 ――嘘、やだ、どうして動けな……!


「貴女はまるで……そう、ちいさな春の花。凍てつく私の心をまるで春の訪れのように溶かす……ふしぎなひとだ」

 もつれ、乱れた髪の束をくるくると指先にあそばせながら、チェシーはニコルの濡れた眼をのぞき込んだ。

「貴女に出会って、私は変わる。残忍な悪魔は姿を消し、代わりに――愛という名の堕天使が私の心を支配する。名も知らぬ一輪の花に恋焦がれ、忍ぶ想いを秘め隠すこともできず、苦しみの果てに手折ってしまう、哀れな牧童。それが今の私だ」


 片手で頬を撫でられ、首すじをたどられ、耳朶を甘噛みされ――

 身体がふるえ、息がみだれて。

 声が、声が出ない。

 こんなバレバレのどうしようもない三文芝居以下のわざとらしい口説き文句、分かり切った嘘に。

 これこそいつものチェシーそのものだ。蛇蝎。狼。女殺しの悪魔。

 嘘ばっかり言って、女を口説くことばかり頭にあって、そうかと思えば人の顔を見れば悪口ばっかり言って。なのに、どうして――女だったら誰でもいいくせに。どうしてそんな、心まで吸い込まれてしまいそうな……ちがう、そんなわけあるかきききき気のせいに決まってる……!


「い、嫌……だめ……」

「美を競い咲き乱れる大輪の薔薇より、気高く愛らしい一輪の野ばらを」

 指先で軽々とあごを持ち上げられ、虜にする目で見つめられ、腰に腕を回されて。

「愛しています、レイディ。貴女だけを」

 熱い欲望を込めたささやき。

 チェシーの吐息が、どきどきと今にも破れそうなニコルの胸元をまさぐる。

「私の中に住む堕天使が貴女の可憐な微笑みを涙に変えてしまう前に、罪深き我がこの思いを、どうか、一言、許すと」

「……ゃっ……」

 ぞくぞくとふるえ、背筋がこわばって。

 涙がぽろぽろこぼれる。なのに手も足も棒のようになって動かない。

 ニコルは必死で顔をそむけて、ぎゅっ、と眼を瞑り、くちびるを拒絶のかたちに噛みしめた。見たくない。聞きたくない。こんなチェシーなんて――

 どうせ本気じゃない。誰に対しても同じ、そんな優しい声を掛けて、甘い顔をして、相手の気持ちなんてまるで見ていない。目の前にいない人を追いかけて、手に入れるためだけに心にもない嘘を並べて。


 ――いやだ……嫌……こんな、こんなの……!


 ふと気がつくと、頬をつたう涙ごとチェシーの手に包み込まれていて――

「……泣かれると、つらいな」

 ゆっくりと撫でられる。くちびるに指先が触れた。それだけで体の奥底が電気に当たったみたいにびくっとふるえる。

「ゃ……っ」

 ニコルは息をすすり込んだ。

「は、離して」

 チェシーは微苦笑をつくり、横にかぶりを振った。眼の奥があやうい色に光っている。

「いやだと言ったら」

「あ、貴方を」

 声が裏返った。思わず気持ちが口をついて出る。

「き、き、嫌いになります……」


 ……チェシーがにやりと笑った、ような気がした。


「う゛」

 ぎょっとして青ざめる。

「ちっ、ちがーう!」

 猛然と両手で頭を抱え、かつらも吹っ飛べとばかりにぶんぶん振り回す。

「か、かっ、勘違いですそんなそんなそんなことあるわけ……!」

「語るに落ちたな、レイディ」

 ハンカチを差し出しながらチェシーは皮肉った。

「どちらにしろ光栄だ。嬉しいよ」

 ニコルは一瞬、脳裏一面に広がる黄金の花畑で泣きぬれつつ虹色のチョウチョとたわむる幻影に逃避しかけて、はっと我に返るなりじたばたとチェシーの元から逃げだそうとした。

「なななな何のことやら」

 あっちに逃げこっちに逃げようとしてできず、ひゃああ、と頭を抱える。

「隠しごとは体に良くないな」

「な、な……何も隠してなんか……」

 ニコルは差し出されたハンカチをひったくり、ぐしゅぐしゅ鼻を鳴らしながら恨めしげにチェシーを睨み付けた。

「悪いようにはしないから」

 チェシーは口の端をつり上げてニコルの視線を払いのけた。

「正直に言ってごらん」

 そのさりげない仕草の恐ろしいこと恐ろしいこと、まさに悪鬼の如き憫笑……である。

「ち、ち、ちちちちちがっ」

 あまりのことに声が裏返り、しゃっくりのようにひきつれては吸い込まれる。

「困ったな。あんまり頑なな態度を取るようだと」

 チェシーの手が、首筋、肩とすべり、ついには通り越して、ふるえる背中をつつ、と下っていく。

「や……やめ……お、お願い……」

 全身に鳥肌が立ち、声がうわずった。

 チェシーは締め上げたローブの上衣を止める紐に指を絡め、少しずつ意地悪に引っ張りながら、狼のようにささやいた。

「……もっと嫌いにさせてしまうよ……?」


 ――っ★%あぶgy・#@ーーーがーーー(意味不明)!!


「ば、ば、ばかぁっ!」

 もう、やけくそだった。

「さ、さ、さっきから人の気も知らないでひどいことばかり言って!」

 ニコルは今まで積もりに積もった思いの丈を怒濤の如く一気に吐き出した。両手をボカスカ大車輪に回してチェシーに殴りかかり、泣きながらゲシュタルト崩壊状態で喚き散らす。

「わたくしが何も知らないとでもお思いですか。ご自分の胸に手を当てて思い返してごらんなさいな。貴方のなさることなんていったい誰が」

 誰が信じるものか、と言おうとして。

「……ぁ……」

 ニコルは大きく息を吸い止めてチェシーを見上げる。声が出ない。

 そんなこと言える資格がどこにあるというのだろう。嘘をついているのは――女の身で男装の罪を犯し暗黒の《カード》を使い聖ローゼンクロイツの教えにまでそむいている――自分の方なのに。


 そのとき、ふいに。

「んもうまったくさっきのボーイさん、どの部屋って言ったかしら、ええと、ここ?」

 突然の声にぎょっとする間もなく。

 ばたりといきなり予告もなくドアが開いてほんのり甘ったるいヨッパライの薫りが流れ込んだ、かと思うと、衣ずれの音も華やかにレディ・アーテュラスがほろ酔い加減のしたり顔をひょいと覗かせた。

「うふふふ見ぃつけた! こんなところで何し……て……」

 とろんとご機嫌だった眼が、茫然自失、したかと思うとみるみる驚愕に見開かれていく。


「……えええええ?」


 さもありなん、である。傍から見ればニコルは思い切りチェシーの腕の中。頬は涙に濡れ、今にも泣き出しそうな顔で半ば押し倒されていて、そのうえ手袋は床に脱がされ、背中のリボンも半分以上しどけなくほどかれていて――

「こっ、これはどうもレディ・アーテュラス」

 さすがのチェシーも顔を引きつらせるなりニコルを押しやって襟を正し、汗をぬぐって後ずさった。

「まだ、その、何も」

「何もって」

 レディ・アーテュラスはまだ驚きの冷めやらぬ棒読み口調でゆっくりと繰り返す。

「何が、何も――なのかしら」

「いや、こ、こ、これはあの違うんです母さま」

 ニコルもようやく我に返り、硬直した真っ青な顔で弁明しはじめた。

「つ、つまりそのわたくしがそのええとちょっと熱がまたじゃなくってその、出、出そうになりましたものでそれで休んでいけばいいってチェシーさんが仰有るものですからそれでだからつまりっ」

「ニコラさん」

 レディ・アーテュラスはすばやく扇子を振ってニコルのたわごとを遮った。花の香に似た笑みをふわりとうかべる。

 しかし、その後チェシーに投げかけられた言葉はあまりにも意表を衝くものだった。

「じゃ、申し訳ないけれどもうすこしお願いしちゃってもよろしいかしら」

「何っ、いや、それは」

 汗だくのチェシーがぎょっとして目を剥く。レディ・アーテュラスは意味深に眼を細めた。

「いいのよ。気になさらないで出来るだけごゆっくりあそばせ、出来るだけね。それにしてもニコラさん。素敵ね、本当に――初恋がかなって」

「えっ……ええーーーっ!」

「あははん、お・じゃ・ま・さ・ま」

 仰天するニコルへうっとりと酔った眼差しをからませ、濃密なウィンクをばちんとかますと、レディ・アーテュラスは指先を蝶のようにひらめかせながら婉然とドアの向こうへ消えていく。

「ちょ、ちょっと母さま何言ってるんです違います誤解です待って、だから待ってって……うぎゃあ!」

 ニコルは気が動転したまま突進し、目の前で無情に閉じられていくドアに思い切りおでこをぶつけ、星を散らしてぐーるぐる回るなりその場でうぐぐぐと昏倒した。

「い、痛たたた……」

「大丈夫か」

 チェシーがあわてて屈み込んでくる。

「大丈夫じゃありませんよ!」

「そのようだな」

 チェシーはまた冷や汗を拭った。

「心胆寒からしめられるとはまさにこのことだ」

「ぜ、全部貴方のせいですからね」

 ニコルは涙ぐみながらぶうっと頬を膨らませ、じろりとチェシーを睨んだ。チェシーは声を立てて笑い、ニコルの前髪をかるく持ち上げた。

「まあ、そう怒るな」

 じんじん熱く痛む額をそろりと撫でられる。ニコルはあわてて頭を振った。

「さ、触らないで」

「いいから少し頭を冷やせ」

 チェシーはニコルが握りしめてくしゃくしゃにしたハンカチを指先でひょいと奪い返すと、素早くテーブルに戻って、ペールに残った氷をつつんで戻ってきた。そうしててのひらごとたんこぶに押し当てる。

「うひゃあ冷たっ! ……じゃ、じゃなくて、えっと……」

「もういい。おとなしく騒いでろ」

 ニコルは眼を瞠ってチェシーを見上げる。チェシーはにやりと肩をすくめる。

「そのほうがずっと君らしい」

 濡れたハンカチがしっとりと冷たい。火照る肌にひんやりとした感触が不思議なほど心地よくて、ニコルはつい、疲れ切ったため息をもらした。

「……はい」

 そのまま、じっと動かずにチェシーの触れるに任せる。何だかぽうっとして、まるで夢ごこちのような――


 どこか遠い廊下の向こう側で、時を告げる鐘が鳴っている。

 一つ、二つ――息苦しいほどの思いにさいなまれて、ニコルは柱時計が打つ重々しい時報を指折り数えた。

 全部で十一回。あとは、おそろしいほどの静寂に呑み込まれていく。


「……帰らなくちゃ」

 ニコルはぼんやりと逃げるようにつぶやいた。

「本気で帰したくないんだが」

 チェシーが腫れの具合を確かめながら言う。

「あ、あのねえ……」

 ニコルはげんなりと脱力し、引きつった笑いをうかべた。いったいどういう神経をしているのだろう。そもそも懲りるということを知らないのかあるいは単にずうずうしいのか――どうせ両方には違いないが。

 そのとき突然、神の啓示のごとくすばらしい考えが燦然とニコルの脳裏に閃いた。

「そんなことだから男でも女でも手当たり次第みたいに思われるんですよ」

「ふん。そんなこと誰が」

 チェシーは悪辣に肩をそびやかせかけて、ふいにじろりとニコルを見下ろした。

「……誰がだ」

 みるみるチェシーの表情がけわしくなっていく。ニコルはにやりとし、あわてて悟られないよう手で口をおさえた。

「兄上から聞きましたわ。その……貴方とはじめてお逢いしたとき、いきなり、その」

「待て」

 チェシーは憤然と遮った。顔がひきつっている。

「それは違う。つまり、その、こういうことだ。君たちほど似ていたら誰だって見間違うだろう」

 ニコルはじろりとチェシーを睨み付けた

「つまり、わたくしにお声を掛けて下さったのは、わたくしが兄上に似ていたからだと」

「何でそうなる……」

「や、やはりそうなのですね!」

 衝撃のあまりよろよろよろめく振りをしつつ、わざとらしさ炸裂でニコルは叫んだ。

「だからわたくしの気持ちなど気にもとめてくださらないまま、あんなひどいことを次から次へと手を変え品を変え!」

「ちょっと待て。いきなり何を言い出すんだレイディ」

 慌てるチェシーを後目に、ニコルはよよよとばかりに顔を両手にうずめ、滂沱の嘘泣きでその場を涙の洪水にしながら、わあっと泣き伏した。

「ああ、何てひどい不道徳なお話でしょう。もう二度と殿方を信じたりはいたしません。貴方のせいですわサリスヴァールさまのうそつき! えっち! おたんこなす!」

「いや、何やら大変な齟齬をきたしてるとしか思えない。というかおたんこなすって……」

「二枚舌、色目づかい、八方美人、二股かけ!」

「ば、馬鹿、違う、あれは我が人生最大の汚点だ。不幸きわまりない事故、思い出したくもない悪夢の限りだ。勘弁してくれ、頼む」

 ニコルは珍しくチェシーがうろたえた様子を見せるのが可笑しくて、悪口をえんえん並べ連ねながら、ついこらえきれず噴き出した。

「サリスヴァールさまなんて、大っっっ嫌い……」


 可笑しくて、楽しくて。

 泣き出してしまいそうだった。


 屋敷まで送ると言ったチェシーの好意を断り、ニコルはレディ・アーテュラスとともに屋敷へもどる馬車に揺られていた。

 馬車に乗るまでずっとしゃべり続けだったレディ・アーテュラスも、さすがに疲れたのかこっくりこっくりと船を漕いでいる。

 ニコルは眉を寄せて眠るレディ・アーテュラスの顔をのぞき込んだ。手を伸ばして、ずり落ちかけた白狐のショールをそっと肩に掛けなおしてやる。

 何度目のためいきだろう。

 ニコルはぼんやりと車窓の景色をながめる。

 チェシーと一緒に見た月は、薄青い雲にまぎれながらもいまだ中空にかかっていた。ときおり行き過ぎる街灯が、ふいによみがえる後悔のように視界をかすめては溶け流れ、残像を描きながら後方へ飛び去って行く。


 大嫌い。


 別れ際の言葉が涙の向こうにかすむ。

 チェシーの手は温かく、剣を使うもの特有のどこか武骨な感触があって。それでいて包み込むように優しかった。

 その優しさが偽りでさえなかったら。

 信じたいのに信じきれない苦しさが押しつぶされ寄り集まり、後ろ暗い影となって、記憶に残るザフエルの言葉へとかさなっていく。


 ――チェシー・サリスヴァール一人と、第五師団四万五千人。どちらの命を――


 シュゼルム公子に無理やり連れてこられたなんて、嘘に決まっている。

 たとえどんなに軽々しく見えても、チェシー・エルドレイ・サリスヴァールは戦場で出会っていれば死を覚悟するしかなかった相手、何千何万という同胞を容赦なく撫で斬ってきた敵だ。

 陰でこそこそするばかりのシュゼルムに、私的な集いとはいえ政敵バラルデスの夫人が主催するサロンへ、当のチェシーを連れて堂々と乗り込む度胸などあるはずがない。となればチェシーが強引に現れた理由はただひとつ。

 バラルデスが持つ影響力の内偵。それ以外には考えられない。

 ザフエルの言ったとおりだ。そんな男、無条件に信用するほうがおかしい。おそらくノーラス城砦にはすでに密使が走っているだろう。

 もし、ニコルの知る陽気でしたたかなチェシーが偽りの微笑をまといつけた仮面でしかないとしたら、下に隠れている顔はきっと――

 それだけがただ空恐ろしく、不安だった。


 ニコルは胸に手を押しあて、ぎゅっと握りしめた。

 身を起こして窓を開け放つ。風が吹き込んだ。

 指輪をはずし、イヤリングをもぎ取り、一つに結いまとめたカツラのピンを抜いて、大きく頭を振る。

 短い髪が風にかき乱され、くしゃくしゃに逆巻いた。

「チェシーさんの馬鹿」

 太陽の下にあるときは自ずから輝きを放って見えた純白の街並みが、今はまるでほの暗い深海の泥にしずむ遺跡のように見える。

「……気付いてもくれないで」

 言ってから、つまらなそうにニコルは笑った。あきらめきった仕草でふいと手の中の輝きを投げ捨てる。

 一瞬、かちりと白く跳ねる光跡をひいて。

 それらは闇へ吸い込まれ、あっけなく消え失せた。



「チェシー・エルドレイ・サリスヴァールが戻ってきたそうにございます」

 執事のオルブラントが、後ろに手を組みしかつめらしく報告したのは次の日の午後、それも太陽が半分以上も傾きかけたころだった。

 厩の馬を一頭ずつ引き出してはざぶざぶ水を掛けて洗い、乾いた布で拭き上げてブラッシング、蹄鉄の中の泥まで掻きだしてぴかぴかに磨き上げたあげく「うんうん綺麗になりましたよ」とか言って馬の鼻先を撫でてやり、満足そうにふう、と額の汗を拭う――という作業を朝から今の今までずっと、どこか執拗なまでに繰り返していたニコルは、報せを聞くなり顔をはね上げて、一瞬まぶしいくらいの笑顔を作った。

「ニコル、どこだ」

 すぐにチェシーの気配がずかずかと近づいてくる。ニコルはあわてて汚れた両手をはたき、作業ズボンで手を拭いて飛び上がった。

「は、はいっ」

「帰るぞ。とっとと準備しろ」

 出迎えたニコルは、慇懃に下がっていく執事と入れ違いに馬場の門から入ってきたチェシーのあまりの泥酔ぶりに眼を疑った。強烈な酒の臭いがただよってくる。

「う、うわっ」

 思わず鼻をつまんで顔をしかめ後ずさる。

「お酒飲んでるんですか」

「ああ、久々に酔った」

 チェシーは胸元をぐいとゆるめ、馬房の柵にもたれてにやにやと笑った。面倒くさそうに手を振って唸る。

「いいからさっさと荷物をまとめてこい」

「ちょ、ちょっと」

 ぐらぐらとするチェシーを支えながらニコルはあわてて答えた。

「いくらなんでも飲みすぎでしょう。オレンジジュース持ってきますからちょっと待っててください」

「要らん。もう行くぞ」

 言いながらもう、馬房の中でも一番の駿馬を勝手に引き出しに向かっている。

「ちょ、ちょっと待って下さいよ」

 ニコルは手に持った馬用のブラシを放り投げ、代わりに何を血迷ったか飼い葉桶の取っ手をひっつかんで走り出したかと思うと中身を盛大にぶちまけながら駆け戻ってきてあれがないこれがないと周辺を引っ掻き回し、さすがにあわてたオルブラントが飛ぶように戻ってきてリュックを差し出すや、得たりとばかりに顔を輝かせた。

「あったあった僕のリュック。さすがセバスチャンさん気が利くね」

 猛然と駆け抜けざまリュックをかっさらって、後ろ向きに飛び跳ねつつ笑いかける。

「ありがと、じゃあ僕ノーラスに帰るから義父さま義母さまによろしく言っといてそれからお留守番またよろしくお願いしますっていうのとアンシュベルは相変わらず元気だから心配しないでってディミトリス卿にお伝えするのと、それとえっと、あの馬車ツァゼルホーヘンまで返さなきゃなんないんだけどあとで直接言ってはおくけどくれぐれも車軸ぶっ壊したのごめんなさいって言うの忘れないで欲しいのと最後に馬丁のヨナに気を悪くしないでくれると嬉しいって伝えて仕事の邪魔しちゃって悪かったねって、うーんそれぐらいかなセバスチャンさんじゃあまたあとよろしく元気で体壊さないでねってことで待ってよチェシーさあん!」

「……オルブラントでございます、ニコルさま」

 執事が言い終わって頭を上げた頃にはもう、ニコルの姿など影も形もない。

 ただ、わびしい風が遠い眼をする執事のひげ先をそよと揺らすのみ、であった。


「待って下さいよチェシーさん、そんなに急がなくっても帰りは大丈夫でしょうに」

 芦毛を軽快に駆ってチェシーの背中に追いつく。

 チェシーはむっつりしたまま返事をしない。というか、どうやら返事できる状態ではなさそうだった。オレンジ色の夕日に照らし出され、濡れたように輝く青鹿毛の馬上で、ほとんど突っ伏しながら手綱にぶらさがっている。

「チェシーさん」

 心配になって呼びかけると、チェシーはふらふらと頭を振りながら額を押さえた。顔色が悪い。青ざめているようにも見える。

「君のほうこそ具合はどうだ。熱は下がったのか」

「僕はもう全然。チェシーさんのほうがずっと具合悪そうですよ。休んでからのほうが良くないですか」

 ニコルは少しおろおろしながら馬を寄せてチェシーの顔をじっとのぞき込んだ。

「いい」

 チェシーはなぜかふいと顔をそむけた。やたらと不機嫌そうに言い捨てる。

「単なる頭痛だ。酔ってなどいない」

 意地を張りだしたところを見ると、少しはましになったのだろうか。それにしても、本当に気付いていないらしい。

 何やら複雑な気分とはいえ、ニコルはとりあえず安堵にあたるためいきをもらした。昨夜のことなど忘れてくれたほうがいいに決まっている。

 ”ニコラ”がチェシーの前に現れることは、二度とないのだから。


「……それよりよかったですね、査問会無事に済んで」

「そうだな」

 気のない返事だけが帰ってくる。ニコルはあわてて続けた。

「ノーラスに戻ったら軍編成をし直さないとですね。どちらかというと第五師団て守勢がちであまり野戦向きじゃないですから。ほらチェシーさん竜騎兵隊の指揮慣れてるでしょ。僕は砲科出身だしザフエルさんは騎兵あんまり扱ったことないっていうし、だからチェシーさんにいろいろ教えて貰えたらなって」

 ぺらぺらと白々しい言葉だけが気持ちを上滑っていく。口を衝いて出るのはどうでもいいことばかりだ。しかしそうと分かってはいても喋らずにはいられなかった。

「チェシーさんのルーン、預かってたのもお返ししなくちゃ。それにしても珍しいですよね同じルーンふたつだなんて……ええとどこに置いたんだっけ……」

 チェシーはまったく興味なさそうに「ああ」と言ったきり黙り込む。

 ニコルはひどくいたたまれない気持ちになって、ちらりと横目でチェシーを見やった。

「それで、昨日は、その」

 言いかけたとたん、恐ろしい目でぎろりと睨まれる。ニコルはまたぶん殴られるかと思って思わずひぃっと首をすくめた。

「な、何なんですか」

 チェシーはわざとらしい嘆息とともに頭を振る。大きな背中が妙にしょんぼりとして見えた。

「妹がいるなら最初からそう言ってください義兄さん」

 ニコルは目をひんむいた。

「だっ誰が義兄さんですか」

「今度、正式なご挨拶にお伺いしてやるから覚悟しろ」

「こっこっ、来なくていいです! っていうかなななな何言ってるんですかチェシーさん」

「式はいつにするかな。いや、ここはやはり」

 ……まるで聞いていない。

 すっかり元気になったのか、それとも単なる見せかけか、やに下がった顔で無精髭のうっすら光るあごをざらざらと撫でている。あまりに不審きわまりなく、ニコルは恐怖さえおぼえて青ざめた。

 何か非常にやばいことを言い出しそうだ。いや、この男なら絶対言う……

「強引に既成事実を――」

「ば、バカ言わないでくださいっ」

 ニコルは顔を真っ赤に茹で上げ、びしぃっとばかりにチェシーを指さし怒鳴りつけた。

「だ、だ、誰が貴方なんかと。許しませんよそんなふしだらなこと絶対っ……」

 チェシーは反論もせず、かといって笑いもせずに、ただニコルを見つめている。奥底まですきとおるかのような目の色に、ニコルは思わずひやりとして口をつぐんだ。

 気まずいような落ち着かないような、胸のざわざわする雰囲気が重くのしかかる。

 しかしチェシーは、やれやれとためいきをつき、肩の力を抜いて、放り出すように言った。

「ちっ、君をからかっても今日はまるでつまらない。胸にぽっかりと穴が開いたようだよ」

 心のこもらない声だった。


 ぎぃ、ぎぃ、と今にも壊れそうな音を立てて回る粉ひき水車を横目に、小さな石造りの眼鏡橋を渡り抜ける。

 優しく流れる水音を右手に聞きながら、黄色や紫の野花が咲く川べりの土手を早足でゆく。果樹の世話をしていた農婦たちが道往く二騎に気付いて手を振り、被っていた頭巾を取って次々に会釈した。

 暮れなずむ残照を背負う彼女たちの足下や、ところどころ草原をつきやぶって白い肌をのぞかせる石灰の岩さざれ、植えられたブドウの木、それらから黒々と影がのび、たなびいて、まるで風景そのものが一枚の絵になったかのように見える。

 懐かしく、どこかうらさびしい望郷の影絵。

 ニコルはわずかに声をかたくした。

「どっちにしろニコラはだめです」

「だろうな」

 チェシーはげんなりと諦めたふうにつぶやく。

「昨日ほど己の馬鹿さ加減を呪ったことはないさ」

 ニコルは馬上でぴくりと固まった。

「どういうこと……」

「説明したくない」

「大袈裟な。チェシーさんらしくもない」

 それ以上何かを聞くのが怖くなって、ニコルはつとめて明るい声を上げ、ちゃかすように笑い飛ばした。

「元気出して下さいよ。騎士のたしなみはどうしたんですか。どうせまたノーラスに帰ったらあっちこっち口説いてまわるくせにフェリシア上等兵とか」

「彼女か」

 チェシーは遠い視線を北の空へ向ける。

「ホーラダインから聞いてないのか」

「え」

 ニコルは虚を突かれ聞き返した。

「何のことです」

 道ばたの木が落とす影と夕日とがゆがんだ縞模様となって、入れ替わり立ち替わり、めまぐるしくチェシーの後ろ姿を染め変えていく。チェシーはなかなか答えなかった。それどころかいきなり鞭を入れて走る速度をあげ、故意にニコルを引き離していく。

「チェシーさん」

 いやな予兆はしていた。ニコルはくちびるを噛むと覚悟を決めてチェシーの後を追った。

「では今、報告してください。サリスヴァール准将」

 夕暮れになびく炎のような金の髪。するどい眼差しがニコルを射る。

「フェリシア上等兵は粛清された」

 チェシーはつぶやくように吐き捨てる。

「ゾディアック軍と内通し君の出立を敵に報せたかどで。私に近づいたのもそのためだ。ブランの狙いは当初から私だったし。おそらく利害が一致したんだろう」

「利害……」

 言いかけてニコルはぞくりとした。

 ずっと心の隅に引っかかって取れずにいた疑念――レディ・ブランウェンの攻撃を受けるまで《先制のエフワズ》が反応しなかったこと――にようやく思い当たる。

 あの攻撃が最初から最後までチェシーだけを狙ったものだとすれば話は通じる。裁判目的とはいえ一度でも受け入れの前例を作ってしまえば、いずれ第二第三の亡命者が現れる。だから見せしめに釘を差す――

 右の手にはめた《先制のエフワズ》が、熔け落ちる血の色にくるめいている。

 声が出ない。

 まさか最初から気付いていて、その上でわざと。


 チェシーは穏やかに言った。

「誤解するな。ホーラダインも諒承済みだ。彼は悪意の矛先が君に変わるのを恐れていた。君を心配して」

 ニコルは空虚な気持ちのまま頭を振った。以前チェシーがバラルデスを評してタカ派と言ったのは、つまりこういうことだったのだろう。ザフエルも同じだ。素振りすら見せず、意に反するものを闇から闇へ葬り去ってしまう。

 しかしチェシーは気持ちを切り替えるかのように軽く笑うと、いきなり馬を寄せてニコルの肩をばしんと叩いた。

「ま、そう落ち込んだ顔をするな」

 勢いで体が前のめりに倒れ込む。

「うわあ落ちる落ちる落ちる!」

 あぶみから足が離れ、あやうく宙づりになりかけたところをニコルはあわてて馬にしがみついた。ぜえぜえ言いながらようやく這い上がってチェシーを睨み付ける。

「な、何するんですか!」

「君のせいじゃない。私のせいでもない」

 チェシーは臆せずにやりと笑ってニコルの心配をかわした。

「逆にそのおかげで今回の査問ではバラルデスはじめ軍のうるさ方連中まとめてぐうの音も出ないほど言いくるめてやったからな。しばらくはちょっかい出してこないだろうさ」

「だといいですけど」

 とてもそんな単純な気持ちにはなれない。ニコルは不安に語尾を濁す。チェシーは淡々と続けた。

「あとは私自身の問題だ。アーテュラス卿にも申し上げたように、戦場で証を立ててみせるだけのこと。君に迷惑はかけない」


 ニコルは先を行くチェシーの背中を見つめた。

 サロンで聴いた弦楽のメロディがふと記憶によみがえる。光と影。女と男。微笑みと嘘と社交辞令。虚々実々いりみだれる中にのぞく、計り知れない孤独と不安。

 あのときも、きっと今みたいに――


「チェシーさん」

 我しらず、微笑が口元にのぼった。

「またそんなこと言って。だめですよ」

 当惑したチェシーが何か言いかけるのを、肩をすくめてさえぎる。

「チェシーさんの悪い癖だ。何でも独りでどうにかしようとして」

 前方、斜めに橋渡された反対側の土手に、かがり火の入った小砦のシルエットが浮かび上がった。

 水面にゆらゆらと火の影が揺れて映る。まるで河岸の草や木の枝に引っかかってでもいるかのようだった。

 ニコルは馬を駆り立てながらまっすぐ前を見つめた。

「査問会だってまあ僕がいないほうが結果的にうまくいったような気もしないでもないし、何かにつけ足手まといなのは事実かもしれないけど」

 チェシーの置かれた立場、決意、ゾディアックに残してきたであろう様々な懸念。真意はどうあれ、チェシー自身がその運命と戦うことを選んだのならば、共にゆく道は必ずある。

「少しぐらいは信じて、頼りにしてくれたっていいんじゃないですか。僕にだってできることはあります。いろいろ言われることもあるだろうけど……それでも僕は貴方を信じたいし力になりたいと思うし、それに」


 いつか、きっと本当のことを――


 とんでもないことを口走りかける。ニコルはしまったとばかりに口を押さえた。

「それに、何だ」

「べべべべべ別に! とにかくそ、そ、そういうことですから」

「なぜどもる」

「い、い、いや深い意味合いは特になく」

 ニコルは真っ赤になったり真っ青になったりしながらぶんぶんと頭を振る。チェシーは、危険なまなざしをすうっと細くした。

「信じてくれるのは有り難いが、どうせならその言葉、もう一人の君から聞きたかったな」

「うえっ!?」

「まあ、いいか」

 ニコルが答えられずにいる間に、チェシーはそれ以上深く追求することもなくあっさりと話を切り上げて、暗み増す北の空へ視線を戻した。

「ここは、ガラスより脆く蜘蛛の糸より細く君の面の皮よりは厚い我々の友情と信頼と義兄弟の絆に免じて許してやることにしよう」

 怒るに怒れず、ニコルはひくひく引きつる頬を押さえた。

「なんて嫌な絆だ……」

「男が細かいことを気にするな」

 チェシーは肩をすくめ、ようやく心迷いをふっ切ったかのように明るく笑った。

「いつか君の信頼に応えられる日がくるといいな。心から――そう願うよ」


【第4話 終】

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