「お願い」 「もう一回」 「お願い」 「もっと可愛く」 「お・ね・がい☆」

 分かってるなら、会話する前にまず救出してくださいよ。と言いたいところなのだが。

 ザフエルいわく、「閣下と会話するほうがずっと楽しからずや。従いましてその件につきましてはつつしんでお断りさせていただきます」とか何とか、平然とのたまうに違いない。よくよく考えてみれば、鉄血朴念仁たる石頭のザフエルに、そのような善意の発露を期待すること自体、無謀としか言いようがなかった。

 どうしてそんな単純な事実に気付かなかったのか。

 ニコルは、今さらながら、自分の間抜けさ加減をめそめそと悔やんだ。

「ですから、もしよかったらその、助け……」

「ふむ。確かに重そうですな」

 ザフエルは、あごに手をやった。徹頭徹尾、素知らぬ風を吹かせている。

「そうなんですよ。書類の下敷きになって動けな」

「つまり、何をされても抵抗できない状態である、と」

 ザフエルは深呼吸した。抑揚のない声で淡々とつぶやく。

「ここは一枚一枚、めくっていくのも楽しそうですな。フフフ……ほうら見えてきましたぞ……閣下のお恥ずかしい格好が……」

「棒読みのくせに、眼が完全に本気じゃないですか」

 ニコルは、打ちのめされた眼で懇願した。泳ぐように手足をばたばたさせる。

「助けてザフエルさん。お願い。動けません」

「うむ。聞こえませんな」

「鬼っ!」

「心外ですな」

 ザフエルは、すう、と眼を細めた。

「そもそも、なぜこうなったのか、その理由をご自身の胸に手を当てて考えてみられては」

 ニコルは心底、絶望的な心地に陥った。まったくもって心外なのはこっちのほうである。

「理由といわれましても」

「それは? 閣下が? 私の立てた旅程の計画にどうしたからですか?」

 完全に誘導尋問である。抵抗できない相手に向かってこれはひどい。どう見ても自白を強要する悪代官だ。

 背中に乗った書類の山に全身を圧迫され、足の先がしびれてきた。反論する気力すら失われてゆく。

 ニコルはうなだれた。

「それは……僕が……遅刻したからです」

「だから?」

「次からは、ちゃんとお言いつけどおりにします……だから、助けて、ザフエルさん。お願い」

 完落ち。完全敗北。

 ニコルは、がくりと床に突っ伏した。どうせ、その一言を言わせたかったに違いない。恐れ多くも公国元帥に対して、こんな悲しい部下ハラスメントがあるだろうか。いや、ない。

「ふむ」

 ザフエルは、おもむろに片膝を折った。ニコルの前に屈み込む。

 薄情きわまりなかった表情が、ほんの少し。おそらく、ザフエル自身も気付かないほどかすかにゆるんだ。

「素直でよろしい」

 黒手袋の手を、そっけなく差し伸べる。

「好きで素直になってるんじゃありません……」

 ニコルは、その手を取った。ザフエルは手に力をこめない。仕方なく、自分からぎゅうっとザフエルの手にすがりつく。

「お願い」

「もう一回」

「お願い」

「もっと可愛く」

「お・ね・がい☆」

 直後、ミノムシのごとき書類の海から、ずるんと引きずり出された。

「ご無事ですか」

「すごく疲れました」

「それは何より」

 ニコルはへろへろになって椅子に腰を落とした。デスク上にぐんなりと身を投げ出す。

 ようやく人並みの心地となったところで、ニコルは、それはそれはぶすりとした顔で、ザフエルに向き直った。ザフエルの持ってくる話は、たいていがロクでもないことと相場が決まっているのだ。

「で、内々の相談って」

「新編成の発令は、明日の正午です。それまでに、仕事を片付けていただかねばなりません」

「じゃ、一緒に」

「よろしくお願いします」

 ぴしゃんとはねつけられる。

 どうやら、これっぽっちも手伝ってくれる気はないらしい。ニコルは、仕事する前から涙目になって、床を眺めた。

 散らばった書類が、執務室一面に広がっている。

 ほとんどが配属替えの辞令であった。師団長の承認サインが必要なのである。

 第五師団、四万五千人のうち、現状、歩兵主体のおおざっぱな師団編成から、二個四単位の混成旅団に分割。すなわち、ニコル直属として独立機甲旅団一個。ザフエルの指揮下に歩兵連隊三個、兵站、工兵、参謀部、およびチェシー麾下の騎兵連隊三個を有する変則混成旅団である。


 再編成数、つまり、異動のサインをしなければならない枚数は三万。生き地獄である。考えただけで脳みそが茹で上がる。サインが一枚。サインが二枚……あと二万九千九百九十八枚足りなーい……

 ニコルは死んだカエルみたいな顔をして、上目遣いにザフエルを見上げた。


 ふと、その右肩に目を留める。

 優雅に弧を描く金色の参謀飾緒さんぼうしょくちょ。肩から脇の下をくぐって一周し、そこから右前ボタンへ。飾り巻きされた細い緒が二本下がっている。 

 通常、そこにあるべきは、石筆を模した飾り金具である。

 が。ザフエルがつけているのは、今をときめく知的演出型最新文具。万年筆、あるいは泉筆せんひつと呼ばれるものであった。


 ニコルは、穴が空くほど万年筆を見つめた。つやつやと美しい砲金の肌理きめ。なめらかな形。当然言う。

「そのペン、貸してください」

「いやです」

 光よりも早く断られる。ニコルは机の上をごそごそと探すふりをした。引き出しを無駄に開け閉めする。

「それは困ったなーあれえおかしいなー仕事したくてもペンがないぞーこれじゃあ仕事ができないやーどうしようー困ったなー」

 上目遣いで様子を伺う。ザフエルの全身から、無言の嫌オーラがぐぬぬぬと立ちのぼっていた。あと一押しだ。にっこりと微笑む。

「貸・し・て?」

 手のひらを上にして突き出す。

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