第2話 ニコル・ディス・アーテュラス、お楽しみの真っ最中を覗いてダメージを受ける

■第2話 男装メガネっ子元帥、お楽しみの真っ最中を覗いてダメージを受ける

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第2話

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「探せ。くれぐれも他の者に知られることのないよう。分かったな」

「はっ」

 押し殺したいくつもの声が重なったあと、ちりぢりに散ってゆく。

 ザフエル・フォン・ホーラダインは、総毛立つ冷たい気配を秘めた黒い瞳をあげた。

「大変な失態だな。だがしかし」

 思いつめた吐息をもらし、口元をひきしめる。

「……まだ間に合う。間に合わせなければ」



 ……ふふふんふふん、ふん、ふふん。

 妙にベタな鼻歌が食堂の裏庭あたりから聞こえてくる。そのくせやたらと嬉しそうだ。

 

 鬱蒼とはびこる雑木林をかきわけてゆくと、ぽかぽかと日当たりの良い小さな畑がある。

 おそらく、この城塞が危機に陥ったときに作られたものだろう。数年間、いや、もしかしたらもっと放置され続け、荒れ放題だった畑が、今は――

 みずみずしく伸びた野菜でいっぱいだ。

 爽やかに甘い香りをふんだんに振りまく赤。

 太陽の光をいっぱいに吸い込んだ緑。

 なめらかな肌にきらきらと水滴を弾かせる黄色。

 それらに混じって、なぜか紫とピンクのしましまだとか、にょろにょろ変な触手が不気味にうごめく実だとかが、はちきれんばかりに実ってたわわに揺れている。

「あ、ザフエルさーん」

 畑の中からうきうきとした声が飛んだ。

「こっちこっち」

 突然呼び止められたザフエル・フォン・ホーラダインは、するどい眼を畑へと走らせた。

「ほら見て見て。どうですザフエルさん。そろそろ収穫できそうだと思いませんか」

 麦わら帽子にぐりぐりメガネ、首にはタオル、手に軍手。子犬のアップリケ付きエプロンにどこで仕入れたか黒ゴム長をびしっと決めて。

 おおよそ師団長らしからぬ装いのニコルが野菜をかき分けて現れた。

 心底嬉しそうに笑っている。腰に手を当て胸を張ったりして、よほど出来映えを誉めてもらいたいらしい。


 そうそう、もしかしたら言い忘れているかも知れないので補記しておく。


 ニコル・ディス・アーテュラスは、ティセニア軍に十八人しかいない元帥杖の所持者であり、かつ、精鋭ぞろいとしてその名を轟かせる聖ティセニア騎士団第五師団の師団長である。

 ちなみに第五師団が今までに上げてきた輝かしい武勲の大半は、ザフエルの戦術指揮によるものであってニコル自身はほとんど関与していない……このあたりはまあ、本人の名誉のためにうやむやにしておこう。

 そしてあともう一つ。

 誰にも知られてはならない、大変な秘密がニコルにはあるのだが……。


「何ですかこれは」

 ザフエルは仕方なく足を止めて無感動に応じる。

 今の季節、むしろ暑いぐらいの陽気だというのに、この男は相変わらず上から下まで隙一つない純白の軍装に身を固め、肌身離さぬ腰の黒剣に手を置いたまま、汗一つかきもしていない。

「何ですかって、ザフエルさんが言ったんでしょ。新鮮な野菜があれば兵士たちの健康管理がどうのこうのって。頑張ったんですよ、この三ヶ月。見て下さいよこのつややかな実の色。みずみずしく力強い葉っぱの緑!」

 自慢そうにニコルは鼻をこすりあげてみせる。そのせいで鼻の下に泥のチョビヒゲがべたりとくっついた。

 むろん、ザフエルはかくも愉快な事態をわざわざ是正してやるほど殊勝な男ではない。横目で冷たくちらっと見て、そのまま無視を決め込んでいる。

 チョビヒゲは晴れやかに続けた。

「ザフエルさんって、いつも妙なこと企んでるとばかり思ってましたけど、たまにはいいこと思いつくじゃないですか。ちょっと見直しちゃいました」

 ザフエルはぴくりと眉を動かした。

「私が?」

「え」

 何やら不穏当な間。

「今、何と」

「あ、いや」

 ザフエルは妙にそわそわしはじめた。

「お気になさらず。それではこれで。別件にて少々急いでおりますので」

「ん、何かあったんですか」

 ぷりぷりに熟れた実をはさみでちょんちょんともぎ始めたニコルが、働く手を止めて訊ねる。

「いえ、あの」

 ザフエルはやや気後れ気味にかぶりを振る。

「あ、じゃあちょっと手伝って下さい。食べられそうなのから順に収穫しておかなくちゃ」

 ニコルはこれ以上ないチョビヒゲの笑顔と一緒に、はさみをザフエルにひょいと手渡す。

「いや、その、私は緊急……」

「とったらそっちのかごに入れといてくださいねー」

「……はあ」


 しばらく二人で並んだまま、収穫作業を黙々と続ける。

「閣下」

 ぱちん。はさみを入れる音。

「何でしょう」

 ぱちん。再びはさみを入れる音。

「実はですね」

 ぱちん。けっこう淡々とした作業である。

「はい?」

 ぱちん。トゲがあったりするのでへたの所は気をつけたほうが良さそうだ。

「チェシー・エルドレイ・サリスヴァールの処遇について二点ほど報告があります」

 ぱちん。足下のかごが、色とりどりの野菜でみるみるいっぱいになっていく。

「要件があるなら先に言って下さいよ」

 ぱちん。ニコルはちょっと不満そうだ。

「閣下が野菜の話ばかりされるから」

 ぱちん。それでも一応手は休めない。

「当たり前でしょう。戦況報告なら執務室でお聞きしてます」

 ぱちん。ひときわ高くはさみの音が響く。

「畑にいる時間のほうが長いようにお見受けいたしておりましたが」

 ぱちん。どうやらむっとしたらしい。

「失敬な。そもそも誰がさんが野菜を作らせようなんて変な気をおこさなければちゃんと真面目に仕事してるはずでした」

 ぱちん。そろそろ競争のような感じになりつつある。

「何を仰有います。花壇の世話と馬の世話とみんなの洗濯と廊下の雑巾がけと食堂の後かたづけは閣下の任務でしょう。それに野菜作りが加わったところで大した違いは」

 ぱちん。声が喧嘩腰だ。

「全然違います。それは全部単なる趣味であって任務じゃありません」

 ぱちん。速度が上がってきた。

「野菜ぐらい作ってくれたっていいでしょう。けち」

 ぱちん。ばちん。さらにアップ。

「誰がケチですか。そもそもザフエルさんが」

 ぱちん。ばちん。ばちんばちん。ムキになりやすい性格のようだ。

「閣下以外に誰がいます。だいたいこんな収穫作業を師団参謀である私にやらせようという魂胆そのものが」

 ぱちん。ばちんばちん。ばちんばちんばちん。目にもとまらぬ神業とはこのことか。

「そんなこと言ってザフエルさんさては自分が野菜食べたかっただけなんじゃないですか」

 ばちんばちんばちばちばちばばばばばば。ここまでくるともう誰にも止められない。

「ふむ」

 さすがのザフエルも手を止める。

「そこサボらない」

「いえ」

 チチチ……と青い空に小鳥が鳴き交わし飛んで行く。ここが戦場だなどとはとても思えない、平和な風景だ。

 まぶしげにザフエルは手をかざす。遠い眼だった。

「というかもう……大変なことになってしまったようです」

 かくして野菜畑は丸裸となった。


 どうにも苦々しい気まずさが二人の間を漂っている。

 このまま下らない言い合いを続けるべきか、見るも無惨になった野菜畑損壊の責任をなすりつけ合うか、あるいは極めて不自然ながらも何ごともなかった風を装い軌道修正するかで迷っているのだろう。しかしどれも彼らのプライドが許さない。プライド以前の問題のような気がしないでもないが……。

 ザフエルはしぶしぶ方針を転換した。

「報告します」

「うかがいましょう」

 ニコルもどうにか虚脱状態から脱し、よれよれとまじめ顔をつくった。ただし顔は真面目でも、鼻の下のチョビヒゲはしっかり残ったままである。

「配属先が決まったんですね。けっこう早かったな。バラルデス卿あたりがうるさく言ってくるかと思ったのに」

「シュゼルム殿下がサリスヴァールの身元をお引き受け下さったそうです」

「ふうん、あの殿下がね」

 てんこ盛りの野菜を前に、力なく肩をすくめてみせる。

「しかしシュゼルム王子は以前からゾディアック貴族との交友があると噂される人物です。サリスヴァールの今後を考えると、あまり芳しい身元引受人とは」

 ニコルは軽く手で払いのけるふりをしてザフエルの言葉を押しとどめた。どこに眼や耳が潜んでいるか分からない場所で、迂闊なことは言わせられない。

 ニコルの意図をくみ取ったか、ザフエルも用心深くうなずいた。

「で、一度査問会を開くとのことでしたので、閣下とサリスヴァールに出席を願おうと思っていたのですが」

「了解」

 ニコルは愛想良くうなずいた。

「で、いつ」

「明日の夜です」

「いやです」

 間髪を入れず断る。

「そんなの絶対間に合うわけないです」

「今すぐ出立すれば間に合います」

「いやです」

 ニコルは泣きそうな顔をした。

「自分たちだけで食べようなんてズルいです」

「野菜と査問会とどちらが大事なんですか」

「鬼!」

「何と。しょうがありませんな。ほら」

 ザフエルはぼそりと言うなり、畑にもどってニンジンとカブをそれぞれ一本ずつ引き抜いた。

「これで我慢して下さい」


 ……って、泥つきのまま手渡されても……。


 ニコルはげんなりとザフエルを見上げた。

「もういいです。分かりました。行きます。で、肝心のチェシーさんはどこに」

「あ」

 奇妙な沈黙。

「私としたことが」

 珍しく少々青ざめた様子でザフエルは唇をひき結んだ。

「あまりにも閣下とお話しできるのが嬉しすぎて緊急事態だということをすっかり忘れていました」

「緊急事態? 何が?」

 ぽかんとするニコルに、ザフエルは闇色の瞳を向けた。ひくく声を押し殺して告げる。

「チェシー・サリスヴァールが脱走しました」

「……そんな、まさか」

 ニコルはそれだけをうめくと、続く言葉を見失って呆然と立ちすくんだ。



「正確には脱走ではありません」

 ザフエルは冷静に続けた。

「どうやら城塞内に忍び込んだ何者かとひそかに接触しているようです。ちょうど奴を追跡している最中に、閣下のお声が掛かったもので」

 ニコルはかぶりを振ろうとして、ためらった。

 チェシー・エルドレイ・サリスヴァールはとりあえず放免の身とは言え、亡命が正式に許可され、配属が決定するまでは外国人扱いのため城塞内の一室から出ることを許されていない。なのに部屋からひそかに抜け出しているということは、つまり――ザフエルの言うとおり、脱走と見なされても仕方がないのだ。

「やはりあの男、ゾディアックの」

「そんなはずありません」

 ニコルは思わず声を高くして反論する。見返してくるザフエルの乾いた眼は、まるでニコルの心の奥深くまでを晒しだしあばき立てるかのようだった。

 ザフエルはゆっくりと視線をはずし、きびすを返す。

 汚れひとつなく磨き上げられたブーツの下で、ぎりぎり聞こえるか聞こえないかのかすかな音を立てて、枯れ葉が踏みつぶされる。それほど静かだった。怖ろしいほどに。

 ニコルは静寂に耐えきれずザフエルへ駆け寄った。

「僕も一緒に探します。もしそうならまだこの近くにいるはずです」

「危険です」

 ザフエルが乾いた声で押しとどめる。ニコルはくちびるを噛んだ。

「僕は彼を信じてます。見れば……分かります。彼はそういう人間じゃない」

「閣下」

 斬って棄てるかのような声。ニコルはなぜか背筋がぞっとするのを感じて、思わずザフエルを見上げた。

「ザフエルさん……」

 ザフエルの視線は庭奥の灌木へとかたく向けられたまま、そらされもしない。

 ふいにざあっと風が鳴って、林全体を大きく揺すぶった。

「ぁっ」

 気まぐれなつむじ風が麦わら帽子をかすめ取っていく。とっさに頭を押さえるものの、突然のことに手を伸ばしてもまるで間に合わない。

 帽子は林に紛れ込み、あっという間に見えなくなった。

「僕の帽子!」

 追いかけようとしたニコルの手を、ザフエルが思いも寄らぬ強い力で掴んだ。引き戻される。

「信じる信じないは閣下のご自由です。しかしここは戦場だ。一瞬の隙が命取りになる」

 ザフエルの手甲にはめられた漆黒のルーン、《破壊のハガラズ》がぎらりとしたゆらめきを帯びて不穏に光り出す。

「もしそこに付け込まれたら」

「……っ!」

 ニコルはわずかに顔をゆがめた。

「ザフエルさん、痛い……痛いです。放して下さい」

 しかし向けられた言葉はあまりにもそっけなく、そして冷徹だった。

「チェシー・サリスヴァール一人と、第五師団四万五千人――閣下は、どちらの命を選ぶおつもりですか……?」



 ふと、ニコルは顔を上げた。チェシー・サリスヴァールの声が耳をかすめたような気がしたのだ。

「あ……」

 息を吸い止めて、耳を澄ます。

「声が」

 焦って周りを見回すものの、一瞬聞こえた気配はもうどこにも痕跡を残してはいない。

「ザフエルさん、聞こえたでしょう」

 ザフエルは無言でかぶりを振る。ニコルは突然走り出した。

「いや、確かに聞こえました。近くです」

 ノーラス城塞は広い。普段、兵士たちが行き来する前庭はすっきりと見晴らしよく、射撃の遮蔽物になるような植栽もほとんどないのだが、裏側となると険しい山の斜面を背にしているだけあって人通りも滅多になく、しんと静まり返っている。

 その、ひっそりと人目につかない場所にある、今は使われもしていないであろう古びた物見櫓の近く。


 まるでそこが秘密の落ち合い場でもあるかのように――

 互いに声をひそめた者どうしが言葉を交わし合っている。

 深く押し殺し、それでいてただならぬほど汗ばんだ息づかいを繋ぎながら。

「誰にも見つからなかったろうね」

 チェシー・サリスヴァールの低い声がした。

「……はい」

 応じる声は、女だ。

 ニコルは立ちすくんだ。

 まさか、本当に――。

 ザフエルも異変に気付いたらしい。声を出すなとくちびるに指をたて、じりじりと忍び寄っていく。


 緑の向こうに、いくつもの小さなまるい純白の花房が、まるで吹きこぼれる泡のように咲き乱れる花棚が見えた。

 優雅に垂れ下がる蔦の淡い葉がさらさら風にそよぎ、すきとおる優しい香りを乗せて、日差しの落ちる庭の狭間に艶めいた霞みを添えている。

 その、花簾の下から。

 

「……ぁっ……いや……何もこんなところでそんな、ぁぁ」

 とんでもない台詞が聞こえた。


「……な……」

 血の気が引いた。頭の中が真っ白だ。

「何……」

「ふむ」

 両手に擬装の枝を持ったザフエルが、顔だけはまじめなまま、一心不乱に声の方向を見ている。

「お楽しみの真っ最中だったとは」

「お、お楽しみっ」

 ニコルの顔色が真っ赤、真っ青、真っ白とにめまぐるしく変わっていく。

「まままま真っ最中っ……ああああ」

「閣下は見てはいけません。お子さまには目の毒です」

「ど。ど。毒ーーっ!?」

 もう顔色だけではすまない。訳の分からない妄想やらいけない想像やらが、笛吹ケトルのようにぴーっと噴出して、頭の中をぐるぐる暴走し出す。

 瞬く間にかぁっと頬が赤くなった。じたばた悶えている。ほっぺたが熱い。心臓がはじけそうだ。

(ば、馬鹿っそれどころじゃ……!)


「嫌だと言ってもやめるわけにはいかないな」

 物陰にひそむ覗き屋たちの焦燥には全く気付かないまま、チェシーは余裕たっぷりに含み笑っている。

「まるで子供のように恥ずかしがって、頬を染める君を目の前にして。可憐でいて、妖艶だ。声を聞けば聞くほど、君が欲しくなる。……くちびるを私にゆるしてくれるね? 男を酔わせて、焦らせて……その気にさせる。まるで恋の魔女だ、君は」

「ぁ、ぁん……サリスヴァールさま……そんな……恥ずかしい……っ」


「だ、だ、だめーーーーっ!」

 あまりのことにニコルは取り乱し、隠れていたことも忘れて、頭に葉っぱをくっつけ、両手にニンジンとカブを持った素っ頓狂な格好で飛び出した。

「それ以上はだめーーーーーっ!!!」



「し、師団長っ!」

 サリスヴァールに半分、というかほとんど脱がされかけていた女性兵士が悲鳴を上げて跳ね起きた。細腕の一本や二本ではとても隠しきれない豊かな胸をかき抱いてあとずさり、青ざめる。

 ザフエルのしかめっ面が、たぷんたぷん揺れる胸の谷間にぐぐぅと吸い寄せられた。

「こらーーっ!」

 ニコルは思い切りザフエルの耳を引っ張った。

「どこ見てるんです!」

「あ、あんたらこそ何やってるんだそこで」

 さすがに驚いたのか呆然としているサリスヴァールを後目に、ニコルは女性兵士につかつかと歩み寄った。

「それはこっちのセリフです! ……フェリシア上等兵」

 いきなり呼びつける。女性兵士が涙に濡れた眼をすくませた。

「は、はい」

「もっと自分を大事にしなくちゃだめじゃないですか! こんな奴の口車に乗せられたりなんかして」

「申し訳ございません……!」

 女性兵士はそこらじゅうに散らばった服を拾い集め、あわてふためいて逃げていった。

「あんたもさっさと服を着ろっ!」

 ニコルは後ろを向いたまま真っ赤な顔で怒鳴った。

「いいところだったのに」

「悪いところだらけじゃないですか!」

「覗き魔の分際で何を言うか」

 苦笑しながら、サリスヴァールはベンチに放り投げていたゾディアックの軍装に腕を通した。

「フェリシアというのか。良い名だ。それに」

 にやりと唇に指を触れ、狼のように舌なめずりして含み笑う。

「……なかなかセクシーだ。いずれ改めてお相手を願うとしよう」

 野性味あふれた目つきだった。思わずぞくりとする。

 ニコルは青ざめた。

 危険だ。あまりにも危険すぎる。ちょっとでも目を離せばこの男、それこそ師団中の女性という女性を片っ端から口説いてしまいかねない。羊の群に餓えた狼を放つようなものだ。いたいけな美少女兵士たち(注:怪力自慢の”元”美少女も含まれます)が次々サリスヴァールの毒牙にかかる(注:かどうかは定かではありませんが)などということになったら。


 ……想像するだに怖ろしい。まさに悪夢だ……!


「だめ! 却下! 許可しません! 差し戻し!」

 頭がまだ、熱気に圧されてくらくらとしている。ニコルは必死に平静を取り繕いながら反撃した。

「だいたい何で勝手にウロウロしてるんですか。自室で待機って言ったでしょう」

「そんなに怒るな。別にいいだろ。しゃれた大人の会話を楽しむぐらい」

 チェシーはまたにやりとした。

「恋の駆け引きは騎士として当然のたしなみだ」

「だからってどうしていきなり駆け引きになるんです」

 ニコルはうがーっとばかりにかみついた。

「どうせ名前も聞かず出会い頭に痴れ言かましたんでしょう。『君に出会えたのはきっと神の導きにちがいない私は神など信じないが今この瞬間だけは美と愛の女神に感謝しなければな』とか言って」

「ぐっ」

 どうやら図星だったようだ。ニコルは勢いに乗って続けた。

「少しは自制して下さいこの女たらし。すけべ。嘘つき」

「やかましい」

 矢継ぎ早に言われカチンときたのか、チェシーは腹立たしげに言い返した。

「いくら私に落ち度があったとはいえ、謂われなき誹りまで受ける筋合いはない。女たらしやスケベはともかくとして」

 ……否定しないのもどうかと思うが……。

「嘘つきとは聞き捨てならないな。どういうことだ。聞かせてもらおうか。私がいつ嘘をついた。それとも」

 精悍な眼がにやりと光り出す。悪辣な笑い方だった。

「まさか君、妬いてるんじゃあるまいな」

「ぅぇっ」

 突飛すぎる指摘にニコルは虚をつかれ、あからさまにうろたえた。

「ど、ど、どうして僕が貴方なんかにやきもちやき、やきゃ、やかないといけないんでですか」

「何ですと『閣下サリスヴァールに嫉妬中か!?』」

 すかさずザフエルがポケットからいつもの「ニコルマル秘メモ」を取り出し、何やら書き込もうとする。

「誤解されるようなことを書くな」

 チェシーはザフエルの手からすばやくメモを取り上げた。ぺらぺらとめくる。

「こりゃ凄い。だがまあ、私のことじゃないからいいか」

 そう言いつつ、最後のページだけをびりっと破り取って丸め、後ろへ放り投げる。

「そういう問題じゃないでしょう!」

「そう言う問題なんだよ」

「チェシーさんの場合は遊びすぎなんですよ。もう少し反省したらどうなんですか!」

「大は小を兼ねるというぞ」

「過ぎたるは猶及ばざる如しの間違いでしょ」

「だが食うだけなら犬でも食うんだ」

 チェシーは開き直った。

「人生はスリルだ。人妻だ。未亡人も捨て難いが」

 チェシーは爽やかにうそぶいた。

「何というか情熱的だ。この間なんていきなり」


「いきなり、何です」

 ニコルはひくく言った。手が震えている。

「あ、いや」

 チェシーはまじまじとニコルを見下ろし、やや気まずそうに口ごもった。

「これは失言だった」

「いい加減にして下さい!」

 ふいに虚しい怒りがこみ上げた。

「人妻話でも何でも勝手にしてればいいでしょう」

 突き放したニコルの声に、さすがのチェシーも笑みを引っ込めた。

「ニコル」

「こんな脱走まがいの騒ぎを起こしておいて。どれほど皆が心配したと思ってるんですか。僕だって」

 冷静に言い放ったつもりが、語尾が甲高くふるえ、途切れた。声がのどにつまる。

 ニコルはいきなり顔をそむけた。

「ザフエルさん。出かけます。馬を用意しといてください」

 言い捨てると、ニコルはザフエルの返答すら待たず、まるで逃げ出すかのように駆け去っていった。


「やれやれ」

 チェシーはため息をついた。

「本気で怒ってるな、あれは」

 消えていくニコルの背中を、どこか眈々と見送る。ザフエルが静かに応じた。

「笑い事では済みませんな」

「ああ」

 油断していたとはいえ、いつの間にかザフエルに背後を取られている。

 チェシー・サリスヴァールは振り向けないまま、わずかにくちびるを苦々しい笑いの形につりあげた。

「……あんたの、その殺気もな」


 ザフエルは答えない。ただ腰の黒剣にのみ手を這わせ、底知れぬ無情の眼で低く身構えている。

 チェシー・サリスヴァールは大儀そうに手を上げ、頭の後ろで組んだ。

「確かに浅慮だった。それは詫びる」

 総毛立つ戦慄を巧妙に塗り隠し、笑う。

「だが他意はなかった。フェリシアとかいう女性もゾディアックとは無関係だ。それだけは信じてくれ」


 薄ら寒い風が、首筋をざわりとかすめていく。


「……後でニコルにも詫びを入れに行く。それでいいだろう」

 返事はない。

 振り向いたそこにはもう、誰の姿もなかった。いつのまに消えたのかも分からない。

 チェシーは気をゆるめ、安堵の短い吐息をもらした。本来なら《栄光のティワズ》を二連装備しているはずの手首を、感慨深げに握り押さえる。


 ふたたび、さあっと風が巻きおこった。

 夢みがちに揺れていた白い花房が、一斉に横方向へ吹き流された。無数の花びらが音もなく舞い散ってゆく。

「……風が強いな」

 チェシーは目の前にぶら下がった花の実を乱暴に引きむしった。濃い紫色の実が、ばらばらと指の隙間からこぼれ落ちる。

「ザフエル・フォン・ホーラダイン、か」

 ――この世界で唯一、《破壊》のルーンを手にする人物。

 地面にちらばる花の実を、含みありげにながめて。

「なるほどな」

 無造作にブーツで踏みにじる。黒い汁がにじんだ。

 チェシーは不敵な眼差しをもたげ、つぶやいた。

「さては、見透かされたかな」



 ニコルは執務室に飛び込んで扉を乱暴に閉めた。

 そのまま壁にもたれ、額を押さえて大きく息を吐き出す。

 分からない。

 チェシーの取った態度。傲慢で、横柄で。本当にむかむかと腹が立って、許せなくて仕方がないのに。


 涙が出そうだった。


「……師団長ーっ!」

 突然、ばたばたと甲高い声が近づいた。

「お出かけの準備はお済みですかっ!?」

 ニコルは驚いて壁から身を浮かせ、我知らず浮かんでいた涙をぎゅっと拭った。

 従卒のアンシュベルがリュックを手に駆け寄ってくる。従卒といっても軍務にはつかず、ニコルの身の回りを世話して――引っかき回してくれるともいう――十五になったばかりの子だ。

「ご、ごめん、寝ちゃってたよ」

 わざと大あくびの真似をし、目をごしごしと両手でこすってごまかす。


「それはいけませんですうっ! 急がなくっちゃだめじゃないですかホラぱんつサンにはぶらしサンにそれからえっとー」

 アンシュベルは、ニコルの様子に気付かないまま、こまねずみのように部屋から出たり入ったり、ぐるぐると走り回った。あれでよく目が回らないものだ。

「アンシュベル、そんなに急がなくても大丈夫……」


「えうっ!」

 言いかけたとき、いきなり何もないところでアンシュベルは盛大にずっこけた。

 手に持っていた着替えやら小物やらを、ものの見事にばらまく。

「きゃーーーっ!」

「うわあっ」

 起きあがろうにも何をどうすればこんなことになるのか、スカートが頭の上でぐるぐるにからまって、酸欠の金魚みたいに床でじたばたしている。

「起きれないですっ! どうなってるですーーっ!」

「……それよりこのパンツどうにかして……」

 降ってきたピンクのしましまトランクスをあみだに被ったニコルが情けなく訴えた、そのとき。


「ニコル、邪魔するぞ」

 いきなり部屋のドアが開いた。ノックもせずにチェシーが顔を覗かせる。

「謝りに来た。さっきは悪かっ……」


 時間が凍りつく。チェシーはドアノブに手を掛けたままの状態で動かなくなった。


「……あ、あの」

 おそるおそる声をかける。

「……チェシーさん?」

 返事がない。

 汗がたらたら流れ出した。

「ええとですね、これにはその、いろいろと訳があって……」

「ニコル」

 チェシーは押し殺した声をあげた。

「……は、はい」

 何を言われるかと身を固くしたニコルの目の前で。

「邪魔して悪かった」

 チェシーはいきなりドアをばたりと閉めた。


「チェシーさん!」

 ニコルは悲鳴にちかい叫びをあげて、閉まりゆくドアにすがりついた。

「変な誤解しないでください!」

「パンツ被る趣味があったとはな」

 くっくっと皮肉に笑う声が聞こえた。

「これはもう、ホーラダイン中将に教えるしかないな」

「うえっ」

 絶句する。

「彼の秘密メモは相当ヤバイぞ。間違いなく全面ぶち抜きで書かれるな。『ニコル師団長、変態趣味発覚!』」

「な、な、何……」

 ふらふらとよろめく。

 あの男ならやるかもしれない。いいや、絶対やる。それこそ鬼の首を取ったような勢いでゴシップ怪文書をばらまいて歩くに違いない。

「うあああああ……」


 これは悪夢だ。

 悪夢に違いない。

 悪夢であって欲しい……!


「それが嫌なら先ほどのあれを取り消せ」

 わずかにドアが開く。薄暗い隙間からチェシーの目だけがにやにやと凶悪に光っていた。

「さもなくば永遠に誤解し続けてやる」

「チェシーさん」

 ニコルは低く呻いた。

「あなたって人は……!」

「何とでも言えコスプレマニア」

「マニアって言うなあっ!」

「じゃあもっと言ってやる。変態。悪趣味」

「あうっ」

 言葉がぐさりと胸に突き刺さる。

「チョビヒゲ。覗き魔。金魚フェチ」

「うぐっ」

「……やきもち焼き」

「妬いてません! 妬いてないってば!」

「ほほう」

 喜色満面、まさに悪魔の笑みだった。

「……そっちの気か。第一面差し替えだな。『ニコル師団長ホモ疑惑!』 だが私にだけは惚れるなよ。ホーラダイン中将が待っている」

「違う違うちがあああああーーーう!」


 かくてニコルの悲痛な叫びは、魔王のごときチェシーの高笑いと幾重にも重なり合い響きあって、「またかよ…」という兵士たちの嘆息を引き起こしつつ、城塞じゅうにいつまでも、いつまでもこだましていくのであった……。


……対チェシー戦。本日も惨敗なり……。


【第2話 終】

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