「やっぱりあんたが首謀者ですか……そうですか」

 ……と、分かってはいるけれど。

 これではあまりにも。

 ニコルは泣きそうになった。


 胸が、実物と違いすぎる!!!


「我々は芸術を愛しているのです」

 ザフエルは言い切った。ニコルは、はっと我に返った。このままではまずい。またいつもの如くダンゴムシレベルで丸め込まれる。


 今日こそは。絶対に。言い負かしてやらなければならない!


 という鉄の決意を胸にかたく抱いて、ニコルは魔王に立ち向かう勇者よろしくザフエルへと向き直った。

 大きく息を吸い込み、訓示を垂れる。


「よ、よろしいですかザフエルさん。師団参謀幕僚であり、かつ副司令官の地位にある貴方がまずは率先して紊乱する風紀を正すべく管理せねばならぬというのに、逆にこのようなお下劣でみだりがましい笑い絵を……」


「まったくげんなりだぞ、ホーラダイン中将」

 よせばいいのに、尻馬に乗ったチェシーが茶々を入れる。

「この絵にはすっかり騙されてしまった。あやうく男なんかに口づけてしまうところだったじゃないか。申し訳ないが私はそちらの趣味だけは全然ないんだ」


 なんかという所を異様に強調しつつ、冷や汗を拭っている。


 ザフエルは、じろりと横目でチェシーをねめつけた。

「それはそれでまたネタになりますので、どうぞまたやってください」

 ぼそりと抑揚少なに言い放つ。


 ニコルは、耳をぴくりとそばだてた。気のせいか今、とんでもないセリフが聞こえたような。


「なんですと?」

 用心深く聞きとがめる。


「そっち方面は女性士官が喜びます」

 気のせいか今、もっととんでもないセリフが聞こえたような。


 ニコルは念を入れてさらに確認した。

「誰が喜ぶって?」


 どうやら解説が足りなかったと自覚したのか。ザフエルは事細かに説明を始めた。

「ですから看護兵とか補給部隊とかの腐女子士官が。私には貴族として芸術一般を庇護する義務がございますので、そっちにはそっち用の薄い本をですな」


 ……。

 何かが、ぷちっと切れた。

 ……かもしれない。


 ニコルはゆっくりと顔を上げた。闇の微笑が口元を彩っている。

「ザフエル・フォン・ホーラダイン中将」

「何でしょう閣下」

「ひとつ、尋ねてもいいですか」

「何なりと」

「むろん、出回っているのは、これ一枚ですよね」

「んなわけないでしょう」


 そのとたん、固唾を飲んで成り行きを見守っていた兵士たちが全員、焦った音をカサつかせつつ、手に隠し持った色刷りの絵を背中へと隠した。


 ニコルは薄暗い微笑みを全員へと配った。さらに笑みが深まる。

「今すぐ、全て回収・破棄してください」

「せっかく描いたのに」

 ザフエルが目を伏せて不服げにつぶやく。


「やっぱりあんたが首謀者ですか……そうですか」


 ニコルは納得して何度もうなずいた。ぐりぐりメガネが、裡に闇を秘め隠して白く、ぎろりとまたたく。

 ザフエルは、揺るぎ燃えるかぎろいのごとく増大し始めたニコルの闇にあとずさった。黒い前髪の下、額に光るわずかな光は、汗か、それとも。


「まあまあ、これは軽い冗談として。いいじゃないか、この辺で。けっこう可愛かったぞ」

 無駄に空気を読んだチェシーが苦笑いして仲裁に入ろうとする。


 だが、当のザフエルはすでに、人差し指と中指の間に不思議な紋様の浮かび上がるカードを挟み、ぼそりと念じていた。


  ──‡神の御名において、この一撃を無力化せよ‡──


 《カード》に折り込まれた古代文字の呪魂が、命ある光の帯に変わってくねりながらほどけ、その場に浮かび上がった。白い光が砂のようにたなびき、空に一文字ずつ、力ある言霊を撃ち込んでいく。


 《 物理攻撃無力化ディセイヴュル》。身体への直接攻撃をすべて防ぐ効果があるカード魔法である。


「ん?」

 チェシーが、きょとんと振り返る。ザフエルはカードを携えた指先で薔薇十字ローゼンクロイツの印を切ってみせた。肩をすくめる。

「……来ますよ」

「何が」


 ザフエルはやれやれとため息を付いた。明らかに無能を見る目で蔑んだあと、わざとらしく目線をそらす。

「ご愁傷様ですな。ま、私はちゃっかり安全ですが」

「何がご愁傷だ。途中で止めるな。気になるだろ、おい?」


 焦ってザフエルの胸ぐらを掴み、ぐらぐら揺すぶるチェシーの耳に、ぞっとするニコルの声が飛び込んできた。

「今度という今度は勘弁なりません。ザフエルさん……あんたって人は……!」


「ふむ、今回は少々悪ノリしすぎたようです」

 ザフエルは妙に冷静なまま、どこからか取り出した「ニコル司令マル秘メモ」ノートにすらすらと何かを書き止めた。

「これでよし」


「どこがそれでヨシなんですかあっ! っていうかそのマル秘メモって何なんですかちくしょうどこまで僕を馬鹿にしたら気が済むんだいつもいつも揶揄ってばかりで! どうせどうせどうせ僕なんかザフエルさんのばかあああああ!」


 ニコルは、完全に理性崩壊状態に陥った。黒く光る《カード》を抜き放つ。


「おい……それは……!」

 ニコルの手にした《カード》を見て顔面蒼白になったのは、実はチェシーだけではなかった。


 青黒く輝く闇をまといつけた銀と黒の装飾。骨と、頭蓋骨と、無数の狂気を積み上げた死の凱旋門が描かれたその《カード》の中で、現実には動いて見えるはずのない扉の絵が、死者の呻きをきしませながら、少しずつ開いてゆく。


 ザフエルも、実はほんのちょっとばかり顔を引きつらせていた。


 《物理攻撃無力化ディセイヴュル》の効かない全体魔法。場に居合わせた者すべてに等しく地獄を垣間見せる暗黒の呪。

 まさか、そんなものを、こんな城の中で。



  ──‡死と暗黒をつかさどる闇の門番に命ず‡──



「さすがに待て、君も聖騎士なのだろう。いやしくも聖騎士たるものそのような闇属性の凶悪な魔術を、このような場所でぶっ放……だから待てと言っている! おい、やめろ、話を聞け……!」


 手を突き出して断然拒否の構えで後ずさりながら、チェシーがわめいた。


 ニコルは聞いていない。頭上にかざされた闇属性の《カード》から、青白い稲妻が噴出し、まとわりついた。放たれた暗黒の光が、《カード》を中心に凄まじく膨らんでゆく。



  ──‡開け、死の門ガルテ・モルティス!‡──



「待て待て待てまてまてぎゃああああああ……!」

「……ふむっ」


 ノーラス城砦の最上階から、暗黒の刃と爆風が無数に解き放たれた。狂乱の黒い光が、窓という窓を突き破り、放射状に噴き上がり、一帯をけたたましく嗤い散らす死霊の阿鼻叫喚で埋め尽くしてゆく。


 その結果は。


 師団長執務室はもとより。左右につらなる城砦の廊下を東から西へと吹き抜けた先に突き当たる塔二本にいたるまでまるごと根元から吹っ飛ばすという、まさしく地獄絵図であった……。


 しかしてその数分後。


「何だこのバカみたいな威力は! 君は馬鹿か? 馬鹿なのか? 馬鹿なんだな!?」

 瓦礫にうずもれたソファの下から、チェシーが頭に割れた花瓶を乗せて怒鳴っている。


「この状況をどう思われますかな、師団長閣下」

 ザフエルは冷ややかに腕を組んだ。同感、とばかりに周囲を見渡す。


「……ぅっ」

「閣下がやったんですよ。お分かりいただけますか」

「……ぅぅっ」

「あのボロボロの壁も、あの影も形もない窓も、あのドアというには単なる敷居しかないドアも全部。閣下がぶち抜いたんですからな。当然、修繕費は師団の予算からではなく、閣下のお小遣いから七割天引きしますが、ご承諾いただけますかな」

「……すいません」


 蚊の泣くような声で、ニコルはしょんぼりとうなだれる。


「いいですか閣下。ちゃんと後かたづけしておくように。床に落ちてるガラスも見落とさないように。だれか怪我すると危ないですからな」

 冷酷な一言を残して、ザフエルはきびすを返した。


「……はい……すみません、うっ……ぅぅぅ……うぇぇん……」


 その後、ザフエルに命じられ一人ぼっちで掃除させられるニコルのすすり泣きが、兵士たちの耳にいつまでも、いつまでも痛々しく聞こえ続けていたとかいなかったとか……。



 聖ティセニア公国とゾディアック帝国。

 敵対し、憎み合ってきた二つの国に、今ようやく、新しい時代の波が押し寄せてこようとしていた。


 それは、たった一人の亡命者によってもたらされた、めくるめく冒険。

 甘く、せつなく、危険な運命の罠が待ち受けているとも知らず――



【第一話 終】

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