第1話 はじめてのいたみ

 両目を横断するように遮光グラスをつけたそのひとは、カラメーと名乗りました。

 どうやら、兄さんを騎士に取り立てるため、こんな辺鄙へんぴな村まで、王国の首都からわざわざきてくれたそうです。

 喜ぶ兄さんを見て、私は嬉しいような、だけれど少しさびしいような気持になりました。

 モーブ・マークウィッスル。

 私ことキリノ・ネーコは、彼をひどく慕っていたからです。

 ……兄さんは、そのことに気が付いていません。

 彼はとても優しいですが、同時に特別鈍感なところがあるからです。

 だから彼は気が付きません。騎士になるということは、離れ離れになるということに。

 そうして、カラメーさんの遮光グラスの下の目が、彼ではなく、私を見ていたことに。


「ご家族の資質も、確認させてもらって宜しいでしょうか?」


 カラメーさんはそう言いました。

 なんでも、騎士になれる人間は、家系的にもその形質を大きく秘めているとかで、兄さん以外にもその形質が見られれば、間違いなくスカウトできるのだとか。


「え、でもそれって……」


 兄さんは苦い顔をしました。

 彼の実の父親であり、いまの私の父でもある人物は、いま現在、家にはいません。遠くの街へ出かけているのです。

 母も、それに同行していますし、もともと私の母と彼に血のつながりはありません。

 つまり、このままでは彼の形質が遺伝によるものかチェックする方法がないのです。


「それは、困りましたね……わたくしも暇ではありませんから、そう長く滞在することはできません。このままでは、モーブくんの志願は諦めてもらうしか……」

「そんな!」


 兄さんは悲鳴を上げました。

 その普段は優しげな顔が、いまは悲しみに歪んでいます。

 キュッと、私の胸が苦しくなります。

 なんとかしてあげたいと、そう思ったのです。


「あの!」


 私は言いました。


「あの、なんとかなりませんか! 兄さんは、本気で騎士になることを望んでいて、毎日欠かすことなく、遅くまで訓練をしていて……本気、なんです! なんとかなりませんか!」

「キリノ……」


 兄さんが感極まったような顔で私を見ています。

 私はそれに応えてあげたくて、さらにカラメーさんへ訴えかけました。


「お願いします! 兄さんの資質を調査するだけでも!」


 深く頭を下げる私。

 しばしの沈黙の末、カラメーさんは。


「……それでは、モーブくん。すこし、妹さんと二人きりでお話をさせてもらうかな?」


 そう、言いました。



◎◎



「ありていにいえば、君のお兄さんに騎士の資質はない」


 兄さんが席を外すなり、カラメーさんはきっぱりとそう言い放ちました。


「まったくの無力だ。ぜんぜん、かけらも、これっぽっちも素養がない」

「そんな……だって兄さんは!」

「努力をしていることは認めますが、それでどうこうなるほど、騎士は甘い職業ではありませんよ、キリノ・ネーコさん?」


 たしなめるようにそんなことを言われてしまいます。

 たしかに、その通りかもしれません。

 騎士になることは難しいのかもしれませんし、兄にはその力がないのかもしれない。

 でも、私はそれでも、彼に夢をかなえてもらいたいと、そう思ったのです。

 だから、


「……わたくしが書類にひとことことづけをすれば、彼を騎士にすることは容易いのですよ?」

「本当ですか!?」


 その言葉に、飛び付いてしまいました。

 バッと顔を上げ、目に入ったのは、舌なめずりする男の表情で──


「ただし……条件があります」


 カラメーさんは、言いました。


「あなたがモーブ君と同じ資質試験を受けるのです」

「私が?」

「そう、騎士になれるものは、その親族にも同じ傾向がみられるはずですから、それを材料に上を説得します」

「で、でも……私、兄さんと血がつながっている訳じゃ……」

「そのぐらい書類上の事ですよ、わたくしがいくらでも捻じ曲げてあげましょう。ただ、詭弁をはかるにも、事実は必要です。つまり、あなたに協力してもらわなければお兄さんは騎士にはなれな──」

「や、やります! 私、兄さんの為なら、なんだって!」


 カラメーさんの言葉を遮るようにして、私は叫んでいました。

 だって、こんなところで兄さんの夢を終わらせたくなかったからです。

 その想いが、嘘だったなんて思いません。それは確かに真実だったのです。

 でも……すこしだけ、揺らいでしまいました。


「では……してもらいましょうか、ねぇ……?」


 その男の、狡猾な笑みを見てしまった、その瞬間に。



◎◎



「──というわけで、これからモーブくんとキリノさんには、さっそく試験を受けて頂きます。いやぁ、準備をしてきてよかった、無駄にならず本当に」


 にっこりと笑うカラメーさん。

 先程までの、蛇のような表情は、もうどこにもありません。

 見間違え、だったのかもしれません……


「すごいや! キリノ、どんな手品を使ったんだい? 色気かな!」

「もう! 兄さん、そんな馬鹿なこと言っている暇があったら、気を引き締めてよね!」


 これで騎士になれなかったら、困るのは兄さんなのですから。

 そう続けますが、私の言葉など聞こえていないように彼は喜び続けます。

 そうして──地獄のような試験が始まったのです。


「まずは体力のテストです。そうですね、いまから42.195キロメルトルほど、ランニングをしていただきましょうか」


 カラメーさんは気楽そうに言いますが、それはプロの騎士が訓練で走るのとおなじ距離です。

 いきなりのことに顔色を青くする兄さんへ、


「だいじょうぶよ、私も、一緒に走るから」


 そんな風に私は、彼を勇気づけ、そうして号令とともに、一緒に走りだしました。

 ランニングは、とても大変でした。

 整備された王都の道ならともかく、このあたりは坂や山ばかりです。そんなところを、延々と走り続けるのですから、苦痛でしかありません。

 兄さんは、それでもカラメーさんにいいところをみせたいのか、


「うおおおおおおおおおお!」


 と、雄たけびを上げ、全速力で走っています。

 しかし、


「あれではじきに体力が切れますね……やはり、きみのお兄さんは資質がないのでは?」

「そんなこと、ないっ」


 私も、唇を噛み締めながら、先を行く兄さんの背中を追いかけて必死に走ります。

 その横を平気な顔で並走するカラメーさん。

 男は私に囁き続けます。


「おや、お兄さんはだんだん声が小さくなってきましたよ? ほら、身体もふらつき始めて、あらら、顎が上がってしまった。必死な表情ですねぇ……あれで走っているつもりなのですかね?」

「黙って、くださいっ、兄さんは、必死で」

「いいのですかぁ? わたくしにそんな口をきいて? お兄さん、見捨ててしまいますよ?」

「っ!」


 歯噛みする私。

 カラメーさんはニヤニヤといやらしく笑います。


「あー、お兄さんはもうバテバテですね、いまにもドロップアウトしそうだ。たった30キロ走ったぐらいでだらしのない」

「くっ……」

「それに比べて、あなたは苦し気はあるが、頑張っている。どうですか? だんだん気持ちがよくなってきたのでは?」


 気持ちいい?

 そんなわけありません。こんなのは苦しいだけです。

 息を吸い込むたびに肺が痛んで、筋肉は悲鳴を上げて、もう手を振るのだって、足を一歩上げるのだってつらい。ここまで苦しい思いをするのは、はじめてでした。


「本当に?」

「ほんとうよ……こんなの、気持ちいいわけ……キツいだけで、苦しいだけで……」


 ……でも、どうして?

 どうしてなの?

 さっきから、なんだか頭のなかが、ふわふわしてきて。

 だんだん……


「だんだん……気持ちがよくなってきた?」

「そ、そんなわけぇ……」


 そんなわけない。

 こんなことで気持ち良くなるなんて。


「ふふふ」


 男が笑います。

 汗ひとつかくことなく一定のペースで走り続けながら、私の耳元に唇を寄せて、カラメーさんは囁きました。


「もっと、正直になりなさい。ほうら、お兄さんは目の前ですよ? もっと走って、もっと激しく手を振って! 追い抜いてしまいなさい!」

「そんな! そんな……!」


 出来るわけありません。

 あんな必死な兄さんを前にして。

 なのに、身体が勝手に。


「ランナーズ・ハイ。疲労の極限に達し、それでも走り続けたものだけがその領域に至れるのです。恍惚と陶酔は、痛みや苦しみを消す。これは騎士にとって必須の技能。あのタマキィー・アスナトリアなど、毎日こなしているのですよ。さあ、抵抗など諦めて、快楽に飲まれてしまいなさい!」

「あ、ああ……あああ!」


 ……こんな、こんなことを……タマキィーおねえちゃんは、毎日味わっているの?

 

 そう思ってしまった瞬間、肺の痛みが遠ざかり、パッと頭が真っ白になりました。

 うっとりと心がただれ、すべてが快楽に押し流されていくのが解りました。


「あ、あへぇええええ……」


 それが、男の言う達するということだと理解したとき、私は、兄さんを抜き去っていたのです。

 気が付いたとき、私はフルマラソンを完走していました。

 夢見心地のまま、カラメーさんの分厚い胸板に倒れ掛かると、そのがっしりした体が私を支えてくれます。

 なにか、強い安心感がありました。


「ブラボー、おお、ブラボー!」


 男の声を聴きながら、私は自分の口元が笑っていることに気が付きました。

 いやらしい、笑みでした。


「思っていたよりも逸材ですねぇ……これは、これからが楽しみです」


 ハァハァと荒く息をつき、快楽で朦朧もうろうとする私の耳朶には、男のそんな呟きは、ほとんど届かなかったのでした。

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