御手洗

去年の夏のことである。

午前に講義がなかったので、僕は早めの昼食をとり、早めに午後の教室に向かった。

さて、トイレに行きたい。

時刻は食堂のピーク時間。おそらく今ならトイレはそんなに混んでいないはずだ。


いざトイレに向かってみると思いのほか混雑していた。空いている個室は1つだけ。入口から最も手前の小部屋に僕は入った。


「ふぅ……」

人心地つく。一瞬の解放感が僕を襲う。

ザァァ。ガチャリ。バタン。

隣の人が出ていったらしい。

バタン。ガチャリ。

ほとんど間髪入れずに隣に人が入ってきた。お昼どきにも関わらず、案外利用者は多いようだ。


「キヒヒヒヒッ」

甲高い笑い声が響く。おそらく先程入ってきた隣人だ。

正直、笑い声などトイレで聞きたいものではない。ましてあんな不気味な声を聞いたら出るものも出なくなるではないか。

パキリ。

唐突にリポビ〇ンDを開けるような音がした。

「オェェ。ウェッ。ゲホッ、ゲホッ。オェェ」

続いて咳込み嘔吐する音が聞こえた。


コイツはヤバい。やはり大学にはクスリに手を出してる奴がいるのだろうか。それとも単純に病気か。

ぜひ、後者であって欲しいが、どちらにしても関わりたくはない。

ザァァ。ガチャリ。バタン。

考えることは同じなのだろうか。誰かが出ていった。音が遠い。奥の人だろうか。

ザァァ。ガチャリ。バタン。

続けて誰かが出ていく。けれどやはり少し遠い。

その間も笑い声と咳と吐く音が響く。

もし、今出て、隣の人と鉢合わせたら嫌だな。などと考えているうちに時が進む。

個室は4つ。次に出ていってくれれば……。


突然、笑い声がピタリと止んだ。


ザァァ。ガチャリ。バタン。


キタ。これで出られる。

トイレのレバーに手をかけた時。


「キヒヒヒヒッ」


笑い声が響き渡った。


おかしい。さっきのは確かに近くでの音だった。もう、トイレに人はいないはずだ。

いや、分からない。手洗場なんかにいるのかもしれない。

そろそろ行かねば午後の授業に遅れる。

僕は恐る恐るドアを開けた。


誰もいない。個室は全部ドアが開いているし、手洗場にも誰もいない。

それなのに。


「キヒヒヒヒッ。オェッ。ゲフッ。ウェッ」

笑い、咳込み、吐く。


ダメだ。もう行かないと、本当に遅れてしまう。


手を洗ってもう一度、個室を見に行く。


一番手前の、僕の入っていた個室が閉まっていた。


手を洗っている間に誰かが入った? いや、少なくとも僕はそんなの見ていない。

手洗場は入口のすぐ横だし、気づかなかったはずはないのだけれど……。


ガチャリ。


鍵の開く音がした。


僕は一目散に逃げた。


予鈴がなり、耳にへばりついた甲高い哄笑がかき消される。


教室に駆け込むと、まだ始まってないよと友達に笑われた。なんだか脱力して、僕はどさりと椅子に腰かけた。


あのとき、あのドアをノックして中の人を確認するくらいの度胸があったならと思わなでもない。


でも、僕はあのドアをノックすべきではなかったようにも思うのだ。もしも、そうしていればこれまでの僕を否定し、僕が僕でなくなっただろうという不思議な予感がある。


授業開始のチャイムが鳴り、いつもの退屈な90分が始まる。


こうしてまた、僕の元へ日常が戻ってきた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ボクノ奇譚 桑原 樹 @graveground

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ