四 奇妙な同居生活

 確かに朝食に呼んだのは僕だけれど、ヒイカが本当に食べに来てくれるとは思ってなくて、驚いた。

 ただ、朝食を口に詰め込むヒイカは、どこかヤケになっているようにも見えた。

 確かにヤケにならなければやってられないのかもしれない。心が崩れ落ちそうなのかもしれない。


「ねぇ。昨日の話でひとつ疑問に思ったことがあるんだけど」


 口の中いっぱいにほおばっていたサラダを飲み下して、ヒイカが言った。


「どうやったら赤ちゃんって、おなかの中にできるの?」


 むせた。盛大にむせた。

 なんだって今そんな質問をするんだ。子供がする、大人が最も困る質問を。


「なにむせてんのよ。……だって昨日の話を聞いて、おかしいと思ったんだもん。私はずっと、結婚したら赤ちゃんって自然におなかに宿ると思ってたの。でもあなたたちは結婚する前にできたんでしょ? じゃあ、結婚する前にも赤ちゃんってできることがあるのかなーって」

「や、いやぁ……それはねぇえーっと……」


 僕が困っているとにんまりと、ヒイカがいたずらが成功したみたいな意地悪な笑みを浮かべた。


「冗談なんだからそんなあわてないでよ。それくらいちゃんと知ってるんだから」

「え。しってる……んだ」

「キスしたらできるんでしょ? なんか、赤ちゃんができるキスと赤ちゃんができないキスがあって、大人はそれを使い分けることができるんでしょ?」

「う、うん。まぁ……まあ、そうだね……」

「未来の私と私は別人なんだって考えたとしても、私とあなたがキスするなんてなんか納得できないけど……昨日の話、あなたはウソをついてるように見えなかったからやっぱり本当のことなのよねぇ……」


 いや、ごめんなさい。今、僕、ウソをつきました。キスだけじゃなくてもっと……口にはできない色々なことをやらないと子供は生まれてこないんです。……なんて、言えるわけがない。

 でも、戸惑い慌てる僕を見て、ヒイカが笑っていた。きっとカラ元気なのだろうけれど、笑っていた。それがこんなにうれしくて安心するなんて思いもよらなかった。


「そうだ。昨日の話といえば、言いそびれてしまったことがひとつある。とても大事なことだ」


 これから告げることは、彼女の希望になるだろうか。希望になればいいと願いながら、話を続ける。


「僕の妻は天秤の神様だった。彼女と同一人物である君も天秤の神様だ。……そこまではいいね?」


 自分が神である存在ということが、いまだに実感としてないのだろう。ヒイカは戸惑った表情でうなずいた。


「つまり将来、君も神の記憶に目覚めるってことだ」


 意味がすぐに理解できなかったのか、ヒイカはぽかんとした表情で固まっている。


「僕の覚醒も唐突だったし、妻と君が同一人物だからといって、覚醒する時期が同じとは思えない。もしかすると何かのきっかけがあればすぐにでも覚醒するのかもしれない」

「え? それって、つまりはどういうこと……」

「つまり、君が覚醒して時間移動の能力に目覚めることができたら、また正常な時間の中に戻れるかもしれないってことだ」


 まだぽかんとしていて、意味がよく理解できていないらしいヒイカ。ぽかんとした表情のまま天井を眺めたりしている。彼女が一生懸命考え事をしているときの癖だ。どうやらこっちの時代のヒイカも同じ癖を持っているらしい。同一人物だから当たり前といえば当たり前だけど。

 と、唐突に、彼女は皿の音をけたたましく鳴らしながらテーブルに手をついて、身を乗り出した。


「それって、みんなが化け物になっちゃったこととか、ペリサデやチコカがいなくなっちゃったこととかも全部なかったことにできるってこと?」

「そういうことになるね」


 そう答えるとヒイカはうれしそうに笑った。さっきのカラ元気ではなく本当にうれしそうに笑った。

 だから、言いそびれた。いや、言ってはいけないと思った。少なくとも今は。


 妻が僕に時間移動の能力を使う前に言ったこと。そして今、僕がこの世にまだ存在している理由。

『時間はいくつも存在している。たとえ滅びた時間があっても、時間移動をすれば、そこに平和な時間がある』

 妻はそんなようなことを言っていたが、時間がいくつも存在しているのならば、時間移動をして平和な時間に行ったとしても、崩壊した元々の時間は平和になることがない。時間移動した先で未来を変えようとしても、元々いた時間が変化を起こすことはないということだ。だから僕は僕を殺しても存在できている。


 けれど、このことは黙っていよう。やさしいヒイカはこの事実を聞いたらきっと、この時間を捨てられなくなる。

 崩壊した世界の中で、ずっと生きていかせるなんてこと、できるはずもない。この事実は僕の胸の中にずっとしまっておこうと思う。


「ただ、あくまでこれは、君が神の記憶に覚醒できたときの話だ。どれだけの時間が必要かはわからない。何ヶ月、何年かかるかもわからない。もしかしたらずっと覚醒しないままかもしれない。それまでこの崩壊した世界で暮らさなければならない。その覚悟はできる?」


 彼女は真剣な表情で、余計なことは語らず大きく深くうなずいた。

 彼女が今そう決めたなら、協力して見守っていてあげたいと思う。けれど、きっとこの世界で生きることは過酷なことだろう。


 過酷過ぎて、彼女の心が耐えられなくなって、心がどこか遠いところへ行ってしまったらそのときは……。

 僕は、もしかしたら来るかもしれないそのときを覚悟しておこう。


 それにしてもしかし、彼女が着替えを済ませていてくれてよかった。

 彼女がずっと着ていた神の歌い手の衣装は、僕が初めて妻を目にしたときと同じ衣装で、その懐かしい記憶がよみがえって、なんだか彼女に恋をしてるような、妙な気分にさせられたから。



    ▲ ▽ ▲ ▽



 そして私と彼の、奇妙な同居生活がはじまる。

 今までは毎日、日の光の下で畑仕事を手伝っていたけれど、今は外に出ることは禁止されてずっと家の中にいる。


 ジョオアは毎日ご飯を作ってくれる。破滅した世界で食材なんかもだめになっていると聞いたのだけど、ジョオアはいつもちゃんとした食事を作ってくれた。どうやって作っているかというと、《神の力》でだ。


 左手に右手を差し込み、何でも入っているポケットのようになんでも食材を取り出して料理するのだ。


 最初は、不思議な力で左手から出てきたものなんて大丈夫だろうかと、恐る恐るだったが、今のところおなかを壊したり、変な病気にかかったりはしていないので問題なく食べている。


 朝起きて、ジョオアの作るご飯を食べて、畑仕事をすることもなく、メルク鳥の世話をすることもなく、一人で眠る。

 毎日がその繰り返しだった。

 抱きしめてくれるマリーチェママも、いろいろなところへ連れて行ってくれるペリサデも、一緒に本を読んでくれるチコカもここにはいない。そんな実感が毎日毎日、徐々に徐々に頭を侵食していく。


 どれだけ時間がかかっても、平和な時間を取り戻すと覚悟したのに。私が覚醒するのはいったいいつのことなのだろう。そればかりを考える。



    * * * *



 気がつくと、私は島の西地区を歩いている。自分がいる場所に自分で驚いた。

 その場でほっぺをつねってみる。痛かったので夢ではないらしい。

 外はあの、破滅の気に満たされて、化け物になってしまったみんながいる。危ないのはわかっている。早く帰らなければ。


 そう思ったけれど、久しぶりに外に出た開放感に包まれていると、もう少しその場にいたくなってしまう。

 ずっと家の中にこもっていたから、無意識が外に出たいと強く思ったのだろうか。無意識がもともと住んでいたその場所が恋しいと思ったのだろうか。その想いが、私の足を外に向けさせたのだろうか。


 今、目に見える範囲には破滅の気に満たされてしまった人の影はひとつもない。だったら――

 もう少し。もう少しだけ歩いたら帰ろう。


 そう思って、外の空気を胸いっぱいに取り込んで、歩き出した。

 なじみある街並みの西地区は静かなものだった。破滅の気に満たされたみんなはここには住んでいないのだろうか? それとも彼らは静かに暮らす習慣でもあるのかしら?

 そんなことを思いながら歩いていると、


「あ、雨」


 空から水滴が落ちてくる。空を見上げると、本当にそれは雲なのだあろうかと疑いたくなる、やはり紫の雲が空を覆っている。

 紫の雲からも雨が降るんだと、ちょっとした不思議にうなずきながら、道の角を曲がった。


「え?」


 マリーチェママがいた。男の人に馬乗りにされていた。そして、その男の人は、口を真っ赤にしてマリーチェママのおなかの辺りを食べていた。


「マ、マリーチェママ……!」


 マリーチェママが食べられているマリーチェママが食べられているマリーチェママが…………。


 逃げなければいけないのに、思わず声が出た。頭の中はマリーチェママのことだけだった。

 馬乗りになっていた男の人が、こちらに気づいて立ち上がる。


「マリーチェママ……」


 血まみれの唇が、私の言葉を繰り返した。

 マリーチェママも破滅の気に満たされて、人食いの化け物になってしまった。それはわかっているのに、何とか助けられるんじゃないかと、でも逃げなければと、そんな想いが一緒に頭の中に渦巻いて、動くことができない。


 男の人が、こちらにやってくる。逃げなければ食べられる。わかっているのに、目はマリーチェママに釘付けで、足は動いてくれない。

 男の人が口を大きく開いた。そのとき雨が激しさを増した。男の人は動かなくなった。膝を折って私の前にひざまづく格好になる。かと思えばしばらくして倒れこんでしまった。


 雨に濡れながら、私は動かなくなった男の人を見ていたが、やはり動かない。もちろんマリーチェママも、ピクリとも動かなかった。

 もしかしたら破滅の気に満たされた人たちは、雨に弱いのかもしれない。ぼんやりとそう思った。


「ヒイカ! こんなところにいたのか。姿が見えないから心配……」


 振り返った私を見て、ジョオアは言葉を失ったように押し黙る。どうやら私は自分でも気がつかないうちに泣いていたようだ。

 ジョオアは角の向こうの光景を見て、大体の事情を察したようだった。


 私は――たぶん抱きつく対象がそれしかなかったからだろう、ジョオアに抱きついて大声で泣いた。


「帰ろう。雨が強くなってきた。マリーチェおばさんのお墓は僕が後で作ってあげるから……」


 そう言われて肩を抱かれ、私はそれしか対象がいないから、ジョオアに寄り添いながら歩き出した。



    * * * *



 ペリサデもチコカもマリーチェママも、もういない。

 私に笑いかけてくれる人がいない。頭をなでてくれる人がいない。暖かかった家族がもう、いない。


 同居してるのは、私に暖か味をくれていたペリサデとチコカを殺して、世界を破滅に導いた人。


 でも……。


 私は座っていたベッドから降りて枕を手に持つ。寝室から出て、隣の部屋のドアを開ける。


「え、ヒイカ? どうし……」


 ジョオアが言葉を全部言う前に、彼が座っていたベッドに無理矢理もぐりこむ。


「ヒイカ?」


 もう、この人しかいない。

 私の大切な人を殺した当人であろうと、世界を破滅に導いた当人であろうと。もうこの人しか……私の側にいてくれるのは、この人しかいない。


 背中の羽に触れてみる。日向に干した布団のようにふかふかしていた。

 彼の手に触れてみる。暖かい。

 こんなに暖かいのも、もう彼しかいない。だから、私は彼のそばで丸くなって眠りについた。



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