五 《浄化の実》

 あれから三年たった。私は相変わらず家から外に出られない生活を続けている。

 外は変わらず破滅の気に満たされて化け物になった人たちが、大勢いる。


 彼らは、破滅の気に満たされる前と違い、食事を取る間隔がとても長いらしい。一日二日食べないのが普通で、腐ったものでも食べるらしい。それに、お互いを喰らい合うこともあるが、ほかの動物や植物も食べるらしい。植物や動物も破滅の気に満たされていて正常な食べ物ではなくなっているけれど、彼らにとってはちゃんとした食物として機能するらしい。


 だから彼らは、少しずつ人数を減らしてはいるけれど、絶滅することなく生きながらえているらしい。ジョオアが外に偵察に行っていて教えてくれたこと。


 私にとってうれしい報告だった。時間移動以外の、新たな可能性を見出す能力が目覚めたのだ。


 破滅の気の影響を受けない正常な植物を育てられる能力。

 そして徐々に目覚めてくる《神の記憶》が教えてくれる。これは破滅の気に満たされてしまっている者を浄化させる力を持っていると。


 でも、このことはジョオアには秘密にしている。

 もしもこれを育てている最初の目的を知ったら、きっと彼は悲しむか、怒るか……とにかく不快な気持ちにさせるだろうから。


 私はこれを一人で育てて、一人で目的を達成するつもりだ。



    ▲ ▽ ▲ ▽



 《破滅》の時から三年。

 僕は毎日、破滅の気に満たされた人の動きを観察して、どこにどれだけの人がいて、どれだけの人が生き残っていて、どれだけヒイカに危険がないかを調べている。それから、この世界の仕組みがどうなっているのか、ヒントがないだろうかと世界を飛び回ることもある。


 《神の記憶》に目覚めて僕の背中には羽が付いたから、空を飛んで世界の端がどうなっているのかを調べたこともある。世界の端っこは急に海が途切れていて、そこから先は見えない壁があるみたいに進めなくなっていた。この世界にはこの島しか存在していない、ということがわかった。どこかに違う島があって、そこは平和であったなら、と少し期待していたけれど、そんなこともなかった。


 ヒイカは――ヒイカは成長とともにどんどん妻のヒイカとそっくりになっていく。本人だから当たり前のことなのだけど。


 ほぼ毎日のように未来にいるはずの妻と娘のことを考えている。《破滅》に巻き込むまいと、この時代に僕を送り込んだ妻。急激な《神の記憶》の覚醒で人格が変わってしまった娘。


 この時代とは違う《破滅》の仕方をした中で、二人は一体どうしているだろう。彼女たちは僕と現代のヒイカのように、あがきながらも生きているだろうか。


 最初は、僕がその時代からいなくなったことでさらに天秤のバランスが崩れ、妻たちがいる時代はもっと酷い破滅の仕方をしているのではないかと心配した。だが《神の記憶》が教えてくれた。天秤の重りがその時代を離れようとも、その重りが死なない限りはその時代に影響は出ない。つまり僕がこの時代にいても、妻たちの時代はさらにひどくなることはない。


 ほんの少しだけ安心したけれど、彼女たちが破滅した世界で暮らしているのは変わらない。どうしているのか、どんな手段を使っても知りたいと思うけれど、どうにもならない。

 もしも一緒にいられたなら、娘もこの時代のヒイカと同じくらいの歳になっているだろう。


 普段、僕はこの時代のヒイカに対し、娘のように接しているつもりだ。ヒイカが傷ついて泣きだしたら、娘のように頭をなでて、娘のように慰める。


 けれど時々、僕の娘は未来に残してきたあの子一人で、ヒイカはやはりヒイカなのだと思わされるときがある。


 小さいころから一緒に過ごしてきたヒイカ。小さなころからずっと恋をしてきたヒイカ。そんな妻のヒイカと、この時代のヒイカはすぐにダブる。


 もちろん、まだまだ幼いヒイカを、大人の女性として見ることは一切できないし、見るつもりもない。

 けれど、彼女と接していると、僕も彼女と同じくらい幼くなって――無垢な子供の頃に戻って、また彼女に恋をしているような……そんな奇妙な気持ちになることがたまにある。



    ▲ ▽ ▲ ▽



 《浄化の実》が育った。

 ピンク色でふっくらとした実はかわいらしくて、もう少し考えて、かわいらしい名前をつけてあげてもよかったかな、とも思ったけれど、残念ながら私にはネーミングセンスがないらしい。


 でも一番大事なのは目的を達成することなんだから、ちゃんとした名前を考えてあげるのは目的を達成した後でもいい。

 決行は激しい雨の日がいい。つまりは今日が最適だと思う。


 破滅の気に満たされた彼らは雨に弱いから、今日のような激しい雨の日は活動を停止して屋内に潜んでいる。だから、目的の彼も必ず屋内にいるはずだ。


 用意した外套を着込む。大雨の日は彼らを気にせず、外に出られる少ない機会でもある。だから時々、大雨のときは外に出て、大声で歌ったりもしていた。

 しかし今日の目的は歌を歌うことじゃない。彼に、浄化の実を使うこと。


 夜、ジョオアが眠っているのを確認して外に出る。結界の外に出ると、ものすごい量の雨が私の体を叩いてきた。冷たいけれど、これでいい。彼は必ず自分の家にいる。


 彼の家は森から一番近い南区だ。そこに到達する。そして彼がいるはずの家に入る。外套から滴る水滴はそのままに、家の奥へと入っていく。


 化け物となっても、帰巣本能があるのか、彼らは今日のような雨の日はもともと住んでいた家にこもっていることが多い。だから彼も、彼自身の家の、彼自身の部屋にいるはずだ。


 扉を開けると、いた。

 雨の音におびえるように、丸くなって眠っている。久しぶりに姿を見る、サウルだ。


 大切な人がたくさんいなくなった。でもサウルは残っていた。残っていてくれた。そして私は浄化の実を育てる力を手にいれた。だから、だから絶対に――


 涙があふれて嗚咽をあげそうになる。その嗚咽を飲み込む。少しでも音を立てて、目を覚まされてはいけない。

 でももしも襲われそうになったとしても、雨の中に逃げてしまえば、彼は追ってはこられないはず。だから今日を選んだ。だからといって、今日失敗してもいいということにはならない。

 一刻も早く、元のサウルに会いたかった。


 そっと近づいて、眠っているサウルの隣にひざまずく。握っていた浄化の実を彼の口元に持っていく。ゆっくりとゆっくりと。

 浄化の実が彼の唇に触れようとしたそのとき、腕をつかまれた。サウルの目が開かれている。じっと私を見ていた。


「サウル……?」


 一瞬、彼が破滅の気に満たされた、理性のない存在になっていることを忘れて名前を呼んだ。彼は起き上がり、つかんだ私の腕を引き寄せる。顔に、唇を寄せてくる。恋人同士がする、それのように。

 そして牙だらけの口を開いた。


「サウル、ごめん」


 私はすぐに我に帰り、雨まみれの外套を脱ぎ捨てサウルに押し付けた。


「ぎゃ!」


 サウルは悲鳴を上げて後ろによろけた。私はその隙に窓に駆け寄り開け放ち、外に飛び出す。大雨の中を走った。


 失敗してしまった。確かに直接、眠っているサウルの口に押し込むなんて強引なやり方だったかもしれないけど……。他に確実に口に入れられる方法が思いつかなかったし、一番早く食べさせられる方法だと思ったのだ。


 私は落ち込みながら少し走る速度を落とす。雨の中にもかかわらず、座り込んで泣いてしまいたい気分だった。

 と、雨の勢いが少しゆるくなっていることに気づく。そして、背後から水を蹴散らす音が近づいてくるのにも気づく。


「サウル!」


 小雨の中、影が私を追ってくる。サウルだ。以前、雨をかぶって死んでいった男の人のことを思いだす。


「ヒイカ逃げろ!」


 ジョオアの声が降ってくる。家に私がいないことに気が付いて、雨に濡れない魔法を使って空から私を探していたのだ。

 徐々に雨に体力を削られているのか、サウルは走る速度を落としている。


「ヒイカ……逃げろ……」


 破滅の気に満たされた人がよくする、意味のない復唱だ。けれど今のサウルのそれは、自分から逃げてくれと言っているようにも聞こえる……。

 私は即座に決心する。サウルの方に駆け出した。もうサウルだけは絶対に死なせない。


 サウルの腕をとって引っ張る。サウルは私の腕を食べようと口を開くが、そうする体力もないのかふらふらと私の腕に絡みついた。

 そのまま引きずり近くの家に飛び込む。サウルを床に寝かせ、家の中を家捜しする。タオルや服といった布という布を見つけ出し、サウルの服を脱がして必死に体を拭き、着替えさせる。


「サウル! サウル! 返事して!」

「さうる……へんじして……」


 それだけ言葉を残して、サウルは目を閉じた。が、息はしている、まだ生きている!

 入り口の側にジョオアが立っている。何を言うべきかわからないといった風な複雑な表情をしている。


 言うことを聞かずに、破滅の気に満たされた人間と接触したことを怒るべきか。接触したのに無事でいることに安堵したことを伝えるべきか……それとも相手がサウルであることに、何か言いたいことがあるのか……。そんな複雑な表情だ。


「とにかくこの家には住人がいる。あまり騒ぐとまずい。場所を移したほうがいい。家に戻ろう」


 そう言うと、ジョオアは魔法の左手から雨よけの、大きなシャボン玉のような膜を取り出した。二人が入るにしては少し大きいシャボン玉を。

 サウルを起こすのに悪戦苦闘していた私の手から、あっさりとサウルを引き剥がし、肩に担いでシャボン玉に入るジョオアの背に、私は続いた。



    ▲ ▽ ▲ ▽



 リビングのソファにヒイカを座らせる。自分の声に棘が含まれるのを抑えられないのを自覚したまま質問をする。


「どうして僕に何も言わずに、あいつに接触しようとした」

「だって、だって! サウルを元に戻したかった」


 ソファの上でひざを抱えたまま、強い意思を含んだ目で僕を見据える。


「《神の記憶》が教えてくれたの。私が作った実を食べさせれば、破滅に満たされた体は浄化できるって!」


 今、サウルは寝室のベッドの上で眠っている。ただし手足は拘束してある。彼はまだ化け物だ。いつ暴れだすとも限らない。


「それならそうと言えばいい。問題は、なぜ僕に黙ってあんな危ないことをしたかってことだ」


 なるべく穏やかな声を出そうとしているのに、棘のある声が出る。なぜか。それは質問に対する彼女の答えを知っていて、僕は……僕は彼女に…………。


「だって。だって、未来では私はジョオアの奥さんだったんでしょ? だったら真っ先に元に戻したいのが他の男の子だって知ったら、いい気分はしないんじゃないかと思って……」


 そう。彼女の言うとおり、声の棘は嫉妬から来るものだった。彼女は僕の妻でもなければ、少しは成長したとはいえ、まだまだ幼い。なのに馬鹿な嫉妬をしている。馬鹿馬鹿しいにもほどがある嫉妬を。


「なに言ってるんだ。そういうの、自意識過剰って言うんだよ。僕が、君を娘のように思うことはあれ、妻のように思うことはない」


 無理矢理に穏やかな声を出して、精一杯の嘘をつく。それでも、彼女は立ち上がって、泣きそうになりながらも、僕にさらに訴えた。


「でも、だって! ジョオアの奥さんが昔、誰を大切に思っていたのかって証明してるのと同じだもん! ジョオアは私をいつも助けてくれるのに、嫌な思いはさせたくなかった。こんなこと、手伝ってもらうべきじゃないって思ったの。自意識過剰だって言われても、でも、やっぱりジョオアは、私のこと、大切にしてくれるから……!」


 頭の中が、ぐらりと揺れる。こんなことを言われて僕はどうすればいいんだ。胸が苦しくなるばかりだ。こんなときに妻が言いそうな優しい言葉をかけないでくれ。


「あっ」


 ヒイカが小さく苦しそうな声を上げた。


「おなか、痛い……」


 一瞬、破滅の気に満たされているサウルと接触したことで、何か危害を加えられたのかと思ったが、そうではなかった。

 彼女の履くスカートの裾の下。ふくらはぎに、血が滴っているのが見える。おそらく初潮だ。

 実際のものを見るのは初めてだったので一瞬頭が真っ白になる。だが頭を振って考え直す。今、こういうことを知っていて対処できる大人は自分しかいない。


「大丈夫だヒイカ。病気じゃない。これから手当ての仕方を教えるから……」


 ヒイカは幼い女の子から、大人の女性の階段を踏み出したのだ。



    * * * *



 もちろん手取り足取り教えるわけにいかないから、とにかく必要なものを魔法の左手から取り出し、扉越しに口頭で指示する。

 これについてはもっと前に教えておくべきだったと後悔し、なぜそれがあるのかの説明をする。


「じゃあこれで私は、赤ちゃんができるキスをすると、おなかに赤ちゃんができるようになったんだ」


 まだそのことを信じているのかと、思わず少し噴き出してしまった。だが、誰も教える者がいないのだから当たり前のことだった。案の定、ヒイカはなぜ笑われたのかわからないといった風に膨れている。


 僕は、なぜかそのとき、とても可虐的な気持ちになった。

 彼女が「大切にしてくれるから」なんてことを言ったからなのか。目の前で少女から女性へと成長する瞬間を見てしまったからなのか。やはり僕は彼女に恋をしているからなのか……。

 それら全部を否定したくて、彼女に突きつける。


「ヒイカ、それは違う。キスだけじゃ、赤ちゃんは生まれてこないんだよ」


 そして、それについてのすべてを話した。

 話し終えた途端、ヒイカは叫んだ。


「なにそれ! ウソよ!」

「ウソじゃないって」

「うそ!」

「うそじゃない」


 ヒイカの顔は嫌悪感に染まりきっていた。体が小刻みに震えている。思いつめるように下を向いて、何かを考え、その可能性に気がついたようだった。


「ねぇ……娘さんがいるって言ってたよね。じゃあ、奥さんと――未来の私と――そういうこと、したってこと?」

「そういうことだね」

「気持ち悪い!」


 ヒイカが、僕に嫌悪の表情を向けながら後ずさりしていく。


「まさか……私とそういうことしたいって……思ってないよね?」


 ヒイカの嫌悪感が恐怖に変わったようだった。それを見て僕は少し安堵を覚える。


「どうだろうね。妻はもっとセクシーでグラマーだった。もしも君もそうならあるいは……。でも大丈夫だよ。君の体はまだまだ子供だからね。そんな風に思うことは絶対にない」


 ヒイカは嫌悪の表情を濃くし、自分の体を守るように自分で自分の体を抱いた。そして「気持ち悪い!」と叫んで、逃げるようにサウルが眠る二階への階段を駆け上っていった。


「……ふ……ははっ」


 笑いが込みあがってきた。


「まったく。思春期だねぇ」


 ポツリと呟く。笑いが止まらない。

 あの嫌悪感と恐怖心に彩られた顔を思い出す。妻はセクシーでもグラマーでもないけれど、あえてそういうことを口にした。我ながら変態的な言葉を吐いたものだ。僕への好意は著しく低下したに違いない。


 もしも本当に僕が彼女に恋をしていたのなら、失恋ということになるが、それでいいのだ。妻と同一人物である彼女に妻を重ねて、恋をするなんてそれ自体が歪んでいる。あんな、まだ子供同然の彼女に心を揺さぶられるなんて歪んでいる。


 世界を破滅に導いたやつが恋をするなんておかしな話だ。

 だから僕はこの気持ちを捨てることにする。

 彼女が大切な存在であるのに変わりはないけれど、それは恋なんかでは絶対にない。



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