六 目覚め

 くさった食物をくらっている。にんげんの肉をくらっている。腹がへったから、たべる。

 雨はこわい。ふれたら力をうばわれる。たべる力もなくなってしまう。しんでしまう。

 しぬくらいならたべないでねる。

 たべる。ねる。




 雨のひ。エモノが向こうからきた。たべようとした。水をかけられた。にげられた。

 雨なのにおいかけた。おいかけたかったから。雨がこわいのに、なぜ?

 しらない。




 腹がすいた。目をあける。雨の音がしない。食べたい。おき上がろうとする。なぜだかうごけない。

 大声を出す。うごけるだけうごいてみる。

 食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい食べたい。

 けどうごけない。

 口の中になにか入った。口の中でコロコロする。食べたい。かむ。のむ。

 ねる。




 今日も口の中にコロコロが入ってきた。噛んで、飲んだ。




 誰がこのコロコロを口の中に入れているのだろう。

 今日も口の中にコロコロしたやつが入ってきた。入れてるやつを見た。人間だ。

 手の届くところにエモノがいる。だが動けない。だが、なんだかそれを食べるのは気持ち悪い気がした。

 コロコロしたやつを食べる。寝る。




「サウル」


 声がする。これは俺の名前だっただろうか。この声は誰のものだっただろうか。聞き覚えがある。


「サウル、牙、消えてきたね」


 牙が消えてきたらしい。腐った食物や人間なんかを喰らっていた牙が。

 ……あれ? なんだか気持ち悪い。そんなものを喰らっていたところを思い出すと気持ち悪い。

 今日もコロコロしたやつを、そいつが俺の口の中に入れる。甘い味がした。食べて、そのまま眠った。



    ▲ ▽ ▲ ▽



「サウル。今日も浄化の実を持ってきたよ」


 私はベッドに縛り付けられたままのサウルに声をかける。なんとなくだけれど、声をかけたほうが早く元に戻ってくれそうな気がするのだ。たとえ返事が返ってこなくても。


 サウルをこの家に連れてくることができて、浄化の実を食べさせられるようになってから。もう何日たっただろう。

 浄化の実は数日にひとつは確実に実をつけてくれた。できたらすぐにサウルに食べさせる。それをずっと続けている。


 ジョオアは私が直接実を与えるのは危ないと反対していたが、あんな変態の言うことなんて知らない。サウルが目覚めたら、そのときの顔を私が一番に見たい。


 今日も浄化の実を食べさせる。すっかり普通の人と同じになってきた歯が並ぶ口の中に入れる。するといつものように、噛んで飲み込んでくれた。

 そろそろ目覚めてくれないかな、なんて、淡い期待を持ちながらサウルの顔を眺める。


「ヒイカ」


 すると、声がした。


「え? サウル?」


 今の声は本当にサウルだっただろうか。期待していたことなのに驚きで半信半疑になってしまう。


「ヒイカさ、なんでそんなに胸でかくなってんだ? なんかつめもんでもしてる?」


 間違いなくそれはサウルの口から発せられた言葉だった。胸に熱さが広がって、一気に涙として流れ出す。


「もう! 久しぶりの第一声がそれなのばかぁ! もうなんねんたってるとおもってるのよぉ……!」


 思わず抱きついた。よかった。やっとサウルに会えた。

 まだぼんやりとした顔をしているけれど、その物言いは間違いなくサウルだった。


「ヒイカ」

「何?」

「いいのか? なんか本物らしき胸が当たりまくってるけど……」

「ばかぁ……!」


 恥ずかしいけれど、そんなことすら些細なことに思える。嬉しくて嬉しくて嬉しくて……。

 泣きながら、抱きしめていたら、サウルは抱きしめ返してくれた。そして浄化の実を食べた後のいつものように、彼は穏やかな表情で眠りについた。



    * * * *



 サウルを拘束していた鎖をジョオアが解いてくれた。サウルがもう安全だと認めてくれたのだ。


「正直、まだ混乱しているが……」


 ベッドに座り、サウルが髪の毛をかき回しながら言う。

 私はサウルの前の椅子に座って。ジョオアは部屋の入り口の近くの壁にもたれて腕組みをしながら聞いている。


「俺は、こいつのせいで何年も化け物をやってたってことなんだよな」


 ジョオアに殺気のある視線を向けて、吐き捨てるように言う。


「ああ。言い訳はしない。恨むなら恨めばいい。ただ、お前を元に戻したヒイカには感謝しろ」


 サウルに対して、ジョオアは殺気ある声で吐き捨てるように言った。

 ジョオアは昔私にしたような、世界が破滅してしまった経緯をサウルに聞かせた。途端。二人の間にはものすごい勢いで険悪な空気が流れた。気持ちはわからなくもないけれど、いきなりケンカ腰はやめてほしい。


「そんなの、お前に言われるまでもない。感謝の抱擁とキスはとっくに済ませてる」

「どさくさにまぎれて変なこと言わないの!」


 さすが《毒吐き魔人軍団》のリーダー。隙あらば変なこと吐いちゃうのはいまだに健在しているらしい。しかし抱擁はホントのことなのでものすごく恥ずかしい。


 ふと余計なことが頭を掠めた。ジョオアが言っていた、赤ちゃんができる方法の話だ。

 あんなこと言うってことは、もしかしてサウルもそういうことしたいとか思ってるんだろうか? そうだとしたら……私はサウルを気持ち悪いと思わずにいられるだろうか?

 …………いやでも。待って。はやまるな私。


 赤ちゃんができるキスとできないキスの話を教えてくれたのがサウルだ。隣のお姉さんに子供ができたとき『いいな、かわいいな、私もほしいな』と言ったから、そんなことを吹き込まれたのだ。


 だからサウルは本当のことを知らないんだろうか。知ったかぶりをしたのだろうか。いやでも、本当のことを教えてくれるときもあれば、ウソをついてからかって遊ぶのも《毒吐き魔人軍団》の常套手段だし。ていうことはやっぱり……。


「しかし、ただの言い伝えだと思ってたのに、本当にこんなことになるとはな……」


 私が密かに慌てていると、サウルがまじめな声で言った。私はなにをまじめに考えているのか……。恥ずかしくなってこっそりと赤面する。


「長様の息子なのに、信じてなかったの?」


 恥ずかしい考え事をしてたのをごまかすように私は言った。


「半信半疑ってとこかな。悪魔とか、そんなやつの住処がどこにあるんだ、と思ってた。それがまさか未来から来るとはな」


 ジョオアの方を見て嘆息する。ジョオアは憮然とした表情をしていたが何も言わなかった。


「しかし、ヒイカの時間移動の覚醒を待つって言うのはずいぶん消極的な手段なんじゃないか? もっと何か手はないのか?」

「ヒイカがお前を復活できたのも奇跡みたいなもんだし、あったらとっくの昔にやってるさ」

「へぇ……。そんな無力で本当に《神様》なのか?」


 ジョオアは自嘲気味な笑みを浮かべた。


「もしかしたら違うのかもな」


 違うのかもな。

 私も、考えたことがないといえばウソになる。


 ジョオアは人間離れした能力を持っているし、私も、破滅して食物がまともに育たないこの世界で、《浄化の実》を作れるという、少し特殊な能力を身につけた。少し普通の人間とは違うのかもしれない。けれど、今の状況に翻弄されている私たちはとても無力で、神、という言葉はどうにもそぐわない気がしていた。


 神、とは一体なんなのだろう。

 無力な私たちがなぜそんな呼ばれ方をするのだろう。


「神……崇める対象……なんかひっかかるんだけど、何だろうな、思い出せねぇ……」


 サウルが頭を抑えながら呟いた。神、という単語に何が引っかかるのだろう。少しだけドキリとした。

 けれどサウルは思い出すのがつらいのか、顔をしかめる。神という言葉の何が引っかかるのか気にはなるけれど、サウルの痛そうな顔は見たくなかった。


「いいよサウル。無理して思い出さなくて」

「急ぐ必要もないんだ、無理するな」


 私とジョオアの言葉が重なった。するとなぜかサウルは苛立った瞳でジョオアを睨みつけた。


「ヒイカの言うことはいいとして、お前の指図は絶対受けねぇ。意地でも思い出し……っ!」


 そこまで言って、サウルはベッドの上に倒れこんだ。


「サウル!」


 私は思わず立ち上がった。近づいて確認してみると、ゆっくりとした寝息を立てている。ほっと息をついた。


「どうやら、まだ浄化の実の副作用が残ってるみたいだな。あれこれ考えるのは後にして、こいつの回復を待とう」


 私はうなずいて、ベッドを整えた。

 サウルの寝顔が、どこか苦悶しているように見えて、気になった。



    * * * *



 その夜。悲鳴が聞こえた。

 私はベッドから跳ね起きてすぐに廊下に出る。ジョオアも廊下にいた。

 サウルの部屋だ。私は急いでサウルの部屋のドアを開ける。


「サウル! どうしたの、大丈夫?」


 この家は結界に守られているが、もしかしたら破滅の気に満たされた人が飛び込んできたのかと思った。けれどそうではなかった。

 サウルはベッドの上に丸まって、すすり泣いていた。何かから自分を守るように、丸めた体を抱きしめていた。それは、私が声をかけることさえも、さえぎろうとしているような。


「サウ……ル? なにか、あった……の?」


 私は恐る恐るサウルに声をかけた。サウルはおびえるように、びくりと体を震わせた。


「なんでもない。変な夢を見ただけだ」


 震ええる体で、震える声でサウルはそう答えた。


「ウソ。そんな状態で、なんでもないわけないじゃない」


 私はサウルのベッドに近づいて、サウルの背中をさすろうと手を伸ばした。途端、


「触らないでくれ!」


 その手が撥ね退けられた。

 私は撥ね退けられた手を、火傷でもしたように押さえながら一歩後ろに下がった。サウルは涙が止まらない顔を背ける。


「どうしたの? もしかしたらまだ、体に破滅の気が残ってて、それで……」

「違う。本当に……嫌な夢を見ただけだから……」


 大丈夫なわけはないと思った。けれど、私たちを拒絶するようにそう言われると、これ以上追求できないような気がして。


「じゃあ、本当に何かあったら、ちゃんと言ってね」


 そう声をかけるしかできなくて、サウルの部屋を出た。



    ▲ ▽ ▲ ▽



 ヒイカとジョオアが部屋から出て扉を閉める音を聞くと、さらに涙が出て止まらなくなった。


 人を食べる夢を見た。

 夢だが、夢じゃない。俺は実際に人を食べて今まで生きてきた。


 世界が破滅したから。世界が破滅の気に犯されていたから。自分の体が破滅の気に犯されていたから。島中の人間も同じように破滅の気に犯されていて、同じことをやっていたのだから、自分には責任なんかない。


 言い訳はいくつでも思いついた。だからと言って、人を食べた事実は消せない。

 化け物になっていたころの記憶はとても曖昧なものだった。だが、今夢を見て、はっきりした感触が口の中によみがえった。

 止める間もなく、床に胃の中のものを吐いていた。


 吐いても吐いても気持悪さは消えなかった。すでに食べてしまった者たちは、自分の血や肉になっている。排泄もされている。吐いたところで、食べた者たちを吐き出せるわけはないのだ。


 自分がとてつもなく醜悪な生き物に思える。よく知る島の者たちを食べたのに、今はのうのうと、普通の人間として生きている。

 ヒイカは今は喜んでくれているが、こんな俺のことをどれだけ理解して喜んでいるのだろう。今生きているということは、たくさん島の人間を食べたということ。それを改めて突きつけてやっても、笑っていてくれるのだろうか。許されるのだろうか。


 自分で自分を許すことができないのに、許されるわけがない。元に戻っても化け物は化け物なのだ。

 ここを、出て行こう。出て行って、破滅の気に満たされた同士に食われるか、餓死してそのまま土に帰ればいい。

 今のままでは彼女の笑顔は耐えられない。


 俺は立ち上がろうとする。化け物は、ヒイカのそばからできるだけ早く離れたほうがいい。

 だが、それを邪魔しようとするように、強い眠気が襲ってきた。俺にまだ苦悩を味わえとでも言うつもりか。

 そのまま立ち上がることもできず、俺はまた眠りについた。



    * * * *



 結局、ここから逃げ出すことができないまま、次の日を迎えた。何事もなかったかのように振る舞い、朝食を食べている。

 ヒイカの顔を見ることができない。笑顔を見ることはできない。見たら、自分がつぶれそうになる。


 ヒイカとジョオアはいろいろと話し合っていた。その会話に不自然にならない程度に混じり、タイミングを見て俺はいつもの眠気を口実に二階に引き上げた。

 自室に入り、ベッドに寝転がる。思ったよりも早く、睡魔が襲ってきた。俺はそのまま身をゆだねた。





 ヒイカの悲鳴が聞こえ、強制的に目覚めた。

 慌ててベッドから降り、ドアノブに手をかける。が、そこで思いとどまった。

 俺は今、ここから逃げようとしているのに、彼女を助けに行く資格はあるのだろうか?

 自問自答して、ドアノブから手を離した。彼女に助けが必要なら、あのジョオアに任せておけばいい。気に食わないやつだが、魔法だかなんだかが使えて、自分なんかよりずっと頼りになる。

 このドアを開けるのなら、それはここから逃げ出すとき……。


「ちょっと、やめてよジョオア!」


 今度はヒイカの、そんな声が聞こえる。

 何だ今のは。


 なぜヒイカがあいつに制止の声を叫んでいる? あいつはいつもヒイカの事を守っているんじゃないのか? 困らせるようなことはしないんじゃないのか? なぜヒイカからそんな台詞が出る? 気に食わない気に食わないと思っていたが、まさか、やっぱりあいつは未来で妻だったヒイカを……!


 そこまで考えて頭に血が上り、ドアノブに手をかけ、部屋を飛び出していた。今なら昼食をとっている時間、つまりは一階だ。

 階段を駆け下り、キッチンのドアを開ける。するとやたら焦げ臭い匂いが鼻をついた。


「ほらぁ! 焦げちゃったじゃない!」


 ヒイカが呆れ顔をしている。ジョオアが、手に焼け焦げたものが乗ったフライパンを持ち、もう片方の手で火を出したり消したりして遊んでいる。

 意味のわからない光景が広がっていた。


「あ、サウル、起こしちゃった? ごめんね、騒いじゃって。でも聞いてよ! ジョオアったら、『自分の魔法で出した炎で調理してやるぜ』とか言って、ものすごい火を出して、それで料理を丸焦げにしてるのよ? なに考えてるの、って話よね? ていうか、今更だけど、魔法で物が出せるんなら、食材じゃなくて出来上がったものを出せば手っ取り早いのに、何で食材から調理してるのよ! と、言いたいわけよ」

「……ははっ、まったく、そのとおりだよな」


 脱力した体を壁にもたれさせて、何とか座り込まないようにした。

 なんだ。あいつのお遊びに付き合わされてただけだったのか……。


「魔法で出来上がりを出したら味気ないと思うんだよ。愛情っていうスパイスを入れられないからさ」

「何たわけたこと言ってんだよ」


 俺が軽く嫌味を言ってやると、ジョオアは俺の方を凝視してきた。そして、微かに、皮肉を含んだような笑みを浮かべた。

 奇妙な感覚がする。何か、すべてを見透かされているような。

『逃げるつもりか?』と嘲笑っているような。『ヒイカの悲鳴に飛んで助けに来るくせに』と嘲笑っているような。

 動揺で全身から汗が噴き出す。俺はその視線から目をそらして、踵を返す。


「俺はもう少し寝るから。ヒイカにまともなもん作ってやれよ」


 それだけ言って、階段を上がった。

 階段を上りながら、あいつが嘲笑った意味を、もう一度かみ締める。

 ヒイカを守りたい。間違いなく俺はそう思っている。

 だが、ヒイカを守る資格がない、とも思っている。

 あいつは俺の苦悩に気がついている。それなのに、わざとこんな茶番を演じてヒイカに悲鳴を上げさせて……俺にどうしろと言いたいのだ。



    * * * *



 結局俺は、ヒイカの側から逃げ出せないでいる。

 眠っているときには化け物だったときの夢で苦しみながら。起きているときにはヒイカの笑顔のまぶしさに苦しみながら。それでもどうしたらいいか、わからないでいる。


 その夜も嫌な夢を見て、洗面所で吐いていた。口の中にあるはずのない人肉の感触で吐いていた。

 化け物であった頃の記憶が責め苛んでくる。俺は今、人間として生きられてはいるが、本当に化け物から脱することはできているのか。

 今までやってきたことは事実で、事実は消すことができないのだ。やってきたことが罪なら、やはり俺は――


「サウル?」


 背中から、ヒイカの声が聞こえた。

 体が固まる。だが、吐き気は俺の硬直を無視して、胃の中のものを飛び出させた。


「サウル! 大丈夫?」


 ヒイカは小さな悲鳴を上げると俺の背中をさすり始めた。さすってくれ始めた。

 俺はさすってくれるそのままに、吐いた。こんな風にやさしくされる資格はないと思いながら、吐き続けた。


 ようやく吐き気がおさまった俺に、ヒイカは水を飲ませたりとてきぱきと動き、結局俺は優しくベッドまで連れて行かれた。

 やめてくれ。と言いたかった。そんなにやさしくするのはやめてくれと言いたかった。だが声は出なかった。代わりに涙が出た。あふれて止まらなかった。とめられないまま、俺は大声で泣いていた。


「……サウル?」


 恐る恐るといった風に、ヒイカが俺の名前を呼ぶ。


「サウル、何で泣いてるの? どこがつらいの?」

「やめてくれっ……」


 涙の間からなんとか、やっと声を絞り出すことができた。


「心配しちゃ、いけないっ。俺、はっ、そんなことされて、いい、存在じゃ、ないっんだ」

「え?」


 ワケがわからないというようにヒイカは聞き返した。


「なに言ってるの? こんな状態のサウルを心配しないわけないじゃない」

「違うんだ……」


 やはりワケがわからないというようにヒイカは眉根を寄せて、首をかしげる。


「違うんだ。俺は……俺は俺の口でみんなを食べたんだ。食べたんだよ! その栄養で俺の体は作られてるんだ。みんなを食ったから生きてるんだ! 俺はそんなおぞましい生き物なんだよ、俺の口も、体も、俺の全部が、全部が汚れてる。ヒイカに、やさしくされていい存在じゃないんだ!」


 涙と共に、ボロボロと言葉があふれた。こんなこと突きつけないまま、逃げたかったのに。とめられない。

 やはり、ヒイカは信じられないというように、目を見開いている。


「え?」


 という彼女の呟き。きっと次は嫌悪が顔に出るはずだ。


「あれ? そんなこと気にしてないから助けたんだってこと、サウルならわかってると思ってた」

「……え?」


 今度は俺が聞き返す番だった。


「やっぱり本調子じゃないからかな? 手を込んだいたずらを考えたり、手の込んだ嘘ついたり、とにかく頭を使う悪さばっかりして、ふんぞり返ってたサウルだもん。わかってると思ってたんだけど……」

「え、え?」

「だって。そうやってでも、だからサウルは今まで生きててくれたんだもん。生きてたから、だから戻ってきてくれることができたんだもん。それで汚れてるなら、私だって汚れてる。自分を守ってもらうために、知っている人を、仲の良かった人を、ジョオアに、殺してもらうこととかあったもん。自分は手を出さないで、守ってもらうだけ。卑怯だよね。だから、サウルが汚れてるなら、私だって汚れてる」


 それは……ヒイカの言い分は根本的な何かが俺の場合とは違っている。そんな気がした。

 反論しようとして、唇をふさがれた。


「生きていてくれて、ありがとう」


 ヒイカの目に、涙が光っていた。そしてもう一度、ヒイカの唇が俺の唇をふさいでくる。俺のことがおぞましくないという証明のように。みんなを食った俺の唇に、唇を重ねてくる。


 抱きしめられる。みんなを食った栄養で形作られてる体も、おぞましいものではないと証明しているかのように。

 ヒイカが俺の瞳を覗き込んでくる。そして、戸惑う俺の、俺の唇にもう一度……。


 俺は、ヒイカの頭を引き寄せて、彼女の唇に答えた。唇から暖かいものが入ってくるかのように、胸が熱くなる。


 ヒイカは俺を許してくれている。

 だからと言って、俺は俺を許せない。

 けれど、俺はヒイカを守りたい。

 だったら、すべてを受け入れて、ヒイカの側にいよう。


 俺は、心の中でそれを誓う。その誓いを証明するために、ヒイカの体を抱きしめ返した。



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