十一 罪悪感

 ヒイカを泣き止ませた後、夕食を作って一緒に食べた。

 食事に関しては、買い物をヒイカが担当し、調理を俺が担当している。ヒイカはお菓子作りはうまいのだが、なぜか普通の食事に関しては致命的に下手くそなのだ。あっちの世界で食事の調理をジョオアがずっと担当していたことがうなずけるというものだ。


 夕食をとり、今日のするべきことをすべて終える。外は暗く、もう眠る時間だが、俺はランプを用意して外に出る。少し歩いて、アヴァリエ様の前にたどり着く。あっちの世界では紫の雲にふさがれていて見えなかった星空が見える。そのきらめきが広がる空の下、アヴァリエ様は静かに立っていた。


 ここから、《心臓》達と交信ができるのだ。一度化け物になったからできる、俺だけの能力だ。だからときどき、誰も見られる恐れのない夜に、こうしてここに来ることにしている。

 ヒイカが向こうの世界を想って、どうにかなってしまったとき、どうにかする方法がないか探るために《心臓》たちと話をするのだ。


 ヒイカ自身、未来を見る力が目覚めていたようなことを《心臓》達の空間で言っていたが、今日、ヒイカ自身が『もうあっちの世界に行けない』と言っていた。

 きっと、今はいろいろありすぎて忘れてしまっているのだろう。自分が向こうの世界に戻れる能力を持っているということを。


 ならば、《心臓》達と交信すれば、向こうの世界に戻れるということは知られてはならないだろう。ヒイカは、向こうへの戻り方は忘れても、向こうの世界の人々のことを忘れたわけではないのだから。知れば、きっとヒイカは戻りたいと思うだろう。

 今日のヒイカのことを思い出す。


『うん。幸せになろうね。ううん。幸せにならなきゃいけないよね。幸せになれない向こうの世界の人たちの分まで、幸せにならなきゃ。そうでなきゃ、この世界に来た意味がなくなっちゃうよね』


 正直、ヒイカがこの世界のことを、向こうの世界のみんなのことを、そんな風に考えているとは思っていなかった。強引にこちらの世界に連れてこられたのだ。最初はこの世界にいい感情など持ってなかったと思っていた。だがヒイカは徐々に笑顔を取り戻していった。彼女の中でずっとどんな感情が渦巻いているのかというのは、訊ねることもできず、計り知れないことだった。


 ヒイカを強引にこっちの世界に連れてこようと提案したのはジョオアで、俺はそれに賛同した。

 あの時。まだ《心臓》達と対面しておらず、ジョオアが俺に交信してみろと提案してきたあの時。ジョオアは俺と《心臓》達との交信が成功すると、すぐに彼らに訊けることをすべて訊き、平和な世界に行く道があることを聞きだした。そしてヒイカが何と言おうとも、平和な世界に導いてやってくれと交渉した。


 その交渉を聞いて、俺は最初『ヒイカの意志を無視するのか?』と憤ったが、ジョオアは『サウルは本当にこのままで、この世界が平和になると思う?』と、質問で返してきた。


 問われ、正気にもどって結局は死に至った二人を思い出す。希望は、ヒイカが作る、成長の遅い浄化の実だけ。それはうまくいったとしても、どれだけの年月がかかる希望なのか。うまくいく保証もない。そう考えると、反論ができず、最終的にはジョオアに賛同するしかなかった。せめて手の届く平和な世界へ送るのが、彼女のためだと信じて。


『たぶんヒイカは説得しても首を縦に振らないから、騙すみたいになると思うけど……サウルは絶対に嫌われちゃだめだよ。側でヒイカを支えてもらわなくちゃいけないんだから』


 ジョオアがそう言った。だからヒイカの《新しい可能性》に行くかどうかの意思を確認し、彼女が《新しい可能性》に行かないという意思を確認したら、無理に説得せず『そばにいる』と告げた。


 ジョオアは《新しい可能性》に来るつもりがないようだった。そのことを訊いてみると『平和な世界に、こんな悪魔みたいな羽の生えた変な奴が行っちゃダメでしょ』とおどけていた。それも一つの理由ではあるのだろうが、本心は自分が世界を壊したから、その責任として留まりたいと考えたのだろう。自分の妻がそうしたように。

 そうして俺はヒイカを支えることを託され、ヒイカと一緒にこの世界に来ることになった。


 この世界に来て、最初はぎこちなかったヒイカだったが、次第に笑顔が増えていった。ヒイカはあっちの世界での出来事を忘れてしまったのだろうかと思えるほどに、笑顔にあふれ、この世界になじんでいった。だがあっちの世界のみんなへの想いは嘘だったのだろうかと、失望したことはない。


 自分の生死も、他の人々の生死も、それを自分がどうにかできるかもしれないということも、重くのしかかっていた世界からやっと解放されたのだ。目の前の安らぎに身を浸してしまうのも仕方のないことだ……と考えていた。

 けれどヒイカは忘れていたわけではなかった。また違った覚悟で、この世界を受け入れ、あっちの世界の人々を想っていたのだ。


 自分が情けないと思った。平和な世界に来て、平和であれば平和であるほど、自分がした“人を喰らった”という行為が異常なことだと――罪なことだと強く感じてしまう。だから、以前ジョオアに言われたようにヒイカから、そしてこの世界の人々から逃げてしまいたいと思っていた。


 しかしヒイカは何も逃げていなかった。常に頭の中に、向こうの世界の人々のことがあるのだ。だから向こうの世界に戻る術がないと思っているのにもかかわらず、あんな無茶な提案をしたのだ。

 叶えたかったことが成し遂げられずに、無理矢理この世界に連れてこられた現実も、救いたかった人々を残してきてしまった現実も、彼女なりに受け入れて、これからどう生きていこうかという覚悟が、あの『幸せにならなきゃ』という言葉なのだろう。


 なのに俺は、今でも逃げたいと思っている。ジョオアの言う通りだった。綺麗なものを直視できない。

 けれど逃げている場合ではないと思った。ヒイカがこの世界で幸せになるのが、向こうの世界のみんなのためだと覚悟を決めたのなら、俺も覚悟を決めなければならない。ヒイカの側で、ヒイカを幸せにしなければならない。それが、俺がこの世界に来た役目だ。


 アヴァリエ様を見上げる。

 ランプの明かりでは、上半身にかかる夜までは拭えない。けど、顔を見なくても会話はできた。

 こちらの世界にに来てからどれくらい《心臓》達と交信をしただろうか。役に立つ、立たないは考えず、とにかく様々な話を聞いた。


 その中で一番興味深かったのは、この世界のすべての《可能性》の中で死んでしまった者の魂は、また違う《可能性》へとめぐり、生まれ変わるということ。


 ずっとこの話をヒイカにしたいと思っていた。少しでもヒイカの心が軽くなればいいと思っていたから。だがその情報はどこで得たのかと聞かれれば、《心臓》と交信していることも話さなければならないから、タイミングが難しいと思っていた。《心臓》達と交信できるということを教えるのは、あっちの世界に戻る方法を教えてしまうのと同じだからだ。


 今日、“長の末裔にしか伝わらない言い伝え”としてでっち上げて無理矢理話してみたが、すこしでも安心してもらえたようでホッとする。

 とにかく俺が願うのは、この平和がいつまでも続いて、ヒイカがずっと幸せに生きられるように。

 そのことを強く願う。



    * * * *



 さらに一か月、時が過ぎた。大きなトラブルもなく平和な日々が進んでいる。

 ヒイカがあっちの世界のことで取り乱すこともなかった。もう大丈夫かもしれない。《心臓》達から情報を引き出す必要も、もうないかもしれないと思い始めていたところだった。


《――創造主が、壊れた世界をすべて消去することを決めました――》


 交信で頭の中に響いた《心臓》の女のその声は、驚きとも焦りともつかないものを俺の心に渦巻かせた。消去する……つまり世界が壊れるというレベルではなく、その壊れた世界が完全なる無になるということだ。


《――言うべきか言わざるべきか、迷っていた。だがやはり重要なことは知らせるべきだと判断した――》


 《心臓》の男が言う。確かに、逆に考えれば、たとえヒイカがあっちの世界への戻り方を思い出したとしても、無くなった世界へは戻りようがない、ということになり、ある意味安心できる報告だ。

 だが、


《――世界と一緒に無になってしまえば、生物は魂とともに無になるのです。転生することはできません――》


 そう女が言う。

 冷たいものが心に広がる。

 俺だって、あっちの世界の人々を大切に思っていないわけじゃない。ヒイカより、根性がなくて諦めてしまっただけだ。諦めてしまったけれど、大切な人々。そんな人々が、転生の可能性すら奪われる……。転生できると聞いてヒイカは泣くほど喜んでいたのに、それがなくなってしまう。


 思わず涙をこぼしていた。ヒイカには絶対に知られてはならない。聞かせたら、ヒイカに罪の意識を植え付けることになる。今俺が心に持っている、彼らを“見捨てている”という罪悪感を。


 どうにもならないのだから、見捨てていると感じる必要はないのに、その想いは湧いてくる。一度“彼らは生まれ変わる”という希望を得たからなのか、余計にその罪の意識を深く感じる。ヒイカに同じ想いをさせるわけにはいかない。

 苦しくても、しまっておかなければならないのだ。人喰いの罪の意識と同じに。



    * * * *



 次の日の朝。長様の家族と共同で使わせてもらっている台所で、何も聞かなかったふりをして平静を装い朝食を作る。

 ヒイカに話す必要のないことだ。つまり嘘をつく必要もない。ただ黙っていればいいだけだと言い聞かせて。


 俺の作った朝食をしばらくヒイカはうまそうに食べていた。俺はいつも通りに料理できていたことにほっとしたが、ヒイカがため息を吐いた。


「なんでサウルはこんなにおいしくご飯が作れるんだろう。私の作れなさ加減と同じくらい不思議だよねぇ」


 そんなことを言って俺の方をじっと見る。すると何かに気付いたように目を瞬かせた。


「あれ? サウル、なんか顔色悪い?」


 びくりとした。《心臓》たちにあのことを聞かされただけじゃない。悪夢を見たのだ。

 向こうの人々が無になるということを、どうでもいいことだと一蹴できない証明であるかのような悪夢を。母さんや親父や、つるんでいた奴らがワケの分からない暗黒に飲み込まれ、『助けて』と叫びながら無になっていく夢を。


「体の調子は悪くない。ただ、気分の悪い夢を見ただけだ」


 なるべく軽い口調で言った。だが『夢を見ただけ』という言葉は、以前ヒイカも目の当たりにした、俺が人喰いの罪悪感で苦しんでいた時のことを思い出させたのか、ヒイカの表情が曇った。


「そんなに心配するようなものじゃない。ヒイカもあるだろ? 脈絡なく幽霊に追いかけられたり、高い所から落ちて死にかけるような、そんな夢」


 そういうと、ヒイカはやっと表情を緩める。よく嘘で回る自分の舌を、褒めてやりたくなる。

 朝食を食べ終え、身支度を整え、仕事へ行くために外に出る。屋台の準備をしている人の前を、追いかけっこをしている子供たちが走っていく。走っていった子供たちは俺の後ろで、俺と同じように仕事に向かうのだろう人にぶつかって謝っていた。

 そんな平和な光景の中を歩いていく。


 誰も、俺が人喰いの化け物だったということを知らない。誰も、俺が大切な人々、そして大切な世界を見捨てている人間だとは知らない。


 きっとジョオアも世界と一緒に無になるのだろう。あいつのことだから多分『これが僕の責任なんだからしょうがないでしょ』なんてことを言いそうだが。あっちの世界が無になることを考えると、あいつの顔もちらついてしまう。気に入らない奴だったのに、死ぬとなると罪悪感に拍車をかけてくる。


 叫びだしたくなる。この罪悪感をすべて吐き出してしまいたくなる。吐き出してしまわなければ、体中を駆けずり回っているこれが、全身を腐らせていくような気がする。しかしそれは叶わない。してはいけない。誰もこの境遇を理解することはできないし、理解できる唯一の存在には絶対に知らせてはならないことだから。


「どうした? おまえ、メシ食ってるのにすげぇ怖い顔してるよ?」


 声を掛けられてハッとする。俺が手伝いに行っている大工仕事の親方の娘、ティルスだ。昼の休みにはいつも弁当を届けてくれるのだが、すでに昼になっていることすら認識していなかった。思考に没頭するあまり、今まで無意識に仕事をし、休み時間を迎えて無意識に飯を食っていたらしい。

 ティルスは座ってる俺の目の前にしゃがみこんで、顔を覗き込んでくる。


「大丈夫? て、聞くまでもないくらい大丈夫じゃないってな怖い顔してるよ」

「よく言われる。物事に集中してるとそうなる」

「確かに。おまえがすっごい集中して仕事してるときは、すごい怖い顔してるよな。でもメシ食う時くらい、そういう顔やめてもいいんじゃない?」


 笑ってティルスは立ち上がる。金髪をポニーテールにした快活な女だ。


「最初はさ、おまえのことをさ、力のない頼りない奴だなぁって思ってたんだけどさ。おまえって根性あるよね。その集中してるときの怖い顔もさ、その根性の証だよね。あたし好きだよ、そういう根性あるやつ」


 彼女の言葉があまり頭に入ってこない。罪悪感に耳をふさがれているのだ。頭は勝手にあっちの世界のことを考えようとする。


「もう! 好きって言ってるのに何の反応もなし? お前が一番大事なのは、あの可愛いお嬢ちゃんなんだって知ってるけどさあ。ちょっとくらい反応してくれてもバチは当たんないんじゃない?」


 なぜだか笑いが漏れていた。ティルスはぎょっとして後ずさる。「どうしたのさ?」と訊かれるが、笑いは止まらなかった。俺の罪をすべて知ったら、そんなことを言っていられないだろうに変なことを言う彼女が、どうしようもなく可笑しかったのだ。可笑しいのに、涙が出てきた。


「おまえ本当に体調悪いんじゃない? 今日は早めに帰った方がいいかも。きっと頑張り過ぎてんだよ。あたし親父に言ってくる」


 彼女を止める気力がなく、昼の休みが終わった後、帰ることになってしまった。

 空いた午後の時間をどうすればいいかわからなかった。大勢の人々がいる場所に自分がいることは、美しい絵画に泥を塗りたくる行為みたいな気がして、自室に戻るしかなかった。


 自室でベッドに横になり、眠ってしまえば何も考えずにすむと思ったが眠れなかった。

 誰か助けてくれ。この罪悪感から解放してくれと思う半面、誰かの許しを得られても、俺は俺を許せないだろうという確信がある。そもそも人喰いの罪に関しては、すでにヒイカは俺を許してくれているのだ。それなのにいまだにグダグダと罪の意識にとらわれている。あっちの世界を見捨てる罪も、自分で自分を許せないと思う。


 なら、どうすれば楽になれる? わからないまま数日が経った。

 平静を装うのはうまくなった。仕事仲間に心配されることはなくなった。そのかわり、自分の中に沈殿していく黒いものの量が増えていく。徐々に、クズな思考にとらわれるようになる。


 誰かとこの罪悪感を共有したい。


 誰にも言えないから孤独で、孤独だからつらいのだ。平和な世界は綺麗で、独り汚れているから孤独なのだ。

 ノックの音がする。自室で、無理矢理にでも眠らなければとベッドに入ろうとしている時だった。ヒイカが「サウル、起きてる?」と声をかけてきた。


「あ……ああ」


 静かにヒイカが入ってくる。柔らかそうな生地の、白いワンピースの寝巻姿が愛らしかった。なぜか心臓が早鐘を打っている。だがそれは、ヒイカの愛らしさが原因でないことはわかっている。


「話してほしいことがあるの」


 ヒイカが言った。話したいことがあるの。ではなく、話してほしいことがあるの。と。


「やっぱりサウル、最近ずっと変だもん。サウルはバレないようにしてるつもりだろうけれど、さすがに何日も様子が変だったらわかるよ私。ねぇ。心配事があるなら話してよ」

「いや、ない」


 否定するのが早すぎた。案の定ヒイカは不服な顔をして、ベッドに座る俺の方に近づいてくる。


「なんで隠すの? 私たち、この世界に来た、二人だけの運命共同体だよ? 幸せも共有したいけど、つらいことも共有したいよ。それとも私には話せない?」


 ごまかす言葉も何も言えなかった。何かを言おうとしたら、全部崩れ落ちてしまいそうで……。


「……そっか。わかった」


 ヒイカは腰に手を当ててため息を吐いた。わかってくれたのかとホッとした瞬間、ヒイカはベッドに座る俺の隣に腰を落とした。


 は?


 腰にヒイカの腕が回って、柔らかく抱きしめられる。ヒイカの顔を見ると、ほんのりと顔を赤くして俺の顔を見上げていた。

「どうしても言いたくないなら無理矢理言わせるわけにいかないけど……。でも、ぎゅってされるのって落ち着くよね。だから、ちょっとでも気持ちが楽になってくれたらいいと思ってさ」


 ヒイカの言葉で自分で自分を呪縛していた鎖が、溶け落ちたような気がした。何も考えられなくなり、体が勝手に動いた。覆いかぶさるようにヒイカを抱きしめる。嗚咽を漏らして、怖いことがあったガキのようにヒイカにしがみついていた。そして、口が勝手にすべてを話していた。ノドから流れる言葉の洪水を、せき止めることがどうしてもできない。

 罪を共有できるのはヒイカしかいないと、クズな願いが浮上してきてしまったのだ。


「うそ……」


 話を聞き終えたヒイカの第一声はショックを受けた声色だった。だがだからといって、何かができるはずもないのだ。罪の意識に苛まれながら、この平和な世界で、俺と一緒に…………そう思った。


「私……ヤダ……」


 ヒイカが震えた声で呟く。


「みんなが……何も救われないなんて……ヤダ」


 ヒイカが俺の腕の中で甲高い悲鳴を上げた。その声が力を持っているかのように、部屋の中に風が吹き荒れた。ヒイカが、俺の腕の中で顔を上げる。その視線の先には人が通り抜けられそうなほどの円が浮かんでいた。その円の中には、俺の部屋と同じような光景が見える。

 なんだこれはと思っているうちに、ヒイカが立ち上がる。ふらりと歩いて、その円の中に入っていく。


 円の中の光景はあっちの世界なのだ。そう直感で認識する。ショックで、ヒイカはその力を思い出したのだろうか。


 俺のせいだ。俺のせいだ。


 罪悪感で体が震える。また新たな罪を犯した。俺はどれだけ罪を犯せば気が済むのかと、絶望する。今にも吐いてしまいそうなほど、喉の奥から何かがせりあがってくるが、何とかこらえる。そんな場合ではない。ヒイカを止めなければ。


「ヒイカ!」


 ヒイカを追って自分も円の中に飛び込むが、すでにヒイカの姿がなかった。

 廊下へのドアが開いていた。ヒイカを探して廊下に出る。なぜか存在が希薄になったような気がするヒイカが歩いている。


「ヒイカ! 何するつもりなんだ!」


 疑問を、不安と焦燥と一緒にぶつける。するとヒイカはゆっくりと俺の方を振り向いた。


「ジョオアを探すの。みんなを助けてあげなきゃ。死んでも生まれ変わることすらできないなんて救われない。こんな形で何もなくなっちゃうなんて救われない。だから、みんなを平和な世界に連れていくの」


 言い終わるとすぐにヒイカは走り出した。どういう意味だと思っているうちに不意を突かれ、追いかけるのが遅れた。ヒイカが家を走り出ていく。俺も家を出たが、すでにヒイカの姿が見当たらなかった。


 みんなを平和な世界へ連れていく……。それがどういう意味なのかヒイカはわかって言っているのだろうか。平和な世界に人喰いの化け物を連れていくと言っているのと同じだ。


 ヒイカは錯乱している。このまま冷静になれずにいれば実行してしまうだろう。平和な世界を危険な場所にするという大きな罪を犯してしまうだろう。そんな罪を背負わせるわけにはいかない。おかしな話だ。さっきまで、罪を共有したいと思っていたのに、いざとなるとヒイカに罪を背負わせたくない。


 罪なんてものを背負うのは、俺だけで十分だ。


 さっきヒイカが開いた向こうの世界と、こちらの世界をつなぐ円は消えてしまっている。強引に連れて帰るのなら、《心臓》達に入り口を開いてもらう必要がある。ヒイカを何とか中央区のアヴァリエ様まで連れて行かなければならない。

 ヒイカはジョオアを探さなきゃと言っていた。ならばまずは俺たちが住んでいたあの家に向かっただろう。


 一度家の中に戻り、大ぶりなナイフを探し出し、外に出る。

 外は小雨が降っていた。



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