十二 無に飲まれる前に

 僕の耳が、全てが終わる足音をとらえる。


 これは誰にでも聞こえる音なのか、僕が《世界の心臓》の分身だから聞こえる音なのだろうか。もうすぐ壊れた世界がすべて無になる、そんな音が聞こえる。


 最近気が付いたこと。僕は何日も寝なくても意外と平気だということ。普通、あまりにも寝ないでいると人は死んでしまうと聞いたことがあるけれど、一か月くらい起き続けているが、体の疲れはあるけれど死にそうな感じはしない。


 ヒイカたちがいなくなって、あの家に住み続ける意味もなくなったから、僕はいつまでも起きていられる体で、島の上に浮遊して、地上のみんなを見守っている。誰も守る必要もないから、多少の疲れがあったとしても気にもならない。だからずっと空ですべてを見守っていられる。


 なんだか本当に神様になった気分だ。けれど、彼らによる食物連鎖に――彼らが共食いをしている現実に、何か手を出すということはしない。ただ自然のままを見守る。


 この間、ずっと見つからないと思っていた長様――サウルのお父さんを見つけた。

 彼は森の奥の崖の下に転落していて、そこから脱出することができなくなっていたらしい。草などが生えていたので飢え死にすることはないまま長い間そこにいたようだった。僕はどうしようか少し迷って、崖の上にサウルのお父さんを連れて行った。


 いまだにどっちがよかっただろうと考える。そのうち食べるものがなくなって、飢え死にするかもしれない場所に置いたままにしておくか。それとも共食いをされるかもしれない、してしまうかもしれな場所に連れていくか。どっちがよかったのだろう。

 でも正直、だんだんとそういうことがどうでもいいことのように思えてくる。僕自身でその道を選んだのに、頭の中は一つのことでいっぱいになっている。


 寂しい。


 会話ができる人間がいない。《心臓》たちとも、僕はサウルみたいに交信できないから話すことはできない。ただただ毎日が孤独だ。

 それが、世界を壊した僕への罰であるのなら、ふさわしい罰だと言えると思う。でも、気が狂うほどに寂しい。


 気が狂う……。いや、僕は最初から――僕がこの時代の僕を殺した時点でもう狂っていたのだと思う。

 世界を壊した張本人の癖をして、何よりも重い罪を背負って、罪悪感で苦しむよりも寂しさに苦しんでいる。ヒイカのことばかりを考えている。


 ヒイカ……。


 もう、世界のどこにも心を通わせられる相手がいないのだから、せめて心の中だけでも認めてもいいだろうか。


 僕は、ヒイカを――妻のヒイカも、この時代で一緒に暮らしてきたヒイカも、どちらのヒイカも愛している。ヒイカのことを想うこと。それがこの道を選択した意味で、今の僕の唯一のよりどころだ。





 僕の異常に発達した聴覚が声を拾う。誰も言葉を発するはずのない世界で言葉を拾う。

 いるはずのないヒイカとサウルの会話を。でも幻聴なんかじゃない。

 その言葉で、僕はあることを決意する。

 実行するためには力をためなければいけなくて、それは少し時間のかかることだけどきっと、世界が無になるまでには間に合うことだろう。



    ▲ ▽ ▲ ▽



 私は家々が立ち並ぶ道を縫って走り、森を目指した。この世界が壊れてから、ずっと住んでいたあの家を目指す。ジョオアに会わなければならない。彼らを平和な世界へ連れていきたくても、私にはどうすることもできないから。


 森の中へ踏み込む。視界が悪いから、破滅の気に満たされた人と鉢合わせないかと心配になるけれど、小雨でも雨が降っているのに違いないから、きっと外で活動している人はいない――と思い切って突っ切ることにする。


 どうして私はこっちの世界に戻る方法を忘れていたのだろう。自身に問う。

 自分で『向こうの世界の人たちの分まで幸せにならなきゃ』なんて言って、みんなを忘れていないふりをして、私は結局、平和な世界にしがみついていたかったんだ。みんなのことよりも自分の平穏が大切だったんだ。


 涙が出るのに、自分自身がなぜか可笑しくて笑ってしまう。今戻ってきたから、なんて言い訳にはならない。

 もうすぐすべてが無になってしまう。浄化の実でみんなを元に戻す時間が無くなってしまった。私が平和に浸っていたせいで。

 やっぱりそうだ、私はとんだ偽善者だ。――ごめんねみんな。


 家にたどり着く。ずっと走り続けていたから、足が萎えてしまいそうになる。座ってしまえばきっともう立ち上がれなくなると思い、何とか踏ん張る。体はほんの少し雨でぬれているが、気にならない程度だ。なのに、走ってきたせいで火照っているのに、体は震えている。息を整えてジョオアの名前を呼ぶ。かすれた声しか出ない。返事は返ってこない。


 ジョオアが使っていた部屋に行く。いない。キッチンやいろいろな部屋をのぞいていくが、ジョオアの姿がなかった。

 どうしようどうしたらいい? こんなこと、頼れるのはジョオアだけなのに……!


「ヒイカ!」


 私の名前を叫ぶ声が、家の中に入ってくる。サウルだ。

 声のした玄関の方へ向かう。サウルの姿を認めると、涙が次々と頬を伝った。


「どうしようサウル。ジョオアがいない。あたしじゃどうすることもできない。みんなを、見捨てなきゃいけないのかな」

「落ち着けヒイカ。落ち着け」


 サウルが、私の両肩をつかんでくる。おぼつかない足取りの私を支えるように。

 よかった。サウルはいつだって私の味方でいてくれる。普段は私をからかって遊ぶくせに、他のやんちゃな子たちが私をいじめてきたときは必ず助けに来てくれた。そういうとこ、ちっちゃな頃から変わらない。


「サウル。手伝ってくれる?」

「え?」

「二人でならきっと、少ない人数だけど……何人かを、平和な世界へ連れて帰ることができるんじゃないかって……」

「ヒイカ……」


 頭をくしゃくしゃとなでられる。優しいような、怒っているような手つきで。


「そういう危ないこと、考えるのは本当に最後の手段にしろ。ジョオアはきっと、いつもみたいに偵察に行ってるんだ。だからここからじゃなくて……そうだな。島の真ん中……中央区の方からならきっとあいつに声は届く。おまえ、あいつの異常な聴力忘れてるだろ? だから島の真ん中からならきっと、あいつがどこにいても声は届く。もう一度探そう」


 私は頷く。そうだ冷静にならなければ。

 私たちが死んでしまったら、彼らに殺されてしまったら、誰も彼らを救うことができなくなってしまう。落ち着かなければいけない。


 サウルと手をつないで外に出る。少しだけ雨の量が増えている。油断できるほどではないけれど、この雨が少しでも多く彼らの足を止めてくれればと思う。


 二人で森を抜けた。中央区へ向けて二人で走る。その途中、空の異変に気がつく。

 空を埋め尽くしている紫の雲が、すごい速さで流れていく。雲が何かから逃げているみたいに。その激しい流れは一瞬ずつ、雲の切れ目を作りだした。雲の切れ目の上。空があるはずのそこには、赤とも黄色とも白ともつかないような、奇妙な色の空が見え隠れしていた。

 これは、世界が無になる前兆なのか……。


 早くしないと皆が無になってしまう。生まれ変わる魂もなくして無になってしまう。そんなのは嫌だ。


 ずっと走っているせいで息が乱れて、声を発することはできなかったが、サウルに『急がなきゃ』と目くばせをする。伝わったようで、サウルは頷いてくれた。できる限り速く走る。


 世界が破滅してからずっと放置されて、ボロボロにくたびれてしまった屋台が立ち並ぶ道を抜ける。アヴァリエ様の足元にもうすぐたどり着く、少し手前で私は立ち止まる。ジョオアを呼ばなければと、息を整え、大きく深呼吸する。


「《世界の心臓》たち、聞いてるか! あっちの世界の道を今すぐ開け!」


 私が叫ぶ前にサウルが叫んだ。アヴァリエ様の足元に黒い円が浮かび上がる。サウルは私の手を引っ張ってその円の方に走ろうとする。引っ張られた勢いで私は数歩走るが、そのサウルの手を振りほどいて立ち止まる。サウルが悲しそうな顔をして振り向く。

 ああ、そっか。嘘つきサウルがまた出たんだ。そのために私をここに連れてきたんだ。


「何してんのサウル。私、みんなを見捨てるなんて絶対イヤだよ? このまま帰れないよ?」

「ヒイカ、頼むからちゃんと考えてくれ。ここのみんなを連れて行ったら……平和な世界はどうなる? 平和な世界の人間に受け入れられるわけないだろ。平和な世界の人間にとって、みんなはただの人喰いの化け物なんだから」

「でも! でもでもでも! じゃあサウルはみんなを見捨てて平気なのっ……?」


 声が詰まる。泣きそうになる。雨が額から顎へと流れ、一筋滴った。涙と一緒に。涙を拭おうとした腕を、サウルにつかまれる。


「平気だ。平和な世界でみんなが誰かを喰ったとしたら、ヒイカはみんなを連れてきた自分を責めるだろ。居場所もなくなるだろ。ヒイカのせいで、平和が平和じゃなくなるんだぞ。そんなところは見たくない。それを考えたら、しょうがないことをしょうがないって受け入れるのは大したことじゃない」


 しょうがないこと……。そうなのだろうか。私たちがしょうがないと決めた時点で物事はしょうがないということになるのではないか。しょうがない、という選択をするからしょうがないことになるのではないか。もっと考えれば他の道が開けるのではないか。

 でも、何も思いつかない。もうすぐ無がやってくるというのに、何も思いつかない。


「……大したことじゃない……」


 後ろから声がして振り向く。見覚えのある大人の男の人が、覚束ない足取りで立っていた。


「おや……じ……?」


 サウルが呟く。そうだ、長様だ。サウルのお父さんだ。ジョオアがずっと見つけられないと言っていたから、死んでしまったと思っていたけれど、間違いなくサウルのお父さんだ。


「おやじ……」


 サウルのお父さんは、サウルの疑問を肯定するように言葉を繰り返した。そして走り出し、私たちに襲い掛かってくる。

 サウルが蹴り返し、お父さんは地面に背中をつける。小雨とはいえ雨の影響で動きが鈍くなっているのか、起き上がろうとするがうまく起き上がれないでいる。


「親父……今までどこにいたんだよ」


 サウルの声は震えている。私からは背中しか見えないから、どんな表情なのかはわからないけれど、サウルは右手を顔の高さまで上げて涙を拭ったようなしぐさをする。


「生きてても確実に化け物やってんだろうなって思ってても、どっかで生きててほしいって思っててさ。でも化け物やってる親父も嫌でさ。なんか……気持ちが……どう受け止めればいいか全然わかんなかったじゃねぇかよ。今も、嬉しいのか悲しいのか分かんねぇよ……」


 サウルがどこからか大ぶりのナイフを取り出す。そしてお父さんにナイフを向ける。


「死なせてやる。そしたら生まれ変わることができるんだって。いつ生まれ変わるのか知らないけど、俺の孫あたりにでも、会えたらいいよな」

「――えたら、いいよな」


 サウルがナイフを振り上げると同時に、お父さんが起き上がる。そしてサウルのナイフをかいくぐって、私の方に突進してきた。


「親父っ!」


 サウルがお父さんにぶつかる。お父さんが、力をなくして膝をついて、倒れた。サウルが離れる。手には、血の付いたナイフを持っている。肩が上下している。頬には涙が流れている。


「そっか……」


 と呟く。


「母さんを喰ったのが、ゼファドーアだったんだ。だから、ゼファドーアは俺が側にいたから……それで……」


 サウルが何の話をしているのかはわからなかった。でも、今のやり取りで気が付いたことがあったから、私も「そっか……」と呟いた。


「みんなを死なせてあげればいいんだ。無になってしまう前に」


 サウルが私を見る。頬にはまだ、涙が流れ続けている。その涙を拭って強く目をつぶった。目を開いて手の中のナイフを見る。


「俺が、みんなを解放してやればいいんだな」


 サウルが言った。強く決意した表情をする。


「『俺が』……って、私もやらなきゃいけないことだよ。私が言い出したことだも……」


 私を見たサウルの顔は怖かった。私の言葉を否定するような。自分の決意の邪魔だと言いたいような。そんな表情だ。


「親父を刺した時、なんだか知らないけど、ゼファドーアが母さんを喰ってるところが見えた。俺の頭に親父の記憶が流れ込んだんだと思う。殺したら、その殺した相手の思念が見えるんだって。《心臓》たちが言ってる。腐った食いもん喰ってるところとか、化け物じみた狂ってる行動とか、人を餌として貪り喰ってるところとか、そういうの、自分がやってるみたいにリアルに見えるんだ。ヒイカはみんなを死なせてあげればって言うけど、そんなのはヒイカに見せられない。俺なら――それを体験したことのある俺なら、大丈夫だから。今さら傷つかないから……みんなの魂を解放するのは俺がやる」


 みんなの、理性を無くした時の思念が見える。

 サウルはさらりとウソをつく。そんなものが見えたら、きっと自分も理性を失っていた頃のことを思い出すのに、平気なわけがない。


 サウルだけにそんな傷を背負わせるわけにはいかない。一緒に生きていくのだから、一緒に背負うべきだ。なのに、サウルは私に傷つくなと言ってくれる。私は傷ついてはいけないのだろうか。傷を共有してはいけないのだろうか。


 みんなの体にナイフを突き立てられるか、と考えたら震えが止まらないけれど。だからサウルは自分だけでやろうとしてくれているのかもしれないけれど……みんなの魂を解放する方法がそれしかないのならば私は――


 空を見る。雨はいつの間にかやんでいた。紫の雲は流れて、赤とも黄色とも白ともつかない奇妙な空が晴れ渡っていた。耳の奥から奇妙な音がする。何かがばらばらになるような音がする。それは、この世界が壊れて無になる音だと、なぜだか理解する。


 もう、この世界が存在する時間は数十分もないことを感じる。私がみんなを殺すことを決心できてもできなくても、サウルにすべてを任せたとしても、時間という制約がみんなの魂を解放することを拒んでいる。“しょうがない”を生み出している。みんなを解放できないだけじゃなく、早くこの世界から出なければ私も、サウルも、世界と一緒に無になってしまう。


 でも、私は動けなくて。死にたいわけじゃないのに、無になりたいわけじゃないのに、動けなくて。まだ迷っていて。


 空を見上げることしかできなくて、空を、見上げた。


 上空に小さな影を見つける。ジョオアだ、と直感する。サウルも気づいて上を見た。私は名前を呼ぼうとして口を開いた。そのとき。


 ジョオアの体からたくさんの光が放たれた。光は破裂したかのように広がる。破裂して、細かく分散された光は大粒の雨のように降ってくる。降ってきた光は周りの建物の屋根を突き破る。


 なにこれ。


 そう思いながらあたりを見回す。遠くに一人、破滅の気に満たされた人が歩いていた。その人に光が当たり、その人は倒れる。光は次々と降り注ぎ、家々の屋根を貫通していく。


 この光は、家の中の人を殺しているのだ。死なせているのだ。


 どれくらい光が降り注いだだろうか。光が消える。そして、空にある影が地面に引き寄せられ、落ちてくる。ジョオアの体は地面に叩きつけられ、一度小さく跳ね、私の目の前に転がってくる。私はなぜか驚かず、ゆっくりと深呼吸する。どうして? と思うのに、やっぱり、とも思っている。

 ジョオアに近づいてしゃがんで、彼の体を揺すってみる。彼の口からうめき声が漏れた。


「ヒイカ、今、『どうして』って思ってる……でしょ。どうしてみんなを殺した、のかって。しょうがないでしょ。僕は、僕を、殺した……時から狂ってたんだ。最初から、殺人衝動があったんだよ。狂ったやつに、意味なんか……ないんだ」


 息も絶え絶えでそんなことを言う。そうじゃないってこと、私は前から知ってるのに。


「ウソが下手だよねジョオアって」


 キッパリといってみるとジョオアが、力なくかすかに「ははっ」と苦笑した。私は続ける。


「ジョオアは、こっちの世界に来た私たちのこと、どこかから見てたんでしょ? それで私がみんなのことにこだわって、平和な世界に戻らないから……だから私のみんなへのこだわりを断ち切ろうとしてくれたんでしょ? 私が諦めて平和な世界へ帰るように」


 サウルが私を追いかけてきたのも、きっと同じ理由だ。二人とも、私が平和な世界で平和に暮らすことを望んでくれている。

 ジョオアは困ったような、申し訳なさそうな顔をした。図星だからだ。この表情も久しぶりに見るなぁとぼんやりと思った。


 わかっていた。確かに私はわかっていた。平和な世界にみんなを連れて行けばどうなるか。

 でもどうしても、見捨てることができなくて。見捨てることがしょうがないと思えなくて。でも本当はどうしようもないことなんだっていうことはわかっていて。それを、ジョオアが断ち切ってくれた。

 そして、みんなは“死ぬ”ことができた。きっと、いつか、どこかで、みんなは生まれ変われる。きっと。


「ジョオアも、平和なあっちの世界に行こう? ここにいたらなんにもくなっちゃう。体も心も魂も」

「僕が、行きたいのは……妻と娘の側なんだ」


 妻と娘の側……。壊れた未来にいる、未来の私の側……。

 嫌だ、と思った。ペリサデやチコカ。他のたくさんの私の大切な人たちを殺した人なのに、嫌だと思った。

 世界が壊れてから、ずっとそばにいてくれた人。私のことばかり考えて、たくさんの人たちを殺さなければいけなかった人。それで傷ついているのに、自分で自分に傷ついていないふりをする人。


「君は、開かれた世界へ……移動する力に、目覚めているんでしょ? こっちの、世界に戻れた、のも、その力なんでしょ? だったら、僕を妻のいる、世界に送って、くれ……ないか?」

「でも。破滅した世界はすべて無にかえるってサウルが……《心臓》たちが言ってるって。だから、奥さんの世界も、きっと……」

「うん。でも、だからこそ。僕は妻と娘の所へ、行かなきゃ」


 ジョオアの指が、私の頬を濡らす涙を拭う。


「君は幸せに、なるんだ。平和な世界で。だからもう……“悪魔”の、力なんか、必要ない。いろいろな人に出会って、いろいろな人……に支えられて、幸せに、なるんだ」


 何かを言いたかった。あなたは私の大切な人だと、言いたかった。恋や家族や友達とは違うけれど、それでも大切な人だと言いたかった。けれど、嗚咽が邪魔をして言葉にならない。


「たのむ。僕を、妻と娘に会わせてくれ」


 私は彼の手を握った。これで私の力を注ぎ込めばジョオアは行ってしまう。力を注ぎ込みたくなかった。けれど彼の悲痛な頼みを断ることもできなかった。


 力を注ぎ込んだ。


 円が彼の足の方から出現し、徐々に彼の体を通っていく。足の方から徐々に、砂が風に飛ばされるように、彼の姿が消えていく。下半身が消えて、おなかが、腕が、胸が、次々と消えていく。顔だけになって、その唇が「さよなら」と声を残して、すべてが消えた。すべてが消えても私はそこをずっと見ていた。

 隣に、サウルが立っていることに気づく。


「帰ろう」


 手を差し伸べられて、私はその手を握り返す。サウルは私を引っ張って立たせてくれた。

 今度は何も抵抗せずに、サウルと一緒に、平和な世界へ続く円の方へと歩いて行った。



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