十 平和な世界での生き方

 《新しい可能性》に来て一か月くらい経っただろうか。私とサウルは長様の家でお世話になっている。

 家事の手伝いや畑の世話をさせてもらっている。マリーチェママの所にいた時みたいに。


 長様の家ではたくさんの植物を育てていて、私はレジニとトトの世話を任された。ちょうど収穫の時期だったから、久しぶりに収穫をすることができて、とても懐かしくて涙がにじんだ。マリーチェママや、ペリサデやチコカのことを思い出して寂しくもなったけれど、楽しい思い出も思い出して、平和であることがとても心を落ち着けてくれる。


 サウルは人手の足りない大工さんの所の手伝いに行っている。はじめは、あっちの世界で家にこもるしかできなくて、まともに運動できていなかったせいで体力がなく、叱られてばかりいたけれど、今は徐々になじみつつあるそうだ。私もサウルも、忙しくも穏やかな日々を送れている。


 ジョオアは、こうなることを望んで《新しい可能性》に私たちを送ったのだろうか。


 私とサウルがあの《心臓》たちのいる異空間で、黒いぬかるみに沈んだ時。あの時のジョオアの申し訳なさそうな表情は、私たちだけをこちらの世界に送ることを確信していた表情なのだと思う。

 《心臓》たちと話を合わせていなければできないことだから、はじめて彼らと話したはずのジョオアはどうやって私たちだけをこちらの世界に送れたのか……それはわからないけれど。


 どうして彼だけ向こうの世界に残ることにしたのか、とか。

 どうしてこんな風な――みんなを助けたいと思っていた私を裏切ったみたいな状況で私たちを送ったのか。とか。


 いろいろな疑問があるのだけれど……私の幸せを願ってこちらの世界に送ったのは確かなのだと思う。

 ジョオアは、ジョオアを私たちの時代に送った奥さんと同じことをしたのだ。きっと。


 そうなると、彼だけが向こうに残ったのは、あの世界を破滅させてしまった自分の責任だと思っているから残った、ということだろうか。奥さんもそんな風なことを言ったと言っていた。


 ジョオア自身、そうされて奥さんや娘さんを心底心配していて、側にいられないことを悔しがっていたのに、私がジョオアを心配しないと思っていたのだろうか。


 ……たぶん、考えなかっただろう。あるいは大した問題じゃないと思ったのだろう。だって私はジョオアの奥さんじゃないから。ジョオアは、私がそこまでジョオアのことを大切に思っていないと思っている。

 なら、ジョオアの望みは私たちが平和な世界でちゃんと幸せになることだろう。


 納得できないこと、心配なこと、後悔していること……いろいろな気持ちがわだかまってはいるけれど、恐怖のない生活ができている。心が安らげる場所で生きている。ジョオアに声が届くなら、大丈夫だよ、幸せだよ、と伝えたい。


「すっごくおいしい! ヒイカちゃん、クッキー作るの上手ね」

「ホント! うまーい!」


 長様の家ではよくしてもらっているし、友達もできた。これ以上、望むことはない。


「そうよねぇ。あたしだって結構得意な方だと思っていたけれど、これだと負けてしまいそうだわねぇ」


 こちらの世界に来てから初めて友達になった、少し年上だけど話が合うハーンベルナとフーナ。それから長様の奥さんであるレイビオさんが、私のクッキーを褒めてくれる。長様の家にはいろんな人が遊びに来て、いつも賑やかだ。


 浄化の実を作れるようになる前は、することが何もなくてよくクッキーを作っていた。ジョオアは褒めてくれたけれど、ジョオア以外の、もっとたくさんの人にふるまえるようになるのはいつだろうと思っていたから、とてもうれしい。こうやってみんなでのんびりお茶をすることは、とても平和を実感できることの一つだ。


「男の人は胃袋つかまれると弱いっていうし、ヒイカちゃんはこれでサウル君を落としたのね?」

「だよねだよねー」


 ハーンベルナとフーナがフニャフニャと笑って私をつついてくる。


「え。落としたっていうか……幼馴染だから……」


 不意を突かれた言葉に、私は口の中でもごもごと答える。

 私とサウルは恋人同士だとみんな思っている。まぁ、一緒に戦争から逃げてきたということになっているから、そう思われるのが自然なのだろうけれど。


 私たちは果たして恋人同士なのだろうか。お互い大事に思っていることはわかってはいるけれど、はっきりと好きだと言い合ったことはない。でもキスはしたことあるし……といってもあれは私が勝手にやったのだった。今思うとよくもあんな大胆なことができたなぁ、と赤面する。でもあの時サウルも受け入れてくれたし……と色々考えているとなんだか恥ずかしくて頭がゆだってくる。


「あらやだ。ヒイカさんは照れ屋さんねぇ」


 レイビオさんがふわりと優しく微笑んだ。私はなんだか余計恥ずかしくなって下を向く。


「そうそう。ハーンベルナさんのところも旦那さんとすごく仲がいいわよねぇ」


 恥ずかしいけれど、こうやって恋の話に花を咲かせられるのも、平和だからだなぁ、と思う。

 思うのに、心はどこかでもやもやしている。



    * * * *



 長様は、私が働いた分の対価を支払ってくれている。最低限の生活費はそれで賄えるくらいの金額で、マリーチェママの時とは違って、大人扱いされているのだなと思う。長様の家族とは共同生活をしているというよりは、私とサウルで一部屋ずつ与えられ、住み込みで働いているという形だ。

 長様の奥さんのレイビオさんは『困った時はいつでも頼ってね』と言ってくれていて、色々たくさん、お世話になっている。けれどなるべく甘えずに自分のことは自分で支えるよう頑張っている。


 今日も、屋台が立ち並ぶ中央区に足を向ける。日々の食を支えるための買い物だ。

 晴れ渡った空の下でにぎやかに屋台が立ち並ぶ中、大きな買い物かごを持ったハーンベルナに会った。フーナも一緒だ。


「ヒイカちゃん」

「ヒイカぁー」


 とハーンベルナとフーナが手を振るので、私も手を振り返してハーンベルナたちの側に行く。


「その買い物かご、大きさすごいね」


 ハーンベルナの買い物かごは、私が持つものよりも三倍はあろうかという物だった。確かに私は二人分で十分なのだけれど、ハーンベルナも旦那さんと二人暮らしだ。こんな大きな買い物かごは必要ないのではないかと思える。


「うちの旦那様は大喰らいなの」


 ハーンベルナの返事はとても幸せそうな笑顔を浮かべてのものだった。

 フーナが「その食欲は巨人の如し」と、からかう。ハーンベルナが「巨人ってひどい」とフーナの肩をたたきながら笑っている。けれどハーンベルナのその笑顔は、どこか儚げに感じられた。元気な笑顔のハーンベルナが儚げに見えるなんて、と疑問に思ったが、よく見ると顔色が悪い。


「そうだ。ヒイカにあれ教えようよ」


 フーナが言う。ハーンベルナが「そうね」と頷く。


「ヒイカちゃんは知ってるかな。こっちに私のすごいおすすめが――」


 そう言いながらハーンベルナは前に立って歩いていこうとしたが、ふらりと倒れた。買い物かごの中身が散らばる。


「え」


 そこかしこで驚きの声や心配の声が上がる。フーナが戸惑っている。私はすぐにハーンベルナに駆け寄る。

 死んでしまったようにぐったりしていて動かなくて、一瞬、今まで見てきた死んだ人の顔がよぎった。けれど息はちゃんとしている。さっきよりもさらに顔色が悪くなっているがちゃんと生きている。


「誰か! お医者様を呼んできてください!」


 私は、せっかく平和な世界に来たのにまた友達が死んでしまうのを見るのは嫌だと、必死になって叫んだ。



    * * * *



 ハーンベルナを診てくれたお医者様は、穏やかで和やかなおじいちゃん先生だった。その先生は、私の不安を知ってか知らずか、和やかさを崩さずに、ニコニコと朗らかに診察結果を告げた。


「うん。これは赤ちゃんができてますね。注射をしましたらね、一発で元気になりましたよ」


 診察を終えて、ハーンベルナは照れ笑いを浮かべていた。


「ご心配おかけしました」


 照れ笑いで頭を下げられた。フーナがホッと胸をなでおろし「そっかぁ! おめでとう!」と言う。


 そんなフーナを横目に、私はホッとすることも忘れてびっくりしていた。本当にとても心配をしたからと言うのもあるけれど、倒れた理由がそれなのだということにも、とても驚いた。


 ジョオアから聞いた、赤ちゃんの作り方。私はそれをとても気持ち悪いと思ったのに、ハーンベルナはそれをしたんだと思うと、すごく不思議な気分になる。ハーンベルナは恥ずかしそうでありながらも、とても幸せそうで、嬉しそうだから。


 念のためにハーンベルナを家まで送っていくことになった、その帰り道。私はハーンベルナに『どうしてそんなことができるの?』と訊ねてみたくなった。けれど、彼女の幸せに水を差すみたいで聞けなかった。

 でも答えは、嬉しそうに話す、ハーンベルナにあると思った。旦那さんはどんな顔をするかな、とはちきれんばかりの笑顔で話して、優しく愛おしそうにおなかをなでる。嫌なことをした果ての幸せなんかでは絶対にない。旦那さんへの大好きが伝わってくる。


 きっと、大好きだからなのだろう。大好きな人とすると、嫌じゃないことなんだ。

 そう思っても想像することは難しい。でも、私だって好きじゃない人とキスなんてできないけど……サウルとなら……できる……。たぶん、そういうことなのだろう。


 ハーンベルナの家に彼女を無事に送り届け、幸せそうな彼女の笑顔を見送りながらさよならをした。フーナと一緒に自分の帰り道をたどる。その途中、頭の中に何か降りてきたように、あることに気が付く。

 フーナに早口で別れの挨拶を告げる。慌てて「またね」と言うフーナの声を背に、私は走り出した。その気が付いたことをサウルに伝えなければならない。


 長様の家にたどり着き、サウルの部屋をノックする。思わず激しいノックをしていたからか、驚いた顔をしたサウルが出てきた。よかった、帰ってきていたと安堵する。


「あっちの世界を救える方法が分かったの!」

「え……?」


 サウルはさっきよりもさらに驚いた顔をした。私の勢いにびっくりしているのではないらしく、意味が呑み込めないというように顔をしかめた。


「とりあえず中に入れ。そんな大声でその話をするのはあんまり良くない」


 気持ちがはやっていたけれど、確かにそうだと気持ちを落ち着けるように深呼吸する。私たちが違う世界から来た人間だ、なんて話しているのを誰かに聞かれたら、どんな顔をされるのかわからない。

 サウルは私に書き物机の椅子を薦める。サウル自身はベッドの上に座って私たちは向かい合った。


「……で、わかったていう『あっちの世界を救える方法』っていうのはどういうモノなんだ?」


 サウルに促され、私はもう一度深呼吸した後に答える。


「私が、あっちの世界で男の子を生めばよかったんだよ」


 サウルが驚きを通り越したような、何とも言えない表情になる。


「だってそうでしょ? ジョオアの奥さんは女の子を産んだから世界が壊れた。私たちの時代に来たジョオアは私たちの世界のジョオアを殺してしまったから世界を壊してしまった。赤ちゃんが世界に影響を及ぼすなら、いなくなった男の子を私が産めばよかったんじゃないかなって……」


 サウルは肘を膝につけ、頭を抱えて黙ってしまった。何を考えているのか、苦痛すら伴っているようなうめき声を出す。やがてゆっくりと顔を上げる。


「それはかなり不確実なことで、成功したとしても結局時間がかかる。たとえできたとしても賛同はできない」

「どうして?」

「まず一つ目に、子供が生まれたとして、そのバランスが影響を及ぼすのは子供が十歳になってからだ。ジョオアの話にあっただろ。娘の十歳の誕生日に世界が壊れたって。それだけの時間がかかるってことだ。そして二つ目に、確実に男が生まれるという確証はない。女が生まれれば、さらに世界のバランスは崩れるのかもしれない。そうなるとして、さらに世界が崩れるっていうことがどんなことかはわからない以上、世界の消滅、くらいの規模のことを考えた方がいいかもしれない。成功確率は二分の一で、時間もかかるし失敗した時のリスクもでかい。いい案とは思えない」


 やっぱり、ダメだろうか……。なんだか目の端に涙がたまる感触がする。


「そっか。そうだよね。そもそも、もうあっちの世界に行けないんだから、こんなこと考えてもしょうがない……よね……」


 落ち込んだ声が出た。そうだ。あっちの世界に戻れないのだ。世界に影響を及ぼすのは、その時代で生まれた《心臓》の分身と、その時代で分身が産んだ子供だけ。あっちの世界で産まなければ意味がないのだ。私の考えは勢いだけだなぁと思う。


「それからもうひとつ、俺が賛同できないのは。そんな理由で子供を産んだら、その子供もヒイカも幸せになれるのかわからない。子供を産むってのは、幸せになるために産むもんじゃないか?」


 そう言われて私はハーンベルナの笑顔を思い出して、みんなを助けるために子供を産むのは、あの笑顔を冒涜していることになるのだろうかと考えた。でも私の犠牲でみんなが元に戻れるのならと考えた。けれど……。


「サウルとなら、幸せになれるんじゃないか……って思うんだけどな……」


 それを言うのは恥ずかしかったから、小さく小さくつぶやいた。けれどサウルの耳には届いていたらしい。めずらしく耳まで真っ赤になっている。


「おまえ……キスだけじゃ子供は生まれてこないってこと知ってるか?」

「知ってる。サウル、嘘つきだもんね」


 サウルはさらに顔を赤くして、また頭を抱えた。そこで私も気が付いた。

 あれ? 私の発言ってもしかして、そういうことしたいって言ってるのと同じようなこと言ってる?

 そう気が付くと、弁解する気力もなくなるくらい、恥ずかしくなってうつむいた。サウルが顔を上げて私を見た。恥ずかしくて真っ赤になっているだろう顔を、近距離で直視されるともっと恥ずかしくなる。


 サウルが、私の頭をポンポンとなでた。もしかしたらそういうことしたいと思われてるのかな、と身を固くする。けれどそれだけだった。見るとサウルは優しい笑顔をしていた。


「もっと大人になったらさ、すっげぇ幸せな家族が作れたらいいな」


 私の火照った体に喜びが広がっていく。うん。と頷く。

 今は、やっぱり子供を作るのなんて考えられない。そうしたらみんなを助けられると思って、無茶なことを言ったなぁと思う。でも、大人になったら、ハーンベルナみたいな幸せが理解できるようになるんじゃないか、と思う。


「うん。幸せになろうね。ううん。幸せにならなきゃいけないよね。幸せになれない向こうの世界の人たちの分まで、幸せにならなきゃ。そうでなきゃ、この世界に来た意味がなくなっちゃうよね」


 そう言うと、サウルはまた少し驚いた顔をしてから微笑んで「ああ」と返事をしてくれた。

 両手をつないでお互いの手のぬくもりを確かめ合う。二人なら絶対に幸せになれる。そう思えると確認できた。


「俺も、一つ思い出したことがあって、ヒイカに言わなきゃいけないと思ってたんだ」


 手を、もう少しだけやさしく強く握られる。


「なに?」

「長の末裔にしか伝わっていない言い伝えがあったんだ。『悪魔は死んでも別の世界に転生し、また生まれ変わる』って。それだけ聞いたら何か怖いことのように思えるけど、つまり」


 サウルの目が、私に『わかるか?』と訊ねていた。私はぼんやりと天井を見上げて考える。


「え。それって、もしかして……」


 悪魔ってつまり……。別の世界ってことはつまり……。生まれ変わるってことはつまり……。

 サウルは戸惑っている私を少し可笑しそうに笑い、言葉をつづけた。


「言い伝えを要約すると、天秤のバランスが崩れた時、悪魔が現れ世界を破滅させ、悪魔だらけの世界に変えてしまう、っていう話だろ? この転生する悪魔っていうのは、たぶん世界が悪魔だらけになってしまったときの悪魔――つまり破滅の気に満たされた人たちのことを指すと思う。そして別の世界というのは、《心臓》達が開く《別の可能性》のことで、彼らはそこに生まれ変わる……」

「てことは……向こうの世界の人たちは、こっちの世界に生まれ変わってくるってこと?」


 サウルは「うん」と頷いた。


「そういう言い伝えなんだと思う……って、おい。なんで泣くんだよ」


 平和な世界にいて幸せなのに、心に残っていたもやもやが晴れていく気分だった。もうきっと、救われることはないのだろうと思っていたみんなに、少しでも救いがあるのだと思うと心が安堵に満たされる。


 いつ生まれ変わってこの世界に来るのかはわからないけれど、いつか――会うのは私の子孫かもしれないけれど、チコカやペリサデやマリーチェママに会える時が来るのかと思うと、とてもうれしくなった。うれしくて、涙が流れた。

 サウルが何も言わず、軽く抱きしめてくれる。私はサウルの胸の中で喜びの涙を流した。




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