九 《世界の心臓》
雨の中、私たち三人はアヴァリエ様の前に立っていた。
ミーアさんのことがあって、いっぱい泣いた。もう、泣く以外に何も考えたくないと思った。でも止まっていては希望はついえる。泣いてばかりではいられれないと、私は心を奮い立たせた。それと同時期にジョオアが《その存在》を確認したのだ。
はじめは普通にアヴァリエ様を調べても何も見つからなかったけれど、アヴァリエ様の前に、破滅の気に満たされた人がうつぶせに倒れていたのを見つけたのがキッカケになったらしい。その人は倒れているのではなく《その存在》に祈っていたのだ。そのことに気付き、いろいろ試し、そして声が聞こえてきたのだと言う。
《その存在》は、私とサウルのことも知っていて、私たちにも会いたいと言ってきたのだそうだ。なので、破滅の気に満たされた人に襲われる心配のない雨の日を選んで、こうして三人でアヴァリエ様の前に来たのだけれど……私には何の気配も感じられない。《その存在》はどこにいるというのだろう。
アヴァリエ様を見上げる。アヴァリエ様はいつもどおり手に天秤を持っている。その天秤の二つのお皿に乗っている二人の神様を模した人形に、アヴァリエ様はいつも通りの慈しみの表情を向けている。だけどアヴァリエ様も、天秤の神様を模した二人の人形も、雨に打たれて悲しそうな表情をしているように見える。その悲しそうな顔は、破滅した今の世界を憂えてるようにも思えた。
それ以外は特に変わったところはない。どこにも誰かの気配はなかった。
私の隣でジョオアが静かに手を挙げた。遠くの人に何か合図を送るように。
すると奇妙な音が聞こえた。はじめは、雨の音にも負けてしまいそうなかすかな音だった。
それは何かの唸り声に聞こえる風の音のような、力強く打ち寄せる波の音のような音が、どこか遠くから聞こえる。
それが徐々に近づいてきている。
咆哮している大きな獣が猛スピードでこちらに突進してきているように。波がこの島すべてを飲み込もうとしているように。迫ってきてる。
迫ってきているものが見えているわけではない。見えているのはアヴァリエ様だけ。けれど近づいているのがわかる。近づいて迫りくる音が私を通り過ぎたと思ったのと同時に、私の横を、両脇を、黒い影が走り過ぎた。
驚いて後ろを振り返る。
後ろは真っ暗だった。
前も横も上も。真っ暗で、世界のすべてが真っ暗で、雨は降っておらず、アヴァリエ様もなくなっている。ただ私の両隣には、変わらずにサウルとジョオアがいる。
「なにこれ……」
呟くと同時に体が震えた。夜の暗さとは違う。暗いのに隣のサウルとジョオアは見えるという、異質な闇があたりを包んでいる。
サウルが私の手を握ってくれる。サウルの手もサウル自身気づいていないのかもしれないくらい、微かに震えていた。けれど『なんてことない』とでも言いたそうな表情をしている。強がってるんだ、と思う。
昔、肝試しをしてサウルとペアになったその時も、サウルは震えていてこんな表情をしていた。そのとき、私はなぜか『守ってあげなきゃ』という思いに駆られた。
だから私は気をしっかり持って、サウルの手をぎゅっと握り返す。
よく見ると、暗闇の奥に何かがいる。
この暗闇の中で、それは光に照らされているわけではないのに、その者自体が光であるかのように、そこに存在していることがはっきりとわかった。
ジョオアが足を進める。私とサウルも後に続く。
暗闇の中の存在は、二人の男女だということがわかった。何も纏わない体で寄り添いあっていた。いや、違う。寄り添いあってるんじゃない。私はそのことを認識した瞬間、思わず足を止めていた。
その男女は、二人なのに一人だった。二つの氷が一度溶けて再び凍ってくっついたかのように、下半身でお互いとくっついていた。だけど不思議と、化け物だ、とか、おぞましい、気持ち悪い、とかの感情はわかない。
それよりも私の体を硬直させた要素がある。
男の人はジョオアに、女の人は私に、とてもそっくりだったことだ。
年齢は、初めは十歳の少年少女に見えた。体型はそのように見えてもおかしくない小柄な体をしている。なのに不思議だけれど、よく見れば見るほど彼らの年齢は分からなくなる。無邪気に幼いようにも、色気ある大人のようにも、人のいい中年のようにも見える。だけど自分とそっくりだ、と思う。ジョオアと二人で大きな鏡の前に立っているかのような感覚になる。
けれど鏡の中のはずの私は、私とは全く同じ顔で違う表情を作った。私は緊張しているのに、ふわりと優しく笑ったのだ。
「会えるとは……思っていませんでした」
「このまま会えずに、滅びは滅びのまま終わっていくのだと思っていた」
まず女の人が声を発した。続いて男の人が、ジョオアがよくする、それにそっくりの、どこか申し訳なさそうな表情をして言った。
その二人の言葉に私は何も答えることができない。恐ろしい、のとはまた違う衝撃があり、なぜか、どこか懐かしく思っている自分自身に混乱する。
私の隣に立つジョオアが、冷静な声で言う。
「あなたたちが何者か、詳しく説明してもらいたい。その顔を見れば《神》としての記憶を持つ僕らと関係があるのは一目瞭然だ。それにさっきの、滅びのままに終わっていくという言葉。僕たちや、世界が壊れたこととどういう関係があるのか。できる限り詳しく知りたい」
ここ数日《その存在》に関して調べていたから、彼らがどういう存在なのかをある程度予想できていたことだったのか、ジョオアは落ち着いていた。
その言葉を受けて女の人は、悲しみの混じったような笑顔を浮かべる。
「はい。私たちは、外の世界の皆様が《神》として崇めてくださっている存在で間違いありません。しかし《神》として認識されてはいますが、正確には私たちはこの世界の創造主に創られた存在なのです。世界を創った者を神と定義するのなら、私たちは神ではありません。崇めてくれていた人たちが思っていたような、全能の存在ではないのです」
「正確には僕らは《世界の心臓》という名だ」
男の人が女の人の言葉を引き継ぐように口を開く。
「僕と彼女は個別の意識を持っているが、僕と彼女を識別する名前はない。僕らは二人で一つだ。この世界の維持を担っている。滅びないように。世界を継続させるために存在している。君たちが知るように、二人で世界のバランスをとっている。片方が死ねば世界は歪み、二人が死ねばこの世界の存在そのものが消滅する。逆に僕らが生きていれば世界は安定を保っていられる。そんな存在だ。ではなぜ今、君たちが住む世界は歪み、破滅してしまっているのか。今、僕と彼女は生きているのに」
「それは、ヒイカ、ジョオアのお二人が、私たちから生まれた分身だからです」
お互いの言葉を補い合うように、女の人が男の人から引き継いだ言葉は、私を不思議な感覚にさせる。
「ぶん……しん? 私たち……が?」
私は思わず呟いていた。創造主や分身――彼女たちの話すことは戸惑うことばかりだけれど、訳が分からないような、何かがかみ合うような、奇妙な感覚がする。
そして彼らは話す。どこか懺悔するような表情で。後悔をたたえた表情で。
彼ら《世界の心臓》の二人が創られたのは、まだ世界に人間が創られていない、何もない世界が作られたのと同時だった。
やがて動物や植物などが生まれ、暮らす、穏やかな世界になっていく。それを二人はこの何もない空間――《心臓の部屋》から眺めていた。その後、創造主は人を創った。《心臓》の二人は自分たちと同じような形をし、同じような知能を持つ生物の誕生を喜んだ。人間たちははとても仲良く暮らしていて、それがとても楽しそうで、眺めているだけでも嬉しくなった。
けれど嬉しい半面、寂しさを感じることも多くなった。この《心臓の部屋》には二人しかいない。それ以外何もない。触れ合えるのはお互いだけ。
外の人々のように、人との触れ合いで幸福な笑顔を浮かべてみたいと願っても、それは叶うことはない。《心臓》があるべき場所からなくなると、世界に住む生命は死を迎える。人々と触れ合いたいという願望を叶えようと外に出れば、この《世界》という生命は死んでしまう。触れ合いたい人々そのものも消えてしまう。
ならばせめて、自分たちの意思のこもった分身を創ろうと考えた。自分たちの代わりに自分たちの夢を叶えてくれる分身を。
そうして、二人は自分たちのほんの一部の意思を切り離す。切り離され分身となったそれは、しばらく外の世界で実態を持たない存在として浮遊していたが、やがて、人々が暮らす情報や様々な感情を見ているうちに自我が芽生え、そして実態も持つようになる。《心臓》から切り離される前のことは記憶していなかったが、人々の皆と幸せに暮らしたいという願望は強く心の中に秘めていた。
分身の二人は外の世界で幸せに暮らしていた。《心臓》の二人は自分たちが幸せになったような喜びを感じていた。だが、分身とて、やはり《心臓》の一部であることに変わりなかった。
《心臓》の子供が産まれれば、それだけ天秤は傾くのだ。
分身も《心臓》の一部。彼らの子供が産まれても、天秤が傾くのは変わらない。
そのことに《心臓》の二人は気づかなかった。そして分身が、自分が皆に崇められている《天秤の神様》であることを自覚することも、想像していなかった。《心臓》たちが気が付いたのは、すでに女の中に子が宿っており、女自身が《天秤の神様》なのだと自覚したのを見てからだった。
しかしその事実がわかっても、全能ではない、外の世界に干渉することができない《心臓》の二人にはどうすることもできなかった。仮に干渉できたとしても、分身の女と分身の男の子供――つまり、間接的とはいえ自分たちの子供でもあるその子供を殺すことだけが解決できる道だった。殺せたかどうかはわからない。
そして分身の女は、《天秤の神様》であると自覚したが故の苦しい葛藤をし、結果、《心臓》たちが思ったように彼女も子供を殺すことはできなかった。そして結局、世界は壊れてしまった。
「私たちが、浅はかだったんです。自分たちの勝手な判断で創造主が創りだした以外の生物を、外の世界に送り込むべきではなかったのです。世界が壊れてしまったことは、ジョオアさんにもヒイカさん――ジョオアさんの奥さんにも、何の責任もない。ただただ、私たちの勝手な判断で分身を生み出したせい……」
《心臓》の女の人は、泣き崩れるように頭を下げた。男の人もそれに倣うようにゆっくりと頭を下げる。
ああ。私は彼らで、彼らは私だったんだ。
彼らを初めて見た時の奇妙な懐かしさに納得がいった。私はここから生まれたのだ。
けれど、頭を下げる彼らを見てなんだか寂しくなる。
確かに彼らの話を聞けば、世界が破滅したのは分身が生まれたせい。分身が外の世界に出なければずっと世界のバランスは崩れることはなかっただろうけれど……。それじゃあなんだか、私たちは……。
「頭上げろ。今あんたらに頭を下げられても、なんにも状況は変わらないだろ」
隣で、サウルの静かな、けれど怒りのこもった声がした。
「それに俺は、今この手の中にあるぬくもりがない世界なんか考えられない。それがなかった方が正しかったなんてふざけたこと吹いてる暇があるなら、さっさと説明すべきことがまだまだあるだろ」
思わずサウルの顔を見た。照れが微塵もない真顔だった。
サウルが一番私をからかっていたくせに、他の人が本気で私を泣かせたときは、こんな声を出していたなと思い出す。
「……サウルって、時々すごい恥ずかしいこと、平気な顔で言うよね」
体が火照る。恥ずかしさと嬉しさが混じり合った熱が私の体を蒸している。その私の顔を見てサウルは、なにがだ? と言いたそうな表情で「は?」と呟いた。
「でも、ありがと」
生まれてきてはいけない存在だったのだと思ったけれど、そうじゃないと言ってくれて。
表情は不愛想なままだけど、サウルの手は私の手をもう少しだけ強く握りなおしてくれた。
女の人は顔を上げ「そう……ですね、ごめんなさい」と、後悔で曇らせていた顔が一転し、まっすぐなまなざしで私たちの顔を見た。男の人もゆっくりと頭を上げる。
ジョオアがホッと、肩の力が抜けたようなため息をついた。ジョオアも私と同じように自分の存在を根底から否定された気分になっていたのかもしれない。気を取り直したように「うん」と呟く。
「サウルの言う通り、過去を嘆くことよりもこれからどうするかが重要だよね。この世界を元に戻せるか、それが一番聞きたいことだ。自分が神様だって記憶があるのに、その上の創造主なんて存在がいるなんて驚きだけど、その創造主は今の事態をどう思っているんだろう」
《心臓》の二人がジョオアを見る。二人の瞳は後悔に塗りつぶされていた先ほどと比べると、かなり澄んだ瞳に見えた。女の人が真摯な瞳でジョオアに答える。
「創造主は世界の創り手としかこの世界に干渉できません。世界を創り、見守る。世界に愛着があろうとなかろうと関係がない。たとえ世界が壊れても、壊れた世界を修復することはできない。全知全能の神などというものは結局のところ存在していないのです」
「つまり、創造主に打開策を期待することはできないと」
「そうです。しかし――」
女の人の言葉を男の人が引き継ぐ。
「打開策はある。僕たちも世界を浄化する力はない。けれど《違う可能性》を開くことができる」
ドキリとする。私が見た、たくさんの壊れた世界のことを言っているのだろうか。
「でも、全部壊れた世界しか見えなかった」
私は思わず声に出していた。だからこそ、時間移動に頼らずに今を変えるしかないと思って、悲しいことがあっても浄化の実を作り続けたのだ。
「あなたは未来を見る力を持っていたのですね」
「だが、君が見たのは未来だ。我々は新しく過去を開く」
気が付くと顔をうつむけていた私は、彼らの声ではっとして顔を上げる。
「世界のバランスが崩れなくとも、生き物が住めない世界になることはある。飢饉や疫病、天変地異がわかりやすい例だろう。君が見たのは、そのせいで創造主に見放されてしまった未来だ。そうして世界が滅んだとき、少し時間を遡り、平和な時間から世界を再開させる……新しい可能性を開いて、平和な時間へと世界を分岐させる。それがもう一つの僕らの役目だ」
男の人は女の人の肩を抱き寄せる。二人の役目であるということが大切であるというかのように。二人で一人、一人で二人、ということが大切だというように。
「可能性を“見る”ことができれば、その世界に飛び移ることはできる。けれど“開く”ことができなければ、平和な過去を見ることはできない。分身で“見る”力しかなかった未来のヒイカが、君たちの時代を開いてジョオアを送れたのは奇跡に近いことだろう。強い意志と明確な時代の強いイメージ……その他のいろいろな要因が重なってできたことだと思う。おそらくは現在の君がまたそのような奇跡を起こせることはないだろうね。けれど君たちが平和な過去へ移りたいというのならば、特に問題はない」
「私は、すぐに新しい可能性を開くことができます」
思わず絶句した。サウルもジョオアもそうなのだろう。何も言葉を発しないで固まっている。
ずっと待ち望んで何年も経ってしまった。それがこんなにもあっさりと『できる』と言われた。驚くしかない。
また、ペリサデやチコカ、マリーチェママに会えるだろうか……。
「ただし、可能性を開くのなら、僕たちが分身を生み出すずっと前の時代にしたい」
男の人がはっきりとした口調で言った言葉に、私は思わず「どうして……?」と呟いた。それはどれくらい昔なのだろう。その時代にペリサデやチコカ、マリーチェママはいるのだろうか。
「分身の存在は世界の破滅の可能性を高める。そういうことだね」
ジョオアが冷静な声で確認する。《心臓》の二人は肯定する。
「問題がなければ、お三方をすぐにでも新しい可能性に送ることができます」
え。
え?
平和で、ペリサデもチコカもマリーチェママもいる世界。力が目覚めたら、そこに戻れるとずっと思っていたのに。また会えると思っていたのに。みんながいない世界に行ったら、会うどころかお墓参りもできない。
それに、“可能性を開く”ということ。私は破滅してもまだ残っている世界を見た。つまり、今私たちがいるこの”可能性”も破滅したまま残り続けるということ。
そしたら、そしたら……。
「あたし、ヤダ……」
《心臓》の二人が驚いた顔をする。当然だと思う。破滅した世界を苦労して生きてきて、やっと平和な世界へ行けるはずなのに、イヤだと拒否をするなんて。でも……。
「だって。あたしたちが新しい世界に行ったら、この世界の人たちはずっと残されるんでしょう? 浄化の実で助けられるかもしれない人たちもずっと、理性のないまま残されるんでしょう?」
《天秤の神様》である私がこの時代を離れても、さらなる破滅を及ぼすことはない。どの時代で生きていようと、その時代の《天秤の神様》が生きていればその時代が完全に壊れることはない。そう《神の記憶》にはある。
けれどこの破滅した状態のまま――みんなが破滅の気に満たされたまま、ずっと残されてしまうのは変わらない。
平和な世界へ行くより今のこの世界を心配する私に、《心臓》の二人は驚いている。サウルもジョオアも反応がない。驚きすぎて絶句してしまっているのだろうか。
女の人が言う。
「わかっていますか? 私たちに、破滅してしまった世界を戻す力はない。私たちに破滅の気に満たされた人たちを元に戻す力はない。唯一元に戻せる手段は、あなたが育てる浄化の実だけ。それを使って皆を元に戻すのだとしたら、どれくらいの時間がかかると思っていますか? 平和な時間に行く手段はあるのに、それでもこの壊れた世界で居続けるというのですか?」
男の人が言う。
「僕らは全部見てた。君が元に戻した人が、死を選んだ時も見ていた。また、同じことがあるかもしれない。それでもまだ、元に戻したいと思うの?」
ゼファドーアやミーアさんのことを思い出すと、チクリと胸が痛む。だけど、理性無くずっとさまよい続けている人々のことを思い出すと、もっと胸が痛くなって私は頷こうとした。
あ。
そのとき手からサウルの手が離れた。
「言っとくけど、俺はそんなでかいリスクに付き合う気はないからな」
サウルが離れる。それはそうだ。助かる方法が見つかったのに、まだそこに留まろうとする私に付き合うわけがない。そんな思いに駆られて胸が痛くなる。でも……。
ジョオアの方を見たが、同じ意見だからなのか何も言わない。
「化け物になっちまった奴ら。あいつらは正常な俺たちの肉を特に狙う。ここはそんな奴らが何人もいる世界だ。ここにいるだけで死ぬリスクは高い。せっかく元に戻れたのに、俺は死ぬのはごめんだ」
サウルの言い分はとても当たり前だ。でもみんなを救いたいと思うのは変わらなくて……。
そうだ、サウルもジョオアも私のわがままに巻き込んじゃいけない、そう思った。
「そうだよね。サウルもジョオアも、平和な世界へ行ってくれたらいい。これは私のわがままだから、私だけで解決す――」
「よく考えて、ヒイカ。僕もサウルと同じ意見だけど、ヒイカがここに一人で残ることになったら食べ物はどうするの? 家の結界は僕がいないと作動しない。ヒイカがそこに住んでいることが察知されたらイチコロだよ?」
ジョオアの声が、今までに聞いたことのないくらい冷たかった。とても愚かな判断だと言われている気がした。そんなことはわかっている。わかっているけれど……!
「でも! だからって! みんなを置いて自分だけ幸せになんかなれないよっ……!」
涙が出てきた。今まで何回、涙が枯れてしまったと思うくらい泣いてきただろうか。でも悲しいことが起こるといつも、いつまでも涙は流れてきた。それは、どんなにつらいことがあってもみんなと一緒がいい。そう思っている証拠なんだと思う。だから諦めるなんてできない。
「――っ」
サウルに、抱きしめられた。胸に顔をうずめさせられる。
「俺が悪かった。泣くな、ごめん。ヒイカは絶対そう言うと思ったから。でもそんなこと簡単にできることじゃないってのもわかってるから。だからヒイカはどれだけの覚悟でそう思ってるんだろうって……試した。ごめんな」
背中を優しくなでられる。びっくりして、なんで謝ってくれてるんだろう、と思ってしまう。
「さっきも言った。俺はお前と離れるなんて考えられない。おまえが行かないなら俺も行かないから。俺だって、みんなを置いていくって後味悪いの嫌だし。だから、ちゃんとヒイカの側にいる」
「でも、でもでも……!」
うれしさと申し訳なさが心の中でこんがらがって、口までこんがらがってしまう。
「せ、せっかく、平和な世界に行ける、のに!」
「それはヒイカも同じだろ? 俺がそうするって言ってんだ。だから俺はそうする」
サウルは私を体から離し、瞳を覗き込んでくる。私もサウルの瞳を覗き込んだ。そしたらサウルは私の耳を軽く引っ張って「な?」と歯をむき出した笑顔で言った。
「うん」
言ってもなかなか自分を曲げないサウルだ、しょうがない。そう思っている一方で、心底心強く感じている自分がいる。怖いと思ってるくせに、自分を曲げない私だって十分しょうがない奴だ。そう思うと少し可笑しくなって、ちょっと笑った。
「と、言うわけで、僕らが新しい可能性とやらに行くことはなくなった。他に聞いておくべきことがないのなら、そろそろ帰ることにするけれど……」
「な……」
ジョオアが言ったことに驚いて思わず振り向く。
「なん、で……? ジョオアは平和な世界に行った方がいいってさっき……」
「そうした方がいいとは言ったけれど、実際にそうするとは言ってないよ」
なんだかいろいろと説明しない短い言葉は、ジョオアもサウルと同じような考えを持っていたのではないかと思わされる。自然と、サウルの手と、ジョオアの手を握っていた。自然に涙が出てきていた。
「二人とも、ありがと」
《心臓》の二人は、私たちがこの世界に残るという決断を、不思議そうな、困ったような、申し訳なさそうな複雑な表情をしながらも了承してくれた。
そうしてこの空間から出るにはあちらに歩き続ければいいと、指をさして教えてくれる。
私たちは歩き出した。この世界を元に戻すと、強く心に決めて。不思議な暗闇だけど、希望の光が見えるような気がする奥へと進んだ。
「え?」
その不思議な暗闇の中で、足を取られた。
異空間にぬかるみなどあるのだろうか。そう疑問に思った瞬間、そのぬかるみにどんどん体が沈んでいく。隣でサウルも沈んでいる。ジョオアだけが沈んでいない。
「なにこれ? ちょ……! 助けてジョオア!」
彼は、無表情で私たちを見ている。意味ありげな無表情で、手を差し伸べようともしない。
「ねぇ! ジョオア!」
もがいてみたが私の体はどんどんと闇のぬかるみに沈んでいく。ジョオアからの答えはない。
やがて私とサウルの体は頭まで闇に沈んでしまう。頭上に闇の水面が丸く切り取られて見える。その円からジョオアが見える。『ごめんね』と聞こえてきそうな顔をしている。その円がどんどんと遠ざかる。どんどん小さくなる。
小さくなりすぎてジョオアの顔が見えなくなったころ、私の意識は途切れた。
* * * *
気が付いた時、なんだか懐かしいと思った。人の気配が私を囲っている。その気配が懐かしいのだ。
「おや、やっと気が付いたみたいだよ」
私を覗き込んだのは、なんだかマリーチェママみたいな、ふくよかな中年の女の人だ。でもマリーチェママよりもう少しだけ細くて、歳を取っている気がする。
その人は私に、どこか痛いところはないかい? とか、おなかはすいてないかい? とかを質問してくる。なんだか前にもこんなことがあった気がする。そういうのを既視感っていうんだってことを、いつだったかチコカが言っていたっけ。
ああそうだ。私が初めて私として目が覚めた時がこんな状況だったのだ。とぼんやりと思い出す。
私はベッドに寝かされていて、起き上がってその部屋を見渡してみた。
四十歳過ぎだろうか、神経質そうな男の人がいる。
二十代前半くらいだろうか、どこか線の細い男の人がいる。
少しおびえながら私のことをうかがう三十代くらいの女の人がいる。
そしてマリーチェママにそっくりの人がいる。
性別は違うけれど、メンバーもあの時とそっくりだ。どことなく、ゼファドーアや長様、あの時いた人たちとそっくりな人ばかり。大きく違うのは、ベッドの側でサウルが椅子に座っていることくらいかもしれない。
「大変だったんだってね。この男の子に聞いたよ。この島からずっと遠い島から逃げてきたんだってね」
え? と思ったが声には出さない。マリーチェママにそっくりなその人は、とても真剣な顔をしていたから。
「その島では戦争をしていたそうじゃないか。戦争なんて物語でしか読んだことがないけど、恐ろしいところから逃げてきたんだね。よくあの波をこえてこの島にたどり着けたもんだよ」
ぼんやりと、気を失う前のことを思い出す。もしかしたらこれが《新しい可能性》ということなのだろうか。まだあの世界でやらなければいけないことがあったのに、来てしまったということだろうか。
途方もなくショックを受けた。戻りたい想いで泣き出しそうになる。
戦争がある島から逃げてきた、というのはサウルのウソだろう。本当のことを言っても到底信じてもらえないだろうから。
周りの人に質問されて、この世界に住むことが確定したかのような気がして、思わず泣いてしまう。元の世界のみんなを助けなければいけないのに……。
「いろいろ大変で怖い思いをしたんだね」
私の涙の意味を、戦争の恐ろしさを思い出したからととったのだろうか、そう言ってくれるマリーチェママに似た人に背中をなでてもらった。しゃくりあげながらも周りの人の質問に答え、サウルのウソに話を合わせる。
サウルは上手につじつまを合わせる。そのウソがばれることは多分ない。
島の周りには、船では到底進めないような波が常に渦巻いている。私が知っている世界の人たちと、この世界の人たちの信じているものが同じなら、その凶暴な波は神様が、人が島から離れるのを制止しているために起こっていることで、それを乗り越えようとすることは神への冒涜になる。
だから、ジョオアが昔、海の向こうには島も何もないということを確認していたけれど、誰もそれを確かめにはいかないだろう。戦争が起こっている島なんて存在しないということは、きっとバレることはない。
サウルのフォローを受けながら、周りの人にいろいろと質問を受けているうちに『あれ?』と思うようになる。
徐々に、なんだかもうすでに、あの世界でのことが夢だったようにも思えてくる。はじめはこの世界に来てしまったことがショックだったのに、こちらの世界に現実を感じている。前にいた世界が遠くに感じる。
正気の人間がいなくなってしまった世界や、天秤の神様である《心臓》に出会ったこと。いろいろな、普通の世界ではありえないことが、ありえたのに、ありえなかったことのように思えてくる。
“普通”を体感して、普通を普通だと思うようになっている。
ペリサデが言ってた。優しい言葉だけかけて責任を取らないのは偽善者だって。
私の想いは、ただの偽善だったのだろうか。
わからないけれど、私は今、自分で認めたくないけれど……この場所にいることに、とてもとてもホッとしているのだ。
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