八 錯乱

 この状況で俺には何ができるだろうか。


 ジョオアが《その存在》について調べ始めてから数日が経つ。すぐにわかることなら今までの三年間で気づかないなんてことはないだろうから、時間がかかるのも仕方のないことだろう。

 その間、ヒイカはまた化け物をやっていた人間を元に戻すことに専念している。


 ジョオアが《その存在》をいつ見つけるのかはわからない。それが平和につながることになるかもわからないし、時間が経てば経つほど死んでしまう人が増え、救える可能性も減っていく。だから少しでも希望の見える未来につなげたい、と彼女は言う。人々の死を目の当たりにしてきた彼女だから、余計にその気持ちは強いのだろう。


 ヒイカが言うように、希望は見えるだろうか。化け物をやっていた過去を持つ人間に、希望の未来は見えるだろうか。それを見せるのが俺の役目なら、それがヒイカの幸せなら、俺自身がそれから逃げようとする俺を許すことはない。

 ヒイカを傷つけてはならない。次に正気に戻る人間がゼファドーアのようにならないように祈り、全力で阻止する覚悟を持たなければいけない。


「ヒイカちゃん……?」

「ミーアさん! 私のことわかる?」


 ヒイカが《浄化の実》を与え続けて数日後。ミーアさんがヒイカのことを認識して名前を呼んだ。


 昔、ミーアさんの妹が子供を産んだ時、ヒイカがよくその子供を見に遊びに行っていた。そのとき姉であるミーアさんもヒイカと仲良くしていたのだそうだ。

 その頃ヒイカは、赤ちゃんってかわいい、私も欲しいな、とはしゃいでいた。どうやったら赤ちゃんってできるんだろうと悩んでいたヒイカに、『大人は赤ちゃんができるキスを使い分けることができる』と適当なことを教えたのが懐かしく思える。ヒイカはまだあれを信じているだろうか。


 そんな風に懐かしく思い出せることもあるが、これからミーアさんに伝えなければいけないことを考えると、心が苦しくなる。世界が壊れていることや、妹さんやその娘、両親――家族が死んでいることを伝えなければいけない。

 だがそれは、人々を元に戻していくならば、避けては通れないことだ。怯んではいけない。


 ミーアさんの体調が落ち着いた頃、すべての状況を話した。ミーアさんは信じていいものなのか戸惑っているようだった。屋内のベッドの上からでは、外の壊れた世界の景色が見えないこともあるが、羽が生えているという点でとても非現実的な存在であるジョオアが非現実的すぎて、逆にジョオアの姿を見てもにわかには信じられないようだった。確かに信じるのを拒否したい事実ばかりだから、仕方のないことかもしれない。


 ミーアさんに今までの――理性がなかった頃のことで憶えていることはあるか、と訊ねると、彼女は自身がおぞましいと顔色を悪くした。腐った食物や雑草を野獣のように這いつくばって食べていた、と言う。人喰いをしていないという事実に少し驚いたが、俺自身もそういう食糧確保をしていた記憶もあるし、全員が全員、人肉を欲してばかりいたのならばこの島の人間の数はもっと少なくなっていただろう。そういうケースがあってもおかしくはない。


 人を喰っていないのなら、ゼファドーアのように罪悪感に押しつぶされ死を選ぶ、という可能性も低いだろう。とはいえ、彼女の中でどんな複雑な感情が入り混じっているかわからない。少なくとも化け物だった自分を嫌悪している。安心してはいけないだろう。


 ミーアさんがベッドから出られるようになってから、状況を理解してもらえるように少しだけ外に出て、外の“壊れた”景色を見てもらった。すると彼女は急に取り乱した。家族の名前を叫んで走り出す。壊れた空気に触れて、異常な事態ということを一気に叩きつけられるように実感し、許容できなくなったのかもしれない。

 俺は彼女を抱きとめて暴走を止める。家族に会いたい会いたいと泣きじゃくる彼女を、ヒイカも後ろから抱きしめる。


「つらいことを見せることになってごめんなさい。でも、またみんなに会いたいの」


 そう言って、ヒイカも泣いた。

 家族について泣くこと……。


 俺はまだ直視していない。家族がどこにも見つからないことを確認してもらったが、そうか、と思っただけだった。異常な罪悪感に苛まれてしまったせいで、どこか心が麻痺しているのか。自分に人を喰った記憶があるから、そんな状況もしかたない、と割り切ってしまえるのか。そのどちらも理由になっているのかわからないが、心配するということをしていない。


 取り乱したミーアさんをリビングで落ち着かせ、人の心を落ち着けるのには最適なミークルをヒイカが入れ、飲ませた。その温かさと優しい甘さはミーアさんの心を包み、少し冷静さを取り戻させたようだった。

 そこに、ジョオアが外の調査から帰ってきたのだ。ミーアさんはもう何度も顔を合わせているジョオアの顔を見て、目を丸くした。


「あなた……それは本物なのね……」


 そう呟いた。ジョオアの羽のことを言っているのだろう。言い伝えの悪魔の証を指しているのだろう。

 ミーアさんは今にも飛びかからんばかりの形相でジョオアを見ている。俺はそんなミーアさんに焦りを掻き立てられる。今まで受け入れることができなかったすべてを受け入れ、受け入れたからこそ彼女の心が許容量を超えてしまい圧迫され、心の器が歪む瞬間が目に見えた気がした。


 俺はミーアさんに落ち着いてほしいと声をかける。

 確かにいろいろなことはこいつがキッカケなのかもしれないが、今は、皆を元に戻すためにはこいつの協力が必要なこと。断罪するのならばこいつを利用して皆が元に戻ってからでも遅くないこと。こいつは恨みをぶつける悪魔ではなく、利用すべき対象なんだと考えればいいこと。


 そういう様なことをミーアさんに告げる。“悪意があったわけじゃないし、今は味方なのだから許してやってくれ”とは言えない。そんな風に俺も心の整理はつけられないから。


「そんなこと言っても、妹も姪も元に戻ることなんてできないわ……」


 ミーアさんの見開いた目から涙がこぼれた。


「思い出したのよ! 二人とも男に喰い殺されてた!」


 ミーアさんがキッチンの方に走っていった。俺は彼女が何をするのかすぐに察し、止めようと彼女に飛びつく。が、彼女は女性とは思えない力で俺を振りほどいた。キッチンから包丁を取り出し、ジョオアに体当たりするように向かっていく。

 だが彼女の手から包丁が落ちた。


「嫌! 嫌あぁあああ!」


 彼女の包丁を握っていた両手は、ジョオアの魔法で作り出された鎖によって、がんじがらめになっていた。


「全部あなたのせい! あなたのせいなんでしょう!」


 ミーアさんはがんじがらめになった手でジョオアの体を必死に叩く。けれど縛られた憎悪はそんなことでは思うように叩きつけることができず、彼女は叫び続け罵り続けることしかできない。


「ごめんなさい。本来なら僕は罰を受けるべき……いや、命を捧げて償っても足りない罪があるというのは自覚しているけれど……。僕が死んだらこの家を守っている結界も消えて、そしたらヒイカたちも死んでしまうから。僕は死ぬわけにはいかないんです」


 ジョオアが錯乱し続けるミーアさんの顔に手をかざし、魔法で眠らせる。

 ミーアさんは寝室に運ばれた。彼女が目覚めたとき、また自暴自棄になり危ないことをしないように、ヒイカと俺で交代しながら彼女の目覚めを待った。だが彼女は一日たっても目覚めなかった。後で思うと彼女はわざと目覚めていないふりをしていたのだろう。一度目を覚ましたら何をされるかわからない、と俺たちが警戒すると思ったのだろう。もしかしたら『また縛られる』と考えたのかもしれない。


 彼女は俺たちが少し目を離していた隙に、ベッドからいなくなっていた。

 ジョオアが探し、彼女は彼女の両親の家で発見された。両親はどこにもおらず、別の女がそこを住処にしており、彼女はその女に喰われて死んでいた。



    * * * *



 ミーアさんの遺体が見つかって、ヒイカが心が壊れそうなほどに泣いたのは言うまでもない。

 俺自身も打ちのめされ、ヒイカにかける言葉もなく、ただ側にいて一緒に泣くことしかできなかった。

 しかし、どんなに泣いてもヒイカの瞳は死ななかった。すぐに浄化の実を育てることに集中しだした。

 そんな時だった。話があるとジョオアに呼び出されたのは。


「サウルが言っていた存在らしき気配を確認できたんだ」


 ジョオアはそう話を切り出した。

 俺が以前していたと言ったようにジョオアはまず、アヴァリエ様にお祈りをしてみたが、何も気配を感じなかったのだそうだ。それ以外でどう探せばいいかわからず、とにかくアヴァリエ様の周りをしらみつぶしに探し続けていたが、気が付くとアヴァリエ様の前に一人の男がやってきていたのだそうだ。もちろんその男は理性のない化け物で、話なんてできない。だが男はその場でうつぶせに倒れるように寝そべったという。しばらくしてその男は去っていったが数日後、今度は女が同じようにアヴァリエ様の前で寝そべったのだそうだ。


 何が彼らを傷つける羽目になるかわからないから、とジョオアは今まで化け物に近づくことはしていなかったという。だがまた別の男が現れた時、男はこちらを襲うどころか、全くこちらを気にする気配がないことに気がついたのだ。

 近づいて観察する。するとうつぶせになっているのは祈っているのだということが分かった。祈りに集中していてこちらに気が付かないのだと。


 まともな思考回路がない化け物は、オウム返しに言葉を発することしかできない。そう思っていたが男は滑舌が悪く聞き取れないながらも、自発的に声を発していた。間違いなく俺が言った存在に祈っているのだと、ジョオアは確信した。

 試しにその男の隣で一緒に祈ってみると、意味のある言葉は聞こえなかったが、そこに何かいるという確実な気配を感じたらしい。


 男がいなくなるとその気配も消えてしまったが、それが意味のあることなのだろうとジョオアは推察する。

 そして彼らはその見えない存在と会話しているようにも見えた。もしも本当に会話をしているのならその内容を確認したい。しかしまともな知能を持たない化け物から、その会話内容を問いただすことはできないだろう。だが……。


「うん、でもね。一度、破滅の気に満たされて、元に戻ったサウルならどうだろう……て考えたんだ」

「俺?」

「何も確信はないけれど、試してみる価値はあると思う。破滅の気に満たされたことのあるサウルが、彼らと同じようにそこにいるはずの存在に話しかける。成功するかはわからないけど、可能性はゼロではないと思う。もし返事がもらえたら、会話ができたら……。アヴァリエ様の中にいる存在だ。重要な存在じゃないわけがない」


 なるほど。異存はない。成功しようがしなかろうが、可能性の一つとして試してみる価値はある。それが、この世界の仕組みがわかる情報につながったり、平和につながるものだったりすれば万々歳だ。

 だがどうにも引っかかってしょうがないことが、一つある。それは放っておくと、とても居心地を悪くすることで、言わずにはおれない。


「反対する理由はない。しかし前から言いたかったんだけど、“破滅の気に満たされた”って言い回し、どうにかならないか? 少なくともそうだった頃の俺は、なんかそんな上品な言い回しをされていい存在じゃなかった。“化け物”で十分だろ」


 するとジョオアは蔑んだような瞳で俺を見る。そうだ。俺はそんな風に見られるべき存在だ。


「そんな自虐をヒイカが喜ぶと思ってる?」


 違う。俺が向けられるべき蔑みじゃなかった。俺の存在ではなく俺の発言をおろかだと蔑んでいる。


「そんな考え方でヒイカを幸せにできると思ってる? そんな後ろ暗い感情、ヒイカを心配させるだけでしょ。平和になったらサウルにはヒイカと一緒に幸せになってもらわなきゃいけないんだから、そういうのは捨ててもらわなきゃ困る」


 蔑んだ瞳で俺を睨み、さらにまくし立てる。


「サウル自身が納得できないとしてもだ。罪があるから……。それが引け目に感じるから……。だからヒイカと距離を置く、なんてこと、絶対にしないでほしい」

「……してないだろ、そんなこと」

「いや。平和になったらサウルはきっとそうする」


 断定的な口調だった。おまえに何がわかる。そう思った。

 未来から来たこいつならば、今の俺が知らない俺を知ってるのかもしれない。だがおまえが今の俺の何を知っているんだ。そう思った。俺は人を喰っているのに許されるわけがないじゃないか。自分を許せるわけがないじゃないか。苛立つ。図星だから。

 反発心しかなくジョオアを罵ろうとした。が、ジョオアは目をそらし、悲しげな瞳で己の手を見た。


「僕も逃げたいよ。この世界を壊したのは僕なんだから。ヒイカを守らなきゃって必死だったから、今まで自分の罪をそんなに深く考える時間がなかったけれど、人から破滅の気が抜けるたびにそれを実感させられる。でも逃げたら結界は維持できなくて、そしたらヒイカは死んでしまう。逃げちゃいけないんだ。サウルも。サウルは今の境遇をヒイカと共有できる唯一の人だから。ヒイカにとって、僕はサウルの代わりにはなれないから。だからサウルは平和になっても逃げちゃいけないんだ」


 どれだけ罪悪感にむしばまれていようと、ヒイカに心配させる要素があるなら己自身でそれを噛みちぎり、ヒイカの支えになれ。そう言いたいのだ、こいつは。

 少なくとも、今こいつはそうしている。

 こいつは本当に……ヒイカのことしか考えていない。


「俺は……そんなことはしない」


 俺がヒイカを想う以上に、ヒイカを想っているこいつがムカつくから、『おまえの考えは当たっていない』という風を装う。


「本当にそうであることを願うよ」


 そう言った後、ジョオアはアヴァリエ様のどこかにいる存在についてに話を戻した。そして、俺が祈りに行くのは破滅の気に満たされた人たちと同じ条件で試したいから、雨の降らない日に行ってもらいたい。と言った。


「もちろん僕もついていくから危険な目には合わせない。でももしもヒイカの耳に入ったら、ヒイカは『自分も行く』ってきっと言うだろうから、このことは秘密にしておいてほしいんだ」


 本当にこいつはヒイカのことしか考えていない。

 でも、だからなのだろう。三年間、ヒイカを守ってきたから、ヒイカ自身が守ってもらっていたと認めているから、俺はこいつのことを――全く恨みがないとは言えないものの――受け入れることができているのだろう。


 もしも生き残っていたのがヒイカじゃなかったら、あるいはこいつがヒイカを蔑ろにするような奴だったら。

 ゼファドーアやミーアさんのように、俺は何も受け入れられず錯乱し、自滅していたことだろう。



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