二 壊れた世界の中で

 ゼファドーアの父親の家に戻ると、ヒイカはふらふらとリビングに置いてある一人がけのソファに腰をかけた。

 カーテンがすべてしめられていて、昼だというのに部屋は薄暗い。いや、カーテンがなくてもこの部屋も、外もきっと薄暗いだろう。


 ゼファドーアの父親が一人で暮らしていたにしてはとても広いリビングで、ヒイカは誰も座っていない四人掛けのソファと対面し、無言で空中を見つめている。一人がけだが小さなヒイカにとっては大きいソファの上で、ひざを抱え、そして大声で泣き出した。


 慕っていた島の人たちがあんな姿になり、自分を殺そうと迫ってきたのだ。今、彼女の中ではどれほどの絶望が渦巻いているだろうか。僕は彼女にかける言葉も失い、何をしてあげることもできなかった。

 今は、僕は、僕ができることをするしかなかった。


 ヒイカの泣き声を背に聞きながら、外に出た。

 空は紫の雲で覆われている。世界が壊れてしまった証の色だ。その雲のおかげで、太陽の光は満足には届かない。雲の上の空は、果たして青い色をしているのだろうか。たぶんしていないだろう、と不気味な想像をする。


 空気さえもどことなく、《壊れて》しまった匂いがした。


 玄関の前に立ち、両手を広げて精神を集中させる。右手を左手に突き刺す。右手が左手にある異空間に接続される。右手を引き抜く。取り出したのは小さな天秤だ。それを地面に置く。残り四つの天秤を取り出し、家の東西南北、最後に屋根のてっぺんに置く。


 それぞれの天秤が青く発光し始めた。その光はそれぞれの天秤の光とつながっていく。家が、青い大きな四角錐に覆われる。その結界の完成を見届けてから、僕は家の中に戻った。家の中は、結界のおかげか《壊れて》いない、正常な空気がしていた。


「結界を張ったから、彼らにはもうこの家は襲えない。もう大丈夫」


 いまだ泣き止んでいないヒイカに、そう声をかけた。途端、自分の言葉を後悔した。

 ヒイカは涙が流れ続ける顔で、信じられないという風に目をむいて僕を凝視する。


「もう大丈夫? なにが大丈夫なの、みんな誰もいなかった! 化け物しかいなかったのよ! それでどうして大丈夫なの!」


 案の定、彼女は怒りの声を向けてきた。僕は言葉を探したが結局、彼女に何一つ慰めの言葉をかけることができず、目をそむけるしかなかった。

 そうだ。まだ十歳の彼女にとって、今の絶望はあまりにも重過ぎる。今の彼女にはどんな慰めも届かないだろう。わかっていたのに、余計な声をかけてしまった。


「ごめん」


 僕は彼女に届かないだろう声で、しかし届いても意味がないだろう言葉を呟いた。

 彼女を刺激しないように彼女から距離をとって、部屋の隅に腰を下ろす。

 彼女のすすり泣きの声しか聞こえない。彼女の絶望が現れているかのような、重い沈黙が部屋に沈殿する。


 すべて僕のせいだ。この沈黙も、世界がこうなってしまったのもすべて。

 本来ならヒイカに――いや、ヒイカ以外の誰にも顔向けができないほどの罪だ。けれど、もうこの世界には僕と彼女しかいない。逃げることもできない。

 そんな僕が、これから彼女に何をしてあげられるだろうか。


 外に出れば破滅の気に満たされ、化け物化した彼らに襲われてしまうだろう。外に出すわけにはいかない。だが、希望がまったくないわけではない。長い長い時を待つことができれば、希望が芽生えるはずだ。

 それまでに彼女には支えが必要だけれど、その支えに僕はなれるのだろうか。


「みんな」

「え?」


 重い沈黙の中、涙声のまま、ヒイカが小さな声を出した。反射的に聞き返す。


「みんな、あいつらに食べられちゃったのかな……」


 彼女の小さな呟きで、僕と彼女との認識の違いに気づかされる。


「あいつらが、言い伝えで言われる悪魔、なのかな。食べたら、その人そっくりになるんだね、きっと。……誰か、食べられてない人って、いるのかな……」


 彼女の、感情が欠落したような淡々とした呟きの中に、小さな希望があった。けれど、僕はその希望が勘違いであることを知っていて……。その小さな希望は勘違いであると、正直に伝えて潰してしまってもよいかと迷い……。

 結局、泣き疲れたのかヒイカはそのまま眠ってしまった。



    * * * *



 はっとして目が覚めた。もしかすると僕はうとうとしてしまっていたのか。


「ヒイカ?」


 さっきまで座っていたソファに、彼女の姿がなかった。


「ヒイカ!」


 あわてて彼女の名前を呼び、家中を探してみたが彼女の姿はやはりなかった。


「まさか……」


 外に出てしまったのだろうか。《彼ら》がたくさんいる、外へ。

 全身に鳥肌が立ち、吐き気がこみ上げるほどの不安と焦りに襲われる。


「ヒイカ!」


 もう一度彼女の名前を大声で呼び、僕は外へ駆け出した。



    ▲ ▽ ▲ ▽



 ゼファドーアにそっくりなあの牙だらけの悪魔は、私を食べようとした。あいつらは人間を食べる悪魔なのだ。そして、広場にいたみんなにそっくりな悪魔たち。彼らもゼファドーアと似た悪魔と同じで、人間を食べる悪魔なのだろう。


 しかし彼らが悪魔なら、なぜみんなにそっくりな姿をしているのか。

 そこまで考えて、昔読んだ物語のことを思い出した。


 食べると、食べたモノそっくりになるお化けの話だ。確か悪いお化けだったのだけど、何か変なものを食べてしまって口がなくなってしまい、それ以降、悪さができなくなってしまったという話だったと思う。


 きっと、ゼファドーアやみんなにそっくりな悪魔たちも、そういう能力を持った悪魔たちなのだ。そうでないと、島の人たちが私を襲ってくる理由なんてあるわけがない。


 だったらまだ食べられていない人がいてもおかしくない。きっと儀式に参加しなかった人の中に、まだ悪魔に食べられていない人がいるはずだ。すべての地区を回り、その人たちを探し出して見つけて助けなければ。

 私はそう結論して、背中に羽のある彼がうとうとと眠りに落ちたとき、そっと家を抜け出した。


 彼は私を守ろうとしてくれている。それはわかっている。けれど、やはりまだ信じることはできなかった。

 今の状況が始まったのは、彼がやってきた途端の出来事だ。やはり彼が引き起こしたことなのではないか。羽があって、結界が作れて……やはり普通の人間じゃないんだなと実感させられて。私を助けたのは、理由はわからないが、私をだます必要があるからなのではないだろうか。疑いだしたらいろいろな疑念がわいて止まらなかった。


 だから一人で行くことにした。私が信用できるのは、この島の人たちだけだ。

 どうやって助けるかは、あのゼファドーアのお父さんの家に連れて行く、というくらいしか思いつかないけれど、でも。彼が張ったと言う結界はアヴァリエ様が持っている、世界のバランスを保つ天秤とそっくりで、それだけは、少しは信用してもいいような気がしたのだ。


 ――あれ?


 森を抜けようと歩いていると、何かがおかしいことに気がついて立ち止まる。


 ――目印がない……?


 ゼファドーアのお父さんの家は、隠れ家気分で友達のみんなと遊びに行くことがある。その道中、いつでも迷わないようにとチコカが目印として、森の木に小さな人形をぶら下げているのだ。それがなかなか見つからない。あわてて辺りを見回すがやはり見つからない。


「ウソ、迷ったの?」


 ここまでチコカの人形たちはちゃんと道しるべの役割をはたしてくれていた。なのに今は見つからない。どうして。


 ――今まで迷ったことなんかなかったのに……。


 そう思ったがあせりを何とか抑え、何とか見当をつけて歩き出す。何度も通っている道だ。いまさら道しるべなんかなくたって、通り抜けられるはずだ。


「あっ」


 数分歩いていると、チコカの人形を見つけた。やはりただ見逃していただけなのだと、安堵してその目印に駆け寄った。

 すると、それまであった地面の感触が変わり、地面を踏むことができずに、「あ!」悲鳴を上げて地面とともに落下した。

 全身が痛む。口の中は土の味がする。服の中はじゃりじゃりとして気持ち悪かった。落とし穴に落ちたのだ。


「あーもう! 何でこんなときに!」


 落とし穴に落ちたのはこれが初めてではなかった。ペリサデが《毒吐き魔人軍団》と名づけた男の子集団が、私たちに狙いを定めた落とし穴に情熱を注いでいたのだ。狡猾な引っかけを考え、引っかかった私たちを見て一番よく笑っていたのはサウルだった。私はいつもそういういたずらはやめるように注意するのだけれど、サウルはいつもそれがうれしいかのように笑っていた。


 そして、こういう落とし穴に私たちが引っ掛かった時、一番に手を差し伸べて、穴から引き上げてくれるのもサウルだった。その姿はなぜだか――本当になぜだか――本の中に出てくる王子様のように紳士的で……。

 全身が火照った。今はこんなことを思い出している場合ではない。

 目印の人形を動かしたのもきっと彼らなのだろう。きっと、この異変が起きるずっと以前のいたずらなのだ。


 そう思うと、寂しくなった。今はこの落とし穴にひっかかっても笑いに来る人もいなければ、サウルも、もう引き上げに来てはくれないのだ。

 そんなことを思ったが、今は感傷に浸っている場合でもないと、私は何とか自力でこの穴から脱出しようと上を見上げた。


 顔がこちらをのぞきこんでいた。


 私と同い年の顔見知りの男の子と同じ顔をした化け物が数人。女の子も数人いた。その中にペリサデとチコカと同じ顔をした化け物もいた。

 彼らはみな、牙ばかりの歯をむき出しにした笑顔で、私を見下ろしていた。


「いやあああああああああぁぁぁあ!」

「「「いやあああああああああぁぁぁあ!」」」


 私が叫ぶと、彼らは笑顔のままで私を真似した叫び声を上げた。そして一人ずつ這いずって前進して、穴の中に落ちてくる。狭い穴の中はすぐにいっぱいになる。すぐ数センチ前に彼らの顔がある。むき出した笑顔が、牙がある。


「いゃ、やめて……!」


 近づいてくる牙。偽者のペリサデやチコカ。


「やめてっていってるのに」


 声になっているだろうか、か細い声しか出なくなる。追い詰められ、目をつぶりたかったがなぜか、目をつぶれなかった。そしてそんな目は、あるものに引き寄せられる。ペリサデとチコカの胸元に。


 ペリサデの誕生日に三人でお揃いにしたペンダントをつけている。

 涙があふれて止まらなかった。目をつぶらなくても視界はぼやけてしまった。


 そんなのウソだ。と思った。同時に、私が本物のペリサデやチコカを見分けられないなんてどうかしていた、とも思った。


 私はなんだかもう、諦めてしまって肩の力を抜く。ペリサデやチコカにたべられるんなら、もう、いい。

 そう思ったとき、


「ヒイカに手を出すな!」


 視界が真っ白になるほどの光が、目の前にほとばしった。私は悲鳴をあげながら目をつぶる。

 光が収まって目を開ける。みんなが折り重なって倒れていた。男の子たちも女の子たちも、ペリサデもチコカも……。


「ヒイカ! 大丈夫か!」


 上から、あの羽の生えた彼の声がしたけれど、無視をした。ペリサデとチコカに近づいて体をゆする。ピクリとも動かないで、もう生きてはいないだろうことを私に知らせた。

 私は膝をついて泣いた。泣くことしかできなかった。



    * * * *



 羽の生えた彼につれられて、ゼファドーアのお父さんの家に戻る。もう私は泣くことはない。涙が枯れてしまったようだ。


 みんな悪魔たちに食べられたのではなかった。みんなが悪魔になってしまったのだ。それが、言い伝えにある世界の破滅なのだろう。

 なぜそのことに今まで気づかなかったのか。……単純に気づきたくなかっただけかもしれない。みんなが人喰いの化け物になってしまっただなんて……。


「ごめん。相手が君の大切なペリサデやチコカだと気がつかなかった。本当に、ごめん」


 つまり彼は、やっぱり言い伝えにある悪魔なのだ。だから崩壊が始まった。


「謝っても謝らなくても、どうでもいいよ。もう、絶対、チコカもペリサデも戻ってこないんでしょ?」


 言うと、彼は土下座を始めた。ひたすらに謝っているけれど、私は変なの、と思っただけだった。彼は言い伝えの悪魔かもしれないけれど、やっぱり悪魔なんかじゃない。こんなに気が小さくて、泣きそうな顔で『ごめん』ばかりを口にする悪魔が世界を破滅に導くなんて変な話だもの。


「ねぇ、あなたは本当は何者なの?」


 なにか、もうどうでもいいことのような気がするけれど、私は訊ねた。

 彼は土下座の姿勢から顔を上げたけれど、すぐに何かを迷っているようにうつむいていた。数秒、数分? ようやく、彼は顔を上げて口を開いた。


「僕の名前はジョオア。十八年後の未来から来た」


 突飛な言葉が出てきたけれど、私はなぜか驚かなかった。

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