一 壊れていく……
ヒイカの歌声が、聞こえる。
十歳になったヒイカは念願の神の歌い手になった。踊り子はもちろん、それまで一緒に暮らしてきた、家族で親友のペリサデだ。
アヴァリエ様の前にある舞台からかなり離れた丘の上、そこからその情景を眺める。常人の目では見えない距離、声も聞こえない距離で。
僕は神様になったから、常人以上の感覚を会得した、らしい。
自分の体を見下ろす。自分ではお兄さんだと言い張りたいけど、小さな子供におっさんだと言われれば反論しにくくなる歳になっている。十歳のヒイカたちの舞台を見ながら、ちょっと泣けるなぁ、と苦笑いした。
もたれて座っていた木から立ち上がる。背中の黒い羽を震わせる。黒く大きな羽は悪魔のようにしか見えない。神様になったはずなのに、悪魔にしか見えないなんて、これもまた泣けてくる。
いい風が吹いている。羽を羽ばたかせ、空に舞い上がる。
なぜこんな綺麗な声で歌っている、ヒイカの晴れ舞台の邪魔をしなければいけないのか。穢れてしまった僕が穢れのないヒイカの今を、めちゃくちゃにしなければいけないのか。
それは――もう時間がないから。僕に残されたことは、時間内にそれをやりとげること。
目標は神の舞台で、目的はヒイカをさらうこと。
舞台に向かって滑空していく。島で一番大きな建物が近づいてくる。神の天秤を持つアヴァリエ様が近づいてくる。その周りに輪を作る人々も近づいてくる。人々のたくさんの悲鳴が聞こえる。「悪魔だ!」という声も聞こえる。神に助けを請う声も聞こえる。それでも僕はヒイカに向かっての滑空をやめない。
舞台の中央。ヒイカの目の前に降り立った。ヒイカは驚きで体が固まっているらしい。神にささげる儀式の最中に、どう見ても悪魔にしか見えない存在が現れた。驚いて当たり前のことだと思う。
固まっているのはヒイカだけではなく、周りにいる住民のみんなも同様だった。恐怖や、突然起こった出来事に、どう対処すればいいのかの戸惑いなどを顔に貼り付けて、動かないでいる。動けないでいる。
僕は白いドレスに身を包んだヒイカの腕をつかんだ。固まっていた彼女が悲鳴を上げて後ずさりしようとした。だが僕は、ヒイカを強引に自分の方に引き寄せ、抱き寄せた。
ああ、なぜ僕がヒイカにこんなことをしなければいけない……?
そうしないと終わってしまうと知りながら、罪の意識が僕の頭に直接、苦しみを与えてくる。
「ヒイカ!」
悲鳴のような呼び声がした。同じ舞台に立っていたペリサデだ。
「ヒイカを放しな!」
今度はマリーチェおばさんだ。
彼女たちの声が合図になったかのように、人々から僕への非難の声が渦巻いた。舞台に上がろうとする人までいる。
けれど僕はここでやめるわけにはいかない。
彼らの声をまるで無視するかのように、ヒイカをかかえたまま空に飛び上がった。
「いやぁあ! 助けてサウル!」
「ヒイカ!」
ヒイカの悲鳴による助けを求める声に答え、サウルは人々が集まるその場から抜け出し、空を飛ぶ悪魔のような存在――僕を追いかけた。
もちろん僕の飛行速度は少年の足で追いつけるものではない。僕はそのまま森に向けて飛んだ。
▲ ▽ ▲ ▽
「いやあ! 放して!」
私を抱きかかえながら黒い羽を持ったその人は、空を飛び続けていた。どうやら森に向かっているらしい。
神の儀式に参加していたみんなは私を助けようとしてくれていた。得にサウルは走って追いかけてくれた……。だけど、そんな彼らに私を助ける術はない、ということを見せ付けるかのように、この人はその場を飛び去った。
この人……果たしてこの人は“人”と呼べる存在なのか。いったい何のために私を連れて飛んでいるのか。
不安と恐怖が胸に押し寄せてくる。
「放してぇ!」
感情のままにもう一度叫んだ。人ではないかもしれない彼の胸を何度も何度も叩いた。
「……ごめんね……」
彼が本当に悪魔なら、もっと恐ろしい言葉を、残酷な言葉を返してくるかと思っていた。なのに予想に反して悲痛な声が彼の口からささやかれた。
「なにが『ごめん』なのよ……!」
「ごめんね」
「っ…………!」
謝られたからといって――どんな事情があろうとも、神の儀式を邪魔されて、みんなから引き離されたこの事態を許せるわけではない。何が起こるかわからないこの恐ろしい状況を受け入れるわけがない。なのに、私はもうそれ以上口を開くことはできなくなってしまった。
しばらく飛んで、森の中に降下していく。地面につくと、彼は抱きかかえていた私を下ろした。
降り立った森の中には家が立っていた。丸い屋根で、白い壁に蔦が這い上っている、森と一体化したかのような家。森好きのゼファドーアのお父さんが住んでいた家だ。私が島に来るずっと昔から住んでいて、今は亡くなっているので、以来から無人になっている。
ゼファドーアとお父さんは、一見ゼファドーアとお互い仲が悪そうに見えていたが、二人とも森が好きなところが共通していて、本当は仲がよかったのでは、という話を聞いたことがある。
そんなゼファドーアのお父さんの家に、彼は私の腕を引いて中に入っていく。
誰もいない静けさと、空気の冷たさが私たちを迎え入れた。
私の腕をつかんだままの彼が小さな声でつぶやいた。
「これから起こることは全部、僕のせいだ」
私の腕が少し強く握られた。彼は震えていた。
と、唐突に強い耳鳴りが始まった。
「な、なに、これ? なに……?」
「耳をふさいで目をつぶって伏せて。早く!」
「え? え?」
彼の言葉に戸惑いながらただ立ち尽くす私に、彼が覆いかぶさってきた。
強引に床にしゃがまされた。いきなりのことで抗う暇もない。右手で目を覆い隠され、左手で左耳をふさがれる。右耳は彼自身の胸に押し付けられた。
私は悲鳴を上げて抗おうとしたけれど、力が強くまったくかなわない。地震や火事か起こっているわけでもないのに、なぜこんなことをされなければならないのか。
しばらくそうやって無理矢理押さえ込まれていたが、唐突に彼が、私から離れた。
「なにするのよ! この……変質者!」
罵ったが反応はない。怒りのままに言葉の洪水を浴びせかける。
「ずっとずっと憧れてたのに、儀式で歌い手になること、ずっと憧れてたのに! それが叶ったのに! 邪魔して、全部台無しにして! 私をここまで連れてきて、なんだって言うのよ! 早く! 早くみんなのところへ帰してよ!」
しかしやはり彼の反応はなく、彼は転がるように力なく床に座り込んだ。
「ああ、本当に始まっ……まった。まさかこん……とになる……て。僕のせいだ……僕の……だ……僕の…………」
ぼそぼそと、よく聞き取れない独り言を終わりなくつぶやき続ける。
そのとき初めて彼の姿をしっかりと見た。
肌は褐色。髪の色は銀色。もっと化け物といった感じの見た目なのではと思っていたが、まったく違った。背中に黒い羽が生えていなければ、案外さわやかな顔立ちの普通のお兄さんだった。今はなにに打ちのめされているのかわからないが、頭を抱えて半分泣きそうな表情で、独り言を繰り返している。
なんだ。私と一緒じゃない。
ふと、そう思った。
出生が謎で、記憶がなくて何もかもが謎で、散々、悪魔だなんだといわれ続けてきた。けれど、結局私にはちょっと読み書きができるくらいで何も不思議な能力なんかなくて、そのまま今までただの人間として育ってきた。
――だから。この人も羽とか生えてるけどきっと普通の人間なんだ。なんてことのない存在なんだ。
現実逃避のように、そんなことを思った。
――逃げよう。
だから、そんなことを思った。できると思った。
このわけのわからない状況から抜け出して、みんなに会いたいと思った。
ゆっくりと立ち上がり、ゆっくりと後ずさりしていく。彼は気づいていないのか気にしていないのか、頭を抱えたまま動かない。
そうしてかなりの距離ができたとき、私は向きを変えて一気に出口のドアへと駆け出した。
「ヒイカ!」
彼が叫んだ。けれど私はすでに出口のドアへたどり着き、開いて外に飛び出していた。
「ヒイカ! 外に出ちゃだめだ!」
続いて彼も外に飛び出す。左右を確認し、私の姿が認められないと「ヒイカ!」もう一度叫びながら、空へと駆け上るように飛んでいった。
彼の姿が見えなくなったのを確認して、私はいつもかくれんぼで使う、鉄壁の隠れ場所から這い出した。
これからどうしよう……。おそらく彼は、私がまっすぐに、みんなが待っているだろう中央区の方へ向かったのだと思って飛んでいったのだろう。だとしたらまっすぐに中央区の方に帰ることはできないし、彼が空から私を探すのだとしたら、空からの目隠しになる森から出ない方がいいだろう。
なら、助けを求められるのはあそこしかない。
この家に住んでいた人の娘であるゼファドーアだ。
彼女はいつもどおり『たるい』といって儀式には参加していなかった。今も家にいるはずだ。
ペリサデとチコカとでよくレジニを差し入れに行った。ぶっきらぼうだけど、やさしいゼファドーアならきっと今の状況から匿ってくれるに違いない。
父親と同じように森に住む彼女の家へ、森の中を進む。
ふと、違和感を覚えて立ち止まった。
今の時間なら、今日のような晴れの日ならば、森の中は木漏れ日でいっぱいになるはずだ。
なのに、日の光は地面にはまったく届かず、夕闇であるかのように薄暗い。いやな予感がして空を見上げる。
木々の隙間から空が見える。けれど空の青も雲の白も見えない。紫色をした奇妙な色の雲が空を埋め尽くしていた。
「なに……これ」
彼は『本当に始まってしまった』と言っていた。これが、何かの始まりの証なのだろうか。
彼は私の名前を知っていた。そうして『外に出ちゃだめだ』と訴えていた。いったい彼は何者で、これからなにが始まるというのだろう。
いつもさわやかで心を落ち着けてくれていたはずの森の香りが、森の空気が、なぜかねっとりとして気持ち悪く体にまとわりついてくるように感じられる。
胸が痛くなるほどの不安に追い立てられ、私は駆け足になる。
いつも論理的に物事を考えるゼファドーアなら、きっとこの状況にもちゃんとした説明をつけてくれる。私はそれを信じて走り続ける。
数分後、ゼファドーアの家に無事にたどり着いた。森の木々から少し開けたところに建っている、少しこじんまりとしたかわいらしい家だ。その玄関の戸を、あせる気持ちを抑えきれずに何度も何度も叩く。
「開けてゼファドーア! 何か、すごく変なの! わかんないけどいろいろと変なの、お願い、助けて!」
あせる気持ちでうまく言葉にならなかったが、中にいるゼファドーアには、とにかく聞こえたはずだ。なのに返事はなかった。中からの物音も何一つ聞こえなかった。家の中にいないのかと思いながらも、私は玄関のドアノブに手をかけた。
開いた。
そこに。ゼファドーアがそこにいた。扉を開けたすぐそこに。
驚いて思わず小さく悲鳴を上げたが、すぐに安堵のため息をついた。
「なんだ。そこにいるなら返事してよゼファドーア」
そう言ったが、ゼファドーアはそこに立ち尽くしたままで何の反応もしない。
「なん……そこ……る……へん……てよ……ドーア」
立ち尽くしたまま、ゼファドーアは何かをぼそりと呟いた。
「え? なに、ゼファドーア。どうしたの?」
だんだん、不安が込みあがってくる。彼女なら助けてくれると思ったのに。この奇妙な状況を説明してくれると思ったのに。不安が恐怖になる。これはなに? ゼファドーアは私を見ていない? どこを見てるの? 違う、目に光が一切ない。生気のないような、暗い瞳をしている。これはなに?
「…………………………ア。……したの……」
また、何かをぼそりと呟く。
どうしたんだろうという疑問を、体をゆすることで訴えようとしてゼファドーアの腕に手を伸ばした。ゼファドーアは私のその手をつかんだ。
そして、私の手を、迷うことなく大きく開いた口に持っていく。
「いやぁぁああああ!」
反射的に振りほどいて身を翻し、駆け出す。逃げなければ。ここから逃げなければ!
振り向くことなく全力疾走する。すると
「いやぁぁぁああああああ!」
さっきの私の悲鳴を真似するかのようにゼファドーアの悲鳴が上がった。その悲鳴で追いかけてきているのがわかる。
ちがう。あれはゼファドーアの声なんかじゃない。ゼファドーアじゃない! 私は見た。口の中に並んでいる歯が、すべて獣の牙のようにとがっていたのを!
中央区に戻ろう。あの黒い羽を持った彼もいるかもしれないが、それよりもみんなにこの異変を知らせなきゃいけない。黒い羽の彼よりも、もっと恐ろしい何かが現れたということを。
* * * *
私は限界まで息を切らせながらも、無事に中央区にたどり着くことができた。あのゼファドーアに似た化け物は、森の影のおかげか、私を見失ってくれた。
ひざに手をついて息を整える。息を整えている間、あまりにも静かなことに気づく。
中央区の少し外側の、家が集まっている場所。なのにとても静かだ。あのまま儀式が中止になったのだとしたら、少しは誰か戻ってきていてもいいはずなのに、少しも誰の気配もない。
「みんな! みんなどこなの!」
さっき整えたばかりの息を、再び乱しながら走って叫んだ。だが返事は返ってこない。
「みんな! どこなの!」
儀式を行った広場の方に走りながら、何度も叫んだ。すると
「「「みんな! どこなの!」」」
思いもよらないほどの大勢の声が返ってきた。私は少しほっとして、走る速度を上げる。
しかし、あの返事はなんなのだろう? 『どこなの』と訊いて『どこなの』と返ってくる。かなり変だ。
広場に入ると大勢の人がいた。もしかしたら私がさらわれた後、みんな私の帰りを待ってくれていたのだろうか? 人数が減っているようには見えなかった。マリーチェママもペリサデもチコカも、サウルもいる。たくさんの人たちがいた。
「なんだ、みんなここにいたんだ」
「「「なんだ、みんなここにいたんだ」」」
「え?」
「「「え?」」」
間髪入れずに返ってくるみんなの返事が意味不明すぎて、私は言葉をなくした。少し不気味で、足を止めた。みんなとはまだ少し距離があって、表情はわからない。
みんなが、歩き出した。私に向かって。少しずつ、表情が見えてくる。……笑っている。歯をむき出して笑っている。あのゼファドーアに似た化け物と同じように、すべてとがった歯をむき出しにして笑っている。
みんなはどうしてしまったの? なにがあったの、なにが起こってるの?
「いやああああああああああ!」
私が叫ぶのと同時に彼らは、私に突撃してくるように走り出した。
「……な……ぃや……っ!」
走って逃げようとしたけれど、足に力が入らなかった。
「あっ!」
足がもつれ地面に転がる。立ち上がろうとしたけれど、腕に力が入らない。焦れば焦るほど、体が震えて言うことを聞かない。
「「「いやあああああああああああ!」」」
化け物たちが私の悲鳴の真似をして叫んだ。たくさんの悲鳴。悲鳴の波が押し寄せてくる。
「ヒイカーーーーーーー!」
悲鳴の波を割って、私の名前を叫ぶ声が空から降ってくる。私は顔を上げて空を見る。化け物たちも空を見上げて叫び声を真似して叫んだ。
その瞬間に視界が真っ暗になり、地面の感触が消え、自分の体重も消え去ったかのような感覚になる。
強い風を全身に浴びる。私の視界をさえぎっていて、私の背中にきつく腕をまわしているそれに、思い切りしがみつく。
「みんなが……。みんなは……!」
思わず泣きながら何かを訴えようとしていた。視界をさえぎっているのは、私をさらったヤツなのに。
「さっきの家に戻ろう。いいね?」
彼の静かな言葉に、少なからずの安堵を覚えながら、それがなんだか悔しくて、唇をかみ締めて、それでも無言でうなずいた。
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