序章 記憶が始まる

 人の声がしていた。一人二人じゃなくて、何人だろう――四、五人、だろうか、大人の人の声だった。声は小声で、何を話しているかは聞き取れない。なんとなく、暗い話をしている気がする。空気が重い。

 ふと、私はベッドに寝かされていることに気がつく。


 どこだろう?

 どうして私はベッドに寝かされているんだろう?

 あの大人の人たちは誰だろう?


 いろんな疑問が、目を閉じたままの私の目の前に広がっていった。

 私はいろいろな疑問を解消したくて目を開いた。思い切って上半身を起こしてみる。すると大人の人たちの会話が止まった。


「あらあらまあまあ! 目が覚めたんだねぇ!」


 会話の止まった沈黙をお開きにして快活に声をかけてきた人は、体も表情もふっくらふわふわとした中年の女の人だった。彼女は私がいるベッドのそばまで歩いてきて「どこか痛いところはない?」や「おなかはすいてないかい?」などなど、私の体を心配してくれた。

 けれど私はなんとなく、答えることにためらいを覚えた。


 女の人の数歩後ろに立っている他の大人の人たち。

 私に近づこうか近づかないか迷っているように見える人。むしろ私から遠ざかろうとしているかのような人。私に不審そうな目を向ける人。そんな人たちがいる中で、目の前のこのやさしそうな女の人の言葉にそのまま甘えてしまってもいいものかと考えてしまったのだ。

 女の人を疑ったのではないけれど、私に親切にしたらこの女の人は立場が悪くなってしまうのではないか、と考えてしまっていた。


「君は、いったい何者なんだね?」


 女の人よりも少し若い――三十歳前後だろうか――メガネをかけた男の人が、この部屋の人たちがみんな持っているだろう、私に対する戸惑いの空気をそのままぶつけてきた。


「どこから来た? 君は物好きなゼファドーアがたった一人で住んでいる森の中で倒れているのを発見された」

「物好きは一言余計だ。ほかの人間たちと違うところに住んでいるというのは自覚しているが、森での暮らしのすばらしさを理解していないあんたたちの方がおか――」

「そう、君はこのゼファドーアに発見された。そしてこの場所に連れてこられた。この島の長である私の家にだ」


 長だと名乗るメガネの男の人は、ゼファドーアと呼ばれた長い黒髪の女の人の文句を無視して話を続けた。


「君は五日も眠り続けた。その間、島中で君のことを調べてもらった。だが誰も何も知らなかった。この島はそこまで誰の目に触れなくなるような死角ができる大きな島ではない。たとえゼファドーアのような辺鄙な森に住んでいてもそれは認識されている。誰からも君の情報が入らないということはまずないはずなのだ」


 ゼファドーアが『辺鄙な場所』という言葉に頬を膨らませたが、何を言うでもなく長を名乗る男の人を渋い顔で見つめるだけだった。男の人はそれを無視して、メガネを指で押し上げ話しを続けた。


「だが、たくさんの人間に君のことを聞いてみたが誰も知らない。ここに集めたこの島の主だった人間たちも、長である私も君を知らない。……君は何者で、君はどこから来て、どうしてあそこに倒れていたんだ?」


 私は目を瞬かせた。そんな経緯で自分はこのベッドに寝かされていたのか、と驚いた。


「それにさ不思議だよ。島以外のどこからか来たにしてもだ。こんな小さな女の子が一人だけでいたんだよ。――親は? あんた一人でこの島に来たんじゃないんだろ?」


 ゼファドーアに言われ私は自分の体を見下ろした。十歳にもならないだろう幼さだった。言われるまで私はそんなことすら気がつかなかったのだ。どういうことだろう、これは……。


「あ、悪魔だよ。きっと、ととにかくだよ、いい言い伝えにあるだろ。あらゆる導きが揃ったったとききに、悪魔が、現れるってて。それ、こここのこだよやっぱ。だってって、じょ、状況がおかしいもんよ!」


 部屋の開いた扉の向こうから顔だけを出している男の人が、こちらをおびえた表情で伺っていた。


「少し黙っていてくれないか」


 長である男の人が、低い声でドアの向こうの男の人に言った。私が答えるのを待っているのか、彼は私を見つめたまま腕組みをして微動だにしない。

 視線の威圧感。自分は自分のことを何一つ覚えていない、という事実に気づいたこと。悪魔だと言われたこと。いろいろなことに、ぐるぐると頭がかき回された。何かを説明しなければ、私はここにいるみんなに悪魔として扱われてしまうということだろうか?


 自分のことが自分でわからないのに、それをどう説明すればいいのか。何かを説明しようとしたけれど、焦りがのどを締め付けた。

 助けを求めて、はじめに話しかけてくれた中年の女の人を見たけれど、彼女はただ、心配そうな顔をして、私の答えを待っているだけだった。けれどその横。机が目に入った。机の上にある紙とペン。


 私はなぜか口で説明するよりも、文章で説明した方がうまくできる気がしてベッドを降りた。

 立てかけられていた羽ペンにインクをつける。頭の中でぐちゃぐちゃになっていることを、何とか形にしてみようと、紙の上に文字を並べる。


「おやまあ! もしかして、おまえさんしゃべれなかったのかい?」


 中年の女の人が驚いた声を出した。そして私の手元を覗き込んだ。


「あらあら、まだ子供なのにしっかりとした字を書くねぇ」

「なんと書いてある?」


 長である男の人が低い声でたずねる。


「『私は私自身が誰なのかわかりません。なぜか記憶がなくなっているようです。だから、どこからきたのか、両親はどうしているのか、などにも、お返事できる答えを持ってはいません』……だって。なんてことだい。記憶喪失だってさ!」


 さらに続けて文字を書く。


「『けれど決して私は悪魔なんかではありません。皆さんに害を与えようなどという考えは少しも持っていません。だから、どうか、私を怖がらないで』…………かわいそうになんてことだよ。さっきのどっかの臆病者が言ったこと、信じちまったんだね。大丈夫だよ。おばさんはそんなこと、これっぽちも思ってないから」


 女の人は優しい声で言ってくれたが、それをかき消すかのようにゼファドーアの盛大なため息が聞こえた。


「でも、これからこの子の事はどうするんだよ。確かに悪い子じゃなさそうだけど、自分のことがわからない、親のこともわからない、ってことを全部記憶喪失で片付けて安心できるものなのか? 言い伝えの悪魔じゃない、ってことも、必ず絶対に否定できるものでもない。だからと言って、どこかに放り出してしまうわけにもいかないだろう?」

「ゼファドーア! あんたまでこの子を悪魔だなんて思っ――!」


 女の人は怒ってくれたけれど、長である男の人が、冷たい声でそれをさえぎった。


「彼女は私の家で引き取ろう」

「ええええーーーーーーーーーーーっ!」


 さらに長である男の人の声に謎の奇声がかぶさった。と同時に窓の扉が勢いよく開かれる。


「こんな可愛らしくて可憐で妖精さんみたいな女の子が長様一家の家で住むなんてありえないんだけど! 息子のサウルがありえないほどの超絶トーヘンボクに育ってるんだからもしもこの子がそんな影響を受けたりなんかしたらどうするつもりよ!」


 窓を開いてものすごい剣幕でまくし立てたのは七、八歳くらいの女の子だった。さらさらの金髪を胸のあたりまで伸ばしている。その女の子の後ろにはもう一人、短い黒髪の女の子が静かに立っている。どうやら今までのやり取りを家の外で立ち聞きしていたらしい。


「それにね、マリーチェママ! ソッセンしてやさしい声をかけてたんだからここは責任とって、真っ先に彼女を預かるって言わなきゃだめだよ! やさしい言葉だけかけて責任取らないなんてそういうのギゼンシャっていうのよ?」

「まったく……また盗み聞きしてたんだねお前たち。それにしても変な言葉ばっかり知ってるね、ペリサデ……」


 呆れながら中年の女の人――マリーチェさんは呟いた。


「まぁ、確かに言うタイミングを逃しちまったところはあるけどね。あたしは元々そのつもりだったよ。この子自身がいいならね。なぁ。あんたもそれでいいだろ?」


 長である男の人は、眉間にしわを寄せつつも答えた。


「まぁ、彼女にも選ぶ権利はあるだろう。ただ、何か問題を起こしたときは責任を取ってもらうぞ。いいな?」

「それが親の務めってもんだよ。どーーんとこいってもんだ」


 にっこりと笑ってから私の方を振り返った。どうする? と笑顔が言っていた。


「……わ。わた……し、は……」


 目が覚めてから初めて声が出た。マリーチェさんの笑顔に、ほんの少し安心して心の余裕ができたのだろうか。


「よかった。声が出るんだね。じゃあ、よかったらこれからどうするか、答えを聞かせてもらってもいいかい?」



    * * * *



 あれから数日が経つ。


 マリーチェママは、私のことを記憶喪失のかわいそうな娘、という風には扱わなかった。二人の娘の、ペリサデとチコカと同じように扱ってくれた。一緒に畑仕事をしたり、家事の手伝いをしたり。なかなかに忙しい毎日だ。


 正直まだまだわからないこと、混乱することはあるけれど、ここ数日は落ち着いた暮らしができている。……といっても好奇心旺盛なペリサデと一緒にいると『落ち着いた』暮らしかどうかは疑問ではあるけれど。


「すごいねすごいねヒイカ! 難しい本でも何でも読めちゃう! 同い年くらいなのにすごーい! やっぱり妖精さんはひと味もふた味も違うんだぁ」


 ヒイカ、という名前はペリサデの妹、チコカがつけてくれたものだ。チコカはペリサデが窓で立ち聞きをしていたとき後ろにいた、おとなしそうな黒髪の女の子の方だ。


 ペリサデが私自身もわからない、不思議であり、謎である部分を『きっと妖精さんなんだよ』と結論付けたことから、チコカがお気に入りの物語に出てくる妖精の名前からとってつけてくれたものだ。

 そんな風に本が好きでおとなしいチコカとは正反対に、本が好きだけれどおとぎ話の世界と現実の世界とをくっつけたがる、好奇心旺盛なペリサデは、落ち着くということを知らなかった。

 だからチコカが、


「ヒイカは特に妖精さんというわけではなさそうなのです。大きさも人間と同じでありますし、羽も生えてはいないのです。なので妖精さんと決め付けるのはジキショウソウというやつなのです」


 と言うのだけれど、それに対して、


「妖精さんは小さい。妖精さんは羽が生えている。……決め付けてるのはチコカの方よ。ヒイカは絶対、妖精さんみたいなステキな存在に違いないんだからっ」


 なんてことを言って、うれしそうに私をいろいろなところへ連れ出すのだ。


 家畜たちの牧場や、森の中に一人だけで住んでいるゼファドーアの家や、海や丘。大きな風車は迫力があって壮観だった。島の隅々まで私を案内してくれる。楽しそうに嬉しそうに。


 それは私にとっても嬉しいことだった。自分が何者であるのかという疑問と不安で頭がいっぱいになってしまいそうな今、島の隅々まで駆け巡るペリサデの疾走で巻き起こる風が、私の頭の中のもやもやをすべて吹き飛ばしてくれているようだった。


 丘の上では二人して大きな声で歌を歌った。ペリサデははしゃいで「ステキな歌声!」と私をほめてくれた。

 そうしてあるとき案内してくれたのは、この島に祀られている神様だった。


 島にはそれぞれ東、西、南、北、と地区があるのだけれど、そこはすべての地区の人たちが集まって、いろいろな屋台が広げられている、町の中心地である中央区だ。その中央区のさらに中心に広場があり、そこにその神様たちはいた。

 大きな鐘がある建物の前に、その建物よりも大きな女性像がある。アヴァリエ様という名の神の眷属だという女性像は、大きな天秤を手にしていた。


「よくわかんないけど、あの天秤が世界のバランスをとってるんだって」


 天秤を指差して言うペリサデにつられて、私もその天秤を見る。お皿の上には、右には金色の長い髪をした女の人の人形が。左には銀髪の短い髪の男の人の人形が座っている。


「バランスが崩れると、世界は悪魔でいっぱいになっちゃうんだって。でもね、あの二人が神様で、世界のバランスをとってる天秤のバランスをとってくれてるんだって」


 そしてぱっと明るく笑ったかと思うと、ペリサデは私の両方の手をとってうれしそうに言った。


「でね! 一年に一回、神様に感謝の歌と踊りをささげるの! その年に十歳になる女の子から選ばれるのよ! だから、ね? あたしたちが歌い手と踊り子になれたらステキじゃない?」

「え、でも、私、記憶がないから歳も……」


 わからない、と一瞬困る私を、ペリサデはすぐに明るい声でかき消した。


「わからなくてもいいの! ヒイカは七歳、あたしと同い年! 見た目にもばっちりでしょ? 誕生日はこの神様を知った日の今日! 今あたしが決めたことだけど、これでいいの! ね? 誕生日おめでとう!」


 そんなに簡単に決めていいことなの? とか 強引すぎる……! とか、言いたいことはいろいろあったけれど。やっぱりペリサデはいろんな嫌なことを吹き飛ばしてくれる疾風で。本当の誕生日じゃなくても、誕生日を作ってくれて、おめでとうといってくれることが素直にうれしかった。


「あー!」


 ペリサデが急に声を上げる。私の背後を見てかわいい顔で頑張って睨みをきかせている。何事かと思って私も背後を見た。


「あー。悪魔はっけーん」

「出たわね。毒吐き魔人軍団」


 目に入ったのは四人の男の子たちだ。ニヤニヤした顔で私たちを見ている。ペリサデは警戒するように私をかばうように一歩前に出た。


「ヒイカは悪魔じゃないもん、妖精よ」

「ばっかじゃねぇ? 妖精だってさ。ワケわかんないところから出てきた、ワケわかんない奴は悪魔に決まってるだろ?」


 と言って男の子たちはげらげらと笑う。


「そんなことないもん、ばかばか軍団! あたしはヒイカと一緒に暮らしててすごく楽しいのよ! 悪魔のわけないじゃん!」

「ぎゃはは! 悪魔が人間の世界にもぐりこむのに、いかにも『悪魔です』って態度とるわけねーじゃん。ペリサデも、悪魔なんかとつるんでたらそのうち、悪の闇の瘴気で頭がおかしくなっちまうぜ。そういう言い伝えがあるんだから間違いねーよ。な、サウルもそう思うだろ?」


 大笑いしていた四人の男の子たちは、一番後ろにいる、唯一笑っていなかった五人目の男の子――サウルに話を振った。彼はほかの四人の笑いどころがわからない、と言うような無表情で答えた。


「正確な言い伝えは、悪魔が現れた時点で世界は崩壊すると言われてる。今のところ世界は崩壊していない。と言うことはその女は悪魔じゃない可能性の方が高いと思うんだ」

「…………」


 サウルの返答に男の子たちはあっけに取られていた。


「…………?」


 サウルはあっけに取られている男子たちを見て困惑している。


「お前ーー! 悪魔女がちょっとかわいいからって気取ってんじゃねぇーや!」

「ん? 気取ってるのか、俺?」


 心底理解できない、と言う風にサウルは呟いた。すると一人の男の子がサウルのほっぺたをつねった。そのまま内部抗争を勃発させ、サウルのほっぺた引っ張り合戦が始まった。そしてしばらくワイワイやった後、なぜか私たちに向かって「覚えてやがれ!」と捨て台詞を吐いて帰っていった。

 今度は私たちがあっけにとられる番で、しばらくした後、ペリサデが「ぷっ」と噴きだした。


「サウルってさ、長様の息子で言い伝えに詳しくて、プライド高くて口が悪いとこがあってさ。でもそれってただの天然ボケだったりするんだよねー」


 私もペリサデにつられて大笑いした。なんだか、なんとなくだけど、悪魔だと呼ばれることがあっても、これからも何とかやっていけそうな気がした。


「ペリサデー! ヒイカー! ここにいたですかー。今日はレジニの収穫の日で手伝えってことだったのに、さぼってちゃだめですよー」


 チコカがトテテテと走ってくる。


「はーい」


 私とペリサデは一緒に返事をして駆け出した。





 そうして私は十歳になる。抱えきれないほどたくさんの大切な人や思い出ができた。

 私に名前をくれたまじめなチコカ。私に誕生日をくれた明るいペリサデ。姉妹のように育った二人はもちろん大好きだ。その二人と分け隔てなく愛情を注いでくれるマリーチェママも大好き。


 それから最近子供が産まれた近所のお姉さんたちはとてもやさしくて、尊敬できる女の人で。いつも買い物に行く屋台の人たちはとても気さくで楽しい人たちばかり。


 そして、私より二つ年上のサウルがリーダーとして率いる毒吐き魔人軍団とは、いたずらされたり、いたずらを止めたりの攻防戦を繰り広げているのだけれど……一緒に肝試しをしたり、海で泳いだりなんかして、気がつくと一緒に遊んでいる彼らは、なんだかんだで思い出を語るのにはなくてはならない存在だったりする。


 この島には語りつくせないほどの、私の“大好き”がある。



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