破滅したこの世界で私たちは

あおいしょう

零 遠い記憶

 そのときのことを僕は鮮明に覚えている。

 幼いときの記憶。僕の中で一番古い記憶。僕の中で一番懐かしくて胸を締め付ける、愛しい記憶。





 その記憶の始まりは、わけもわからずに目を開いたところからだった。

 目の前は砂ばかり。手が砂をつかむ。僕は砂の上にうつ伏せで寝転がっていた。耳が波の音でいっぱいで、足に水しぶきがかかっていて冷たかったのを覚えている。


 手をついてゆっくりと体を起こし、辺りを見回した。

 後ろには真っ青な海。前には緑を茂らせた森。真上を見上げれば、白い雲がふわふわ漂う青い空とまぶしく輝く太陽があった。


 ――なんで僕はこんなところで倒れてるんだ?


 幼い僕は首をかしげて、ぼんやりと現状を確認しようとした。気を失う前、僕は何をしていたのだろう。

 考えてみたが何も思い出せなかった。


「……え?」


 その事実に驚いて、思わず声が出た。

 自分の名前も知らない。自分の顔も知らない。両親のこともわからない。今までどんなところに住んでいたのか。どんな生活をしていたのか。目の前にある自分の小さな掌を見ても、これが本当に自分の手なのか、自分は本当にこんなに幼い――九歳か十歳くらいだろうか――人間だっただろうかということすら、自信がもてない。違和感を覚える。

 恐ろしくなって震えた。


 ――僕は誰なんだろう……?


 辺りを見回しても誰も何もいない。海と砂と森と青空と雲があるだけ。それらは僕に、僕が何者であるかなんて教えてくれるわけもなくて。波の音に追い立てられるように走り出した。僕の手がかりを求めて森の中へ。


 森の中はどこも同じような景色ですぐに方向感覚がなくなった。どちらの方向へ向かえば出られるのか。どの道を通ってきたのかもわからない。同じところを何度も回り続けているのではないかという考えにとらわれる。

 疲れで足が動かなくなり、木の根に座り込んで泣き出していた。僕は僕が誰であるかもわからないままここで死ぬんだと、絶望した。


 けれど、そのとき、かすかに。


 自分の泣き声の間をぬって、声が聞こえた気がした。

 涙はぴたりと止まり、耳を澄ました。

 声が聞こえているような気がする。気のせいのようにも思える。そんなかすかな声が。


 その声は、僕を導いてくれているようだった。歩くと、ほんの少しずつ、耳に届く声が大きくなる。

 やがて、森を抜ける。

 白い壁でカラフルな屋根をした家々が建ち並んでいる。何件かの屋台も見られ、昼のこの時間ならもっと人通りがあってもいいと思えるのに、誰もいない。声はもっと奥で聞こえる。


 女の人の歌声だ。


 僕を導いてきてくれた声は、形を成して僕の耳に届く。

 歌に手をひかれるように、村の中を歩いていく。すると広場に出た。

 広場の真ん中には、大きな鐘のある三角の屋根の建物があり、その前には鐘のある建物と同じくらい大きい女性の石像が立っている。崇めるように、村の住民だろう人々が女性像を囲っていた。


 僕をここまで導いてくれた声は、その人々の中央から響いていた。

 人がいるところまでたどり着けた。絶望的な孤独から抜け出せた安堵。それよりも強い、僕を導いてくれた彼女の顔を見たい、という想いがさらに僕の足を動かした。


 小さな体を人々の間に潜りこませ、四つんばいになって進む。人々の驚く声や戸惑いの声がしたけれど、気にせずに前へ進んだ。

 視界が開けると女性像の前に立つ声の主の姿が見えた。

 僕と同じくらいの幼さの少女だった。栗色の髪を肩まで伸ばして、白いドレスを着ていた。歌を響かせる彼女のその表情は、間違いなく子供なのにどこか大人びていて……。


 近くで聴く彼女の歌声は、僕の体のどこかにしみこんでいって……安堵からなのか喜びからなのか、よくわからない熱い涙を僕の目から流れさせた。

 その涙はきっと、僕が彼女に恋をしたからだと気がつくのは、ずっとずっと後のことだ。





 これは幼いときの記憶。僕の中で一番古い記憶。僕の中でいつまでも輝かしくきらめいている愛しい記憶。

 そして、これから起こることのない、未来の出来事。



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