第54話

「なあ、秀介」

「なっ、何だよ」


 どうやら僕がただならぬ様子であることは、秀介も察したらしい。思わず、といった感じで僕から一歩、遠ざかる。


「その、お前に伝えておかなければならないことがあるんだ」

「酒は控えろってか?」


 秀介は一転、おどけたように肩を竦め、苦笑いを見せた。


「いや、真面目に聞いてくれ。その、実は……」


 くそっ、決心がつかない。どうしたらいい? お前の意中の人の命は遠からず失われてしまうなどと、堂々と弟に告げられる兄がいようか?

 ちょうどその時だった。


「おはようございます、諸橋二曹!」

「おう、おはよう」


 秀介は何げなく、声をかけてきた兵士に返礼した。


「小会議室で隊長がお呼びです。ご同道を」

「了解」


 秀介はその兵士に頷いて見せ、返礼する。


「ま、そういうわけだから、じゃあな、兄貴!」


 と鷹揚に手を振って、彼は来た道を戻っていった。


 結局、伝えられなかったな……。僕は腰に手を当て、かぶりを振って、これからどうしようか考えた。

 やっぱり、看護室には行っておこう。秀介は元気になったからいいとしても、他の兵士たちの見舞いに行くのは、やはり礼儀だろう。僕を守ってくれたのだから。


 そう思いながら、僕は廊下を進み、看護室の入り口に到着した。

 しかし、


「そっち、部品外して」

「はい」

「ここのスライド、壊れてるから」


 看護師たちの声がする。おかしい。看護室のドアが壊れているとは聞いていない。思い出したのは、秀介に盗み聞きされた時のドクターの研究室のドアだ。建てつけが悪くなっているのだろうか。


「おはようございます」


 僕は心持ち声を低めながら、看護室を覗き込んだ。


「ああ、諸橋博士。おはようございます」


 応じたのは、一番年嵩の医師だった。スライドドアと格闘している。いや、これはドアと呼べるのか? 完全にスライド部分のレールから外れているではないか。

 そっと中を覗き込むと、大変な有様だった。


 薬品棚のガラスが割れ、医療用の薬品が飛び散っている。

 誰もいないベッドの脚部がねじ曲がり、カーテンが引き裂かれている。

 防弾壁をコーティングしている塗料部分にひびが入り、歪な円形に崩れている。

 よくある言い回しだが、それこそ台風が通り過ぎていったかのようだった。


「な、何があったんですか?」

「いやあ、私らにも何がなんだか……。昨日の夜中に、諸橋二曹が突然暴れだしましてね」

「秀介が?」

「ええ。そりゃあもう大変な騒ぎになりましたわ。なんとか若いのが数人がかりで二曹をベッドに押さえつけて、鎮静剤を打ったんですがね。それで何とか二曹はおとなしくなって、朝になったらさっぱりした顔で『おはようございます』なんて。一応、これ以上暴れだす兆候もなかったですし、ここで暴れられても困るんで、さっき現職復帰許可を出したんですが」


 昨日の夜中に、秀介が暴れだしてこんなことになった? まさか。


「彼が暴れだす前に、誰かがを訪ねてきませんでしたか?」

「ああ、それだったら、平田博士が来とりましたよ。随分と神妙な顔で、諸橋二曹に話があるとかで」

「……」

「諸橋博士?」

「え? ああ、分かりました。ありがとうございます」


 医師が続けて何か述べようとしたが、僕はそれを無視して廊下を駆けだしていた。平田吾郎博士――ドクターのもとへ。


 僕は拳を叩きつけるようにして、ドクターの研究室のスライドドア開閉ボタンを押した。昨日、リナと三人で話し合った部屋だ。するり、とドアが開く。


「ドクター!!」

「ああ、そのデータはこっちのファイルに移しといてくれ。おお、どうしたんだ、恵介くん?」

「あんたって人は!!」


 僕はずかずかと部屋に踏み入り、その勢いのままドクターの胸倉を掴んで柱に背中を叩きつけた。ドクターの眼鏡がカタン、と床に落ちる。


「ちょ、ちょっと諸橋博士!!」


 たまたま居合わせた研究員が止めに入るが、僕は彼女を睨みつけ、静かな怒りを込めて言った。


「これは僕と平田博士の話です。恐縮ですが、すぐに退室していただきたい」

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