第50話
「きゃっ!」
バランスを崩し、リナが転倒する。
「あいたたた……」
リナは自分の尻についた草を払い落とそうとして、
「あれ?」
ようやく、自分の左肩から先がなくなっていることに気づいた。
目の前の少女の、腕がもげた。別に力を入れたわけでもなく、いとも簡単に。どういうわけだ?
こうして考えていられるのは、僕が日頃、ゾンビの肉片を取り扱っていて、ある意味グロテスクなものに対して免疫ができていたからだと思う。
リナはびっくりしたのか、それ以上逃げようとはしなかった。自分の左の肩口を見て、僕の方へ振り返り、自分の左腕が僕の手に握られているのを確認した。
傷口からの出血は、驚くほど少なかった。ポタポタと雫が落ちる程度で、バイオレンスな印象はない。しかし当然ながら、驚くべきは出血量ではなく、こうもあっさりとリナが『壊れて』しまったことだろう。
「けいすけお兄ちゃん、それ……」
「ああ。リナ、君の左腕だ。僕が握ったら、千切れた」
「そうなんだ……」
リナは首を捻り、左の肩口を自ら覗き込んだ。ぽかんとしていて、何を思っているのか分からない。驚きを通り越して呆然としているのだろうか。
しばし、夜の虫の音が静寂な森に響き渡った。
僕は驚きながらも、冷静なつもりになって状況を分析する。リナの左肩からは筋肉組織や骨が露出し、しかし出血はなきに等しい。意識も明瞭なようで、重症とは思えなかった。だが、目線を下ろせばそこに、つまり僕の腕の中にあるのはリナの左腕だ。もげてしまったのだ。
「リナ、建物に戻ろう。ドクターに診てもらわなくちゃ」
リナはぼんやりした表情のまま、頷いた。
途中、誰に会うこともなく、僕とリナは博士の研究室の前――といっても中庭側からだが――までやって来た。あまりのショックで僕もリナも無意識だったが、誰かに出くわして大騒ぎされるようなことがなかったのは僥倖だ。まあ、そのために中庭から回ったのだけれど。
「ちょっと待ってて」
リナが頷くのを確かめてから、僕は足元の石を拾い上げ、研究室の窓に投げつけた。
こつん。反応なし。もう一度、こつん。
「誰だ? 恵介くんか?」
「はい。ちょっと人目につかないようにしなくちゃならない事態が起きまして」
「私の研究室の窓に石をぶつけるなと言っただろう?」
「いや、だから緊急なんですよ。人目は避けたいんです」
僕は話した。僕とリナが、素直に正面玄関から基地に戻ろうとはしなかったこと。片腕のないリナの姿が、兵士たちの目に触れるのは避けた方がいいと思ったこと。
「仕方ないな……」
そう言うと、ドクターはようやく窓を開錠した。
「まあ、上がってくれ。窓からで悪いが」
「すみません、失礼します」
まず僕が両手を窓にかけ、自分の身体を持ち上げて、ドクターの研究室に滑り込んだ。それから両腕をリナの腰のあたりに回し、リナを上がらせてから再び下り、千切れた左腕を回収した。
『リナちゃん、一体何があったんだ!? 左腕がないじゃないか!!』――などと、ドクターは驚かなかった。当然だ。僕とは経験量が違う。そのままドクターは落ち着いた様子で、痛みの有無、感覚の異常、身体のバランスなどについて、リナに矢継ぎ早に問いかけた。
「で、千切れた左腕は?」
「これです」
僕は両手で、その左腕の肘と手首を持ちながら、どこか恭しい気持ちでドクターに差し出した。ドクターは左腕を受け取るなり、顎に自分の手をやって、ふむ、と呟いた。
「まあ、適当に腰かけてくれ、二人とも」
僕とリナは、ドクターと実験用の机を挟んで反対側に、並んで腰を下ろした。ドクターはといえば、僕らに背を向けながらコーヒーメーカーを操作している。不謹慎に思えるかもしれないが、ドクターにとってコーヒーの準備時間は、自分の思考をまとめる時間でもあるのだ。
「よし、あと十分ほど待ってくれ」
そう言うと、ドクターは僕らの方へ振り返り、実験用机の反対側に座った。肘を机に載せ、その上で両手の指を組む。
「まず、恵介くん。僕は隠し事は嫌いだが、これは私にも予測の範囲外だったことだ。飽くまで仮定だった、ということだな。怒らずに聞いてほしい」
「はい」
僕は神妙に頷いた。
「それからリナちゃん」
リナはドクターの方に視線を遣った。
「ショッキングかもしれないが……落ち着いて私の話を聞くんだ。いいね?」
さっきからの、ずっとポカンとした表情のまま、リナは頷いた。
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