第40話

「お、おう」


 秀介は乱暴に、肘でぐいっと涙を拭った。それからぱっと顔を上げる。多少瞳が潤んではいたが、それ以外に憂いの表情は見られない。


「さ、早く行った行った」


 僕は軽く秀介の背中を叩き、リナの方へと向かわせてやった。


「リナ! 切符の買い方教えてやる! この『券売機』って機械でな……」


 僕は思い出したように壁から背中を離し、二人を遠巻きに見つめた。

 これは後から振り返って気づいたことだが、その時の僕は、不思議と嫉妬したり、癇癪を起こしたりしてはいなかった。むしろ心が落ち着いて、さらには二人の幸福を願うような、穏やかな気持ちだった。

 どうしてそんな気持ちになれたのか。それは、その時すぐには分からなかった。 しかし、僕の心にのこったのは、一抹の罪悪感だった。


『ただの普通の女の子なんだ』。

『頼む。そう言ってくれ、兄貴』。


 そんなことを秀介に懇願され、一体僕は何をした? 彼の頭を撫でてやって、泣き止むのを待っていただけではないか? 

 これだけでは、秀介の問いかけじみた願いに答えてやったとは言えない。上手くはぐらかしただけだ。

 僕は秀介に、『リナは普通の女の子だ』とは言わなかった。一方、秀介の心を深く抉るであろう真実、つまり『リナは普通じゃない、人造人間だ』と答えようともしなかった。もっとも、それは秀介も気づいていることではあったが。


 だが、これ以上僕に何をしろというのか? リナが念力じみた破壊行為を行えるということは、秀介は知らない。リナの脳の仕組みについても、おそらくは聞いていないはずだ。

 リナについて語れば語るほど、それは岩盤を砕く工業ドリルのように、秀介を傷つけ、狼狽させ、やがて絶望の淵へと追いやるだろう。


 それでも、秀介はリナを守り通そうとするだろうか?


「おーい兄貴、なに突っ立ってるんだよ? 電車行っちまうぞー!」

「あ、ああ!」


 僕は一旦思考を切り、駆け足で改札口へと向かった。


         ※


 電車に揺られているうちから、リナはご機嫌だった。

 それはそうだ。リナは今まで、狭い病室や裏庭にしか行ったことのなかった女の子。電車の車窓を流れていく風景に、関心を持たずにはいられない。僕たちが乗った車両は座席が窓際に沿って配置されているタイプで、リナは車窓の方に身体を向けて座席に膝を載せ、しきりにオーバーなリアクションではしゃいでいた。


「うわあ、速―い!」

「これが電車だよ、リナ」

「どんどん建物が通り過ぎていくよ!」

「そうそう」

「すごいすごーい! しゅうすけお兄ちゃんも見て!」

「ああ、すごいな」


 いつになく穏やかな表情で応じてやる秀介。先ほど涙を流したために、ストレス性の物質が排出されたのかもしれない。

 いつの間にかリナの麦わら帽子が落ちていた。僕はそれを拾い上げ、軽く汚れを払って、再びリナの頭に被せてやる。


「あっ、ありがとう、けいすけお兄ちゃん!」


 僕は笑顔でそれに答えた。意識して作った笑顔ではなかったから、不自然には見えなかったと思う。

 

 僕が窓の外を見遣ると、しかし、天候が変わっていた。ぽつりぽつりと、軽い水滴が窓を打つ。あたりは晴れているのに――天気雨か。


「おいおいなんだよ! せっかく遊びに出られたってのに!」


 喚きたてる秀介とは対照的に、リナは落ち着いて外を見つめていた。空から水滴が降ってくる、というのも、リナにとっては珍しい現象だったのだろう。

 しばらく黙り込んでいたリナ。しかし、その声は唐突に響き渡った。


「あっ、虹だ!!」

「おっ?」


 その声に、へこたれていた秀介も顔を上げる。僕も窓の外を見遣る。するとそこには、確かに立派な虹が架かっていた。

 

「ねえねえお兄ちゃん! ユウエンチでは、虹に乗ったりできるのかな?」

「え? ああ、いや、それはちょっと……」


 僕がまともに答えようと四苦八苦していると、秀介が割り込んできた。


「ああ、そうだよ! いろんな乗り物があるからな!」


 さっきの沈鬱な影はどこへやら、だ。


 やがて電車は、目的地へと到着した。遊園地までは、駅から歩いて五分ほどだ。一体いつ覚えたのか、リナはスキップしながら僕らの先を行った。

 うるさいくらいにセミが鳴き、すぐに汗だくになるほどの湿気が僕らを包み込む。車のボンネットが、眩しいくらいに日光を反射していた。


「リナ、次の角を左だぞー」

「はーい!」


 敢えて僕は、いや、僕と秀介は、言葉を交わそうとはしなかった。そんな必要などなかったのだ。今がこれだけ充実していれば。楽しい時間を過ごすことができていれば。

 そして、リナが幸せでいてくれれば。

 

 今日はちょうど週末だったこともあり、遊園地はかなり賑わっていた。


「今日は兄貴のぶんも奢ってやるよ」


 そう言って秀介は入場料を支払い、三人分のチケットを購入した。

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