第15話
15.
一連の吸血鬼事件の真犯人が捕まった事で、柚ヶ丘ニュータウンの張り詰めた空気は徐々に和らぎつつあった。
湯浅町出身の大学生・霧島珀人が三件の傷害の罪で逮捕された事は全国に報道されたが、瀉血については規制がなされた。だがこれも例に漏れず、霧島珀人こそが『吸血鬼』だった事は住民の耳に入った。
柚ヶ丘や湯浅では様々な噂が飛び交い、マスコミが押しかけてきた。取材を受ける住民は五條の時のように半ば興奮した様子で対応していたが、不思議な事に、瀉血の事実だけは誰も口を滑らせなかったらしい。まるでこの街全体にサプレッサーが装着されたかのように。
大井澄の大学にもマスコミはやって来て、ダメ音の部室は警察の捜索を受けた後立ち入り禁止となった。ダメ音部員が犯罪を犯した事は他の生徒の耳にも入り、俺と上乃辺先輩と吉野はまるで晒し者のような扱いを受けたが、俺は気にしなかった。だってアイツらに何が分かる?
石橋の件も同時にニュースになり、柚ヶ丘ニュータウンは一躍『呪われた街』として全国に知れ渡った。でもそれがなんだっていうんだ。そんな称号、時間が経てば皆忘れ去ってしまう。
霧島先輩の両親はマスコミの取材には一切応じなかったが、一部の週刊誌は湯浅町の住民から情報を得て、先輩は育児放棄されていたのだ、それが人格の歪みをもたらしたのだ、と報じた。真偽は俺にも分からなかったが、霧島先輩の両親はせいたんの元にも九崎の元にも竜太郎の元にも謝罪には現れなかった。
せいたんが意識を取り戻したのは、俺が回復して柚ヶ丘に帰った二日後だった。
医師の許可を得て俺とコウとモトノが面会に行くと、せいたんは何が何だか分からない、という顔をしていた。
「母さんから話は聞いたけど、なんか大変だったみたいだねぇ」
頭に包帯を巻いたせいたんは、いつものように茫洋と言った。
「俺、血を抜かれたんだってね。全然覚えてない。それよりバイト先に連絡しないと、来月のシフトまだ出してないや」
「それどころじゃねえだろ」
「自分がどんな目に遭ったのか分かってないな、コイツ」
「ド天然!」
久々に四人で笑った。その単純な事実に、俺もコウもモトノも泣いた。せいたんはそれを見ながらずっと不思議そうな顔をしていた。
せいたんのおばさんは、今回の件で旦那さんと別れる決意をした。弱り切っていたおばさんは、しかし毅然と言い放った。
「あの人の横っ面はたいてやってスッキリしたわ。思いっ切り慰謝料ぶんどって、誠太と何か美味しい物でも食べる事にする」
「いや、俺が何か作るよ母さん」
「俺達にもなんか食わせてくれよな」
病室に笑い声が響いた。
「まだ信じられないよ」
京介さんは呆然としていた。
「よりにもよって一番信頼していた人間に、こんな形で裏切られるなんてね……。俺も責任を感じるよ、アイツの本性を、心の奥底の苦しみを見抜けなかった。いや、そんな偽善者ぶるのは良くないな。俺は怒り狂ってもいる。裏切られて絶望もしてる。でもそれをどう表現していいのか分からない。今の俺には、全く分からないんだ」
弟の伸二は、事の真相を聞くと戸惑いを隠せない様子だった。
「珀人さん、いつも俺に声をかけてくれる良い人だったのに……」
その後も伸二はモトノを想い続けたが、今までのように無茶なアプローチをするのはやめたようだ。
「俺が立派な男になれば、きっと基乃先輩も振り向いてくれると思うんです。だから今はもっと自分を磨きたいです」
花村姉弟も元気を取り戻していた。ほんの少しずつだが他の住民と触れ合うようになり、竜太郎は今の所昼夜転倒が直っている。荒れ果てた家は嫌がらせの後始末をするついでにきれいに掃除をして、少しは見栄えが良くなった。陸夫が友人を連れて来て竜太郎と話すようになり、『危ないニート』から『フィギュア職人』にレッテルが変更された。流石にまだ昼間外に出るのは恐いようだが、もしかすると近い内に克服出来るかもしれないと言っている。
涼香さんも無事職場に復帰した。
「皆に『人が変わったみたい』って言われるの。人間らしくなったって。一体誰の所為かしらね?」
上乃辺先輩と吉野に事情を話す時は流石に辛かった。
「長年ツルんできたのに、俺はアイツの何も理解してなかったんだな」
そう言う上乃辺先輩は、少し自分を責めているようだった。
「俺、やっぱり実感沸かねえよ」
吉野は頭を掻いた。
「あのダメ人間先輩が三人も人殴って血ぃ吸ってたなんてさ。ちょっと現実離れしてね? 今にもここに来て、いつも通りぜえはあ言いながら笑いそうじゃん?」
それには俺も上乃辺先輩も同意した。
俺にはまだするべき事が残っていた。唯莉との関係を絶つ事だ。大井澄駅前の喫茶店に現れた唯莉は、俺の顔を見るなり顔を引きつらせた。一見して俺が本気だと伝わったんだろう。
「前々から言ってるけど、俺はもうおまえに何の感情も抱いてない。おまえがどう言おうと、もう終わりにしたいんだ」
「好きな人、出来たの?」
唯莉に問われた俺は、素直に頷いた。唯莉は涙目になって何か言いたげにしていたが、数分間の沈黙の後、静かに言った。
「私達、きっと人種が違ったんだね。違うから惹かれたけど、やっぱり一緒には居られないのかも。私、絶対いい人見付けるから、イツキもその人と幸せにね」
「本当にすまなかった」
警察から釈放されて帰宅した親父は、開口一番そう言って深く頭を下げた。
「おまえ達に辛い思いをさせてしまって、どう償っていいか分からないくらいだ。留置所でつくづく痛感したんだよ、おまえ達が父さんにとってどれだけ大事な存在か。おばあちゃんの事はもう忘れて、また四人で仲良く暮らしていきたい。勿論、おまえ達が許してくれるならの話だが……」
「パパ……!」
晴奈は泣きながら親父に飛び付いた。母親も涙ぐみながら親父を抱きしめ、俺も親父と抱き合った。
柊病院の第六病棟から俺宛に手紙が届いたのはしばらく後の事だった。ボールペンでレポート用紙に殴り書きされたその手紙を、俺は一生の宝にする。
「おめでとう、イツキ。ちょっと思う所があって手紙を書いている。俺の勝手な想像だから読み流してくれて構わないけど、暇な時にでも思い出してくれ」
そう始まった手紙を、俺は今でも肌身離さず持ち歩いている。
声は相変わらずだった。食事中も排泄中も遊んでる時も凹んでる時も声は響き続けた。でもカズヤの手紙を読んで、俺はそれで良いように思えるようになったんだ。
『舌が汚いのは嘔吐の所為じゃないか?』
『えー、私は断然マヨネーズ派だけどねー』
『鏡に映った自分がそこに居るだなんて、どうやって証明する?』
声が意識とシンクロする事も稀にあったが、俺はそれに徐々に慣れていっていた。適応能力って、ホントに凄いもんだと思う。
確かに俺はどこか人と違うんだろう。でもその自分を受け入れて、だからって無理に普通で居ようとする必要は無くて、レット・イット・ビーの精神で居ればいいんだ、と思うようになった。
俺は涼香さんに声の事を打ち明けた。すると彼女は少し笑って言った。
「初めて会った時変わってるって言ったけど、やっぱり私は間違ってなかったみたいね。貴方、ぼーっとしながらずっと何かに聞き入ってるような様子だったから。でも、それでいいじゃない。私は気にしないし、信頼して話してくれて凄く嬉しい。貴方のおかげで、私は変われた。恩人と言っても過言じゃないと思う。本当に感謝してるのよ。責任は取って貰うけどね」
三丁目公園のベンチで、汗だくになりながら俺ら二人は多幸感を覚えていた。変化は恐い事だ。パラダイム・シフトには痛みが伴う。もしかするとこれから涼香さんはまた傷付くかもしれない。出来る限り俺が守りたかったけど、でも時には傷付く事も必要なのかもしれない。
「でもね、貴方も辛かったら私に頼っていいのよ」
涼香さんがぽつりと言った。
「あの時の……霧島って人と対峙した時の事、あんまり覚えてないんでしょ? 私は無理に思い出せなんて言わないし、忘れろとも言わない。貴方が話したければ話せばいいし、言いたくなければそれでいい。でも、一人で抱え込まないで。私は大丈夫だから」
竜太郎が犠牲になった時に俺が言った台詞を、今度は涼香さんが口にした。俺は思わず笑ってしまって、涼香さんは妙な顔をする。
「姉さん、イツキ君」
花村邸のドアが少し開いて、竜太郎の声がした。
「ちょっと助けて欲しいんだ。陸夫の奴、僕の事を学校中に言いふらしたみたいで、依頼が殺到してるんだよ」
「手伝いますよ」
俺と涼香さんは立ち上がって家に戻った。
涼香さんが席を外した時、竜太郎が小声で呟いた。
「年下の兄というのも面白いかもしれないな」
俺はぎょっとして竜太郎を見遣る。大真面目な顔だった。
「最近の姉さんを見てると僕も嬉しくなるんだよ。まさかあの姉さんが笑顔でジョークを言う日が来るなんて、夢にも思ってなかったからね。イツキ君と出会えて本当に良かったよ。勿論コウ君やモトノちゃんやせいたんにもね。その意味では陸夫に感謝すべきかな」
「何? 何の話?」
涼香さんが戻ってくると竜太郎は笑顔で言った。
「このメーカーの塗料は質が良いって言ってたんだよ。そっちのヤスリを取ってくれる?」
その時、インターホンが鳴る。
「コウです」
「モトノです!」
「山崎ですー」
三人はリヴィングに入るなり大きな白い箱をテーブルの上に置いた。
「何、何の騒ぎ?」
「涼香さん、開けてよ」
モトノが言うと、涼香さんは恐る恐る箱の蓋を開けた。
中には大きなチョコレートケーキが入っていて、きれいにデコレートされていた。真ん中のチョコの板には、
『涼香さん たんじょうび おめでとう』
といびつな文字が踊っていた。
「え、貴方達何で知って……?」
「僕が教えたんだ」
竜太郎がしてやったりという顔をする。
「誕生日をこんなに盛大に祝うなんて、十年以上無いだろ?」
「竜太郎、貴方……」
涼香さんは顔をくしゃくしゃにして照れまくっていた。
「これ、せいたんが作ったんですよ。俺とモトノも手伝いましたけど。味は保証します」
「味見したもんねー」
「ホールケーキは初めてだったんで、お口に合うと良いんですけど……」
「ありがとう、本当に嬉しい」
その後俺らはケーキを分け合って食べて、テンションの高いモトノが涼香さんに化粧を教えると言い出したりした。俺は笑いながらそれを見て、少しずつあの悪夢が記憶の隅に押しやられていくのを感じる。
こうやって、人は積み重ねていくんだ。
傷跡は消えない。それでもこうして上書きしていく事で、変化を受け入れ、痛みを忘れる。
俺はカズヤの手紙を思い出す。
『俺が思うに、おまえの聞く声は、おまえがこれまでの人生で知覚した全ての反芻じゃないかな。おまえが見聞きしたもの、おまえがそれを意識しようがしまいが、それらはおまえの脳のどこかに蓄積されていて、声はそれを反芻してる。そう考えると面白くないか?』
「俺、進路を変えるかもしれません」
少し日が傾いてきて、皆のテンションが落ち着いた頃、コウが唐突に言った。
「高校の時から法学部を出て弁護士になるつもりでしたが、あの事件で色々考えさせられたんです。警察は、少なくともあの事件に関しては、あまりに無力でした。だったら俺が変えてやろうか、と最近思うんです」
窓の外を眺めながら言うコウの言葉に、俺は驚く。
「コウ君ならきっとキャリアで警察に入れるよ」
「まだ漠然と考えてるだけですけどね」
「私も……」
モトノが呟くように言った。
「私も今コウみたいに、自分の将来の事を考えてます。私は頭が良くないけど、あの事件みたいな事が起こって人が傷付いた時に、少しでも良いから力になれたらなって思うんです。ちょっと偽善者っぽいけど、本気で。具体的には何も浮かんでませんけど、そう思ってます」
「二人とも、色々考えてるんだねぇ」
呑気な声をあげたのはせいたんだった。
「俺はその事件ってのがよく分からないけど、でもこうして自分の作った物を食べて喜んでくれる人が居るっていうのが凄く嬉しいから、学費貯めて専門に行きます。両親が離婚したらまた経済的に困るかもしれませんが、母さんと二人なら乗り越えられるかなって」
「私達も居るわ」
「そうだよ」
花村姉弟が言うと、せいたんははにかんだ。そういえばせいたんは涼香さんとは普通に話せるんだな。
「イツキは?」
いきなりモトノに話を振られ、俺は一瞬黙る。
「あー、俺はおまえらみたいにかっこいい事はなんも考えてねえや。この街で生まれてこの街で死ぬなんて昔は嫌だったけど、そうだなぁ、やっぱり俺もあの件でここが、自分の故郷が大事なんだなって思えたんすよね。別に地域に貢献する仕事とかは考えてないすけど。って、言ってる事滅茶苦茶っすね」
「いや、分かるよ」
竜太郎が深く頷いた。
「まだ分からないけど、とりあえず大学出たらこっちに戻ろうかな、くらいで」
「ホントに? 戻ってくるの?」
「涼香さん喜びすぎ~」
皆に囃し立てられて俺と涼香さんは顔を見合わせた。
『つまり、支離滅裂だと思っている言葉も、おまえが今までの人生のどこかで見聞きしたものなんだよ。それを、おまえが望もうが望むまいが、声が勝手にリピートする。忘れないように警告を発してるのかもしれないな』
やがて夏休みが終わり、俺は大井澄のアパートに戻る。学校の連中は予想通り色々聞いてきたりヒソヒソと話したり勝手な噂をでっち上げたりしたが、俺はまったく気にしなかった。
ダメ音部室の立ち入り禁止が解除されると、俺と上乃辺先輩と吉野は自然とそこに集まるようになり、また音楽の話をした。吉野が言った通り、今にも霧島先輩が現れそうな感じが消えなかった。でも俺らは、受け入れなきゃならない。
涼香さんとは毎日電話かメールでやりとりをしている。あの賑やかな誕生会の後、俺は改めて自分の好意を涼香さんに伝えた。彼女はふわりと微笑んで、私も貴方が好きみたい、と呟いた後、言いにくそうに告白した。
「私、これまで何人かといわゆるお付き合いをした事はあるけど、別に何も感じてなかったの。別に相手の事が嫌いだった訳ではないけど、特に好きでもなかった。関心が無かったのよ。ただたまに会ってセックスするだけ。相手はプレゼントをくれたり色々尽くしたりしてくれたけど、皆すぐに『おまえの気持ちが分からない』って言って去って行ったわ。おかげで周囲には色々言われたけどね。だけど、貴方はこれまでの人達とは違う気がする。私、まだこの感情を上手く表現出来るか分からないけど、それでもいいなら、一緒に居ましょう?」
守るべきものが増えた。かつてカズヤに守りたいものを考えろと言われてから、俺は平穏な日常生活を守り続けてきた。そしてあの悪夢を経て、守りたい人が増え、その意志も更に強くなった。
大人になるってのはこういう事かなとか思いながら、俺は今日も学校に行く。
授業を終えてダメ音の部室に行くと、上乃辺先輩と、帰り支度をしている吉野が居た。
「イツキちゃん、俺の分まで楽しんできてね!」
吉野は口惜しそうに言って部屋を辞した。
「これからどうする? とりあえず出発して向こうで時間潰す?」
髪を黒くした上乃辺先輩がいつも通り爽やかな笑みを浮かべる。
「あー、あの辺タバコ吸える店ってありましたっけ?」
「微妙だな。じゃあ開場までに着けばいいか。今チケ渡す?」
先輩はそう言ってバッグから細長い紙袋を取り出した。
リフレクターズ来日公演のチケット。
一枚を先輩が財布に入れ、俺が一枚受け取り、残りの一枚を見て、俺と先輩は黙り込んだ。
「ダフ屋にでも売りましょうか。番号良いし」
「いや……」
少し震える声で、先輩は続けた。
「記念に取っておこう。いつかアイツに見せて自慢してやろうぜ、おまえは最高のライブを見逃したんだってさ」
「それ良いっすね」
俺と先輩は俯いたまま笑った。
『この仮説に更に付け加えるなら、おまえは今回の事件の事をも、これから一生反芻する事になるだろう。せいたんの痛々しい姿、泣く人々、五條とかいう医者、冷蔵庫の中の九崎、石橋なる理科教師、輸血される竜太郎、その姉の動揺、博紀さんの事、そして真犯人・霧島珀人の独白と血飛沫を、おまえは忘れても、声が思い出せてくれる。これからおまえが死ぬまで、ずっとだ。おまえはそれに耐えられるか?』
ライブハウス周辺には既に大勢のファンが集まっていた。
開場と同時に上乃辺先輩とはぐれ、俺はダッシュで前方へ向かった。最前列は取れなかったけど、メンバー全員が見えるポジションを確保出来た。
開演まで、一時間。
『それでいいんだ少年』
声が、する。
『今年の新入生はなかなか活きが良いな』
『この度閣議決定がなされた事に対し』
『え、俺それ全巻持ってるよ?』
『来年のヘッドライナー誰だろうね』
『焼却炉で見付けたんです』
やがて客電が落ち、つんざくような歓声がライブハウス内に響いた。SEが流れ、リフレクターズが登場する。俺も周りに負けじと声を張り上げた。
『俺の分も楽しんできてくれよ、少年』
勿論、そのつもりだ。
ギタリストが俺の好きな曲のイントロを弾き始め、俺は驚喜の悲鳴を上げながら踊り狂った。
ライブ中ばかりは、サプレッサーをちゃんと装着しねえとな。
【完】
サプレッサー 八壁ゆかり @8wallsleft
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