第14話

14.


「少年が俺の部屋に来るのは久々だね。四月以来かな?」

 俺は先輩が投げてくれたタオルで髪を拭きながら、茫洋と先輩を見詰めていた。

 ぼさぼさの黒髪。右に四つ、左に二つのピアス。青白い顔。ニヒルな口元。顎先に無精髭。

 どう見ても、ダメ音の副部長・霧島珀人先輩だった。

「何か飲み物が要るかい? 水道水とミネラルウォーター、どっちがいいかな?」

「結構です」

「今日はいつにも増して無愛想だな、少年」

 先輩は笑ってそう言うと、散らかった部屋の奥にあるラックからCDを数枚取り出した。

「ほら、リフレクターズのアルバムとシングルだ。これを聞いてライブまでに予習したまえ」

 俺は無言でそれを受け取ったが、バッグに入れる気にもならずそのまま放置した。

「具合でも悪いのか? 顔が真っ白だぞ?」

「先輩には敵いませんよ」

「そうかい?」

 意外そうに言って、先輩はテーブルの前に座りタバコを取り出した。俺は黙ってその先から白い煙が立ち上るのを眺めていた。

「先輩」

「何だい、少年」

「腕、見せて貰えませんか」

「む?」

 先輩は不思議そうな顔をして両腕を俺の前に突き出した。

『ブラボー! こんな素晴らしいショウは初めてだ!』

 なんで今まで気付かなかったんだろう。

 霧島先輩の肘窩と手首には、消えかかった赤黒い点がいくつもあった。

「満足かね、少年」

「アンタこそ満足かよ、人をあんな目に遭わせて!」

 理性の糸が切れた俺はそう叫んで立ち上がった。

「『柚ヶ丘の吸血鬼』だって? よくもまあ白々しく言えたもんだ! 全部自分でやっといて! アンタが吸血鬼じゃねえかよ! 違うんだったら反論してみろよ! 頼むから、反論してくれよ……!」

 今日の俺は涙腺がどうかしてる。まだ涙が溢れてきた。

 対して霧島先輩は、至極面白そうに俺の様子を観察して薄い笑みを浮かべていた。

 俺はもう一度だけ祈った。

 全部俺の勘違いで、先輩が吸血鬼なんかじゃなくて、何を言っているんだ少年とか何とか笑い飛ばしてくれる事を祈った。

「色んなパターンを想定してはいたが、少年、キミが一番乗りとは思わなかったな。あの須賀君とやらが先に気付くかと思っていたよ。キミを甘く見ていたな、謝罪するよ」

 顔色一つ変えない霧島先輩の言葉に、俺は愕然とする。

「じゃあ、ホントにアンタが……」

「少年、キミは自白を聞きに来たのか? それはあまり面白い展開ではないと思うぞ」

 俺には理解出来なかった。

 目の前に居る男が、野良猫の血を抜き、せいたんの血を抜き、九崎伸二の血を抜き、竜太郎の血を抜いた。

 それを否定しない。それどころか、どこか面白がっている。

「……ヘマトフィリア」

 俺は息も絶え絶えに言った。

「アンタは血液嗜好症なのか」

「キミがその単語を知ってるとは意外だね、少年」

「答えろよ」

 先輩はタバコの煙を吐き出した。

「そうだね。俺は幼い頃から血液に執着してた。見ると興奮するんだ。飲むと性的興奮をも覚える。普段は自分の血液を抜いて飲んでるんだ。少年、俺はもうキミに隠し事をする気は無いよ」

「飲んだのかよ、せいたん達の血を……」

「あと猫の血液も忘れないで欲しいな。死なせるつもりはなかったのに、つい興奮してしまった。動物用の針が手に入って浮かれてしまったんだ。申し訳ない事をしたよ」

 そう言う霧島先輩は、本当に残念そうな顔をしていた。

「なんでせいたんを殴って血を抜いた?」

「ああ、あれは突発的な出来事だったんだ。ゴールデン・ウィークに抜いた猫の血液を処理しそびれていてね、普段はトイレに流すんだが実家だったし血はほとんど凝固していた。だから瀬浦川に処理しに行ったんだが、そこで山崎君に見られてしまい、何をしているんだとか問い詰められてね、思わず殴り倒してしまった。そこで俺は誘惑に負けたんだよ。即ち、他人の血液を飲んでみたいという欲求にだ」

 声音も喋り方も、まったくもっていつも通りの霧島ダメ人間先輩だった。俺は腹の底から吐き気を感じた。気持ち悪い。

 気持ち悪い。

「ちょうど瀉血用具を持っていたからね。あ、瀉血というのは血液を抜く行為の事だ。それで俺はあの橋の下まで山崎君を引きずっていき、そこで彼の血液を頂いた。何しろ他人に瀉血するのは初めてだったからね、量の加減が分からなくて多く抜き過ぎてしまった。反省してるよ。血液は自宅に戻ってから賞味した。甘美な味わいだったよ。涙すら流したね」

 涙は止まらなかった。平然と話す霧島先輩は、俺の思い描いていたトチ狂った不審者ではなく、それよりももっと恐ろしい化け物だった。だって普通の人間が何故こんなおぞましい事を、タバコ片手に平然と話せる?

「知ってるかもしれないが、血液には吐き気を催させる効果がある。俺は飲んでは吐き飲んでは吐きして、おかげで風呂場は血の海だったよ。掃除が大変だった」

「……九崎伸二は……?」

「こういう言い方は京介に申し訳ないが、伸二君はうってつけだったんだよ。夜人気のない場所で人の血液を頂くなんて、狙っても難しいからね。伸二君が大橋で思い人を待つと聞いて、そこを狙ったんだ。卑劣とでも何とでも言ってくれて構わないよ」

「それ以下だよ」

「そうかもしれないね」

「その翌朝俺んちに来たのは?」

 先輩はタバコを灰皿に押しつけてから答えた。

「柚ヶ丘の人間の反応が知りたかったんだ。京介からキミが伸二君を発見したと聞いた時は驚いたけどね」

「なんで注射針の話をした? 俺らを混乱させる為か?」

「まあ、それもある。キミ達がどれだけ情報を持っているか知りたかったというのもあったがね」

「実際アンタはどこで針を入手してるんだ?」

「知り合いに医療機器メーカーに勤めてる男が居てね、彼の弱みらしきものを握っているのさ。汚い話だが、それをネタに針を調達している」

「竜太郎さんに電話したのもアンタか」

「その通り。番号はネットで買い取ったよ」

「なんで竜太郎さんまで狙った?」

「可哀想だったからさ」

 俺は思わず目を見開く。

「何だって?」

「少年、キミが言っていたんじゃないか。これといった証拠もなく犯人扱いされて陰湿な嫌がらせを受けている人物が居ると。俺は同情したんだよ、心の底からね。だから彼が被害者になれば良いと思った。短絡的だが、一番効果のある方法だと思ったよ」

 二本目のタバコを取り出した霧島先輩に、俺は掴みかかっていた。

「そんな身勝手で人をあんな目に遭わせたってのか!」

「身勝手? 違うね、俺は彼の為にやったのだよ」

 先輩はそう言って何度も頷いた。俺は力任せにその顔を殴りつけた。人を本気で殴るなんて初めてだった。拳に嫌な感触が残る。

「そうだよ少年、キミはもっと怒っていいんだ」

 唇の端を切った霧島先輩が仰向けのまま言った。人差し指でその血を取って、口に運んでニヤリと笑った。

『それは怒りってやつだ』

 気持ち悪い。

『どうした? 何をためらっている?』

『撃て! 撃ち殺せ!』

『撃ち殺せ!』

『引き金を引け!』

『撃ち殺せ!』

『撃ち殺せ!』

『撃ち殺せ!』

『引き金を引くんだ!』

『撃ち殺せ!』

 俺は困り果ててしまう。声は脳内に大きく響き、まるで俺に命令するように叫び続けた。

 撃ち殺せ。

 でも俺は持ってない。拳銃もマシンガンも何も持っていない。

『撃ち殺せ!』

「少年」

 霧島先輩がゆっくりと身を起こした。

「いい加減泣くのはやめたまえ。俺まで悲しくなる」

 俺は持ってない。銃なんて持ってないのに。

『撃ち殺せ!』

「ああ、この程度で目眩がするとは、俺のヘモグロビン値も相当下がっているようだな。少年、キミは健康に生きたまえ」

『撃ち殺せ!』

「アンタの所為で……!」

 俺は声に酔いながら立ち上がって先輩を蹴飛ばした。壁に頭を打ち付けた先輩は少しだけ唸る。

「アンタの所為でどれだけの人間が苦しんだと思ってる! どれだけ多くの人間が傷付いたと思ってるんだ! その態度は何だよ! 俺もう分かんねえよ! アンタ一体何なんだよ! アンタなんかが居なきゃ……!」

「それでいいんだ少年」

『撃ち殺せ! 今すぐにだ!』

「俺は確かに酷い事をしたんだろう。でも俺には実際よく分からないんだよ。京介が泣きながら電話してきても、キミ達が辛そうにしていても、イマイチよく分からなかった。別に無罪を主張する訳ではないけども、俺は血液を頂ければそれで良かったんだ。本当にそれだけだったんだよ。少年も腹が減れば動物の死体を口にするだろう? それと同じ事なのだよ、少なくとも俺にとってはね」

 もう一度蹴り倒した。もう一度。もう一度。もう一度。

『撃ち殺せ!』

『引き金を引け!』

「なあ少年、一つ教えてくれ。どうして俺だと分かった?」

 血を吐きながら先輩が言った。

「声が……」

 いつも通りのその声に、俺は素直に答えてしまう。

「声が聞こえたんだ。知り合いから血液嗜好症と瀉血っていう概念を聞いて、真っ先に浮かんだのがアンタだった。自分の血を抜いてる奴なら貧血にもなるだろうし、実際アンタよく貧血で倒れるし。それにアンタは京介さんから柚ヶ丘の事をよく聞いてたって言ったよな? 土井橋の事も知ってるかもしれないと思ったんだ。何より、ウチに来た時アンタは『柚ヶ丘の吸血鬼』と言った。確かに皆吸血鬼とは言ってたけど、『柚ヶ丘の』とはまだ誰も言ってなかった。被害が他に広がる可能性もあったのに。でも別に他に根拠は無かったよ」

「そうか。声というのは何だい?」

「俺、小さい頃から頭の中で声がするんだ。病気ではないと思うけど、ずっと声が聞こえるんだよ」

「それは面白い現象だね。今も何か聞こえるかい? 何を言ってる?」

『撃ち殺せ!』

『今すぐ殺せ!』

「殺せってさ」

「はは、それは酷いな。俺はただ喉の渇きを潤しただけなのに」

『撃ち殺せ!』

『引き金を引け!』

『そうだ! 殺すんだ!』

 気が付いたら俺は先輩に馬乗りになって夢中で顔面や腹を殴りまくっていた。先輩の顔面は血塗れで、鼻が折れたのか妙な顔になっていた。自分の拳を見ると、先輩の血が付着していた。

 気持ち悪い。

「少年、幾ら俺を殴ろうが蹴ろうが構わないが」

 一通りむせこんだ後、霧島先輩は唇を舐めながらぽつりと言った。

「キミが俺を殺すという展開は、俺はこれっぽっちも望んでいないのだよ。俺の為にキミが殺人犯になる必要は無い。キミにそんな大罪を背負わせる気は無いんだ。だからちょっとどいてくれないか?」

 気持ち悪い。

 俺は平手で血塗れの顔を叩いた。ヤニで黄ばんだ壁に血飛沫が飛ぶ。

 いつの間にか肩で息をしていた。酸素が足りない気がする。ここはどこだ? 撃ち殺す? 誰を? なんで?

「少年、聞いてるかい? ちょっとどいて欲しいんだが」

 分からない。俺は一体何をしてるんだ?

 これは霧島先輩だ。ダメ音のダメ人間だ。俺の先輩だ。

『撃ち殺せ!』

「少年、多分全部俺が悪いんだと思うよ。キミは悪くない」

「先輩」

 俺は脱力しながら呼びかけた。

「霧島先輩」

「何だい少年」

「なんでアンタなんだよ」

「何だがい?」

「犯人がだよ。なんでアンタなんだよ、よりにもよって。俺ら仲間だったじゃねえか。いつもあんなに楽しく過ごしてたじゃねえか。俺はアンタも上乃辺先輩も吉野も好きだったんだぞ? 一緒にリフレクターズのライブ行こうって言ってくれたじゃねえか。あれも嘘かよ。俺、もう分かんねえよ。この場でアンタを殺すのもなんか違う気がするし、ダメだ、もう分かんねえ」

 俺が血塗れの手で涙を拭うと、霧島先輩は溜め息をついた。

「そうか、リフレクターズか。それだけが心残りだな」

『撃ち殺せ!』

「俺の分も楽しんできてくれよ、少年」

 言うやいなや、霧島先輩はポケットから剃刀を取りだしてそのまま自分の首筋にあてがった。

「え……」

 赤い噴水。

 バカみたいな話だけど、俺はホントにそう思ったんだ。

 先輩は笑っていた。血の雨の中で勃起して、そのまま白目を剥いた。

『俺はこのまま死ぬのか?』

『コイツが死んで、それで終わるのか?』

『もっと血液が必要なんだよ』

 俺は血と涙でぐちゃぐちゃになった携帯で救急車を呼んだ。駆けつけた救急隊員が俺らを見て絶句していたのをよく覚えている。

 結局俺が最後に見たのは、先輩が差し出してくれたCDのジャケットだった。



 気が付いたら俺は固いベッドに寝かされていた。見覚えのない天井。多分病院だ。朝日が眩しくて俺はもう一度目を閉じる。

「逸紀!」

「お兄ちゃん!」

「イツキ!」

 母親やら晴奈やらコウの声で、俺の二度寝は失敗に終わる。

 全部夢でした、という展開を一瞬望んだが、勿論世の中そんなに上手く回らない。

「大丈夫? お母さんが分かる?」

「分かるよ、母さん」

 俺が身を起こそうとすると母親が止めた。

「貴方、熱があるのよ。昨日雨の中ずいぶん歩いたらしいわね」

 そうだ、大井澄の駅から霧島先輩んちまで結構あった。

「ここどこ?」

「大井澄の病院よ。昨日の夜警察から連絡があって、恒一君と飛んできたのよ」

 頭がぐるぐるする。熱があるというのは本当らしいな。

 なんて思ってた俺は、事を思い出して叫ぶ。

「先輩は? 霧島先輩は?」

 母親と晴奈は俯いた。

「何とか生きてる。元々自分で血を抜いて重度の貧血だったのに、頸動脈すれすれの所を切り裂いた。今はまだ警察病院で輸血を受けてるはずだ」

 冷静なコウの説明を聞いて、俺はまた涙ぐみそうになる。

 せいたんと九崎と竜太郎さんをあんな目に遭わせた奴なんて死ねば良いと思ってたけど、今は違った。

 あの人は死にすら値しない。

「って、あれ、先輩が犯人だって皆知ってんの?」

「ああ。霧島珀人は日記を付けてたんだよ。犯行日誌とまではいかないが、柚ヶ丘での一連の事件は自分がやったとはっきり書いてた。警察は筆跡鑑定が云々とか言ってるけど、部屋から注射器や針、血液の入ったペットボトルも出て来たんだ、間違いない」

「そっか」

「イツキ」

「何?」

「早く回復しろ。そんで一発殴らせろ」

「は?」

 コウが大真面目に言うので俺は間抜けな声を出してしまった。

「肝心な時に一人で動きやがって……。霧島に殺されてたかもしれないんだぞ? どうして俺達に連絡しなかった?」

「あー……」

 熱の所為か、カズヤと話してから霧島先輩が赤い噴水を作るまでの記憶が曖昧だ。

「ごめん、よく覚えてない」

「バカ野郎」

 コウはそう言って少し笑った。コイツに表情があるなんて随分久々な気がした。

「あ、親父は? あれからどうなった?」

「お父さんは大丈夫よ。墓を暴いちゃったのは事実だけど他人の墓じゃないって事で、今はまだ警察に居るけどすぐに帰って来れるみたい」

 それを聞いて俺は心から安堵した。

「竜太郎さんと涼香さんは?」

「貴方、こんな時に人の心配ばっかり」

 母親はそう言うと笑った。晴奈も嬉しそうにしている。

「竜太郎さんはもう退院したよ。二人で見舞いに来たいって言ってた。早く戻れるようにしろよ? 涼香さん、待ってるからな」

「え、は? 何それ?」

 三人がくすくすと笑う。

「お兄ちゃんってば、いつの間にあんなきれいな人と知り合ったの?」

「一報を聞いて飛んできてくれたのよ、涼香さん。竜太郎さんの事もあったのに、貴方が心配だって」

 俺は何も言えなくなる。恥ずかしい。逃げたい。

「あ、せいたんとモトノは?」

「せいたんの意識はまだ戻らないよ。昨日の夜親父さんが帰ってきたが、おばさんがいよいよキレてね」

「そりゃそうだろうな」

「モトノもまだ疲れてるけど、真犯人が見つかってほっとしてた。見舞いに来るって言ったけど、俺が止めたんだ。アイツも疲れ切ってるからな」

「そうか」

「イツキ、これから警察が来ると思うけど、無理するなよ? 俺らがついてるからな」

「思い出したくないかもしれないけど、ちゃんと事実を話すのよ?」

「分かってる」

 俺は熱の所為もあってそのまま眠ってしまう。誰も俺の睡眠の邪魔をしない。

 悪夢はもう終わった。

だから俺は安心して眠れるんだ。

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