ピアス、免許、処女

@mikimiya

第1話


「あなたは、とても綺麗な魂の持ち主です*」

 

 はあ??

 突然何を言い出すねん、このお姉ちゃんは。

 明らかに危ない、アレな人やんか、タマシイとか言っちゃって。なんか全体的に雰囲気が浮世離れしてるし。てゆうか、その前に、ここどこやねん。見覚えのない電車に乗ってるんやけど・・・。外の景色は、さっきから延々、えらい見事なお花畑や。

 ほんで誰なん、あんた。何でそんなにフワフワした格好してんの。白い布巻き付けたみたいなその服装、コントに出てくる神様っぽいし。髪型も、『ゆるふわくしゅ』とかそんなやつ。てゆうか、ゆるふわくしゅ、て何やねん。どんな状態やねん。こいつ、モテ髪とか意識しとんのちゃうの。いやらし女やで。こういういかにも「私ナチュラルふんわり系です」アピールの女、ほんっま嫌いやねん。語尾の花マーク*も、さっきから意味分からん。

 まあええわ、ここどこや。

「ここは、清らかな魂だけが行き着く場所なのです*」

 ・・・。えーと。あかんわ、この人。うわわ、ニッコリ微笑みかけとるで。どないしょう。とりあえず、ここから動こうか・・・って、ちょっと待って!私も変な服装してるやん、なんやこの白い布服は。こんなもん着てたっけ、私。

「うふふ、怖がらなくても良いのですよ。あなたは今、天国へ向かう電車に居るのですから*」

 ん?なんや何や?いよいよ話がおかしなってきたで。頭の中までお花畑か?もう、無視し

え?

え??

えええええええええええええええええええええええええええええええ!!!!

私の足、足が、透けてる・・・ほんまに、私、え、え、死、死、死、し、ん、で、る


 笠田尚美は去年の冬、仕事を辞めた。それ以来、毎日部屋の中にじっとしている。極力何も食べず、ネットとテレビもなるたけ我慢して、電力の消費を抑えている。地球の資源を浪費しないことぐらいしか、今の彼女に誇れることは無いのだ。

 初めは、こんな生活にかなり抵抗があった。罪悪感が尚美を襲った。何もせずにただ単に家で寝ているだけなのに、一丁前にストレスだけは溜まる自分に、腹がたった。

 部屋を出るのは、近所のコンビニへ行く時だけ。生活する世界が狭くなった分、テレビのCMに出てくる子役がうざい、とか小さなことが鼻につくようになった。道ですれ違いざまにぶつかった人に、「すいません」と、こちらから言ったのに無視されて、そんな理由でひどく傷ついた自分に気づいた時、すでに重傷かもしれないことを彼女は感じた。

  社会の色んな刺激に対する心の免疫が、極端に弱ってきている。

 基本的に人間は、日々ストレスフルな出来事にさらされている。だからこそ、ストレスは多岐に分散され、一つのことに悩んでいる暇がなくなるという利点もある。些細な事件は、数分後のもっと大きな災難に、押しつぶされる、その繰り返しである。

 しかし、ほぼ何もしなくて良い生活では、取るに足らないアクシデントが一日一回あるかないかなので、逆にそれが目立つのだ。

 尚美は、以前は大阪の広告代理店に勤めていた。毎日きっちり9時55分に出社し、18時をまわると1分の残業もせずにそそくさと家に帰る日々を、4年近く続けていたことになる。

 大学を卒業し、新卒で採用された会社を、3ヶ月で退職。その後、いくつかのパート勤めを経て、契約社員として件の会社に採用された。

 知らないうちに、母親が自分を産んだ時の年齢など、とおに追い越してしまっていた。


 もうすぐ31歳になる尚美は、処女である。

 この歳で男を知らないということは、いったいどの程度異常事態なのだろう。気にしていないと言えば、嘘になる。雑誌のセックス特集などで、30代処女の女性の割合などが載っていると、どうしても読み込んでしまう。別に、世の中に30代処女がどのぐらいいようが、自分の生き方には関係ないのに、と思いながらも。

 鏡で自分のアソコを映してみて、うわ、こんな所を好きな男に見せなあかんのか?無理や、絶対無理や、こんなん見ても男かってなんも楽しないやろうに。世の中の女も、なんで平気で見せるんや。同じカタチしてるんやろ、これと。それか私のんだけ、こんなカタチなんやろか。そんな心配も尽きることはなかった。

 そもそも、尚美はキスさえしたことがない。どうしても男と付き合うということが出来ないでいる。男を好きになることが怖いのだ。いや、男に限らず、他人と関わるのが怖いのかもしれない。

 尚美の毎日の仕事は、判を押したように決まっていた。内容は、営業のアシスタント・・・と言うとなんだか格好良いが、大阪府、京都府、兵庫県下のクライアント先に訪問し、広告の値段表や特集案内などをただひたすら配りまくるだけの業務である。

 とにかく数多く会社をまわることが優先であり、まともな営業トークなどは求められていない。かといってノルマがあるわけでもなく、ひとこと挨拶を交わし、それじゃあこの資料ここに置いておきますね、さようなら、以上。ミッションコンプリート。小学生でも同じようなことは問題なくこなすだろう。まさに「子供の遣い」だ。

 このような、しょうもない仕事だったので、昨今の不景気に際して、尚美の契約が切られてしまったのも、無理はない。

 尚美は、朝出勤したら、社名の入った紙袋に、ありったけの資料を詰め込んで10時5分には会社を出る。後はとにかく、電車に乗ってひたすら移動。各地の会社を訪問する。

 JR、地下鉄、阪急、阪神、南海、近鉄、阪堺電車・・・今日は何線で移動しようか。路線図を見ながら、1日の訪問先の計画を立てる。もともと鉄道好きな尚美は、これが結構楽しかったりするのだった。仕事内容には何の楽しみも感じていなかったが。

 紅葉の季節には、京都嵐山方面の会社を中心に訪問し、空き時間に茶店で団子を食べる。神戸に用事がある時は、わざと阪急花隈駅で降車し、元町高架下の雑貨店を散策しながら三宮に行く。その日の気分で、環状線を1周してみたり、阪堺電車で下町を巡ったり、極めて自由で気ままな仕事なのだ。監視の目や、業務日報を書く必要さえない。

 そうして定時の18時になるきっかり5分前には会社に戻る。つまり、社内での滞在時間およそ10分。毎日こんな調子なので、社内の人間と話す機会がほとんど無い。よって、4年勤務しているにもかかわらず、彼女には、会社の友達が1人も居なかった。

 しかし、彼女はそのことを全く寂しいと思っていなかったし、むしろ煩わしい人間関係に悩まされることなくマイペースに仕事を出来る環境は、自分にピッタリだと思っていた。

 それまで職を渡り歩いてきた尚美が、この会社でそれほど長く勤務できたのは、他人との深い関わりが少ない、ある意味孤独な仕事が合っていたのだろう。逆を言えば、彼女がこれまでの人生で、いかに人と接していくことで苦労してきたかがよくわかる。


「えーと。あのう、なんていうか、ここは天国行きの電車・・・なんですよね?

「そうですよ*」

「その、私は、どうして死んでしまったのですか?」

「あなたは、自転車に乗ってコンビニエンスストアに行く途中、ご自分の着ていらしたロングスカートの端が、後輪に巻き付いてしまったのです。そのままタイヤが動かなくなり、こけた所に運悪く大きな石がございまして。それに頭を強く打ち付けたのでございます*」

 なんと・・・。なんと情けない死に方。最悪だ。

思い出したぞ。確か、無性に抹茶あずきアイスが食べたくなって、家にはバニラアイスがあったのにもかかわらず「いや絶対ここは抹茶あずきが良い」という変なこだわりと根性が、普段は腰の重い私を、猛スピードでコンビニまで突き進ませたのだ。その時着ていたロングスカート(アジア雑貨店で500円ぐらいのお買い得商品)の端が、チャリンコの後輪に巻き付いたんだ。ガガガガっ!というものすごい音を立てて、後輪にスカートが巻き込まれ、ウエストを留めていたリボンがその勢いで外れ、パンツが丸見えになって・・・そのとき履いてたパンツがこれまた絵に描いたようなカボチャパンツで、ゴムも伸びきってて、ああああ、思い出しても恥ずかしい。それで、そっちを隠すのに必死になりすぎてバランスを崩し、そして、こけたんだ・・・こんな、死に方って・・・。

「あの、私、その時、パンツ丸見えでしたか?」

 今さら聞いてどうするんだか。でも聞かずにおれない。

「ええ、丸見えでございました*」

 ああ、そうですか・・・。

 人間は、時に、確かめても仕方のないことを確かめようとするものである。これこそ死ぬほど恥ずかしいというやつだ。

 好きな男にパンツを見せる機会に恵まれることもなく、あげく最後の最後に、白昼堂々下半身パンツ姿を晒したまま死に至るとは・・・。

 目の前の女性は、そんなうなだれる尚美を全く気にする様子もなく、話し続けた。

「尚美さんは、生前その肉体を汚されなかった。あなたが天国に来られたのは、清らかな身体のまま、魂が召されたからなのですよ。つまり、殿方と、淫らでふしだらな行為にふけることなく、純潔なままでおられたからなのです。その年齢で、ご自分の操を大切に守り通す生き方、今時の女性には大変珍しく、素晴らしいですわ*」

 やかましわ、喧嘩売っとんか!イヤミにしか聞こえんわ!

 確固たる信念のもと、処女を守り通したわけではない。そこにあるのは、信念ではなく「あきらめ」だ。どうせ私なんて、男と結ばれるはずがない、という卑屈な諦めだ。

 だいたい、さっきからこの女は失礼極まりない。30過ぎてで処女ということがそんなに奇異か。あーあ、これやから嫌なんよな、モテ子さんは。自分が男に求められていない状況という発想が、皆無なのだ。だから「守り通す」なんて言葉が出てくる。

 ピアスの穴をあけること、車の免許をとること、処女を失うこと。それらは、初めてその行為に及ぶに当たって、それなりの覚悟や勇気、努力がいる。しかしながら、多くの人間は普通にそのことを経験し、自らがその経験を得る過程で味わった、小さなドラマをいつしか忘れてしまう。

 そんなごく当たり前の事実を、尚美は時々我に返って妙に感心してしまうのだ。今日も多くの人間が処女膜や耳たぶに穴をあけ、またある人は、とったばかりのクルマの免許でドキドキの初ドライブを楽しんでいることであろう。そしていつかその「初めて」の感動も、恐怖も、忘れ去るのである。

 尚美が「初めてのセックス」を知ることは、最後まで無かったわけだが。

 パンツ丸出しで幕を閉じた自分の人生って、一体何だったのだろう。尚美は思った。

 世の中には、恋か仕事かの選択肢で迷う女性が多くいるというが、尚美は、そのどちらにも生き甲斐を見出すことが出来なかった。

 自分が消えても、会社は何も困らない。私のために泣いてくれる男もいない。もともと死んだような人生だったのかもしれない。ああ、こんなことを考えていたら、ほんとに死にたくなってきた。死んでいるのだが。

「突然のことで、今は戸惑っていらっしゃると思います。どうでしょう、今から、ご自分のお葬式をのぞきに行ってみませんこと?もうすぐ最初の駅に着きますので、そこで途中下車しましょう。現世へ戻る改札がございますわ*申し遅れておりました、私、名前をソワランと申します。」

 ソワラン、なんだか柔軟剤みたいな名前である。どうりでフワフワしているはずだ。

 というか、ソワランの言うことが本当だとすると、私は30過ぎで処女だという理由だけで、天国に行けるというのか。もし生前に、めくるめく官能の世界を体験していたならば、地獄に堕ちていたとでもいうのか。

 バカにしやがって。

 ソワランに言われるがまま手を引かれ、尚美は改札の中に入った。まばたきをして、目をあけると、そこは葬儀場だった。

 白い花に囲まれて、自分の遺影が飾られている。成人式の時に撮影した、似合わない振り袖姿の写真である。しかしこうして自分の葬式を眺めるとは、なんとも不思議な光景だ。

 僧侶のお経が長い為か、悲壮感というよりは、間延びしたような空気が会場全体に流れている。ぼんさんは、相変わらず長い経を読んでいる。こりゃ退屈だわな、幽霊の私でさえ眠くなるんやから。

 こう退屈だと、妙な妄想が湧いてくる。尚美のいつもの癖だ。

(もしヤクザ物のVシネマやったら、ここらへんで借金取りがちょうど乗り込んでくる頃やな。『えらいすんまへんなあ、ホトケさんの残した借金、耳揃えて返してもらいまひょかぁ〜』とかなんとか言いながら。ほんで、残された家族が『葬式にまで乗り込んで来て、そないな借金の取り立てするなんて、鬼、あんたら鬼や〜』言うねんな)

 およそ竹内力ファンにしかわからないような妄想を、頭の中で繰り広げている、そのときだった。

 静寂の空間に、息を切らせながら、一人の若い男が現れた。

 彼の顔を見たその瞬間、尚美は、もう動いていないはずの自分の心臓が、ドキンと高鳴るのを感じた__。


 彼の名は、大沢啓太。尚美が働いていた会社の後輩である。

 大沢は、とにかく人なつこい性格で、誰からも可愛がられる弟キャラだ。気付けばするりと、人の懐の中に入り込んでしまっている。

 誰に対しても頑なに心を閉ざし、うち解け合うのに非常に時間のかかる尚美とは、対局にいるタイプの人間である。明るい性格で、老若男女問わず好感の持たれる男であった。スーツの似合う長身は、それだけで目立ったし、笑った時に見える歯は、歯磨き粉のCMみたいにきれいで、爽やかなのだった。

 大沢と話すことが、尚美はとても嫌だった。もともと尚美は男性と会話をすること自体が苦手なのだ。男性と上手く話そうとすればするほど、緊張して顔が険しくなってくる。喉が乾いて、声がうわずる。それを悟られまいと、わざとポーカーフェイスを気取ろうとするので、余計に表情がこわばる。

 ただでさえこんな調子なので、大沢のような全身からキラキラしたオーラを発してるような天然王子様みたいなヤツは、苦手を通り越して、自分がみじめに思えてくるのである。

 初めて尚美が彼に話しかけられたのは、帰宅途中の電車内である。「あれ、先輩もこの電車乗ってたんですね!一緒に帰りましょうよ」などと、背後から突然声をかけてきたのだ。イヤホンの音楽に没頭し、完全に無防備な状態で振り返ると、彼がニコニコしながら目の前に立っていたので、尚美は本当にびっくりした。と同時に、気を抜いてる時に話しかけられたものだから、今自分がどんな間抜けな顔で彼に振り返ったかと思うと恥ずかしくて、それだけでもう逃げ出したい気持ちになったのだった。

 実際そんなに間抜けな顔をしていたわけでもなかったのだが、尚美はいつも、このように些細なことで必要以上に気を病む。

「先輩もこの沿線なんですか?あ、そうなんですねー。ここって、電車の本数少なくて不便ですよねー」

 ドギマギしている尚美をよそに、大沢はしゃべり続けた。

 尚美は、うつむきかげんのまま、まともに顔を上げられないでうなずいているのが精一杯だった。大沢の顔を見たくないからではなく、自分の顔を大沢に見られたくなかった。恥ずかしくて、消えてしまいそうだったから。こんなに近くで大沢と会話するのは、初めてだ。

 大沢の周りにはいつも大勢の人がいた。尚美は、その輪の中に入ることなど、到底出来ないと思っていた。そして人気者の大沢を遠目から見るに付け、チャラい男やで、などと、いまいましく思ったりしていたのだった。

「あっ・・・、なんかすいません、僕ばっかり喋ってしまって。笠田先輩、音楽聞いてたんですよね・・・。」

 じゃあ僕もうこれで失礼します。

そう言って、そのまま彼が去ってしまって、もう二度とこんなチャンスが無いような気がしたのだ。

 電車は、近鉄南大阪線を走っている。乗換駅の尺土までは、まだあと少しある。

 行かないで!咄嗟に尚美は、裏返った声で「大沢くん!!」と叫んでしまっていた。

 しまった。気安く「くん」呼びなんてしてしまった。「大沢さん」でなくてはいけないのに。しかも、名前を呼んでみたものの、後に続く話題がない。どうしよう。すると、大沢は、例のまぶしすぎるぐらいの笑顔で、少し照れたように更に話を続けた。

「あ、もうちょっとだけ喋ってても良いですか?すいません。音楽聞いてたのに邪魔してしもて。先輩ってどこの駅で降りるんですか?忍海ですか。そうか、じゃあ尺土で乗り換えですね。僕、尺土に住んでるんですよ。天王寺からちょっと遠い所やから、同じ電車で通勤している人がおって、嬉しいです。」

 大沢は屈託のない笑顔でそう言った。

 私も、嬉しいです。なんて。んなこと言えるかいな。でも、本当に嬉しかった。

 その日から、電車で会うたびに、少しずつ二人は話をするようになる。体中からバリアを張り巡らせていた尚美も、大沢といると、次第に気持ちが緩んでいくのがわかった。

 大沢がそばに来ると、息をすることさえ困難なほど、ガチガチに固まっていた尚美が、彼とうち解けて話せるようになったきっかけは、鉄道の話題である。大沢もまた、かなりの鉄道ファンなのだった。

「阪急の車両は、どの路線も全部上品なマルーン色やから、同じように見えるけども、8000系の方が7000系より角張っていて『電車です』って感じで好きやねん、私は。シンプルを極めた5000系も、ええ顔してんねんな。わかるかなあ、わからへんよね。」

「わかるっ!僕もそう思ってました!丸っぽいより、四角い車両の方が、なんかこう、気持ちええんですよね、上手くいわれへんけど、そう、電車やでー、みたいな感じするんですよ!」

 このように、二人の会話はいつもマニアックで、他人が聞いたら何が「わかるっ」なのかチンプンカンプンな内容ばかりであった。およそ、普通の女子では、JR和歌山線北宇治駅「スイッチバック」の話など、通じる者はいないであろう。

「せやけど、先輩電車の話になるとほんま、いきいきしはりますね」

 そんなに楽しく喋る先輩、会社では見いひんから、と言いたげだった。

 確かに、大沢と居るときの尚美は、とても自然に笑っていた。そんな姿を、会社の他の人間は見たこともないだろう。そして、こうして鉄道について熱く語る大沢の姿も、会社の人間は知らないのだ。誰も知らない大沢を知っている。尚美は、それがとても嬉しかった。

 ある時、大沢は尚美を、弁天町にある交通博物館に行こう、とさそった。尚美は舞い上がった。これは、デートなのではないか?!交通博物館は、一人で何回か行ったことはあった。しかし、男性と二人きりで行く所ではないと思っていたし、まして大沢と!

 私達はひょっとしたら似合いのカップルなのかもしれない。もしかすると、大沢に抱かれる日が来るかもしれない。妄想は暴走する。大沢の長くてまっすぐな指は、女の想像力をかきたてるのだ。

 男の指というのは、性器よりもよっぽど性的に見えることがある。全身が“爽やか”のかたまりみたいな大沢でも、白くスッと伸びたその指だけは、とても艶めかしい。あの指で、身体を愛撫されると、魔法にかかったように、それだけで快感の海にのまれてしまうのではないだろうか。

 そんなことを考えて、尚美は自分の想像の大胆さに、一人で赤面したりするのだった。

 今思えば、どうかしていた。

もう片足は三十路に足を突っ込んでいるような状態で、女子高生じゃあるまいし、いや、今時女子高生でももっと現実を見ているだろう、こんな少女漫画のような夢みたいな妄想を膨らませて。イタイ、痛すぎる、私。本気で、大沢のような人が、自分に振り向いてくれると思っていたのか。

 大沢は、同じ会社の神崎川リカと、付き合っていたのだった。

 リカは、その名前にふさわしい、お人形のような娘だ。大きくてまん丸な目。大きくてまん丸なおっぱい。長いまつげ。長い脚。そんな、持って生まれた財産の価値を自分でもよく分かっていた。ただ、思いっきりブリっ子タイプなのかと言えばそういうわけではなく、大阪人らしく喋りのノリも良い。

 この、関西に多い“一見可愛い芸人タイプ”の女が、尚美は一番嫌いである。このタイプの女は、見た目は可愛くて、喋ると面白い、でも、好きな男の前ではやっぱり弱い私、という「ギャップ三段落ち」を武器とする。

 そして実は誰に対しても分け隔て無く仲良くする、というわけではない。職場で権力のある者にのみ、楽しそうに愛想を振りまくのだ。尚美のような地味な人間には、一切そのキュートな笑顔を向けることはない。むしろ、冷たい態度で挑んでくる。「リカちゃんは、おもろうて可愛くて、ほんまええ子や」そんな声を聞くたび、尚美は密かに、フン、と鼻息を荒くしていた。

 そんなリカと、大沢が付き合っていた。美男美女、とても似合いじゃないか。いつからかは知らない。別に、尚美に知らせる必要もない。その話を知ってまもなく、尚美の営業アシスタントとしての契約期間は切れ、更新されることはなかった。交通博物館の話も、流れてしまった。

 こうして、尚美の勝手な脳内恋愛は、ひっそりと終了した。いや、なにも始まってはいなかったのだから、終了した、という言い方もおかしい。そう、全て一人ずもうだったのだ。


◇ ◇ ◇


 大沢は、涙を流していた。この男は、こんな時まできれいな泣き方をする。なんてずるい男なんだ。だから、きらいなんや。

「あの方が、気になるんですね」ソワランは言った。

「いや、べつに」そう言おうとした尚美に

「知っていますわよ、尚美さん、大沢さんのことずっと見ていらしたんですよね。電車の恋なんて、ロマンチック*」と続けた。

 なんだ、全部わかっているのではないか。何が「気になるんですか?」だ、白々しい。案外性格悪いのかも知れないな、こいつ。そんな憮然とした体の尚美をよそに、ソワランは続けた。

「けど、大沢さんショックでしょうねえ。尚美さんのこと、好きだったんだもの」

 ん?今なんと?好きだったって、誰が、誰を?

「尚美さん、知らなかったのよね。彼、ずっとあなたのこと想ってたみたいよ。でもね、恋って、成就しない方が美しいと思うの、私。彼の心の中には、ずっとキレイなままのあなたが生き続けるのね、ああ、素敵*結ばれなかった恋って、どうしてこんなに美しすぎるのかしら♪」

 ソワランは、たまらない、といった風にはしゃいでいる。

 いや、ちょっと。ちょっと、ちょっと待ってくれ。

「あ、あのさあ、だって大沢君は神崎川さんと付き合ってたんだよ?私のことなんか好きなわけないやろう?」

「そうね、でもね、尚美さんにはわからないかも知れないけれど、男と女って、フクザツなのよ*」

 尚美は、またも侮辱されたような気持ちがした。

 そして、無神経なことをズケズケと言う目の前の女に、いや、自分の人生すべてに、言いしれぬ怒りのようなものがフツフツとわいてきたのだった。


「さて、尚美さん。我々天使の役目は、魂を無事に天国へご案内することです。今から、あなたには俗に言う“成仏”という状態に入っていただくわけですが、その前に、私達天使が行っている、儀式のようなものがあるのです。そ・れ・は・ね、うふふ。なななんと、生前に叶えられなかった願いを、何でも一つだけ、叶えられるのです!どんな人間も、必ずやりのこしたことはありますよね!尚美さんは、海外旅行なんかいかがかしら?鉄道好きのあなただから、オリエント急行の旅なんて良いかもね*なんだか、楽しくなってきましたわ!」

 ソワランは、ことのほかウキウキしていた。毎度この説明をする瞬間が好きなのだろう。悦に入りすぎて、尚美の発する重い空気に気付かないでいる。

 ずどーん、とした低い声で、尚美は質問した。

「・・・あのなー、ほんまに、なんでも1つだけ叶うんかー?」

「もちろん*自慢じゃないけど、私、“さまよえる魂満足度No.1”を誇っておりますの。今までどんな難題も、クリアしてきましたわ。おかげで、神様にはとても信頼されていますのよ」ソワランは得意げだ。

「そうか、そうか、ほんならなあ__」

 一息おいて、尚美はこう続けた。


「大沢君と、セックスしたい」


 その時の、ソワランの顔ときたら、無かった。一瞬で空気は凍り付き、みるみる顔色が青ざめた。信じられない、という表情で、目を見開いている。

「今のは・・・私の気のせいかしら?」

「ふん、気のせいなことあるかい。なんべんでも言うたるわ、うちなあ、めちゃめちゃエッチなことしたいねん!ほんまは好きな男にいっぺん抱かれてみたかったんや!べちょんべちょんになって、ほんまに天国イッたみたいな気持ちになりたいねん!逝く前に、イキたいんじゃ!どや、叶えてくれるんやろなあ?!」

 やり残したことなんて、ありすぎてありすぎて。一番辛いのは、大沢君の気持ち・・・。なんでや。なんで言うてくれへんの。いや違う、私が、なんで行動しいひんかったんや・・・。

 色んな想いが押し寄せ、ここに来て、一気に爆発したのだった。

 満足度No.1、神様からの信頼と実績とやらに、泥をぬってやる。欲望の赴くままに淫れて、私を天国になど誘ったことを、後悔させてやる!

「ああ、そんなことを言い出したのは、尚美さんあなたが初めてよ」

 ソワランは憔悴しきっている。

「へえー。そうなんや。ほんなら皆どんなお願いすんのん?人殺したいとか言われたらどないすんの?」

「天国に行く予定の魂にしか、このサービスは行っておりません!そんなこと言い出す人なんているわけないでしょう!!キーッ!!」

 ソワランは半狂乱で怒り任せに叫んだ。

「この尚美さんの件だって、かなりイレギュラーなんですから。伝えられなかった気持ちを告白したい、というのは何度も過去にあったんですよ。でも・・・。ああ。神様に何と説明したらよいのか。でもこれは儀式として決まっていることですし・・・。だいたい、あなたは知らないのです。セックスは、決して美しいものなんかではありません。もし私が任務を実行しても、あなたが求めるような結果は得られませんよ?」

「それでもええわ。このままやったら私、欲求不満の地縛霊になって、夜な夜なラブホに出没すんで〜」

「もおう、勘弁して下さい・・・。わかりました。では、その願いを叶えましょう。でも、その前に、見ておいていただきたいものがあります。セックスが、どんなに汚くて、そして悲しい行為か、見て頂きたいのです。今から、ある男女が欲望の限り、お互いの身体を貪る様子、実際のサンプルを目の前で見ていただきます。」

 なるほど、幽霊になってしまったので、その場にいても問題ないという訳か。

ソワランの態度はかなり挑戦的である。お前に耐えられるかな?といった感じだ。望むところである。自慢じゃないが、エロサイトの動画はよくチェックしている。何を見ても、ちょっとやそっとじゃ、動じない。なにせ、もう怖い物はない。

 と、思っていたのだが。

 その強気の姿勢は、ものの数分で崩されることになる。「サンプル」として目の前に現れた女性は、リカだったのである。自分のマンションで、誰かを待っている様子だった。

 いやだ、嫌だ!リカの待っている相手、それは彼しかいないのだから!いくらなんでも、大沢とリカの濡れ場なんて、見るに耐えない。そんな尚美の表情を察して、ソワランは言った。

「いいえ。彼女がこれから会うのは、大沢さんではありません」

 ん?それはどういうことだ。

「とにかく見ていなさい」

 玄関のチャイムが鳴り、降りしきる雨の中、リカの部屋のドアを開けたのは、大沢ではなかった。

「ごめんごめん、リカちゃん、仕事遅くなっちゃった・・・」

「ふん。気安くリカちゃんって呼ばんとってって言うてるやろが。あと、雨のしずく落ちるから、部屋はいる前にちゃんとタオルで拭いてや。あんた、ほんまにどんくさいなあ」

「うん、ごめんな、リカちゃん、じゃなかった、神崎川さん。あの、怒らんといて、機嫌なおして、ほんまごめん。今から僕、神崎川さんのためにご飯作るから。ほら、新鮮な頭付きのサンマ買ってきたから」

 いかにも軽蔑しきった感じを全面に押しだしながら、リカはその男をあしらっていた。

 普段から意地悪なリカの一面も知っている尚美ではあったが、今のリカは、そんな尚美も見たことがないような刺々しさがある。まさか、この険悪なムードの中、この男とこれからエッチするのだろうか。それから、この男は誰なのか知らないが、尚美の浮気相手としてはレベルが低すぎるんじゃないか。どう見ても大沢の方が100倍魅力的だ。

 この、全身から出ている卑屈そうな、相手の顔色を始終うかがうような感じが、自分と似ているようで、尚美は不快に思えたのだった。

 そうして、男はリカの機嫌を必死で盛り上げようとしながら、キッチンに立っていそいそと料理をし始めた。魚をさばく手際は、なかなかの腕前である。

 リカはその間一切手伝おうともせず、偉そうにふんぞり返ってテレビを眺めていた。そうして二人は、料理をもくもくと食べた。

 そしてまともな会話もなく、突然男がリカに覆い被さった。


◇ ◇ ◇


 この男との関係を切ることができないまま、もうどれぐらいになるだろう。哀れな男だと思う。結局私の自慰行為の手伝いをしにきてるようなものなのだから。

 こいつは、私の奴隷なのだ。私に嫌われないように、何でも言うことを聞く。料理も作るし、掃除も洗濯もする。私が明日会社に着ていくブラウスに、アイロンまであてる。見ていてイライラするほど、愚鈍で従順なやつ。

 しかし、彼の性的な嗜好は、限りなくSであった。

 なぜ、いつも弱々しいこの男が、セックスになるとこんなにも上手く私を征服してしまえるのか、毎回不思議で仕方ない。口を開けばじめじめと、愚痴をたれるその女々しいいつもの口調とは、完全に別人格になる。

「おら、服脱げよ、お前もう濡れとるやないか。すけべやなあ、リカは」

 そう言って、無理矢理乱暴に、されればされるほど、私の身体は痺れた。

「お前は、俺の、何や?言うてみい?」

「あっ、あっ、どれい、奴隷ですう」

「そやな、よう言えたな、ほんまいやらしいな、リカは。おら、舐めや」

 男に奉仕するのは、あまり好きではない。しかし、同じ「舐める」という行為でも、舐めて下さいと懇願されるより、力づくで口に突っ込みながら「舐めろ」と命令されると、百倍感じるのだ。

「ようし、上手にできたな、ほんならこれ、ご褒美や」

「んっ、ああんっ」

 身体を貫きながら、何度も男はリカに問う。

「おまえは、おれの、なん、や?」

「あんっ、どれい、ど、れ、い、奴隷ですぅんっ」

「そうや、お前は、俺のおもちゃなんやで・・・」

 この男にだけ、軽蔑しきった者にだけ見せられる、本当の自分。変態のリカ。愛なんかこれっぽっちも存在しないからこそ、ここまで自分をさらけ出せる。どこまでも貪欲に性をむさぼることができる。よく、本当の自分を見せられる相手こそが、最高のパートナーだというが、私はそう思わない。

 私達は、汗だくになって、チープな成人漫画で見たような台詞をささやき合いながら、お互いの心に問う。

 本当に、奴隷なのは、どっち?本当に、おもちゃなのは、どっち?


「この前の日曜、会ってたんやろ?彼氏さんと・・・。そうか。やっぱり。僕電話してんけど出てくれんだから。」

 セックスが終われば、また一人称は「僕」に戻っている。

「ふん、わかってるんやったら電話かけてこんといてや。迷惑やねんて、ほんま。」

「・・・ごめん。」男は苦しそうにつぶやいた。

「なあ、やったんやろ、えっちしてんやろ?」

「はあ?何でそんなこときくんよ。あんた私のこと好きなんやろ?そんなんきいて嫌じゃないん?」

 リカはさもめんどくさい、というように頭をボリボリ掻きながらそう言った。こういう時の彼女は、本人も知らないような憎たらしい表情をしている。この顔を知っているのは目の前の男だけだ。

「当たり前や、聞いたら、発狂しそうなほど苦しいよ。でも、そうなんやけど・・・すごい嫌でたまらんねんけど、知りたくないけど、知りたいんよ。」と呻いた。

 その心理は、わかるような気がした。私は詳しく聞かせてやることにした。其れを聞いて男は、何とも言えない押し殺したような声でああ・・・とつぶやくのだった。 

 男は、いつかリカが本当に僕のことを好きになってくれる日まで、待つよ、と言う。

 毎度毎度、セックスが終わるたびにささやかれる愛の言葉が、リカは心底面倒だった。快楽だけでよいのだ。感情は、邪魔。いちいち、「愛してる」だの「付き合って欲しい」果ては「結婚したい」などと言ってくるのがうっとうしくてしかたない。リカは鼻でせせら笑いながら言うのだった。

「私の彼氏はね、めっちゃ頭良くて、かっこええし、お金もあるんよ。あんた貯金いくらあるわけ?結婚とか、お金貯めてから物をいいや」

 完全に、セックスをしているときと、していないときでは役割が逆になる。

 だから悟られてはいけない。

 この男に、その存在が、実は脅威であるということを。私の秘密の部分を知りすぎている男。

 本当に、奴隷なのは、どっち?

 外の雨音は、次第に強さを増してゆく。


◇ ◇ ◇


 ヒュゴー、ヒュゴー。ヒュー、ゴー。

 これは雨風だろうか。先ほどからずっと、風の吹くような、なんだかゾッとする音が聞こえる。

「尚美さんにもわかりますか?この悲しい音が。ぽっかりと穴があいて、寂しい人間の心の中に吹きすさぶ風の音・・・。優しい尚美さんには、わかるのですね。霊体になると、こうして人間の心の冷たい風を、強く受け止められるようになるんです。不幸な人に、霊が取り憑くのは、そのせいですね。悲しみの波長を、キャッチして同調してしまうんです。実は、生前優しかった人ほど、その傾向が強いですわ」

 そうか。やはり、この音はリカの寂しい心をすり抜ける風の音だったのか。なんとなく、そんな気はした。だってリカは、あんなに全てに恵まれているようなリカは、全然幸せそうではないのだから。

 身体を重ねれば重ねるほどに強くなる空しさ。なぜ、そんな思いを背負ってまで、こんな行為をするのか。性的興奮が大きい分、我に返った時の、急降下の勢いも増す。繰り返す自己嫌悪。なぜリカはそんなことをするのだろう。それは、一番自分自身に問いたいのかもしれない。

 ただひとつ確かなのは、リカも、誰にもわからないような悲しさを背負っているということだ。

「どうですか。これでも、セックスがしたいですか」

 確かに、今見た光景は、余りにも強烈であった。色んな意味でやはり汚かったし、ソワランがしきりにセックスを美しくないというのも、わかる気がした。しかし・・・。

「二人を見て、おわかり頂けたはずです。それがどんなに、卑しい行為であるということが」

「そうやね。うん、神崎川さんの行動は、汚らわしいのかもね。大沢君と付き合っておきながら、かげでこんなことしてるのも許されへん。でもな・・・。」

「でも?」

「神崎川さんなりの、何か理由があったのかもしれん、とも思ってん。そんな深い理屈なんかなくて、単に気持ちよくなりたかっただけなんかもしれん。でも、実際あの子の心は、悲しさで満ちてた。あんなに虚しくなるのに、なんでそれがわかってて、同じことやってまうんかな、て。一方的にそれが良いか悪いかなんて、私達にはわからんのちゃうかなあ、って思ってん。彼女の気持ちや悲しみなんか、私にはわからんよ。わからんけどさ、でも彼女、すごく辛そうや」

「そうね。だからセックスなんかしなければ良かったのよ」

「そうなのかもな。でも、よけい知りたくなった。なんでそんな気持ちになるのわかってて、それでも、したくなるのか。私、知りたい」

 その言葉を聞いて、ソワランも諦めたのだった。


◇ ◇ ◇


 その日も、相変わらずの雨だった。このところ、ずっとこんな天気が続いている。そして、大沢啓太の心の中も、ここ数日どしゃ降り模様だ。

 数日前、好きだった女性が亡くなった。

 啓太の祖父母は共に今も健在だったし、葬式に出席したこともなかった。人の死を間近で見るのが初めてだった。それが、よりによって笠田尚美だなんて。

 笠田尚美に対する、周囲の人間の評価は、“おとなしい、何を考えているのかわからない”などで、僕の彼女のリカなんかはそこへ“地味で、暗い”という、ネガティブな形容詞をさらに付け加える。

 確かに、笠田さんはとても恥ずかしがり屋のようだ。しかし、きちんと話してみると、とてもユーモアがあり、会話が上手なのが伝わってくる。控えめながら、常に的確で的を射た意見を述べる。ちょっと毒が効いているのもポイントだ。あとは、鉄道に関する知識の広さなんかも、個人的には好印象。

 多分彼女は、僕のことが、好きだったと思う。

 気持ちを薄々感づいていて、リカと付き合った。笠田さんを、そういう対象として、見られなかったから。いや、違うな。リカのおっぱいが大きかったからだ。

 しばらく、リカの身体に夢中になっている間に、彼女は会社を辞めていた。それっきり、もう笠田さんのことは忘れゆくと思っていたのに__。

 どういうわけか、いつまで経っても彼女のことが頭に浮かぶ。今どうしてるかな、会いたいな。もう一度、この時間の近鉄線の、この時間に乗ればひょっこり会えるかな、なんて。そんなことを考えていた矢先、訃報を耳にしてしまったのだった。

 こんな日は、飲まなきゃやってられない。

学生の頃は、よく無茶苦茶な飲み方をしていたが、社会人になりすっかり大人しくなっていた。でも、箍が外れたように、今日のペースは半端ではなかった。

 僕の飲み方はちょっと変わっている。カラオケボックスに一人で行くのだ。そして、アルコール飲み放題コースにして、ひたすら“チャイナブルー”を注文しまくるのである。酒を楽しむ気などない。カラオケ店のドリンク特有の、安っぽい香料にまみれた、チャイナブルーでなくてはいけない。理性も何もかも吹き飛ぶまで、浴びるほど飲むには、もってこいの場所と酒だ。

 正体不明の液体は、様々な感覚を麻痺させる。今夜の僕は、血液が真っ青に変色しているだろう。

 どのルートでここに来たのかは覚えていないし、どれほど眠っていたのかも定かではないが、朦朧とした意識で目を覚ますと、いつものビジネスホテルの一室で、眠っていたらしかった。

 最近は、このホテルをよく利用する。奈良の実家から大阪まで通勤しているので、ちょっと残業するとすぐに終電を逃すのだ。前まではリカのマンションに泊まりに行ってたが、今はどうもそういう気になれないでいる。

 頭が痛い。ガンガンする。もう少し、眠ろうか・・・


◇ ◇ ◇


 さて。どうしたものか。

 尚美は、いざ実行に移すとなると、ビビっていた。

 こうして今夜だけ、夜明けまでの限定で、肉体を復活させてもらったは良いものの、このまま大沢の前に「やあ」と現れて、それでセックスしようって。私が逆の立場なら、絶対イヤである。勃つものも、勃たんわな。

 ソワラン曰く、今の私の状態は「幽霊なのではなく、完全に人間としての肉体を一時的に復活させた状態」らしいが、そんなの大沢にしてみりゃ、バケモノに違いないよなあ。さあ、どうやって登場しよう、そのとっかかりを探すだけで、一晩終わってしまうかもしれない・・・。

 そんな焦りで、オロオロしていた尚美にとって、この晩、大沢が酩酊状態でビジネスホテルに泊まるという展開は、まさに神のご加護に他ならなかった。

 よっしゃ、これなら、なんとか夢うつつのまま、自然に良いムードになれる!待っててや、今行くさかいにな〜!


◇ ◇ ◇


 うつらうつらしていた大沢の視界に、ぼんやりと人の影が現れた。誰や?勝手に部屋入ってきよってからに。あいたた、頭ガンガンする。

 その輪郭は、やがてハッキリとしたものになる。

 見覚えのある、愛嬌のある笑顔。あんまり人前で笑わないけど、笑うと八重歯が可愛い・・・

 あっ、笠田さん!

「笠田さん!先輩!!せんぱーい、うわーん」

 大沢は、一瞬驚き、そして、次の瞬間大きな声でわんわん泣き出したのだった。

 尚美は、なるべく驚かせないよう、細心の注意を払って“出た”つもりだったのだが、やはり怖かったのだろうか。まさか、こんなに泣かれるとは。

「どうしよう、あのね、ごめんね、大沢君、びっくりさせてもたね」

 尚美は必死でなだめた。すると、大沢は泣きじゃくりながら、答えた。

「ほんまですよー、先輩ぃ。びっくりしましたよー。なんで死んでもうたんですか。なんで突然おらんようになるんですか。なんでや、なんでや、うわーん」

 どうやら、びっくりした対象は、目の前の尚美ではなく、彼女の死、そのものらしい。

「先輩、僕、先輩のこと好きやったんです。ずっと伝えたくて。うぐっ、ひくっ。でも、こうして夢に出てきてくれて嬉しいです、ひっく」

「あーあ、もう、泣きなや。うわ、酒くさっ。なんぼほど飲んでんな。あんまり無茶したらあかんよ」

「うう。先輩優しい」

 まさか、ここまで泣き上戸だったとは。やれやれ、という感じで、尚美はそっと大沢の頭を撫でた。髪をさわるのも、初めてだ。でも今は、ドキドキするというより、駄々っ子をたしなめるような気持ちである。

 しばらく大人しく頭を撫でられていた大沢は、急に、尚美の身体を強く抱き寄せた。

「び、びっくりした!なんやねん」

「ずっと、こうしたかったんです。先輩を、ぎゅってしたかったんです」

 尚美は、もう、それだけで充分だった。そして、二人はキスをした。

「ああ、先輩、好き」

「私も、好き」

 やっと言えた。言ってしまった。何かが壊れるのが怖くて、ずっと言えなかった言葉。

 大沢は、尚美に再びキスをした。今度は、舌が入ってくる。

「変なの、僕、もうキスだけでこんなに気持ちよくなってしもてる・・・」

 そう言う大沢のその部分は、硬く大きくなっているのがズボンの上からでもわかった。

「ここにも、キスしますね」

そう言って、大沢の唇が首筋から乳房に這う。

「あっ・・・」

 尚美は、自分で、自分の発した甘い声に内心驚いた。普段から低い声の尚美は、きっと自分はエッチをすることになっても、あえぎ声など出せないだろう、と思っていたのだ。

 しかし、女の身体というのは不思議だ。このスイッチを押せばこうなる、と決まっていたかのような、反応をする。そして、憧れていたあの指で、大沢は尚美の肉体をとろかしてゆく。

 尚美は、夢中でその愛撫に反応した。大沢の身体を、尚美の全ての皮膚で、全神経で、感じた。

「僕、夢でエッチするのは、ほんまに好きな人だけなんですよ。中一ん時から」

「知らんがな、そんなルール」

「大丈夫ですよ、先輩。怖くないから。前にも、夢で先輩としたことあるし」

「えっ、ちょっと、やめてよ勝手に出演させんといて」

「だったら先輩も、勝手に人の夢にでてこんといて下さいね」

 そう言って、顔を見合わせ、二人は笑った。セックスって、こんなふうに笑い合ったりするもんなんだなあ。眉間にシワを寄せてアンアン言うだけやないんや。尚美はそう思った。そんな尚美に、急に真面目な顔になって大沢が言う。

「余計なこと考えられんぐらい、気持ちよくしてあげます」

 さっきよりも強引に、乳房をまさぐる大きな手。長い指。尚美は、彼の“攻撃”に負けないように、必死で大沢の背中にしがみついた。大沢の指は、尚美の最も敏感な部分に伸びてゆく。

 恥ずかしい。ちょっと、こわい。でも、気持ちいい。先ほどの荒々しさとは違う、繊細な動きで、その部分を、優しくなで上げる。

「やっ・・・あん」

とても恥ずかしい。このポーズも、こんな声を出す自分も。でも、気持ちいい。

「痛くない?」

「うん」

「じゃあ、いい?」

 大沢の目を見つめて、尚美が、うなずいた。

 ゆっくりと、大沢が尚美の中に入ってゆく。

「痛いっ」

「ごめん、大丈夫ですか?」

「いいの、続けて」

 かすれた息で、尚美は答えた。再び、ゆっくり腰を動かし始める大沢。

 しかし、痛い。いたい、いったーい!!

 痛みがあるとは聞いていたが、まさかこれほどまでとは。とてもじゃないけど、耐えられない。挿入まではあれほど気持ちよかったのに、今じゃこの苦痛。耐えろ、耐えるンや、尚美。ここで逃げたら生き返った意味ないやんか・・・。

「あの、ほんまに先輩大丈夫ですか?」

 尚美の様子に、心配になった大沢が、少し身を離した。

「う、うん。ごめんな。へへ、おかしいな、前は大沢君の夢の中でうまいことでけたんやけどな」

「ごめんなさい、僕も、なんか・・・」

 この状態で中断するというのは、非常にお互い気まずいものであった。しかし、一旦こうなると、なかなか空気を戻すのも難しい。

 もう、いいかな。尚美は、そう思った。

 触れたかった髪、唇、指を、今夜だけでも、自分のものにできた。それだけで、尚美にとってはもう充分幸せだったのだ。

「なあ、水飲む?あ、お菓子あるやん、これ食べよう」

 尚美は、机の上にあった飲み物とスナック菓子をベッドまで運び、大沢に渡した。彼はまだ、うなだれていた。

「ボク、下手くそなんやろか」

「ちゃうよ、すごく気持ちよかった。ほんまやで。でも、私処女やってん」

 それを聞くと、大沢は驚いて尚美を見返した。

「あっ、そうなん?!今夜はそういう設定なんですか?!なんだ、それ早う言って下さいよー」

 設定もなにも、実際はそうだったのだ。まあでも、良いではないか。

「うん、とにかく、そういうこと。でも、すごく幸せやったし、楽しかったよ。ありがとう。お菓子でも開けようか」

 尚美がお菓子の袋を開けた瞬間、大沢が横から、スッと手を伸ばし、貸してみ、と言って袋を取り上げた。そして、次の瞬間、ニィっと笑って、その中身を布団の上にぶちまけたのだ。

「ちょっと!」

 すると、大沢は、子供みたいな顔をしてこう言った。

「犬ごっこ。こんなん、家で出来へんで」

 四つんばいになって手を使わずに、散らばったお菓子を食べる大沢。

「犬みたいやろ、今から、犬ごっこな」

 大沢の提案は、とても滑稽でバカみたいだったけれど、尚美には、この上なく楽しい遊びに思えた。顔を見合わせて、二人は笑う。ばりぼり。犬になって、お菓子をほおばる。ベッドの上は、お菓子の粉だらけだ。大沢は、クンクン、と言いながら、鼻先を、尚美の太ももにおしつける。

「こうするのが、犬の挨拶なんですよ」

「やめてよう、そんなとこ、におわんといて」

「先輩いいにおいです。すごくいいにおい」

 そうして、もつれあいながら、二人は互いの身体を舐め合った。愛撫する、というよりは味わうように。人間は、肌の部位によって、味が違うということを、尚美は知った。薄い産毛の生えた背中、耳たぶ、あそこ。全部それぞれの味がある。次第に、尚美の身体は、熱を帯び始めた。

「僕、またエッチな気持ちになってきました・・・」

「私も」

 尚美は、喉の奥からわき上がる、強い欲情を抑えられないでいた。先ほどよりも、もっと大沢が欲しい、死ぬほど欲しい。もう笑う余裕なんか無かった。呼吸が、乱れる。身体の中で、何かがずっとリズムを打っている。尚美は、お尻を大沢の隆起した部分に押しつけた。私の身体の凸凹部分は、すべて大沢のためにカスタマイズされているみたいだ、尚美は思った。再び二人は、結ばれた。

 そして、大沢が尚美の中で果てると同時に、夜明けが来た。さようなら、大沢君。


 尚美は、天国行きの列車に戻っていた。

 たった一晩だけの経験。これだけで、セックスがどんなものか、なんて理解したつもりはない。

 でも、人生で“初めて”のセックスは、皆平等に、1回きりなのだ。みんな、その“初めて”を忘れながら生きている。

 尚美にはその初めてが、最後でもあり、だからこそ、気付いた大切なことがあるのだった。


「おかえりなさいませ、尚美さん。いかがでしたか」

「今さらかも知れないけど、やっぱり、願いを叶えて良かったと思う。今まで、一人で色々な場所に行って、経験も積んで知らない世界を見てきたつもりになってたんよ、私。でも、人と関わることでしか、見られない新しい世界があったんやね。もちろん色んな人間がおるから、それなりに、しんどい世界もぎょうさんあるわな。でも、それでも、誰かとの出会いを通して得られる喜びって、それだけで生きる強さになるんやと思った」

「そうですか・・・。私も、尚美さんとの出会いの中で、新たな世界を知りましたわ。ありがとう。」

 ソワランは、少し涙ぐんでいた。

「私も、ありがとう」

「さ、いきましょう」

 30代、無職、処女。崖っぷちっていうか、もうすでに崖の下の下、どん底。

嫌いな言葉、女子力。そんな尚美が、あれこれ怖くて、踏み出せないでいた一歩先の風景は、思っていたより明るかったのかもしれない。


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