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「閉店のお知らせ
当店 井上生花店は、
当年 二月五日を以て閉店いたします。
長年のご愛顧ありがとうございました 店主」
一月の末に、店先に短い文章が貼られた。
僕の荷物が入った段ボール箱が突き返されたのは、二月四日の朝のことだった。
だけど、彼女の居間から僕が削除されるのは、どうしても嫌だった。僕はまだ、彼女の箱庭について、そこにあるはずの世界でいちばん、なによりもまっすぐな白樺について、何も知ることができていなかったからだ。
「それまで、って言ったはずだよ」
こちらには目もくれず、いつものすばやい手つきで、ぱちん、ぱちんと、彼女はばらの花の茎を切っている。それは、この店最後のばらだった。
「どうして、それまでなんです」
「店が閉まるだけで、あなたがいなくなるわけじゃない。あなたは僕のことが嫌いなのか」
彼女はまっすぐな足を肩幅に開き、安定した姿勢で寸分狂わず仕事を続けている。いつもの、別の時間軸が彼女のまわりにはたらいている。ぱちん。ぱちん。
彼女は、じっとだまっている。
「嫌いなのか」
「別に、最初からどうとも思っていない」
ぱちん、ぱちん。
「嫌い、なんだろう」
「どうとも思っていないだけだよ」
ぱちん。ぱちん。
「店を閉めることも、それまで、ということも、<わたし>が、自分でそう決めた。あらかじめ、決まっていたこと」
ぱちん、ぱちん、
ぱちん。
僕は、震える手でカウンターのうえのばらの花のバケツをぐいと引き寄せて、思い切りひっくり返した。赫、白、黄色、オレンジ。色とりどりに不気味にひかるばらの花が、バケツの水につつ、と流されて、カウンター、床まで散らばっていく。
がらん、と大きな音をたてて、転がったバケツが床に落ちた。
「ど…どうして、あなたはいつもそうなんだ」
「…どうして、他人の気持ちにそんなに無頓着になれる。どうして、僕の気持ちにそんなに無頓着になれる」
声も震えていた。
「…どうして、いつもそうやって自分を守って僕の気持ちをわかろうとしない。僕が何を考えているか、知ろうともしない」
「それに、意味がないと思うから」
「…さっきからきみは、自分のことばかりだね。少しおとなになった方がいい」
「僕だって、大人だ」
どうして、彼女と僕は融和できないんだろう?
そのとき、彼女が一瞬、右耳のピアスに触れるのを、僕は決して見逃さなかった。二十歳のとき、右耳にだけ開けたピアス。その意味が、その秘密が、彼女の箱庭のどこかに、絶対あるはずだ。
「過去に、なにがあったんですか」
「何もないわ」
「なにがあったんですか」
「ねえ」
「むりやり勘ぐらないで。ぐるりで起きてるすべてのことが、自分のためだと思わないで。そんなの傲慢で、勝手に傷つくだけで、まったくもって意味がないことだよ」
僕はそのときは、わからなかった。
ぱちん、ぱちん。
散らばったばらの花とこぼれた水、転がったバケツはもう何事もなかったかのように片付けられ、彼女は作業を再開していた。
ぱちんぱちんぱちんぱちん。
彼女の世界の時間軸が、いままでより早い。
「なぜ、<そう決めた>のか、教えてください」
「…いいかげん不愉快だよ」
「教えてください」
「とにかく、すべて明日でおしまい。何を言おうとそれは、ずっと前から決まってること」
彼女の背骨は、今まで僕が見た中でもいちばんに、まっすぐだった。
ぱちんぱちんぱちんぱちん。
それは、僕の中で小さな火花がはじける音のようにも聞こえた。
その晩は眠れずに朝になって、明け方、僕は台所のナイフを持って誰もいない街角へ立っていた。彼女の中にある白樺の木を、僕は自分のものにしたい。<死>が、僕の味方であるような気がした。いつか僕のこころのなかで葉蔵を蹴っていた誰かは、もういないようだった。
その日は東京にはめずらしく、吹雪が吹いていた。吹雪のかけらが頬に当たる感触だけした。冷たさ、痛みは、感じなかった。
ぱちん。
火花がはじけて、僕は駆け出していた。ぱちん。僕はちらつく吹雪にゆれて、はぜる。ぱちん。横断歩道をわたって、ガソリンスタンドの角を曲がる。ぱちん。左に曲がって三軒目。ぱちん。
周りの景色が、ゆっくりぼやけていく。ほんとうの視界は網膜にだけ映しとられて、それがまるで脳に伝わっていかない。僕の主観の世界は、「僕」だけがいる「僕」の世界は、まるで世の中すべてを呑み込むかのように大きい。クジラが大きな口を開けて、プランクトンとともに大量の海水を呑み込むときのように、周りの世の中がぐわ、と僕の世界に吸い込まれていく。自分の生い立ち。<母 / かあさん>。<小学校の、中学校の、高校の、大学の友だち、女の子たち / きみ>。<「井上生花店」の彼女 / あなた>。その人々の表情、ことば、行動。ちいさいころ無理やり通わされた学習塾。水泳教室。ピアノ教室。母に怒られて、締め出されたときにいつも降っていた大雨。いままで読んだ本。クラブ活動をさぼって見ていたアリの行列。モリという、太った黒い猫。デンドロビウム、サンダーソニア、ブーゲンビリア。キーパーに入れられた、つぼみのままで開花を待つ切り花たち。つまらない大学のシステム。はじめてセックスをした雨の日。婚礼と、生命の美しい入れ子構造と、まだ見ぬ<死>と、「バカーっ」と言いながら葉蔵を蹴る人。どくだみを持った女の子と白樺林。そして、僕が目指す彼女の箱庭にあるはずの、世界で一番まっすぐで強い白樺の木。世の中すべてが、すべて僕のためにすべてつながっていき、僕のために意味があるものになっていく。
ああ、「僕」は「僕」のことをあまりに考えすぎているのだった。こんなの、彼女の言う通りだ。そんな弱くふにゃふにゃで未熟な僕をいま、僕はこれ以上できないほどに恥じ、嫌っているよ。だけど、僕自身では、僕が僕の世界にすべてを巻き込んでいくことを止めることができない。僕は、滝つぼへと落ちていくみたいだ。どうしても、どうしても、歩みを止めることができない。
そろそろ、バス停の向こうに、「井上生花店」の古びて蔦のからまったトタンの看板が、見えてくるはずだった。
ところが、昨日までそこにあった店が、今はもう跡形もなくなっている。
今はただ、真っ白な地面の真ん中に一本、
白樺の木がまっすぐ立っていた。
うそみたいだ。
こんなに狭い土地だったのか。
白樺は、この鋭く刺さるような吹雪にも微動だにせず、細く、白く、まっすぐ、立っていた。
ああ、僕はこんどこそほんとうにたどり着いた、と思った。
ずっと心の中で思い描いていた彼女の箱庭が、そこにあった。彼女は、まだここにいる。
白樺の樹皮をそっと指でなぞってみる。そして、震える手で力いっぱい、幹にナイフを突き立ててみる。
さくっ、
と、音がして、終わり。そのはずだった。
だけど、何度刺そうとしても、白樺の樹皮には、かすり傷すらつかなかった。どうしてだろう。箱庭は無音のままだった。うそみたいだ。
呆然と立ち尽くしていると、白樺の木の向こうに黒く、丸い影が見えた。影は、静かにしと、しとと、と小股でこちらへ駆け寄ってきた。赤い首輪をつけていて、ネームプレートにははげかけたサインペンの文字で「モリ」。
ああ、モリだ! 僕のかわいいモリ! あれからずいぶん探していたというのに。今までいったいどこへ行っていたの。僕は、その太った黒い猫を抱きあげた。なめらかな短い毛の感触は、昔と変わっていなかった。だけど、僕がおおきくなったのか、あんなに重たかったモリは、まるで空気の入った人形みたいに軽かった。僕は彼にゆっくり頬を近づけてほおずりし、少し考えてから、持っているナイフで一突きにした。
モリは、何も言わずそのまま、ぱちん、とシャボン玉みたいにはじけて、白い世界に同化した。モリはもうすでに僕のものだった。
僕は、やっぱりな、と思い、少し悲しくなって、そして、顔をあげた。
僕はもういちど、白樺の木にナイフを突き立てた。いまのところの僕の理論上、それができないはずがなかった。どうしても、彼女の白樺の木が欲しい。
何度も何度も何度も、
近くから、
遠くから、
縦に、
横に。
弱く、
強く。
だけど、なにをしても、小枝の一本、葉の一枚すら、もぎ取ることができない。樹皮の一層すら、はぎとることができない。箱庭は、僕の存在をまるで認識していないみたいだった。わからない。僕は幹を見上げて呆然と立ち尽くした。
そのとき、雪の中から小さなひかりが浮かんできて、
すっ、と、
ゆっくり、強くまたたいた。それは、深い深い海の底からもれ来るような、ちからに満ちあふれたひかりだった。ひかりは、しばらくひらひら、と、河の中ですすがれる薄いきれみたいにそよいで、だんだん縮んでいった。縮んでいったひかりは、やがてひとつにまとまって、ちいさなちいさなひかる石になった。そして、ひかる石は、ひし、と、まるで夢からさめたように世界の万有引力に導かれ、そして、僕の足元の雪の上にぽつん、と落ちた。
ひかる石を見た。それは、彼女がいつもつけていた、右耳のピアスの石だった。
そのとき、わかった。
それまで。
…そうか、
…そうか、これが、これが、
<死>か。
僕が二十歳ではじめて見た<死>は、思うよりずっと截然として、不自由だった。それは、敵でも、味方でもなく、ただそこに、切り立ってそびえたつ。話しかけても、触っても、名前を呼んでも、まして、泣いても、怒っても、怒鳴っても、叫んでも、抗うことはできない。
<死>は、若すぎる僕のナイフで、どうこうできるものではなかった。
僕は、ひとりだった。
僕は、彼女の白樺の木を手に入れることを、ついにあきらめた。そして、ナイフを雪の上に置いて、その庭を後にした。そして、履いていた靴を脱ぎ棄てて裸足になった。大学にはいったときに、母に買ってもらった靴だった。積もった雪がぐしゅ、ぐしゅ、と足の裏の皮膚を痛めつける。
世界は、僕が思っていたよりずっと真っ白で、小さくて、つまらない。
<死>にたい、とも思ったけれど、意味がない。僕はそれより苦しまなければならない。そしてその苦しみを、僕は叫び続けねばならない。僕の声は、彼女には届くことはない。それどころか、この世の誰にも届くことはない。僕の声は、真っ白な世界にこだまして僕に何度も何度も還るのみだ。僕の真っ白な世界には、誰もいない。そこには、一番ちいさくて、弱く、ふにゃふにゃに曲がった白樺の苗木が、一本あるだけだ。気が狂いそうだ。でも、僕は叫びつづけることになるだろう。僕の世界で一番ちいさくて、弱く、ふにゃふにゃに曲がった白樺の木に、僕は僕自身の声を聞かせる。
僕の世界には、はじめから誰もいなかったのだ。僕は彼女を、無理やりここに引き込もうとしていて、たしかにそれは、不愉快なことだったのかもしれない。
僕もまた、一つのちいさな箱庭に過ぎなかったのだ。
彼女の記憶が脳裏に、波のように寄せては返している。
人はみんな、ひとり。
生まれるときもひとり、死ぬ時もひとり。
だれと友だちになっても、だれを好きになっても、
誰かの一部ではない、
ひとり。
この世の中は、どうやらそんな小さな箱庭たちの集合体であるようだった。
僕は、自分の足をできる限りでまっすぐ伸ばして、真っ白でつまらない世界を歩き始めた。そして一歩、一歩、進むごとに数を数えていった。いち、に、さん。
…ななひゃくにじゅうなな。ななひゃくにじゅう、きゅう。
僕の頭の中でとんでしまった七百二十七と七百二十九のあいだには、<死>が、満ちている。
…きゅうひゃくきゅうじゅうきゅう。せん。
吹雪のちいさな粒が頬に当たって冷たい。見上げると、電柱の住所表示が見えた。
東京都町田市かすみ町七―二八。
明け方だった。街灯の蛍光灯が切れかけて、不規則にぱっ、ぱっと瞬いた。美しい。<生>きている、と思った。
ふいに携帯電話が鳴って、名前を見ると母であった。この時間にいったい何だろう。少し考えてから、電源ボタンを長押しして着信を切った。そして、「いったい何だろう」と考えたことを、無理に忘れることにした。僕の世界は縮小し、ちいさな箱庭になる。入れ子構造の外側の壁が、しだいに遠ざかりゆくのが見えた。
…せんいち、せんに…
高台に立った。住宅街が足下に見え、一戸建ての家がひしめいている。このひとつひとつに、たくさんの箱庭たちが住んでいる。考えただけで、気が遠くなりそうだ。
青柳光太郎はただ、自分の叫びを聞きながら歩き続け、そして住宅街へと降りていくことにした。その後の行き先なんて、わかるわけがなかった。
白樺 tsunenaram @ytr_kiku
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