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八月の間も、働いてはときどき彼女の居間に来ていた。一緒に食事をしたり、狭いベランダでふたり、線香花火をした日もあった。そして雨が降る日は、いつもきまってセックスをした。何度か誘ってはみたものの、彼女はなぜだか僕のアパートメントには来たがらなかった。

段ボール箱を一つ抱えて、僕が店の二階の彼女の居間に住み始めたのは、夏の終わりだった。彼女のがらんどうの居間に、僕の荷物がつねに置かれているというだけで、僕は彼女の箱庭の住人になれたような気がした。僕の世界のなかの、彼女の箱庭のなかにある、僕の世界。その僕の世界のなかにも、また彼女の箱庭があって、そのなかにも、僕の世界があって…。二つの世界が融和し、それ自体が無限の入れ子構造になることで、僕たちは普段決して触れることの許されない、<限りのないもの>を自らのうちに作り出すことができる。こんな美しい仕組みが、この世の中には存在している。僕は知らなかった。

彼女は僕の世界のなかではもう勝手に、僕から生まれてきて、僕へと還ってゆく存在となっていた。けれど、


「アオヤギ君、ほんと、へんな子」

彼女はそんな美しい仕組みにもまるで無頓着だった。


「年下なんだから、奢らなくていいのに」

こじゃれたフランス料理店からの帰り道、ほろ酔いで彼女はさらに無頓着に話す。

せつない。

せつなさに圧されるようにして、僕は彼女の歓心を買おうとすることに熱中するようになっていた。女性を連れていくのにおあつらえ向きの店なら、だいたい知っていたし、事前に予約すること、相手が席を外しているあいだに、勘定を済ませておくことがマナーというのも織り込み済みだ。


「だいたい一緒に住んでるんだし、わざわざ外食しなくても」

この人の気持ちは、いくら考えてもわからない。いくらこじゃれた店でも、彼女はいつも通りの服に、スニーカーだ。化粧っけもない。彼女のために磨いてきた一番上等な革靴が、さみしい。

だけど、どんなにさみしくても、せつなくても、傷ついても、僕は知りたかった。障害物だらけの世の中で、彼女が無頓着にまっすぐ立っていられる理由や、それに至る経緯を知りたかった。彼女の箱庭に、僕は入りたかった。

そしていつか、僕も白樺の木になるのだ。



このころには、母からかかってくる電話にはたまに出ていたが、もう僕から母に電話をかけることはなくなっていた。


いつか、彼女を母に会わせるときがくるといい。

そんな考えが頭をよぎって、僕は自分の厚かましさを恥じた。




「婚礼、少し見ていきませんか」

祝日の水曜日、彼女はいつもの料亭でのフラワー・アレンジメントを終え、支配人の誘いをいつものように断ろうとしていた。

二十九歳、妙齢の彼女に、結婚願望、などというものはないのだろうか。結婚願望、結婚願望。そんな言葉、思い浮かべてみるだけでも恥ずかしく、頭に血が上ってくる。


婚礼は、いろいろな人があつまって、まさににぎやかだった。新郎、新婦の親戚一同が介している。黒紋付、中振袖、地元の中学校の制服から、こないだ成人したばかりの振袖から、ちいさい子ども、ドレスの人、スーツの人。色とりどりで、なんとなく僕は店のキーパーの中の花たちを思った。新郎側の親戚は鼻の形が、新婦側の親戚は目元の蒙古ひだと酒がはいったときのはしゃぎようが、それぞれみんな同じだった。僕はまた人間世界の無限の入れ子構造の存在をそこに感じ、その場にいるひとりひとりの世界の融和と別離について考えていた。やがて婚礼が始まった。耳を赤くしながら、白無垢姿の花嫁を眺める僕を横目に、彼女は表情ひとつ変えなかった。むしろ、彼女の眼は冷ややかで、どこか白けていた。縁側の向こうの庭を見ると、つり目のきつい顔をした仲居のおばさんが、迷い込んだ猫たちを箒で追い払っている。かわいそうに。

式は進み、スライドショーのコーナーが始まった。結婚する二人の出会ったころ、付き合いはじめて一周年目の熱海旅行、つい最近のプリクラ写真までがスクリーンに大写しになって、司会者はふたりの愛がどうこう、とか、幸せがどうこう、とかいうような、あけすけに恥ずかしい言葉を次から次へと話し始めた。司会者はその仕事で、そういうあけすけに大事なことをあからさまに話すことに慣れてしまっているみたいだったが、いち聴衆者の僕はあけすけに大事なことをあからさまに話されるのを聞くことに慣れていなかったので、恥ずかしかった。同じくいち聴衆者の彼女は、いったい何を考えているのだろう、やはり冷ややかな表情でいた。あけすけに大事なことをあからさまに話されることに慣れてしまうと大人はあんなふうな顔になるのだろうか。僕は真っ赤で、彼女は真っ白だった。もうどうにも耐えきれなくなって、僕たちは会場を後にした。


帰りの車内、僕はなかなか話し始めることができなかった。

しばらく経った信号待ちで、おそるおそる僕は口を開いた。


「あなたの、ご家族は、なにをしている人ですか」

それはまるで、中学英語の教科書みたいな文章にだった。


「父は会社員、母は役場で働いてた」

「ご両親はどこに住んでいるんです」

「北海道」

北海道。聞いて、吹き出しそうだった。僕は、白樺みたいな彼女と、白樺みたいな彼女にそっくりな真っ白で細くしっかりした骨格の両親を思い浮かべた。かれらは湖畔の白樺林で、みんな同じあの無表情を浮かべて、昼食の弁当を黙々と口に運んでいる。


「だけど、いまはどちらも、いない」

想像が一瞬で立ち消えた。いない、というのは、<死>んだ、ということだろうか。聞けなかった。助手席から、フロントミラー越しの彼女の表情をそっと確認する。運転席の彼女の表情はなにひとつ変わらない。

彼女のピアスをつけていないほうの左耳が目についた。


「…なぜ、右にだけピアスをつけているのですか」

おそるおそる、たずねてみた。お洒落もせず、化粧っけのない彼女が、なぜかたくなに右耳にだけ毎日ピアスをつけるのだろう。


「二十歳のとき、開けた」

そのぴしゃりとした声色には一分の隙もなく、僕は手詰まりを感じた。彼女はこういうときにだけ、いつもの欠伸寸前みたいな話し方をやめて、ぴしゃりとする。ずるいな、と思う。これ以上は深く聞けないように答えるのがあまりにも上手すぎる。


「二十歳のとき、なにをしていた」

僕も負けじとたたみかけるように、質問文の敬語をこっそり省いてみる。これは僕が少しだけ、エゴを通したいときによく使うずるいわざだった。

かつて、彼女の二十歳になにかが起こったのかもしれない。



「大学をやめて、店を開いた」


「なぜ大学をやめて、店を開いた」


「自分で、そう決めたから」


白樺の樹皮はぴん、とはりつめて堅い。

そして情けないことに、僕はどうしようもなくふにゃふにゃ柔らかく、こと彼女に対しては堅くなることができない。僕は今日もあきらめて外を見た。<死>について、考えていた。


あの日夢で見た火花。

僕は、<死>というものをまったくといって知らなかった。僕は、<死>からじつに遠い世界で生きている、と思った。

そういえば、記憶もまばらな遠い遠い昔にうちでかわいがっていた、「モリ」という名前のころん、と太った黒い猫。さみしい僕になぜだかよくなついて、僕の手からでないと餌を食べない猫だった。ああ、僕のかわいいモリ。もとは森さんのうちに住んでいて、うちに初めてやってきた時から「モリ」という文字がはげかけたネームプレートを首にかけていたときから「モリ」なのだが、ある日を境にいつのまにかうちに居つかなくなった。僕が、モリはどこへ行ったの、と大人に聞けば、みんな口々に、どこかで<死>んだのだろう、と答えた。そのときに、僕ははじめて<死>という言葉だけ覚えた。

だけど、僕は本当の意味で<死>というものをまだよく知らない。たとえば、この世から僕がいなくなる。母がいなくなる。彼女が、いなくなる。それは僕には、全く想像のつかないことだった。


<死>。

太宰治の「人間失格」を読むとき、間髪入れずどこかから聞こえてくる、「バカーっ」という誰かの声。僕が呆然と見ていると、その誰かは、「おまえ、ほんとうは誰かにわかってほしいくせに、ほんとうはまじめに生きたいくせに、おまえはバカ、ほんとうにバカ」と、泣きながら僕の中の葉蔵を蹴っている。

しかしながら、これはいったい誰なんだろう? 僕は、その誰かに対して、「やめろ」とも言えないし、その誰かと一緒になって泣きながら葉蔵を蹴ることもできない。呆然と、ボコボコにされていく葉蔵をただ見ているだけだ。


僕は、<死>を知らない。<死>を、見たことも聞いたこともない。もちろん、<死>を体験したこともない。僕は<死>から、まったくといって遠い世界で生きている。葉蔵を蹴っている誰かに守られて、<死>が、いいものか、悪いものかさえも決めかねている。


そう思うとき、僕は自分の心に根を張っている青さ、未熟さに気付き、ぶるっと身震いするのである。


考えをやめて、顔を上げるともう夜で、空では紫色の雲が薄く月にかぶさっておぼろ月をつくっていた。丘の上の送電鉄塔はひとり、そのおぼろ月をさみしく見上げていた。






彼女の箱庭の壁にどこか隙間を見つけられれば、そこから僕は指を突っ込んで入り込むことができる。それはどんなにちいさな数ミリのヒビでもよかった。僕は、彼女の隙間を探すために、ますます慎重に彼女を観察するようになった。


ところが、彼女を入念に観察すればするほど、彼女の箱庭の壁はぴっちりと閉じられて、僕の入り込む隙間がまるでないのであった。彼女の周りには、つねに例外なく、あの別世界の時間軸が適用されていて、僕の入り込む余地はなかった。

リボンを結ぶ彼女の周りにも、フリージアの茎を切る彼女の周りにも、洗濯物を干す彼女の周りにも、食後に皿を洗う彼女の周りにも、まるで薄いベールでもかかっているかのように、違う世界の時間が流れていた。 それは手際がいいとか、要領がいいとか、そういう概念とも違う。別世界の出来事のように、まったくわからない、見えない、隠された瞬間があるのだ。たとえばいま、僕は台所で林檎の皮をむいている彼女の手元をじっと見つめている。すると、一秒間の枚数が極端に少ないコマ送りのアニメーションのようなことが起きていく。前の画と、次の画の変化の間が、まるで元から描かれていなかったみたいにわからない。気付けば、きれいに皮のむかれた林檎が、皿の上にのっている。


僕が彼女に対して、何かできることがあれば。

僕は彼女に夕食を作ることにした。料理など、ひとり暮らしのときはたいしたことをしていなかったので、僕は料理については何も知らず、自信もなかった。毎日図書館に行き、料理雑誌をコピーし、書いてあるとおりに材料はきっちり計量して、鰹節でだしをとって、ていねいにていねいに作った。


しかし、彼女はそんな僕のようすを横目で見て、

「きちんとレシピを見て計量した料理ほど、おいしくないものだよ」

と言うのであった。


彼女は、いったいなんだったらいいんだろう。僕はいったいなにをすれば、彼女は喜んで心を許してくれるのだろう。自分の箱庭を、僕に見せてくれるのだろう。好きなもの、食べたいものや、行きたい場所、男性の好きなタイプ、何を聞いても彼女は、べつになんでもいいよ、アオヤギ君が決めるかサイコロでもふりなよ、と言うだけだった。


そうするうちに、僕は、どんどん焦っていった。少しずつ痩せ、大学へも行かず、講義に出るふりをして公園で鯉の餌を買い、それを池の錦鯉に与えながら、ぼんやり考え事をする日が増えていった。


彼女はそんな僕の変化に、少し気付いているようだったが、それでも、

「アオヤギ君、やっぱり、へんな子」

と、いつもの調子で言うだけだった。






 どうして、よく眠れなかった日の朝の匂いはあんなにみんなどこでも同じなんだろう。

僕は、よく眠れないまま迎える早朝のあの匂いを、「修学旅行の朝の匂い」と呼んでいて、ひそかにそれが好きだった。修学旅行の朝、しかも無駄に早朝、たたき起こされて、寝ぼけたまま霧のなか、バスの駐車場での点呼。あの時の匂い。列に並んで、駐車場に生えているものすごくどうでもいい木が風に揺れているのを見ている。足元の砂利の一粒一粒を順番に見ている。僕だけ、眠気に包まれて別の世界にいるみたいで、実感がない。辺りを見回すと、みんなも遠い目をしているように見える。女の子たちの中で一番おしゃべりなミヨちゃんも、いつもくだらないことばかり言っているタケシも、名前を呼ばれて生返事してる。みんな、その駐車場以外のどこか別の世界に行ってしまっているみたいだった。あの感じはいったい、何だったんだろう。


あおやぎこうたろうくん。


むかしから、フルネームで名前を呼ばれるとき、なんだかそれが自分の名前ではない気がして、僕ははっきり返事を返せなかった。


あおやぎ、こうたろうくん。


二回目で、しぶしぶ、疑問を感じながら、小さく返事する。その理由は、おそらく僕の世界に「あおやぎこうたろうくん」がいないからなのだと思う。名前というものは、その場に二人以上の人が存在するとき以外にはまず必要のないものだ。名前は、ヒトAとヒトBを区別するための単なる記号であり、僕自身にはあまり関係がない。ひとりの僕の世界に沈潜する僕にとって、「僕」は、「僕」でしかない。だから、僕は僕の名前をフルネームで呼ばれたくなかった。僕は、ひとりの僕の世界から、その外側へと呼び出されたくなかったのだ。


ふと僕は、出生時の「名づけ」のシステムにも、世界と世界の無限の入れ子構造が成立していることに気付く。母の世界と子の世界は、ラスト・ネームで融和し、ファースト・ネームで区別される。これが無限の入れ子構造をなして、何億年も人間の営みを構成しているのかもしれなかった。僕の母、あおやぎようこは自分の胎内から僕が生まれたときに、もともとひとつであった母の世界と子の世界を区別するために、僕を「こうたろう」と名付けた。そして、子の世界が母の世界の中からはみ出していかないように、「あおやぎ」を受け継がせた。母の母も、これと同じことをした。母の母の母も、母の母の母の母も、母の母の母の母の母の母の母も、ずっと前から同じことを繰り返し続けてきたのだ。なんと美しい、無限の入れ子構造だろう。考えただけで、身震いがするようだった。




十月の朝、僕は札幌市中心部の広い国道沿いを歩いていた。その朝もまた、「修学旅行の朝の匂い」に満ちていた。ひとり、寝ぼけたままの朝の散歩だった。


あなたの故郷を見てみたい。

思い悩んだすえの僕の提案に、彼女はあからさまにしかめ面した。それは予想通りの反応だった。だけど、無理やり押し切るつもりだった。店の定休日が木曜日なので、水曜日の夜に発つ飛行機のチケットをすでにふたりぶん、予約していた。彼女の故郷についての情報は、「北海道」のほかにはなかった。もちろん、僕だって北海道が他の都道府県と比較しても途方もなく広いことくらいは知っている。そして彼女がその広大な「北海道」のどの町に生まれ育ったか、その確実な答えを僕が彼女から聞くことができないということも知っている。だけど、僕はそれでもぜんぜんかまわなかった。彼女の出生の秘密に、今より少しでも近づくための努力ができていれば、僕はそれで満足だった。


そして昨日の夜中、ふたり、新千歳空港に降り立ったのだった。


「修学旅行の朝の匂い」を彼女と共有したかったので、僕は少し苛立っていた。夜の長旅で疲れたのだろう、彼女は死んだように眠っていた。そうでなくても、彼女はいつも朝が苦手だった。いつも、僕が朝早く店番ができる火曜日と木曜日は、彼女は絶対に起きてこない。彼女の寝姿は、呼吸の音が小さく、眠っている、というより、ただそこに横たわっている、に近い状態だった。まるで魂だけが抜け出て、どこか別の場所に行っていて、残された身体だけそこにある、みたいな眠り方だった。眠っている彼女にも別世界を感じる僕は、彼女を起こさないように、いつもひとりそっと目玉焼きを焼いて、ひとりそっと珈琲を淹れる。物音をたてないようにそっとそれを平らげて、そして、空しい気持ちで階段を下りて店へ向かうのである。


どこかの本で誰かが、睡眠は<死>からの負債である、なんて言っていたっけ…。考え事をしながら歩く郊外の町は、歩道のれんがの模様がどことなく僕の故郷に似ている気がした。白い猫が、向かってくる自動車の数センチ先、すれすれで駆け抜けていった。どこの町でも猫は、なぜかわざとひかれそうなタイミングで道を横切る。僕のあの太ったモリも、あんなふうにあちらがわへ渡ろうとして<死>んだのだろうか。道沿いに、白樺の木は見当たらなかった。あの、修学旅行の駐車場で見たような、どうでもいい木ばかりがつまらなそうに並んでいる。

彼女が起きだしそうな時間を待って、何度も何度も時計を見た。こういうときには、一分一分が際限なく長く感じるのはいったいなぜだろう。あと十分、あと八分、あと五分、あと二分…。ようやく、十時になった。僕は彼女を起こしに、踵を返して来た道を戻っていった。






彼女に行くべき場所をたずねても、僕でも知っているような観光地しか教えてもらえない。テーブルいっぱいに北海道の地図を広げ、故郷の町はどこですか、実家はどこにあったんですか、そう聞いても、ここからはすごく遠く、としか答えない。駅前のカフェテリアで、僕はまた苛立っていた。彼女のまっすぐな背骨と並行に、煙草の煙がまっすぐと上へ流れていく。

どうして、そこまでかたくなに自分のことを隠し続けるんだろう? どうして、あなたのことを知りたいと思っている僕の気持ちを彼女は無視し続けているんだろう?

どうして、どうして、この世に存在している他人に対して、彼女は平気でそんなことができるんだろう?


…どうして、そんなに強くなれるんだろう。どうして、そこまでひとりになれるんだろう。どうして、誰が何を考えているかわからない世の中で、こんなに心もとない世の中で、誰かが理解してくれるかもしれないという望みを捨てて、誰かを傷つけるかもしれないという恐れを捨てて、そんなに堅く、まっすぐでいられるんだろう。


彼女が頼んだ季節はずれのアイスティーの氷がとけて、からん、と音をたてた。




「僕たち、別れましょうか」


予想だにしていなかった言葉が勝手に口をついて出てきたことに、僕は自分で驚いた。

無意識に、あたまとこころが食い違ってきていることに気付く。全然、全然違う。僕が言いたいのはそういうことじゃない。


「…わかりました」

「その、きみのいう、 “別れる”ということをしましょう」

…そういうことじゃない。


「わたしは、どっちでもいい。どうせ、今年の冬、店を閉めるまでなんだよ。それが、少し早まるだけ」

…そういうことじゃないんだ。


「どっちでもいい、どうでもいい」

…違う。


「…違う!」

僕は、それだけ言って気力を失った。どこへ行くの、という彼女の声を置き去りにしてふらふらと立ち上がって、僕はカフェテリアをあとにした。

視界のぼやけたまま歩き始めた。すると、店の外で、ちいさななにかとかるくぶつかった。驚いて下を見下ろすと、三、四歳くらいのちいさな女の子であった。その女の子は、右手に短く切られたどくだみの蔦を持っていた。服も靴も靴下もヘアゴムも、持っているどくだみの葉と同じ、緑色だった。そのちいさな女の子は、誰にも迷惑をかけないように、静かにひしひしと泣いていた。

「ごめんよ、気付かなかったんだ」

 僕が姿勢を低くしてその子に声をかけると、その子はこちらを見た。黒目は大きくて、視線がまるで、どこかで見たことがあるかのようにまっすぐだ。


「まいごなの」

「きみの、おとうさんはどこ。きみの、おかあさんはどこ」

ぼんやりと、僕はこの子が一体誰だったかを思い出そうとしていた。その子は、僕のそんなようすに気付いたのか、きっぱりと泣くのをやめて、毅然とした顔を作り直した。そして、走って僕から逃げだした。


「まってよ」

僕もそれに合わせて、駆けだしていた。

だけど、水の中で走っているみたいに、足がうまく進まない。歩幅が、小さくなっている。両方の手も、なんだか葉っぱのように小さい。どうやら僕のからだも、どんどんちいさくなってしまったみたいだった。


女の子は、もうだいぶ遠くのほうまで駆けていってしまった。ちいさな足で、僕も必死にそのあとを追いかける。

待ってくれ、違うんだ。行かないでくれ。


僕を、僕を置いていかないで。

僕を、僕を怖がらないで。

僕は、僕は、きみの言うような、


へんな子、じゃないんだ。





こわがらないでいい。にげなくていい。

かおを あげて、こっちを みて。

だいじょうぶ。ぼくは、ともだち。

ぼくは、きみのともだち。


あんしんしていい、きみも、ぼくとおんなじ、


へんな子、じゃない。





きょうこ、いのうえ、きょうこ。

いのうえ、きょうこ。


なぜか、僕はその子を追いかけながら必死で彼女の名前を呼んでいた。その子は通りを曲がって、細い路地裏に入っていった。僕も追いかけて路地裏に入る。暗い路地裏のむこうには、女の子がいて、女の子のおとうさんと、おかあさんがいた。ふたりとも、まっすぐで、細くて、真っ白で、強く、無頓着で、美しかった。そして家族の背後には、白樺の木が何本も、青い空に向かってのびている。

…白樺林だ。

成し遂げた。僕は、やっと、彼女のこころの故郷にたどりつくことができた…。




「…みっともないなあ」

後ろから気の抜けた声が聞こえて、僕ははっとした。彼女だった。

「中学生じゃないんだから」

気がつくと、路地裏の向こうの白樺林はすっかり消えていた。

「…へんな子」


行き止まりで閉じられた路地裏は暗く、ラーメン屋の換気扇がうるさく音をたて、開店前のアダルトビデオショップがシャッターを下ろしていた。足元では太った茶虎の猫が顔を洗っていて、僕は悲しくもどこか懐かしい気持ちがした。



帰りの空港へのバスの中、彼女がつぶやいた。

「きみはもう少し、おとなになった方がいいかもね」

それは呆れたような、軽蔑したような表情だった。僕は彼女と目を合わせず、バスの外の景色をただ眺めるふりをしていた。

僕は、おとなになる、がわからない。僕がおとなになっているかどうかなんて、僕にしかわからないはずだ。どうして、そんなことを言うのだろう。そもそも、おとなって、いったいなにを基準におとななんだろう。二十歳を超えたら、おとな? お酒が飲めたら、おとな? 煙草が吸えたら、おとな? 仕事をして、めしを食って、自分で生活できるようになったら、おとな?

<死>を知ったら、おとな?


反発や、愛情や、尊敬、怒り、苦しみ、せつなさ、むなしさ、いろいろな感情がないまぜになって、一瞬ぶわっと膨らんだかと思うと、すぐにぺしゃんこにしぼんでしまう。膨らんで、しぼむまでのそのサイクルがあまりにも早くぐるぐるとめぐっているので、僕は的確に自分の気持ちを表す言葉を見つけることができない。 “あなたと離れてしまいたい” “あなたなんて死んでしまえばいい” / “僕は消えてしまいたい” “僕は死んでしまいたい”… 。<死>を示す言葉が、次々にやってきて、いつか僕のこころの中で葉蔵を蹴っていたあの誰かが、「バカーっ」と声をあげて駆けよってくるのが聞こえる。僕は怖くなって、<死>を示す言葉をそっとひっこめる。


「そのうち、わかることだよ」

僕は何も言っていないのに。

バスの車窓の向こうの道沿い。一瞬、白樺の木が集まって生えていたように見えた。もしかしたら、彼女の家族たちかもしれない。出生の秘密を、どうか教えてくれよ。彼女が組み込まれているはずの、美しい無限の入れ子構造を、僕にだけそっと見せてくれよ。僕は身を乗り出して後ろを見て目を凝らし、もう一度それをこの目でみとめようとした。だけど、目を凝らして見た窓の外はぜんぜんどうでもいい木ばかりで、彼女の家族たちを僕はもう一度見ることはできなかった。






その後も、僕と彼女の同居生活はしばらく続いたけれど、彼女は日増し無口になっていった。彼女は僕をいままでよりさらに警戒しているらしい。彼女の箱庭の壁は僕がそれを突き破ろうとすればするほど、どんどん厚く、堅くなっていくようだった。いっぽう僕のほうは、彼女の堅さが僕の身を鋭く貫くたびに、ふにゃふにゃと、弱さ、柔らかさを増していったのだった。


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