白樺
tsunenaram
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その人は細くまっすぐな指でシフォンのリボンを折っている。ひとつ、ひとつ、丁寧な手つきで、しかも驚くほどにすばやく、美しく。その人の周りはしん、として、この世界とは別の時間が流れているように感じる。ひとつ、ひとつ。合間、カウンターに置いた履歴書を横目でちらりと見た。
「アオヤギ君て、へんな子だね」
その人はそう言って、さっきまでリボンを折っていた白くしっかりした手をあごにのせ、くつくつ、と笑った。
「たかがアルバイトの面接に、スーツなんか着てこなくてもいいんだよ」
もともとかちこちにこわばっていた身体がさらにこわばって、何も言葉を発することができなかった。十五秒ほど黙って、やっと、
「……そ、そうなんですか」
駄目だな、と思った。
たぶん、僕はここで働けない。僕はなぜだか、スーツを着ていた。数々のアルバイト情報誌の「これで採用 履歴書の書き方・面接のしかた」だの、「アルバイト面接 相手先へのマナー」だのをすべて読み込み、そこに書いてあった「面接は私服でもかまいませんが、スーツのほうがベター。私服は華美にならないように」の一行を鵜呑みにして、スーツを着てきたのであった。だけど今では、僕はたかがアルバイトの面接にスーツを着てきた笑いものだ。フォローに、気の利いたひとことすら言うことができない。下を向いたまま、顔を上げることもできない。その人の顔すら、まともに見ることもできない。サーモンピンクの七分袖Tシャツからちらりとはみ出した、その人の細い鎖骨だけを、申し訳ない、と思いながらもそっと盗み見ている。
大学近くのその花屋は「井上生花店」といった。今時、古風な店名のこの花屋で「アルバイト募集」の貼り紙が掲示されたとき、僕は何かが始まりそうな予感でいっぱいだった。僕が、このアルバイトに応募する。そしてこの店で働き始める。そんなうれしいことがこの世で起こってもいいのだろうか。何か、罰の当たるようなことはないだろうか。だれかに怒られることはないだろうか。そんなことを三日三晩ひたすら考えて、ついに僕は氏名、電話番号、志望動機にいたるまで、すべてを手書きでびっちり細かく書いた履歴書を持って、この店に初めて入ったのであった。
大学に入学してから、住んでいるアパートメントから大学へ行く道にあるこの店で毎日その人を遠巻きに眺めることだけが楽しみだった。毎朝緑に囲まれて店先でひとり水を撒くその人の背中は、一本の白樺の木を思わせた。ゆるくまとめた黒髪のうなじから、背骨、お尻、脚までが、まっすぐつながっている。そこから枝分かれした肩甲骨や腕、ひじ、手首、指先までも、長くまっすぐだ。柄杓を持ち、「おはようございます」と周囲の通行人にあいさつする彼女。僕は絶対に目を合わせないように、絶対に存在を認識されないように細心の注意を払いながら、そっと通り過ぎる。彼女は僕とは別の世界に生きているみたいだった。彼女を見つけてから、僕のジーンズは新しくなったし、僕は毎朝ぼさぼさの髪を撫でつけてから自宅を出るようになったけれど、そういうことは彼女の世界にはなんら関係のないことでありそうだった。彼女は僕と、まったく関係のないところで生きていく。そんな気がしていた。
やはり、彼女と同じ世界に入るなんて僕にはまだ早かったのだ。僕はもうすでにこころのなかで、少しでもよこしまな考えを持って彼女に近づこうとしていたことを、誰かに必死で謝っていた。
「きみ、面白いね。いいわ、アオヤギ君、明日からうちへおいで」
「……え、え?」
声が掠れた。
「採用。明日、十五時からね」
「………はい…」
「ほんと、へんな子なのね」
彼女は気の抜けた声で笑っている。
恥ずかしながら、十九歳にしてはじめてのアルバイトだった。高校生の時から、学校ではアルバイトを許可されていたが、アルバイトをしようと思ったことはいままで一度もなかった。それどころかそもそも僕は、自分で何かをしてみよう、と思う必要がなかったのだった。
たしかに僕はちいさな頃から少し「へんな子」だった。僕は、一人っ子で弱くて泣き虫で、毎朝幼稚園の下駄箱で泣きどおし、夜は天井の木目や毛布のしわが怖い顔に見えるような気がして眠れなくなってしまうような子どもだった。母は、そんな僕の何もかもをつねに僕より先に気にかけていた。僕が何かをしてみよう、と思う前に、母がすでに先回りして僕のために何かをしてくれていたのだ。そのころは、考える間もなく気がつけば塾で勉強をして、水泳教室で水泳を習い、ピアノ教室でピアノを弾いていた。そして中学生になって、受験だといえば考える間もなく気がつけば母が僕の成績を見て志望校を決め、受験申込をしていた。僕は言われるままにテストだけを受験し、気がつけば高校生になっていた。
「雨音はショパンの調べ」が好きで、庭の草花の名前をたくさん知っている母が僕は好きだったので、母の言いつけを聞くことはそこまで苦ではなかったけれど、ときたま僕は母への反抗をもくろんだ。理由はたいしたことではなかった。勉強をしたくないだとか、学校に行きたくないだとか、友だちがみんな持っているのと同じテレビゲームがほしいだとか、毎日任せられていた風呂掃除をしたくないだとか。そのたび、母はいつも別人のように変わってしまった。大きな声と、大きな音を立てて怒り、泣きながら僕をぶったり、蹴ったりした。そして、僕の髪の毛をつかんで廊下を引きずっていき、玄関の外へ締め出した。そうするとなぜかいつも、僕の家の玄関先では雨が降り始めるのだった。ああ、僕は、間違ったことをしてしまった。すべて母が正しいのだ。そのときには、ぶたれた痛みはもうぜんぶどこかへ消えていた。涙とも雨ともつかぬ水滴をぬぐいながら、僕は玄関の向こうにいる母に向かって、ただただ謝った。
学校では、僕はおとなしい子だった。いじめられもしないけれど、とくにもてはやされもしなかった。本を読むのが好きで、成績はそこそこだった。同じクラスに友だちは少しいたけれど、なぜかきまって帰り道はほかの友だちと連れだっていたので、帰り道はいつもひとりだった。クラブや部活動に参加したこともあった。だけどいつも、どうしようもなく僕は場違いな気がした。僕は気がつくとクラブの練習をさぼって、本を読んだり、校庭に巣をつくるアリの行列をひたすら見たり、日陰のどくだみをむしったりすることに没頭していた。そして数か月後には、クラブをやめたのだった。
そうして高校時代は漠然と過ぎて行った。大学の受験のときも、「本を読むのが好きなら、文学部に行ったらいい」と母が言った。母にそう言われると、なんとなく僕も文学部に行きたい気になった。次の日には、母が僕の成績で入れそうな文学部の書類を集めていた。その中に、東京や、家からかなり遠い場所にある大学のものもあることに、僕は驚いた。母のうちに、僕と離れて暮らすという選択肢があったなんて。僕は、実家から少し離れた東京にある大学を選んで、そこを受験することにした。なんとなく、家を出てみようと思ったのだった。
考える間もなく入学が決まり、母は大学近くに六畳のアパートメントと引っ越しの業者を手配してくれた。日当たりのよく、何一つ申し分ない部屋だった。
はじめて母と離れて暮らす生活が始まることに、僕はかすかな喜びを感じはじめていたが、その喜びを、僕は申し訳なく思った。母の顔が、心に浮かんだからであった。
最初は緊張したが、大学ではまた少しの友だちができた。読んだ本に書いてあった話を友だちに話すと、友だちはおもしろいおもしろい、と言って聞いてくれた。中学校や高校のころの友だちは、お前の話はむずかしいよ、と言ってまともに聞いてくれなかったので、僕はうれしかった。
大学の友だちは僕のことを「おまえは “自分”というものを持っていていいよな」とほめてくれたが、それを聞くたび、僕は背筋がぞっとするほど恐ろしかった。実際の僕はまったくといってその逆だったからだ。
僕には、 “自分”なんてまったくなかった。何をするにもまず、「こんなとき母は何と言うだろうか」と考えてしまうのだ。大学の友だちはよく、連れだって遊ぶために大学をさぼった。その遊びは、飲み会だったりボードゲームや麻雀だったり、遊園地だったりスキーだったり、時によってさまざまだった。僕も、たまにその遊びに誘われた。何度か参加してみて、すぐにすべてを断るようになった。まず、大学の友だちの話はつまらなかったし、学校を休むと、かつて母に泣きながらぶたれたときのような、あの全身から謝りたくなる気持ちがしたからだった。
みんなが思っている「僕」と、ほんとうの「僕」のあいだに大きなギャップがある、ということが他人に見破られてしまうのが恐ろしくてたまらなかったので、僕は大学でも友だちと深い仲にはなれなかった。ときどき、女の子が僕に興味を持って、休日のデートに誘ってきた。だけど、「 “自分”というものを持っている僕」に興味を持って近づいてくる女の子たちは、僕にとって一番恐ろしい相手だった。僕は彼女たちにまったくといって心を開けなかった。いつもレストランでご飯を食べながら、適当に見た映画や、読んだ本の話をしてごまかしていたが、フォークとナイフを持つ手は震えていた。彼女たちは今日のために買った真新しいワンピースを着て、「 “自分”というものを持っている僕」と話して嬉しそうにしていた。ほんとうの「僕」を知って、そんな彼女たちの嬉しそうな表情が崩れる瞬間が、僕は何より怖かった。頭の中では、つねにそのリスクを避けるための計算がせわしなくはたらいていた。
そしていつしか、僕は「井上生花店」でひとり水を撒く彼女を遠巻きに眺めることだけを楽しみに大学に通うようになった。僕も、あんなふうにまっすぐ伸びた一本の白樺の木になりたい。細いながらもしっかりとした意志をもった白い腕に、僕はあこがれていた。あのような白いしっかりとした腕が、弱くてうすっぺらな僕を支え、また僕を今よりも強く、まっすぐに変えてくれるのではないかと、ひそかに希望を抱いていたからだった。
彼女はせいぜい僕の四、五歳上だろうと思っていたが、僕より十歳も歳上で、二十九歳だった。この店をはじめて九年になる、と彼女は言った。店舗の二階が自宅になっていて、彼女はそこにひとりで住んでいるそうだ。彼女はなぜか右耳にだけ、いつも小さなひかるピアスをつけているが、なんとなく怖くて、僕はその理由をたずねる気になれない。
口数の少ない彼女との花屋仕事は気楽だった。早番の日の朝は、市場から花を仕入れてくる問屋のおじさんから新しい花を受け取って、水揚げとよばれる作業をする。茎の先を斜めに切って、水につけるのだ。ぐったりしていた花たちが、軸をぴんとたててまっすぐになる。そのなかでまだつぼみのままの状態のものは、キーパーとよばれる、花の冷蔵庫に入れておく。こうすることで、花の開花を少しだけ遅らせることもできる。
水をやったり、葉をむしったり、こんなふうに生きている花のいのちをコントロールするような仕事をしていると、僕はなんとなく不思議な気分になってくる。
花が美しいのは、とくに、切り花があんなに不気味に美しいのは、そのうちに<生>と<死>の両方を内包しているからだ、と思う。花は本来、人間が鑑賞するためだけに存在するのではない。植物にとって、花は生殖器の意味を持つ。種子、ひいては次の命、次の花を生み出すもととなるものだ。そんな花たちが、はさみで切られ、土や水の恵みから見放され、いのちを奪われかけても、最後のエネルギーを振り絞って、つかのまの抵抗として花を咲かせる…。全身で、まだ生きよう、命を次につなげよう、としている。キーパーの中で半分開花しかけているラナンキュラス、カーネーション、ガーベラ、そしてばら。切り花たちの、毒々しいまでのあの赫さ、黄色さ、白さ。かれらは、自らの終わりを知っていて、それでも生きたい、生きたいと咲くから、不気味にひかる。すべてのいのちは、終わりを迎える寸前に輝いて、きわだつ。じつに皮肉なことだ。
「それにしても、アオヤギ君は不器用だね」
建物の外壁に張り巡らされたヘデラを通した春の日差しのなかで、彼女はまた笑う。店の真ん中には、大きな柱が一本通って天井が高く、日当たりがいい。色とりどりの花や鉢植えに囲まれて、新しい、産生されたばかりの酸素と草花の香りに満ちている。店先に春の風が吹いて、メスを探してオス猫たちが鳴いている。有線放送のオルゴールがやさしく、それをふちどっている。
午後からはたいてい、注文を受けた花束や花かごをつくる。あらゆるところから注文が来て、一個の日も、五十個の日もあれば、百個以上の日もある。花をつつんで、リボンをつける無限の繰り返しなのだが、働き始めて二週間の僕はまだ慣れなかった。成績も運動神経もそこそこの僕だったが、繊細な作業をすることだけはどうも苦手だった。
「アルバイトするの、初めてなんだっけね」
あくせくしている僕の何倍もの速さで手早く丁寧にリボンを結びながら、彼女は欠伸の一歩手前のような、気の抜けた声で話しかける。
没頭しているので、僕は返事が返せない。
「…アオヤギ君て、女の子とつきあったことあるの?」
「ええっ?」
一瞬で気が散った。彼女の顔を見たが、彼女は変わらず作業を続けていて、それは何か意味のある表情ではなかった。僕はその質問を六回ほど脳内で反芻してみたが、彼女の真意はまったくわからなかった。彼女は何を思ってそんな質問を僕にしたんだろう。いったい、何が目的なんだろう?
おそるおそる正直に、ありません、とだけ答えると、彼女はあはは、若いねえ、とだけ言った。
この日は閉店の二十時きっかりに明日納品するものの準備をすべて終えた。誕生日の花かごがひとつ。地域の老人会に花束を五本。駅前のオフィスビルに入っている小さな会社へ二本。それと商店街に新しく開店するレストランへ大きな花かごがひとつ。七割をすばやく丁寧に彼女が作り、三割を僕が苦し紛れに作った。
仕事を終えて、帰る支度をした。「お疲れ様でした」のあいさつをしようと振り向くと、彼女は店の裏口の外で煙草を吸っていた。僕は、煙草を吸う大人にいままでいいイメージを抱いていなかったけれど、彼女だけは別だった。彼女は実に上品に煙草を吸う。下品な煙の吐き方をしないし、吸う本数もとても少ない。彼女はただ他人とかかわることをいったんやめて、ひとり外を眺めてぼんやりするためだけに煙草を吸っているのではないだろうか、というのが僕の推測である。ちいさい子どもだけでなく、大人にだってひとりになって空想したり、考えごとをする時間は必要なのかもしれない。すくなくとも僕には、大人になってもそういう時間は必要だ、ぜったいに。そういう時間をもうけるために、しかたなく煙草を吸う大人も世の中にはいるのではなかろうか。彼女の煙草の吸い方は、いかにもそういう感じのそれだった。
呼吸に合わせて上下する堅そうな肩甲骨をしばらくぼんやり見つめて、僕はあいさつをせずにその場を立ち去った。やはり彼女の周りにだけ、別の時間軸が存在しているように感じたからだった。
二週間たってはじめて、母にアルバイトを始めたことを告げた。電話口で母は驚き、そんなに仕送りが足りないのか、金額を増やそうかと聞いた。社会勉強だよ。僕も大人になりたいんだ。僕が出まかせを言うと、母は、学業だけは絶対おろそかにしないように、食事はちゃんととるように、火の元と体調には本当に気をつけるように、としつこく言った。 僕は半分了承し、半分了承していないといった声色で返事を返し、さよなら、おやすみなさい、元気でねとあいさつをして、きちんとむこうが電話を切るまで待った。そうするように、しつけられているからだ。
そして電話が切れた後で、自分の母親に対する不誠実で粗野な態度をひどく反省するのであった。それも、そうするようにしつけられているからだった。
大学の文学部での勉強には、どこかしら身が入らない。べつに面白くないというわけではない。べつに楽しくないというわけでもない。べつに全くやりたくないというわけでもない。大学から与えられるがままに、周囲の友だちとまったく同じになるように科目を選択して時間割をつくり、周囲の友だちと連れだって講義に出席すればレポートは書けるし、試験勉強はある程度ごまかしながらでも卒業のための単位はとれるようだった。それが、大学という組織のシステムであるようだった。教室で連れだって、つまらない話で笑っている友だちが、みんなまったく同じ顔に見える。僕は恐ろしかった。僕のほかに、このシステムに疑問を持つものは、誰ひとりとしていないようだった。
とはいえ、大学から与えられるもの以外になにかやるべきことや、やりたいことがあるかというと、そうではなかった。僕の文学部では、三年生でいくつかあるうちからそれぞれどの学科に行くかを決める。もう二年だというのに、国文学科、英文学科、外国文学科、哲学科、心理学科、社会学科と、聞くだけで、頭が痛くなってしまう。どの学問にも、興味がほとんどなく、また言い換えれば、どの学問にも少しずつ興味があった。わからない。サイコロでも振るか、母の言うなりに進もう、と思った。
僕には、やはり “自分”がないのだ。
僕がだれかについて知ってみたいと考えるとき、やってみるようにしていることがある。僕はこれを「相互紹介」と名付けている。
たとえば、Aさんについて知りたいときに、まずAさんではなくて、Aさんの一番の友だちや家族、恋人、配偶者などの近しい人に話しかける(これを、Bさんとする)。なるべく、Aさんがいない隙を見計らって話しかける。そして、Bさんに、「Aさんとはどういう人ですか?」とたずねる。Bさんから見たAさんを、僕は知ることができる。
「相互紹介」はここでは終わらない。つぎに、今度はBさんがいない隙を見計らって、Aさんに「Bさんとはどういう人ですか?」とたずねる。そうすると、Aさんから見たBさんを、僕は知ることができる。
このように、互いを互いのいない場所で相互に紹介しあってもらう。そうすると、ふたつの視点から僕はAさんという人物を眺められることになる。ひとつはBさんから見たAさん、つまりAさんの客観である。そしてもうひとつは、Aさんから見たBさん、つまりAさんの主観である。「Aさんは普段他人からどう見られているか」「Aさんは普段他人をどう見ているか」二つの視点から、僕はAさんの人物像をなるべく正しく推定しようとする。そして、Aさんとこれからどうかかわっていくか、その戦略を練るのである。
「あ、はい、井上生花店です」
“電話用のねこなで声”もつくらず、気の抜けたいつもの欠伸一歩手前の声でカウンターの電話をとる彼女を見ている。
「ああ、はいはい、十一時ですねえ」
耳をそばだてても、電話の向こうの声は聞こえない。
「いや、そういうのはやってませんので」
そういうの、がどういうのなのかは僕には聞き取れなかった。彼女のまっすぐな背骨に僕はフォーカスした。肩甲骨。腕。首。うなじ。
口元。少し恥ずかしくなった。
「かしこまりました。では」
彼女は相手の切るのを待たずに、要件が終わると、まだ相手が話し終わらないんじゃ、というくらい即座に電話を切ってさっ、と仕事に戻った。
誰に聞かれるわけでもないけど、僕が彼女と「相互紹介」するなら、と考える。
僕から見た彼女は、例えて言うなら、 “遠足の前の晩にも平気でよく眠れるタイプの人”だ。無頓着なのだ。驚くほどに、何に対しても、まったく頓着がない。とにかく一貫して頓着がない。洋服は同じボート・ネックのTシャツの色違いを着まわしている。花屋なのに、花の名前をあまり覚えない。一定の文字数を超えると彼女は記憶ができないらしかった。デンドロビウムも、サンダーソニアも、ブーゲンビリアも、彼女はまったく覚えていない。「ラン」「オレンジのスズラン」「ピンクの鉢植え」と、いつも彼女は言う。花がそこまで好きじゃないのかもしれない。とにかく、言葉遣いにも、時間にも、本当に頓着がない。全く気にせず、いつも短い言葉で言いたいことを言うし、なにかの待ち合わせにはいつもだいたい十分くらいは遅れる。それなのに、人と人との隙間をうまくぬって、すんなりと、しっかりと、まっすぐと生きている。僕には、その道理が全く理解できなかった。
その土曜日も十三分の遅刻だった。この日は婚礼のためのフラワー・アレンジメントの依頼がはいっていたので、数時間ほど店を閉めて、彼女の軽自動車に乗って町はずれにある大きな料亭へ向かっていた。「井上生花店」開店当時からのお得意様だそうだ。九年まえから、いつもこうして遅刻していたのだろうか。それでよく客などつくものだ。昔はこの人も怒られたりしたのだろうか。ハンドルを持つ腕は相変わらず白く、細く、まっすぐだった。
恰幅のいい料亭の支配人は、彼女のことをキョウコちゃん、と呼ぶ。彼女を名前で呼ぶなんて、なれなれしいな、と、逆に僕の方が照れてしまう。それ以外の従業員からも、彼女はキョウコさん、と呼ばれていた。
婚礼が行われる大広間には、赤い毛氈が敷かれ、料理やお酒の準備もあらかた終わっていた。廊下は縁側になっていて、着物にたすき掛けの仲居のおばさんが、せわしなく往来している。縁側の向こうの庭園では、牡丹の花が咲いていた。金屏風のまえのテーブルにのった大きなお皿に、「キョウコさん」が花を生けていく。本当に、黙々と仕事をする人だ。僕は彼女の「大きいユリ」やら、「小さい花」やら、「赤くて大きいやつ」やらの注文を聞いて、持ってきたケースから、花を手渡していく。なるべく、邪魔にならないように、なるべく、ペースを乱さぬように、なるべく、彼女の世界の時間軸を壊さぬように。僕も、細心の注意を払う。そうしてあっけなく、大きく、豪華で、それでいてどこかかたくなで、筋の通っているフラワー・アレンジメントが完成していく様子を、僕は呆然と見ていた。「グラジオラス」すら覚えない人が作り上げたものとは、とても思えない。
「新しいバイトの子、どんな子?」
仕事が終わって、ちょっと手洗い場から戻りかけたときに、支配人が彼女にそうたずねていた。こんなところで「相互紹介」の答えを聞くことができるなんて。僕は彼女の死角で、耳をそばだてた。
「学生さん。なんか、へんな子ですね」
彼女は初めて会った日と同じ調子で、くつくつと笑っていた。やっぱり、僕のいないところでも僕は「へんな子」なのか。彼女は僕に対してもやっぱり無頓着なんだな、と思って、僕は落ち込んだ。
せっかくだから、という支配人の誘いもあっさりと断って、彼女は婚礼の開始を待つことなく店に戻ることにした。僕も、それについていった。
「…自分をどういう性格だと思っていますか」
帰りの車中で、彼女自身に彼女の性格を思いきってたずねてみることにした。これは、「他己紹介」に対する「自己紹介」、あるいは、僕の解釈による客観と、彼女による主観と合わせて、「自己相互紹介」だろうか。フロントミラーに、少し考える彼女のまっすぐな視線と、助手席の僕のつむじあたりが映っている。
「うーん」
「箱庭、かな」
「自分の箱庭の外の世界に、興味がない」
思った以上に率直な答えを彼女が話したので、僕は驚いた。彼女は、今まで滅多に自分のことを僕に話そうとしなかった。
僕は彼女の小さな箱庭の中身を想像した。
そこにはデンドロビウムも、サンダーソニアも、グラジオラスも咲いていない。中心に1本だけ、白樺の木がある。世界のあらゆるものと比べても一番にまっすぐで、白く、堅く、美しい白樺の木だ。彼女がいつも右耳につけているピアスも、きっとその中にはいっているだろう。彼女はその箱庭の外の世界も無意識に手にとることができるけれど、そのこと自体にはあまり興味がない。夜はただ、その箱庭に帰って、そこで眠る。
いつか僕は、彼女の小さな箱庭の中身をそっとのぞいてみたい。
ふいにフロントガラスの向こうを見ると、住宅街の一角が小さなキャベツ畑になっていて、その向こうに丘があった。丘の上には、送電鉄塔がひとつ、こちらを見下ろすように建っていた。
講義中の居眠りで、短い夢を見た。大きな檻の中に僕はいる。なにやら人智を超えたものが、檻の外にあるのが見える。それは、果てしない宇宙や、素数、無限小数、円周率。無限に続くものぜんぶが、ものすごいスピードでめぐっている。
僕は、檻の鉄格子につかまって、それをぼんやりと眺めていた。何かを探しているわけではない。ただ、それを網膜に映しとっているだけだ。
刹那、はじける何かが僕の視界をかすめた。それは小さな火花のように見えた。
…そうか、これが、<死>か。
目が覚めた。なぜわかるんだろう。数学の講義だった。大教室の黒板に、退屈そうにインテグラルが並んでいる。
成績はそこそこだったが、かねてより数学だけは大の苦手だ。数学どころか、そもそも数字が苦手だった。ひどいものだった。千まで声に出して数えると、必ず七百二十九あたりで前の数と次の数がどうなっていたかが分からなくなって、数個とんでしまう。勉強をしてこなかったから数学ができない、という感じではなかった。僕は、先天的になにか数の感覚が抜け落ちている。
僕の手の届かない遠い遠い世界で、数は美しく無限に続いている。それが僕の数的感覚だった。数には、僕などが簡単に触れてはいけない、そう思わせるような神秘さがある。遠く、ギリシャのピュタゴラスを思い浮かべた。万物の根源は数。アナクシマンドロス。万物の根源は「ト・アペイロン」、<限りのない何か>…。受験勉強で、馬鹿の一つおぼえみたいにたくさん紙に書いてその台詞だけ覚えたけど、なんとなく今になって、その意味がわかりかけてきた。
人智を超えたもの。神様、宇宙、数、限りのないもの、そして<死>…。
世界で、僕の立ち入ることのできない部分には、こういうものが満ちているのだ、と思う。
世界で、僕の立ち入ることのできない部分を、僕はどこまでもどこまでも探し、考え続けていたい。ひとコマ九十分なんていう狭い枠の中に押し込められて、区切られて、力を押さえつけられて弱っていく僕の知的好奇心。得られるものもなくはないけど、おおむね学校はたいくつだ。僕は手で口を覆いながら小さく欠伸をして、眠っていた時間に進んでしまった板書をノートに一言一句たがわぬように書きとった。欠伸のしかたは母に、板書をノートに書きとることは学校で、それぞれそうするようにしつけられているからだった。
定休日の木曜日以外は、僕は毎日働いていた。平日は学校が終わった午後や夕方から、土曜日・日曜日は終日、花束や花かごをつくり、やってくるお客さんの対応もした。また、彼女の周囲の人物をこっそりと観察することもひとつ重大な任務だった。毎朝店の前を通り、彼女に話しかけるじいさんだけが少し気がかりだが、そのほかには僕が警戒すべき男はいないようだった。
その雨の日は仕事が多くあり、大変に仕事が長引いた。大学の留学生送別会で花束の注文が百五十本も入っていて、全てを作り終えたころには二十一時をまわっていた。外には大雨が降っていて、いつにも増して帰りたくなかったけれど、僕はそんなそぶりも一切見せないつもりでいた。いつも通りの調子で制服のエプロンの折り目を九十度に整えた。帰りのあいさつをするために後ろを振り返り、心残りな気持ちでまっすぐな首筋を見た。
「アオヤギ君、うちで晩ごはん、たべてく?」
すると、裏口でいつも通り後ろを向いて煙草を吸っていた彼女の肩甲骨が、今日は僕に声をかけた。
そのとき、なんとなく僕はこの人に心のすべてを読まれているような気がした。ああ、彼女だけが、その白く細い指を僕の肋骨の間に滑り込ませて、心を取り出すことができるのだ。それは僕にとってこの世でいちばんうれしいことであったが、また同時にこの世で一番苦しいことでもあった。いま、彼女が指を差し込んだ僕の肋骨と肋骨の間には穴が開いて、そこに生ぬるい夏の雨が降り注いでいる。
「残り物で申し訳ないけど」
彼女が作ったロールキャベツは、母の作るそれとは全然違う味がした。僕はなぜか、母の胎内より生まれ落ちる前からこの人のことを知っている気がする。
彼女の居間は想像をはるかに絶して殺風景で、がらんどうだった。大きな柱が中心をつらぬいて、台所のほかには、ちゃぶ台、テレビ、図書館の本が数冊、床に直接置かれ、部屋の隅には布団がたたんでおいてある。それ以外には何もなく、ただ空間と、女性特有のあの香りだけを無駄に持て余している。
食事を終えても窓の外に雨は降り続き、時間は一時間、二時間とはてしなく経過する。帰ったほうがいいのだろうか。雨があがるまで居ていい、と彼女が言ったので、僕は上半身を案山子のように突っ張らせて床に正座をしたまま、テレビニュースのテロップを必死で追う。両手は軽く震えているし、テレビの内容は全く頭に入っていない。網膜を通じて、映像を受け流すだけだ。彼女は足をだらんとさせて本を読みながら、ときどき窓の外を見てボーとしている。ボーとする横顔からのびるまっすぐな首。鎖骨。ニュースのあとの気象予報が、明日の朝まで雨は降り続くでしょう、と言っている。
「飽きたわ」
彼女はそっとつぶやいた。
雨の音がする。
彼女は、ゆるくまとめた髪をほどいて、鼻歌を歌い始めた。「雨音はショパンの調べ」。母の好きな歌だが、別れの曲だ。
なんでこんなときに、そんな別れの歌なんて歌うんだろう。何か考えているのか、それとも何も考えていないのか。
考えながら、僕は彼女の鼻歌に頭の中で歌詞をつけていった。べつに意味はなく、気持ちをなるべく遠いところへそらすためだった。
ひざの上に ほほをのせて
「好き」とつぶやく 雨の調べ
やめて そのショパン
思い出なら いらないわ
僕は依然として目を見開いたまま、瞳の奥のシャッターを閉じることに腐心している。
まっすぐな背骨。僕の心の隙間に入ってくるのをやめてほしい。
「アオヤギ君、なんでそんなにちぢこまっているの」
彼女の気の抜けた声がさっきより近い気がした。
「緊張しているの」
声がささやく。
やめてほしい。
「雨の日ってさ、…………」
彼女の唇が言いかけて、数秒留まって、そして僕の上唇だけをすくっていった。物理学の実験で見る真空の世界みたいで起こったことのような、なめらかなキスだった。
…ふざけるな。
細い枝が二本、僕の肩にのっている。首元をくすぐる長くまっすぐな髪は、例えるならばさしずめ葉、であろうか。
唇が離れた。
「…あの」
ふざけるな。
「……こ、こういうのって」
僕が何も知らないとでも思っているのか。
「その…………」
ふざけるな。
「あなたは…………」
ふざけるな。
「雨の日、だからね」
彼女は変わらず気の抜けた声でいる。気付けばもう僕のシャツのボタンに指をかけている。
…へんな女。
「…こ…こういうのは」
へんな女。
「僕と…僕と付き合ってください」
へんな女だ。
彼女は、ため息をつく。へんな女だ。
「アオヤギ君て、やっぱりへんな子だね」
「…付き合ってください」
彼女は僕と目を合わせない。
「…今年の冬で、店を閉めるつもり。それまで、うちにいてもいいよ。住んでもいい」
…へんな女。
「…僕と、付き合ってください」
へんな女。
「…それまで、ね」
彼女は僕と目を合わせない。
いつものボート・ネックのTシャツを脱いだ彼女のからだは、思い描いた通りの幹、だった。小さな二つの乳首が、木目。その少し下にあるへそが、うろだ。ひとつ違うことがあるとすれば、白い肌は信じられないほどきめ細かく、なめらかだ、ということぐらいだろう。窓の外の雨に枝が揺れて、彼女は僕の上で上下する。そして小さく声をあげる。
怒りを鎮められた僕は、まるで土の地面になったような気持ちでいた。夏の雨がしみこんでぬかるんだ僕から、彼女は容赦なくぐいぐいと水を吸い取っていく。
これが、僕のよろこびだろうか?
僕はなぜ、今まで必死にこんなにつまらないものを大事にしていたんだろう?
…そんなことは、もう今はどうだってよくなっていた。僕は、限りなく僕自身、あるいは僕自身を演じている誰かから遠ざかっていき、彼女、あるいは彼女をいつも取り囲んでいる、あの別世界へ呑み込まれていく。僕は、旧約聖書のアダムとイヴの話を思い出す。アダムは土から生まれ、イヴはアダムの肋骨の一本から生まれた。彼女が、僕の肋骨から生まれてきたものだったらどんなにかいいだろう。僕から生まれて、最後は僕に還っていく存在であれば、どんなにかこの人生は楽だろう。
「…わたしのこと」
「わたしのこと、<あなた>って呼ぶんだね、アオヤギ君は」
「わたしの名前も、知っているのに」
意識が遠のいていく中で、彼女の声が聞こえた。
昔からそうだった。僕はどんな人も、なぜかどうしても固有名詞で呼ぶことができない。彼女は<彼女 / あなた>だ。大学の友だち、デートしたクラスメイトの女の子たちのことも<友だち・女の子 / きみ>だし、母は<母 / かあさん>だ。
「<あなた>って呼ばれると、世界から<わたし>がいなくなったみたいで、うれしい」
…僕は、僕の世界をわかりかけてきた。僕は僕の世界の登場人物にあえて名前をつけないで、その人たちを僕の一部にしてしまおうとしているのかもしれない。僕の世界にいる他人は、みんな立ち入ることのできない僕の一部。
僕の世界の中にいくつも、立方体の箱庭がある様子を想像する。これは、<彼女 / あなたの箱庭、これは、<友だち・女の子/ きみ>の箱庭、これは<母 / かあさん>の箱庭。立方体の中身は、すべて僕には見えないし、中をのぞくことも、立ち入ることもできない…
箱庭の中には、何があるのだろう。白樺の木、右耳のピアス、神様、宇宙、数、限りのないもの、<死>…?
僕は、<彼女 / あなた>の箱庭に入りたい。
僕は、<彼女 / あなた>の箱庭に入りたい。
「…………あなたの箱庭に、入りたい」
力なくつぶやいた。
「…アオヤギ君」
「ひとはみんな、ひとりなんだよ」
「生まれたときもひとり、死ぬ時もひとり」
「…人を好きになったときは?」
僕はたずねた。恐れはなかった。
「残念ながら、」
「ひとり」
「…そんなことはない」
「そんなことはない。僕が、僕がいる」
「いいえ、」
「ひとり」
僕は、悲しみと、傷つきと、かすかな殺気を身に覚えた。
すべてが終わってから、僕に覆いかぶさり眠る彼女の透けた肋骨をなぞってみた。白く、細く、まっすぐだ。肋骨と肋骨のあいだに、僕は気付かれないようにそっと指を差し込もうとしたが、跳ね返されたようだった。白樺の樹皮はしなやかで、僕の色黒でぬかるんだ指では突き破れないほど堅かった。
その日、七月二十八日は、僕の二十歳の誕生日だった。
結局、最後まで言い出すことができなかった。
僕は、こんな雨の夜を一生忘れないでいることになるのだろうか。
雨なんて、降らなければよかったんだ。
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