私、困ってます

丹野海里

忘れられない発表会

―1—


 私、高木彩たかぎあやには困っていることがあります。


 葉っぱの色が黄色や赤色に変わってきた11月。

 小学校に入って初めての発表会が近づき、毎日の練習にも力が入ります。


 私達は歌に合わせてその場で軽く踊ります。今日も体育館に集まって歌を歌います。みんなの歌声が重なり体育館に響きます。

 私は体育館に響くこの音を聞くのが大好きです。 


 それから踊るのも大好きです。

 間奏で2回手をぱんっぱんっと叩いたり、腕を元気よく前後に振ります。


 でも、放課後に1人で練習した時は全然響きませんでした。

 思いっきり手が赤くなるくらい叩いてみてもやっぱり大きい音は出ませんでした。不思議です。


 1人だと絶対に出すことができない歌声や音を発表会の練習中は思う存分聞くことができます。


 それなのに、私の隣に立っている中澤なかざわ君は全然手を叩きません。

 歌も聞こえるか聞こえないかぐらいのボリュームです。


 普段は先生に注意されるくらいうるさいのに、発表会の練習が始まってから急に静かになりました。

 練習が始まった頃は、どこか調子でも悪いのかなと思いましたが、もう2週間以上もこの調子です。困りました。


 教室で国語の授業を受けている時も、算数の授業を受けている時も、なんだか元気がなさそうでした。

 私は、中澤君と話したことがあまりないので、自分から話し掛けることができませんでした。


 だけど、今日の中澤君はいつもの中澤君とは少し違いました。歌の途中に溜息をついたのです。

 あまりにもその溜息が大きかったので、私は思わず中澤君に声を掛けてしまいました。


「どうしたの? 溜息をつくと幸せが逃げていくって私のお母さんが言ってたよ」


 中澤君がゆっくりと私を見ました。

 私に話し掛けられるなんて中澤君は予想もしていなかったはずです。


「え?」


 中澤君が口を動かしたのですが、全然聞こえなかったので聞き返します。


「いいんだよ。逃げていく幸せがないから……」


 逃げていく幸せがないなんて中澤君はおかしなことを言っています。


 私は、今この瞬間が幸せです。生きているだけで幸せです。


 みんなと歌を歌えるし、休み時間に友達とお話もできます。家に帰ればお母さんの美味しい料理だって食べられます。

 どれも私が幸せと感じることです。


 中澤君には私以上に友達が大勢いるし、運動神経もいいから休み時間のドッジボールでは大活躍です。

 絶対に幸せなはずです。それなのに幸せじゃないなんて……。


「何かあったの?」


「お、俺の……」


「中澤君! 高木さん! おしゃべりはやめてね」


 中澤君が何か話してくれそうだったのに先生に注意されてしまいました。


「ごめんなさい!」

「すいません……」


 中澤君はまた前を向いていつも通り力なく歌い、だるそうに踊っています。

 その日は、中澤君に続きを聞くことができないまま終わってしまいました。


 私は、家に帰ってお母さんに今日あったことを全部話しました。

 お母さんは、私の話をうんうんと頷きながら聞いてくれます。


「そうね。彩は中澤君のことが気になるんだね」


「あんなことを言われたら気になるじゃない。逃げていく幸せがないってどうゆうことよ」


「それなら発表会の練習が終わってから中澤君に直接聞いてみたらいいんじゃないかな。練習中だとまた先生に注意されちゃうし、他の人にも迷惑になるからさ」


「で、でも今日はたまたま話し掛けちゃっただけなの」


「彩が勇気を出さないと中澤君も話してくれないよ。この前言ってたでしょ。中澤君も元気に歌ってほしいって」


「う、うん。頑張ってみる」


 次の日、私は綺麗な色の葉っぱを見ながら発表会で歌う歌を口ずさんで学校に向かいました。

 お母さんのアドバイス通り練習が終わったら中澤君に昨日の続きを聞いてみようと思います。


 緊張するけれど私が踏み込まないと中澤君も話してくれないはずです。

 発表会では、どのみち必ず歌って踊らないといけないので、中澤君にも元気に歌ってほしいです。その方が絶対に楽しいと思います。


 今日の練習もやっぱり中澤君は元気がありませんでした。なんだか目の下に黒いものまでできています。

 練習が終わり、いよいよその時がやってきました。体育館から教室に向かう途中、私は勇気を出して中澤君に声を掛けました。


「中澤君!」


 私の声にピクッと反応して中澤君が振り返ります。目が合いました。


「高木さん……」


「昨日何か言いかけてたと思うんだけど、もしよかったら続きを聞かせてくれないかな?」


 私と中澤君の横をみんなが通り過ぎて行き、少しすると誰も通らなくなりました。みんな教室に戻ったのでしょう。中澤君はというと口を閉じたままです。


「中澤君、最近元気がないでしょ。何かあったのかなって心配になったの」


 思っていたよりすんなりと言葉が出てきました。


「お、俺の母さんと父さん喧嘩してるんだ……それで別々に暮らすことになるから来週引っ越すって言われた」


「来週って、来週は発表会じゃない」


「うん。だからいくら練習をしたところで俺には意味がないんだ。それどころじゃないし」


「引っ越すって、中澤君はそれでいいの?」


「いや、いいわけないだろ。みんなとまだ一緒にいたいし、本当なら発表会にも出たかったよ」


「だったらお父さんとお母さんに話したらいいんじゃないかな? 話したら分かってもらえるかもしれないよ」


 中澤君の顔が急に怖い顔に変わって、私を鋭い目で睨みました。


「お前に何が分かるんだよ!! 何も知らないくせに!!」


「で、でも話さないと中澤君の思いは伝わらないよ」


「うるさい! もう無理なんだよ!!」


 先生やお母さんに怒られたことは何回かあるけれど、こんなに大きい声で怒鳴られたのは生まれて初めてです。胸がじーんと痛みます。


 私の何がいけなかったのでしょうか。

 今日の私みたいに勇気を持って、中澤君もお母さんとお父さんに話せばきっと伝わると思っただけなのに。


 中澤君は教室に戻ってしまいました。

 これ以上教室に戻るのが遅れると先生に怒られてしまうので私も教室に戻りました。中澤君は机に伏せていて顔が見えませんでした。それから中澤君とは一言も話すことはありませんでした。


 家に帰ってまたお母さんに相談しました。

 なんで中澤君があんなにも怒ったのか。私はどうすればいいのか。

 お母さんならきっと答えを知っているはずです。


 お母さんは頬に手を付きうーんと声を漏らします。そして、私の頭の上に手を置きました。大きくて優しい手です。


「中澤君はずっと1人でこのことを抱えてたんじゃないかな。それを一気に彩に向かって吐き出したから彩を押し返すような言い方になったんだと思うよ」


「私はどうすればいいの?」


「それはお母さんは答えてあげられないな」


「なんで?」


「どうするかは彩が決めることだからだよ。彩はどうしたいの?」


「私は……このままは嫌だ」


「うん。じゃあもう1回頑張ってきな」


 お母さんの手が私の両方のほっぺたを包み込みます。

 絶対に中澤君と仲直りをして、2人で引っ越しを中止にさせる方法を考えます。引っ越しの中止がダメでも、せめて発表会には中澤君に出てもらいたいです。


 私は布団の中で作戦をずっと考えました。


 次の日、中澤君は学校に来ませんでした。歌の練習中も私の隣には誰もいません。これでは仲直りができません。

 先生に聞いたら中澤君は熱を出したと言っていました。風邪なら仕方がありません。


 しかし、次の日もその次の日も中澤君が学校に来ることはありませんでした。

 私は、何をする時も中澤君のことを考えていました。あれだけ楽しかった歌の練習もなんだか楽しくありません。


 どうすることもできないまま土曜日が終わり日曜日になってしまいました。明日は発表会です。


「彩、明日見に行くからね。お父さん張り切っちゃってカメラ買いに行っちゃったわよ」


 お母さんがクスクスと笑います。


「う、うん」


「どうしたの? あれから中澤君のことを話さなくなったけどまだ仲直りできてないの?」


「お母さんどうしよう。中澤君がこのまま引っ越しちゃったら」


 私の目から涙がこぼれ落ちました。次から次へと流れ出る涙を止めようと思っても止めることができません。

 すると、お母さんがギュッと抱きしめてくれました。柔らかくて落ち着きます。


「大丈夫、きっと大丈夫だよ」


 お母さんは魔法使いです。あれだけ止めることのできなかった涙を簡単に止めてしまうのですから。


 心の中がもやもやしたまま発表会当日を迎えました。

 お気に入りの服を着て学校に向かいます。雨が降っていたので大きめの傘を差します。


 お母さんはなんで大丈夫と言ったのでしょうか。

 中澤君は来週引っ越すと言っていました。だから発表会には出られないと。だから今日は来ないのです。


 もしかしたらいるかもしれないと少しばかり期待していましたが、教室に中澤君の姿はありませんでした。

 出欠が取り終わってから私は先生に中澤君のことを聞きました。


「高木さん。みんなには明日伝えるつもりだったんですけど、中澤君は家の都合で急ですが今日引っ越しをすることになったそうです。引っ越しの作業が忙しくてお別れができなくて悲しいけどみんなのことは忘れないって中澤君が伝えて下さいって言ってました」


「そう……ですか。教えてくれてありがとうございます」


「ちょっと! 高木さんどこに行くの?」


 今会わないと絶対にこの先後悔します。今日引っ越しをすると言っていたから中澤君はまだ家にいるかもしれません。


 中澤君の家は知っています。学校からの帰り道、私と同じ方向にあります。走れば5分で着くはずです。廊下を抜け下駄箱に向かいます。


「えっ!?」


「あっ、高木さん」


 下駄箱にはここにいないはずの中澤君がいました。


「なんで? 引っ越しをするんじゃなかったの?」


 中澤君は靴を履き替えて私を見ました。中澤君の目の下に黒いものはありませんでした。


「高木さん、この前はあんなこと言ってごめん」


 私は首を横に振ります。


「それからありがとう。高木さんに言われたことがあれからずっと頭に残ってて、思い切って母さんに俺の気持ちを伝えてみたんだ。俺は引っ越したくないし、今日の発表会にも出たいって。そしたら行ってきなさいって」


 中澤君がにっこりと笑います。この笑顔は元気な中澤君がいつも見せていた笑顔です。


「私こそごめんなさい。中澤君の家の事情とか知らなかったのにあんなこと言って」


「いや! 彩は謝らなくていいんだよ」


「えっ? 今……彩って」


「あっ、ごめんつい反射的に……」


「いいよ。そのままで」


 私の頬っぺたと耳がなんだか熱いです。どうしたんでしょう。雨に当たって風邪でも引いたのでしょうか。


「ほら! 遅刻か? 早く教室に戻れ。もうすぐ始まるぞ」


「は、はい!」


 体育の先生に注意されて私と中澤君は教室に戻りました。

 教室に戻ると中澤君の机の周りにはあっという間にクラスのみんなが集まりました。先生もびっくりしていました。中澤君はやはり人気者のようです。


 そして、いよいよ発表会の本番が始まりました。

 今日は中澤君が隣にいます。中澤君は楽しそうに歌って踊っています。私も負けてはいられません。体育館に今までにないくらいの大きな歌声を響かせます。


 幸せなことは数え切れないほどあって、これからもたくさん増えると思うけれど、1位は発表会になりそうです。


―2—


 あれから10年。


 紅葉が綺麗な季節。空は雲一つありません。暖かくて気持ちいいです。

 私は高校2年生になりました。今でもこの赤い葉っぱを見ると小学1年生の発表会のことを思い出します。


 自転車に乗って風を感じながら発表会で歌った歌を口ずさみます。踊りまでしっかり再現します。


「おい、彩あんまり動くなって」


「はははっ、瑞樹君ならこれくらい大丈夫でしょ」


 瑞樹君、あの中澤君の名前です。

 瑞樹君は、踊って動く私に合わせてバランスを取ります。


「小学校懐かしいね」


「あぁ、色々と思い出すな」


 いつも高校に行くときは別の道を使うのですが、今日は特別です。

 ふいに紅葉と小学校が見たくなったのです。瑞樹君にお願いして遠回りしてもらいました。


 瑞樹君の両親は、瑞樹君が中学校に入ってから離婚したそうです。

 今はお母さんと一緒にこの近くに住んでいますが、1ヶ月に1回はお父さんともご飯に行ったりして会っているとのことです。


 それと、私と瑞樹君がどうやって付き合うことになったのかというと……。


「彩、今何時?」


「8時10分!」


「やばっ、飛ばすから落ちないようにしっかり掴まって」


「うん!」


 その話はまた今度どこかで。

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私、困ってます 丹野海里 @kairi_tanno

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