Ⅴ-14 Ring of our rainbow.
「――うん、いい感じ! 後はステージで聴いてもらうだけだよ」
本番前最後の通しを終え、
「雪坂高校の皆さん、時間です」
「はい、ありがとうございます……じゃあ、行こっか」
先生の指示に続き、パートごとにリハ室を出ていく。男声陣が出ていくのを待ちながら、隣にいた
いつもの陽向とは違う、陰の滲む顔つき。部活で最後になるであろうこのステージ、寂しくてたまらないことは何度も分かち合ってきた、その度にありったけの好きを分け合ってきた。思った以上に泣き虫な一面だって、何度も見てきた。
部活を離れても高校を卒業しても変わらずに大好きだってこと、いつだって思い出してね――詩葉はそう内心で語りかけながら、陽向の前髪を整える。
陽向は顔をほころばせながら頷き、そしてふたりで歩き出す。
前の学校が歌唱を続けている中での舞台袖。静謐と一緒に立ちこめる感情は、人それぞれなのだろうけれど。詩葉にとってそれは、花を芽吹かせるようなうららかな温もりだった。互いに積み重ねてきた努力を、胸の内で称え合う時間だった。
どんなにすれ違っても。どんなに分かり合えなくても。
一緒に歌うひとりひとりのことが、この場所が、ずっと大好きだった。
大多数の人にとっては取るに足らないかもしれない、それでも自分にとってはかけがえのない、至上の音楽だ。後はそれを、晴れの場で謳いあげるだけだ。
待機列の先頭、
前の学校の歌唱が終わる、拍手が起こる。陽向と一瞬だけ掌を重ね、列を整える。上手側のバスパートが歩き始め、やがて詩葉たちソプラノも舞台へ歩みでる。
眩しい、けれども懐かしい照明。客席、きっといるはずの先輩たちに想う――どうか、皆さんへの愛しさが伝わりますように。
松垣先生がお辞儀をし、こちらを向いて構えた。足を開き、視界を広げる。指揮が始まり、
課題曲、「共演者」。聴いた瞬間から、詩葉にとってずっと大好きで大切な詩だ。部室で泣くのを必死にごまかして、帰り道でずっと希和と話し込んだ、出会いの日から。この曲が最後の課題曲になる、その巡り合わせが幸せだった。
ゆっくりとこぼれだすピアノの音に続き、
ゆっくりと全パートが合流し、ハーモニーは複雑になっていく。全員ぶんが聞こえる、けどやっぱりソプラノが目立つこの位置。意図する聴こえ方とは違うけど、ステージの上こそ特等席だと思うのだ。
男声のユニゾン。先輩たちは凄かったのは確かだけど、今の君たちだって十二分に格好いい――心地よい低音を確かめながら、慣れ親しんだハーモニーをつないでいく。右手のソプラノ、左手のアルト、心に描いた通りの響き。
戸惑うようにピアノの歩みが止まり、また歩調が早まっていく。盛り上がるタイミング、先生の呼吸も深くなる。力強いユニゾンから、一転して複雑な四声へ。呼吸を合わせてデクレッシェンド、音の切りも揃った。
綺麗にまとまったアルトのメロディー。それでも耳を引く結樹の声を一瞬だけ意識してから、次のハーモニーに照準を合わせる。上手くいかなかった方が多い記憶を、一番ときめいた感覚で塗り替えて――できた、その直感で十分。続くメロディー、詞に希和の姿が重なる。衣装での担当色が緑になって、その色が合うねと私が伝えた、その後から見かけるようになった、緑色のシャーペン。歌詞を考えるとき、ミュージカルで私たちの世界を描いていたとき、そばで躍っていたそのペン先。そうやって紡がれた言葉は、きっと私の知らない誰かの光にもなっていたのだろう。
伸びやかに広がっていくピアノの音に耳を預けながら、柔らかなメロディーに言葉を乗せていく。揺れだしそうになる身体を抑えつつ、それでも心は軽やかに躍らせて。
王子様がお姫様を見つけて全てが解決する、そんなおとぎ話ではない世界で。それでも私は、私たちは、自身が主人公である物語に胸を張る。誰よりも自分の心が弾むステップで、残りのページの厚さも分からない物語を歩いていく。脚本も演出もない舞台で、誰かの願いをなぞることを拒み、誰かにかけた願いを拒まれ、それでもときには通じ合う奇跡を抱きしめながら。
立派な両親と出会っても、よき娘にはなれなかった。優しい男の子と出会っても、優しいヒロインにはならなかった。王子様の正体に気づいた瞬間、その憧れが叶わないと知った――それでも、その先でたったひとつの奇跡に出会えただけで、この舞台は一生ぶんの輝きに包まれているのだ。誰にどんなに否定されたとしても、一生ぶんの喝采を自らに贈れるのだ。
誰も同じじゃないという広がり。誰も同じにはなってくれないという孤独。
誰にも決められないという自由。自分で決めなくてはいけないという責任。
それは痛くもあるけれど、怖くもあるけれど。縛られ押し込められるよりも、重たい自由を尊びたい、不確かな広がりを愛したい。お互いがそうであることを讃えたい。
はばたくようなアンサンブルが終わり、
そして歌われるのは、あらゆる人へ向けた肯定の言葉。世界じゅうの言語で語られる、最もシンプルな肯定の言葉。全パートが別のリズムで、混ざり、重なり、支え合い、混沌としながら美しく調和する中で、詩葉の今日一番の大役が回ってくる。四声でのロングトーンの上を伸びる高音のソロ。ソプラノ全員で試した上で、みんなが私に預けてくれた一節。
駆け上がっていくソプラノから離れて、全身で息を吸う。心許なくて、面倒くさくて苦しい、だから呪うことの増えてきた私の体だったけれど。この体で、あんなに素敵な一瞬を創ってきたんだ。この体を、あんなに大切に想ってくれる君がいるんだ。
全部、覚えているこの体で。大好きなみんなと同じ空気を、目一杯に吸って。人生で一番、強く美しく高らかに――響け!!
出し切った、裏返りも掠れもせずにちゃんと歌えた。大きく吸って、穏やかに全員で。
高揚の名残を匂わせながら、ゆったりと終わりへ向かうピアノ。
最後の男女でのソリ。「性格は似てないようで声はよく合うよね」と松垣先生が指名したのは、陽向と希和だった。練習しながらたまに困り顔をしていた希和も、彼を素直に褒められない陽向も、いつのまにか息の合った重唱が馴染んできた。私は誰より信じてるからね、君たちがお互いへと抱く尊敬を、心をぶつけ合ったからこそ芽生えた信愛を。
最後のハーモニーまで、練習以上に丁寧に奏で終えて。
もう泣き出してしまいそうな心を落ち着けて、自由曲の前奏を待つ。
作詞、
この空の下では二度と会えないとしても。この空の向こうに届くと信じて。
あなたが見つけてくれた私を歌います。どうか、聴いてください。
*
少しの間を置いて、松垣先生が再び指揮の構えを取り、ソプラノへと合図を送る。曲の始まりはアカペラでのヴォーカリーズ、右隣の福坂の音に耳を澄ませながら希和も加わる。心地いいハーモニーの最後に意図的に混ぜられた不協和音、綺麗な間隔どうしで並ぶとは限らない色たち。ディミヌエンドして、杉浦先生によるアルペジオが穏やかなムードへと引き戻していく。
自由曲「虹の涙」。
可視光の波長、およそ400から800ナノメートルの間。あるいは光と暗黒の間の無数のグラデーションである「色」に名前がつけられ、印象がつけられていくことへの戸惑いと、名付けられたからゆえの喜びの歌。
希和が合唱部と出会って二年半。好きではなかった、けど諦めるほど大嫌いでもなかった自分の色を、出会ったひとりひとりと重ね合ってきた。混ざって変えた、混じって変わった。
ときには周りから求められて、ときには自ら選んで、好きも嫌いも呑み込みながら、交わしてきた。
静寂の中、歌詞を紡ぎはじめたのはアルトから。
同じ歌詞を、今度はテノールと共に。
再び混じる四声。二年前、客席で受け取った感動が脳をよぎる。あのときの先輩たちも、みんな客席にいるはずだ。
入り乱れる四声の激しさが唐突に止み、静寂を経てからソプラノとバスでの掛け合いへ。
君の立場になれたなら、そんな仮想がずっと心に根付いていた、今も消えてはいないけれど。
幸せも痛みも、努力も幸運も、君の何もかもを背負えるだなんて言えない。他の何にも優る眩い一部も、他人には分かれない痛ましい一部も、全部ひっくるめて。君は君を、僕は僕を、怨みも羨みもせずに別々の道をずっと生きていくんだ――別々、だけれど、
君が詩葉と巡り会えたのと同じくらい、僕の前に君が現われたことは幸運だと思う。いつか、強がりもなくそう言えるから。迷うことも揺らぐこともせず、彼女を守り抜いて、愛し抜いてほしい。
こんなに心を彩る出逢いも、こんなに心を弾ませる共演も、こんなに心を締め付ける別離も、きっと二度と来ない。叶わないことを受け容れて、道を違える瞬間が目前に迫って、改めてその大きさを思い知る。
この詞を手がけた文池さんも、HumaNoiseのきっかけとなったジェームズの親友も、もうこの空の下では会えない。こんなに大切なみんな、合唱部員、海野先生と松垣先生、報道編集委員、信野大の先輩たち、演劇部、ずっと育ててくれた家族だって。いつか会えなくなる。
そんな当たり前なんて、昔は当たり前に認めていたはずなのに。今になって、またね、が遠ざかることがこんなに怖い。これだけ温かく愛しい瞬間の向こう、待ち受けているであろう世界の残酷に、ずっと心は怯えている、けれど。
いま僕らが歌うように。かつて込められた想いと僕らの青春を重ねてみんなで響かせているように。愛も希望も祈りも情熱もときめきも絆も、誰かに残るから。出会った人に、送り出した表現に、命の断片は宿るから。
「その和音が、何年経っても希望になりますように。世界の悲しみをかき消すノイズになりますように」――
もう戻れはしない過去じゃない。
失うかもしれない未来じゃない。
僕と君が響き合う今この場所が全てだ――最後の一瞬まで、この虹を響かせよう。
腹から喉から頭まで。全身と全霊が、二年半に導かれるように、十七年に導かれるように、迷いなく伸びやかに歌っている。右側から聞こえるハーモニーが、先生の指揮越しに見える客席が、自分自身の響きが、鮮明に心に刻まれていく。
旅が終わる最後のきらめきが、心の奥底に刻まれていく。
旅立ちに怯える背中が、あたたかな祝福で包まれていく。
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